私的所有5 アブジャド,アルファベット,商人,ディアスポラ Abujad, Alphabet, Merchant, Diaspora

SHINICHIRO HONDA

人間同士が情報を伝達する信号には,表情,身振り,手振り,映像,言語などがある。高度な情報を交換する信号は言語であり,言語はおもに音声と文字で表される。文字は,言語を視覚的に表現した記号および信号のことで,情報の伝達だけでなく,情報を蓄積する機能がある。文字には多くの種類があり,その分類については諸説があるが,おおよそ以下のように分類されている。

表語文字:一文字で,一語や一形態素を表す。楔形文字,ヒエログリフ,漢字,マヤ文字など

アブジャド:一子音に対して,一音素文字をもち,子音のみを文字で表す。フェニキア文字,アラム文字,ヘブライ文字,アラビア文字,ソグド文字,アヴェスター文字など

アルファベット:原則的に一文字が,一子音あるいは一母音を表す。ギリシア文字,キリル文字,ラテン文字,ルーン文字,アルメニア文字,グルジア文字,コプト文字など

アブギダ:子音文字を基本とし,母音は子音にほぼ対応している。ブラーフミー系文字,カローシュティー文字,エチオピア文字など

音節文字:一文字が音節を表す。線文字B,ヒッタイト文字,仮名,ロロ文字など

最古の文字である原始楔型文字は,表語文字であり,前4000年紀にシュメール人の言葉を記録するために発明された。BC2900年頃から,名前などの表記に音節文字としても使用されるようになった。BC2334年に,アッカドのサルゴンがメソポタミアを支配すると,楔型文字は,アッカド語(セム語)を表記するために,表語文字と音節文字の両方で使用された。漢字(表語文字)を表語文字と音節文字(仮名)の両方で使用する,日本語の表記に似ている。

楔形文字,ヒエログリフ,漢字,マヤ文字などの表語文字は,一文字で語を表すために文字の種類が多くなる。楔型文字は,1,500字ほどが知られているが,アッカド期には600字ほどが使用されていた。ヒエログリフは,5,000字あまりが存在した。漢字の場合は,5~10万字も存在するが,通常使用されるのは5,000~6,000字である。


Contract for the sale of a field and a house in the wedge-shaped cuneiform adapted for clay tablets, Shuruppak, circa 2600 BC.


Hieroglyphs on stela in Louvre, circa 1321 BCE(Source/Photographer:Clio20)


史頌鼎に刻まれた金文


Maya glyphs in stucco at the Museo de sitio in Palenque, Mexico

表語文字は,形が複雑で種類が多いため,これを使用できるのは,専門教育を受けることができた一部の階級のみであった。7~9世紀の日本では,大宝律令によって大学,国学が設置され,史,五経,音,書,算,陰陽,暦,天文,医などの教育が行われたが,入学することができたのは貴族の子弟だけである。紀貫之は,『土佐日記』の冒頭に「をとこもすといふ日記といふ物を ゝむなもして心みむとてするなり」と記し,女性が書いた日記風にして,漢文ではなく仮名で書いている。

魯迅は,次のように嘆いている。「この四角い字(漢字)の弊害を伴った遺産のお陰で,我々の最大多数の人々は,すでに幾千年も文盲として殉難し,中国もこんなザマとなって,他の国では人口雨さえ作っているという時代に,我々はまだ雨乞いのため蛇を拝んだり,神迎えをしたりしている。もし我々がまだ生きてゆくつもりなら,私は漢字に我々の犠牲となって貰うほかはないと思う。」(*2)

古代の表語文字が難解な方向に進化したのは,道具としての機能を高めるためであるが,複雑,難解になるほど,一般の人は使うことができなくなる。武器は,槍しかない古代には誰でも使えたが,時代を経るごとに高度で複雑になり,現代の戦闘機や戦艦は,訓練した兵士でないと使えないのと同じである。

文字の数を劇的に減少させたのは,アブジャドの発明である。最古のアブジャドとされているのは,前19世紀の原シナイ文字(ワディ・エル・ホール文字,原カナン文字)である。原シナイ文字は,ヒエラティックとよく似ており,ヒエラティックの一部を使用して,セム語を子音の表音文字で表記したことが起源ではないかと言われている。ヒエラティックはヒエログリフの筆記体であるが,もとのヒエログリフは,表語文字,子音の表音文字,限定符の組み合わせで表記された。


Traces of the 16 and 12 characters of the two Wadi el-Hol inscriptions

原シナイ文字(原カナン文字)から,フェニキア文字や古ヘブライ文字が生まれ,フェニキア文字は,フェニキア商人によって地中海世界全体に広まった。フェニキア文字からは,ギリシア文字,古代イタリア文字,ラテン文字,キリル文字,コプト文字,ルーン文字,アナトリア諸文字(リュディア文字,リュキア文字,カリア文字など),イベリア文字などが生まれた。さらに,アラム文字,ヘブライ文字,パルミラ文字,ナバテア文字,マンダ文字,シリア文字,アラビア文字,パフラヴィー文字,アヴェスター文字,カローシュティー文字,ソグド文字,ウイグル文字,モンゴル文字,満州文字,突厥文字などが派生した。

ヘロドトスは,次のように書いている。

「カドモスと一緒にやってきたフェニキア人は,ゲピュライオイ人もその一部であったが,ヘラス(ギリシア)に多くの学問を持ち込み,それ以前にはギリシア人には知られていなかったと思うが,文字をもたらした。時代とともに,文字の音や形が変化していった。当時,周囲に定住していたギリシア人は,ほとんどがイオニア人であったが,フェニキア人から文字を教わった後,形を少し変えて使っていた。その際,フェニキア人がギリシアに持ち込んだことから,これらの文字にフェニキアの名称を与えたのはもっともなことである。またイオニア人は,古くからパピルスのシートのことを,皮と呼んでいた。かつて,彼らはパピルスがないため,羊や山羊の皮を使っていたからである。今日でも,このような皮に文字を書く異民族は多い。私自身,ボイオティアのテバイにあるイスメノスのアポロンの神殿で,いくつかの鼎に刻まれたカドモスの文字を見たことがあるが,ほとんどイオニア文字のように見えた。」(*3)


キラムワ碑文。サマル(現トルコ南部のジンジルリ・ヒョユク)出土,紀元前825年ごろ


The Phoenician alphabet similar to used on the Mesha Stele (the Moabite Stone)


Gortys laws inscription from Crete, 5th century BC

アブジャドやアルファベットは,文字数が20~30しかない。文字数が少なければ,特別な教育を受けることができない一般の民衆でも文字の習得が可能である。表語文字は,一部の特権階級しか使用できなかったが,文字数が少ないアブジャドやアルファベットは,読み書きできる人の数を増大させ,大発展した。

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特権階級以外で,特に文字を必要とするのは商人である。銀などの実物貨幣は存在量が少なく,大量の取引には不便なため,多くの商取引は,債権債務帳や手形によって行われてきた。そのため,商人として生きるには,文字と計算能力の習得が必須であった。歴史的にその商業活動が知られているのは,フェニキア人,ギリシア人,ユダヤ人,アルメニア人,ソグド人,イスラム商人,イタリア商人などであるが,彼らはアブジャドやアルファベットを使用している。

なお,古代には,アバカス(そろばん)が計算に使われていた。最古のアバカスは,BC2700~2300年のメソポタミアと言われているが,それよりも古い時代から使用されていた計算道具は,トークンであろう(文字の起源,貨幣の起源 Origin of letters, Origin of money)。

MINOLTA DIGITAL CAMERA

Copy of a Roman abacus(Author,Photographer:Mike Cowlishaw)

世界で最も使われている文字は,アラビア数字であるが,アラビア数字は,筆算に使用するための表意文字である。アラビア数字の起源は前3世紀以前のインドとされており,アラビア人によって,北アフリカやイベリア半島に伝わった。10世紀に,シルウェステル2世(フランス人で最初のローマ教皇)が,アラビア数字とアバカスをヨーロッパに紹介した。13世紀に,イタリア人のレオナルド=フィボナッチが,アラビアの数学を解説した『算盤の書』を著した。フィボナッチは,ピサ出身の商人の子で,父と一緒にアルジェリアに移住し,アラビア数字を知った。さらに,エジプト,ギリシア,シリアに赴いて,アラビアの数学を学んだ。フィボナッチは0~9のアラビア数字による筆算や分数表記法を紹介し,簿記,通貨や寸法の換算,利子計算,両替など,多くの応用例を示している。『算盤の書』は,ヨーロッパの知識階級に広く受け入れられ,ヨーロッパ人の考え方に大きな影響を及ぼしたという。


Calculating-Table by Gregor Reisch: Margarita Philosophica, 1503. The woodcut shows Arithmetica instructing an algorist and an abacist (inaccurately represented as Boethius and Pythagoras). There was keen competition between the two from the introduction of the Algebra into Europe in the 12th century until its triumph in the 16th.

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私の親の世代では,土地財産を相続する農家の長男は,高等教育を受けなくてもよいという考えであった。一方,次男,三男は,家を出て勤め人になるか商人になるかしかないので,教育を受けないと生きていくこととができない。また,女子は裁縫などができることが求められた。次男,三男,姉妹の扶養と教育は,長男の義務であった。

かつて,東北の山間部を訪れたとき,読み書きできる人が2~3人しかいない十数戸の村があった。降雪地帯で町から遠く離れているため,冬季には,雪で道路が埋まり,町へ出ることができなくなる。村には小学校が無く,町で下宿しないと,学校に通うことができない。子供を下宿させることができない家の子供は,小学校に通うことができなかった。学校に通って読み書きできる人は,村を出てしまうので,村には読み書きできない老人ばかりが残った。手紙や役場に出す書類などが必要なときは,読み書き出来る人のところに持って行って読んでもらう。不便ではあるが,生きていけないというわけではない。

私の父方の祖父は明治生まれで,農業や林業に従事していたが,年をとってからもトルストイやドストエフスキーを読んでいた。一方,祖母は仮名と簡単な漢字しか読めなかった。母方の家は,漁村の庄屋的な存在であり,祖父は軍人,祖母は若いころは教師(師範学校出身)であった。

江戸時代の日本は,アジアでは例外的に識字率が高かったことが知られている。1883年(明治16年)の調査では,江戸期に存在した寺子屋の数は,全国で15,560であったという。1887年の文部省の調査によれば,明治時代半ばの識字率は,江戸末期とあまり変らず,男子で50~60%,女子で30%前後と推測されている。ただし,地域による差が大きく,近江商人の本拠であった滋賀県では男子の90%,女子の50%が読み書きできたのに対して,鹿児島県では男子で50~60%,女子は10%にすぎなかったという。(*4)

日本では,近世から寺子屋が存在し,庶民でも「読み書き,そろばん」を教わることができた。特に,商人は,読み書きそろばんができなければ,商売ができない。一方,農民は,名主や庄屋などの上級農民以外は,読み書き出来なくでもそれほど困らなかった。彼らは身分制の共同体のなかで生きており,文字が読めない農民は,名主や僧侶のところに行って,代読,代筆してもらっていた。

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セシジャーは,マーシュアラブの言葉を次のように伝えている。

「マアダンは魚を獲るときに網を使うかとサダムに訊いたら,『いやいや,絶対に使わない。網を使うのは“ベルベラ”だけだ。部族民はやすで突く。(中略)“ベルベラ”とは魚を網で獲る下層民のことさ。連中は部族民の間で暮らしている。(中略)』“ベルベラ”は織工,行商人,鉄工,市場向け菜園経営者,サービア教徒などと同様,境界を超える通商に従事しているので,部族民とは仲間として付き合いにくいのだとサダムは対句を口ずさむように説明した。すべてのアラブ部族民と同様,マアダンの間では,富はあまり重視されず,通商は基本的に軽蔑すべき行為なのだ。人間の価値はひとえに,その人の性格と人徳,血筋にかかっている。」(*5)

また,経済学者のヒックスは,次のように書いている。

「一般均衡はワルラスまでさかのぼる。ワルラスはその(競争的)市場がどのように機能すると考えたであろうか。誰が価格をつけ,すなわち,価格が変更されるべきことを誰が決定したのであろうか。ワルラスは,この問題にとりくんだが,ワルラスが与えた答はきわめて特殊なものであった。ワルラスがいうのには,現実の取引当事者が価格をつけるのではなく,彼らは価格を受け入れるだけである。したがって,価格は,他の独立の機能をもった誰かによって設定されなければならない。しかし,このような機能がどのようにして存在可能になるのであろうか。ワルラスは説明していない。(中略)。マーシャルの答は,あまり明示的ではないが,(筆者が再構成したかぎりでは)それほど特殊ではない。重要な人々は,販売のために仕入れる商人,卸売業者や小売業者である。これらの人々は,したがって売上価格と仕入価格とをつけるが,競争的な市場においては,商人間の競争は,二つの価格の間のマージンを「通常は」ごくわずかなものにするであろう(マージンの低さは,市場における高い競争性を示しているといえよう)。したがって,ワルラスの場合における独立の機能をはたすのは〔マーシャルの場合には〕商人になる。特定の取引における利潤機会の変化をみてとるや,価格をつける商人は価格を上げたり下げたりする。製造業者(あるいは最終的な売手)ができることは,提示された価格を受け入れるか,拒絶するかのどちらかである。もっとも彼らは,時には(マーシャルがいうのには)「市場を駄目にすること」をおそれて拒絶することもある。いずれにしても,市場を「原子論的」に保つのは商人である。マーシャルの時代には,この種の市場がおおよそ通常の市場のタイプであったとみることはもっともと思われる。しかし,このような性格の市場のシステムのなかで,他の市場のタイプがどのようにして発生してきたかを理解することは可能である。この市場は,事実ずっと以前から存在してきた組織化された市場である。組織化された市場は,ルールの下で動いている点では,ワルラス的な市場である。しかし,このルールは,クラブのルールである。このような市場への加入は,ルールを守ることを約束し,(たとえばルールに関する争いを処理するための)管理費用を喜んで支払う人々にのみ限定される。このクラブは,ワルラス的な機能をもつように選択することができるが,他の方法で取引を組織することができる。組織化された市場は,取引者のグループが相互に取引し合うことに慣れ始めたときに生ずるのが普通である。ルールの下で取引するのが取引費用を軽くするのがわかってきたのでこれらの市場が形成される。取引費用が考慮されざるをえないことに注意を払う必要があろう。筆者はこの種の市場―それが適切であるとわかるような条件の下では組織化された市場の出現を排除するわけではないが,価格が商人仲介者によってつけられる組織化されない市場―が歴史的にはおおよそ支配的な市場であったという仮説を吟味してみた。筆者の『経済史の理論』の書物は,大部分,この仮説を徹底的に試してみた努力である。この仮説は,さらに多くの研究を必要とするであろう。しかし,筆者のみるところ,この仮説はかなり有効である。」(*6)

商人は,領地(土地,農地,放牧地,山林,河川,水源,資源)を持たず,集団と集団の間で暮らし,独立して境界を超え,通商に従事してきた。市場(一般均衡)において,価格を設定する「独立の機能」をはたしてきたのは商人であり,そのような,「組織化されない市場」が,歴史的にはおおよそ支配的な市場であった。

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「ディアスポラ」とは,「播き散らされた」という意味のギリシア語であり,ギリシア人が各地に離散して居住していたことを指す言葉であった。その後,離散ユダヤ人を指す言葉として使われたが,現在では,もともと属していた集団,地域,国などを出て,他の地域や国で居住する人々のことを指す意味で使用されている。

ディアスポラのなかには,国家と国家の間にネットワークを構築し,国境を越える交易によって世界市場を作り上げてきた集団が存在した。代表的なのは,フェニキア人,ギリシア人,ユダヤ人,アルメニア人,ソグド人,イスラム商人,イタリア商人,ユグノーなどである。

フェニキア人とは,フェニキア語を話す集団のことである。フェニキア語はヘブライ語と近縁であるが,両者が分化したのはBC3500年頃と言われている。フェニキアが栄えたのは,BC1200~BC300年とされており,ティルス,シドン,ビブロスなどを拠点に,地中海全域にわたる交易を行った。

フェニキアの主要産品はレバノン杉で,貝紫も特産品としていた。レバノン杉は,古代オリエントの重要な商品の一つで,建材のみならず,船舶用の材木,エジプトの棺,戦車の材料,冶金用の木炭など,重要な原材料およびエネルギー源であった。サルゴン碑文には,「サルゴン王は,ツトゥールのダガン(神)に頭を下げた。ダガンは,サルゴンに高い土地を授けた。それはマリ,ヤルムティ,そしてエブラである。それから,杉の森や銀の山々までも」と書かれている。また,『ギルガメシュ叙事詩』では,ギルガメシュとエンキドゥは,杉の森の番人のフンババを殺し,杉の森を荒らしため,神々の怒りにふれて,エンキドゥは死んだと伝えている。

カナンの地は,アジア,アフリカ,ヨーロッパをつなぐ,交易の要衝であり,古来より,アッカド,バビロニア,ヒッタイト,エジプト,海の民,ペルシアなどの異民族に何度も侵入されてきた。レヴァントのレバノン杉が枯渇し,BC1200年ごろに「後期青銅器時代の崩壊」が起きると,フェニキア人は,地中海全域および黒海南部に拡散し,港,倉庫,市場,町を建設して交易に従事した。


Map of Phoenician (yellow labels) and Greek (red labels) colonies around 8th to 6th century BC (with German legend)(Author:Gepgepgep)

ユダヤ人の故地はカナンであるが,BC721年にアッシリアに征服されると,多くの人々が捕虜として囚われたり,離散したりした。BC609年に,エジプトの支配下に入ったが,BC587年に新バビロニアに征服され,多くのユダヤ人がバビロンに囚われた。BC539年にアケメネス朝ペルシアがバビロニアを征服すると,捕囚ユダヤ人は解放されてカナンに帰還した。その後,カナンのユダヤ人は,マケドニア,セレウコス朝,ローマに支配された。BC36年,132年にローマに対して反乱を起こすが鎮圧され,多くのユダヤ人がヨーロッパやアフリカに移住した。


Routes of Jewish expulsion and deportation(Author:BedrockPerson)

青銅器時代のアルメニアには,ヒッタイト,ミタンニなどの国家が存在し,鉄器時代にウラルトゥが成立した。その後は,アケメネス朝ペルシア,アレクサンドロスの帝国,セレウコス朝の支配下にあったが,BC190年にアルメニア王国を建設した。アルメニア王国は,世界で初めてキリスト教を国家宗教とし,独自のアルメニア文字(アルファベット)を使用した。428年にサーサーン朝ペルシアに征服され,その後は東ローマ帝国に支配された。11~12世紀にセルジュク朝に,14世紀にはマムルーク朝に侵略され,多くのアルメニア人が国外に逃れた。アルメニアは,北方の騎馬遊牧民地帯と南方の農耕民地帯の間に位置する。古来より異民族が侵入を繰り返すなかで,多くのアルメニア人が故地から離散し,各地にアルメニア人コミュティーを作った。


アルメニア人商業拠点(*9)


La mappa delle rotte commerciali veneziane (mude) e dei possedimenti della Serenissima agli inizi del XVI secolo(Author:kayac)


Territories of the Republic of Genoa (economic influence areas shown in pink) around the mediterranean & Black Sea coasts, 1400, since the Codex Latinus Parisinus (1395).(Author:Kayac1971 – Codex Parisinus latinus (1395) in Ph. Lauer, Catalogue des manuscrits latins, pp.95-6)

商人たちは,市(いち),店舗販売,取引所,問屋,卸売,銀行,手形,両替,保険,共同出資,株式など,現代資本主義につながるさまざまな取引の道具を作り出した。国家を超えて拡散する商人たちが,ネットワークを構築して,競争的な取引を行うことで,世界市場が形成された。ネットアークの構築には,遠隔地間の情報交換を可能にする文字が重要であった。文字は,情報を交換するだけでなく,情報を蓄積し,蓄積した情報へのアクセスを可能する。すなわち,「情報プール」を飛躍的に拡大する。こうした,資源,貨幣,情報が集まる都市から,文化,文明,芸術,学問,科学が生まれてきた。

ヨーロッパ文明が他の文明を圧倒して近代に発展した理由の一つは,地中海文明が存在したからであり,地中海文明が栄えたのは,海が存在したからである。大陸では農耕牧畜文明が繁栄するが,大陸には国境(テリトリーの境界)が存在するので,人,物,情報の自由な流通が阻害される。海には境界が存在しないので,これらが比較的自由に流通できる。ヒトの集団の発展は,情報プールの増大に依存する。情報プールの増大は,情報の変異速度に左右され,変異速度は,次の発明が起きるまでの時間が短く,情報の流通速度が速いほど,大きくなる。

情報(知識)の変異速度:Mutation speed of information / knowledge

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個体同士が協力して闘争し,テリトリーを形成する動物には,オオカミ,ライオン,ヒヒ,チンパンジー,ヒトなどが存在する。チンパンジーの個体同士は,サービスとサービスを交換したり(グルーミングなど),まれに物と物を交換したり,食べ物と性行為を交換することが知られている。しかし,動物のなかで,集団と集団が資源を交換するのは,ヒトだけである(ポトラッチ)。また,動物のなかで,集団と集団の「間」に存在し,資源の取引を媒介する「商人」が存在するのも,ヒトだけである。

ただし,集団同士の資源交換や商人は,ヒトが登場した当初から存在したわけではなく,ヒトの社会進化の過程で登場した。商人は,ヒトの社会進化の過程で登場し,さらなる社会進化をうながし,巨大な人間の社会を作り出す原動力の一つになった。

商人は,テリトリーの「外部」に独立して存在する人々であり,テリトリーの外部において新たな生活様式を見出した。それは,海から陸上に出た植物や動物,陸上から空中に出た昆虫や鳥類,草原から海に出たクジラの仲間など,「ハト派」の生物たちに似ている。

ハト派遺伝子は,同種のライバル(自分のコピー)との物理的な闘争を避けて,逃げる。さらに,同種集団の生活圏の外部に出たハト派遺伝子は,ライバルが不在の未開の地(ニッチ)で生き延び,増殖し,多数の系統が分岐し,大発展を遂げた。

ハト派遺伝子の有利性 Favorable of Dove genes

Reference,Citation
*1) Daniels, P. 1990. Fundamentals of Grammatology. Journal of the American Oriental Society.
*2) 魯迅. 漢字とラテン化. 村桧茂夫訳. 1956. 魯迅選集, 岩波書店.
*3) Herodotus, The Histories. A. D. Godley, Ed. Perseus Digital Library.
*4) 斉藤泰雄. 2012. 識字能力・識字率の歴史的推移. 広島大学教育開発国際協力研究センター, 国際教育協力論集第15巻第1号51-62p.
*5) Wilfred Thesiger. 1964. The Marsh Arabs. 白須英子翻訳. 湿原のアラブ人. 白水社. 2009.
*6) ジョン・ヒックス. 経済学の思考法. 貝塚啓明訳, 岩波書店. 1985.
*7) ジョン・ヒックス. 1969. 経済史の理論. 新保博・渡辺文夫訳. 日本経済新聞社. 1970.
*8) 深沢克己. ヨーロッパ商業空間とディアスポラ. 岩波講座世界歴史15, 商人と市場, 岩波書店. 1999.
*9) 重松伸司. 2016. 17~18世紀インドにおけるアルメニア海洋商人と英国東インド会社. 移動と交流の近世アジア史, 北海道大学出版会.

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