SHINICHIRO HONDA
世界の農耕神話には,4,8,9,12などの数字がよく出てくる。四神,四象,四柱,八支族,八岐大蛇,八卦,九柱神,九龍,九頭竜,十二神,十二柱ティーターン神族,十二支族など枚挙にいとまがない。
同じく世界の神話に登場するのは,天空神である。天空神は,3~4人が一つになった姿で描かれることが多い。記録に残る最も古い天空神は,シュメールのアンであるが,アンは交叉する4本の楔(ディンギル)で書かれた。インドのブラフマーは,空を飛ぶ鳥に乗る4人の姿で描かれている。中国の神話では次のようにある。「天山に神がいる。その姿は黄色い袋のようであり,丹火のように赤い。足が六本で翼が四枚,渾敦として眼鼻がなく,のっぺら坊である。この神は歌い,舞うことをよく知っている。これが帝江である。」(『山海経』,前4~3世紀)(*1)
Ur III Sumerian cuneiform for An (and determinative sign for deities; cf. dingir)
Brahma Indian, Pahari, about 1700
Prasat Bayon(Author:Dmitry A. Mottl)
The Khmer Empire’s Bayon temple(Author:Sasha India)
The Bayon in plan, showing the main structure. The dimensions of the upper terrace are only approximate, due to its irregular shape.(Author:Tomas Bilbao Plasencia)
興福寺阿修羅像
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中国の天文学では,天球を東,北,西,南の四大区画に分け,それぞれに四神を置いた。東アジアの四神は,青龍(東),朱雀(南),白虎(西),玄武(北)であり,日本では,キトラ古墳(7-8世紀)や高松塚古墳(694-710年)の壁画,高句麗では江西大墓(6-7世紀)の四神図が知られている。
「永徽元年」方格規矩四神鏡(伝河南省洛陽出土)唐代(650年)(公益財団法人 黒川古文化研究所)(*2)
玄武,キトラ古墳(*3)
朱雀,キトラ古墳(*3)
白虎,キトラ古墳(*3)
青龍,高松塚古墳(*3)
高句麗の墓の壁に描かれた青龍
中国の神話に,女媧の天地補修の話がある。「天地ができあがったが,あちこちに破綻が生じた。そこで女媧はさまざまな石を錬(ね)って綻びを繕ったり,また,大きな亀の四本の足を切り取って,それを大地の四隅に立てて天柱としたりした。ところが,その後になって,共工が顓頊と帝位をめぐって争って敗れ,怒って天柱の一つである西北隅の不周山に衝き当たった。そのため,天柱が折れ,大地を繋ぎ止めていた維(つな)が切れてしまい,天空はグラリと西北に傾いてしまった。そして太陽も月も星もその方向にずり寄った。他方,大地は東南の方に不足が生じ,そのため,多くの河川が東南の方向に流れるようになった。」(戦国時代・列禦寇撰(伝)『列子』湯問篇)(*1)
これと似た話は,古代エジプトの神話にもある。ヌトは,ヘリオポリス九柱神の一人で,天空の女神である。ヌトの両親は大気の神シューと湿気の神テフヌトで,兄である大地の神ゲブが配偶神である。ヌトとゲブは,冥界の神オシリス,豊穣の女神イシス,戦争の神セト,葬祭の女神ネフティスを生んだ。ヌトは,夫のゲブと抱き合っているところをシューによって引き離され,天と地が分かれた。ヌト(天空)の手の先と足の先は,北,南,東,西の点でゲフ(大地)に触れており,その身体はシュー(大気)によって支えられている。弓なりになったヌトの身体には星が輝き,太陽や月などの天体が彼女の体を横切っていった。
Nut, goddess of sky supported by Shu the god of air, and the ram-headed Heh deities, while the earth god Geb reclines beneath. 950 BCE(Photographed by the British Museum)
天空神と太陽神は,似てはいるが本来は別の神概念である。天空神は,部族を超越した共通の保証人(神概念)であり,太陽神は暦の技術の神概念である。メソポタミアの天空神はアン(アヌ),太陽神はウトゥ(シャマシュ)であり,別の神概念である。
『随書東夷伝』には,次のようにある。「開皇二十年,倭王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。」(開皇二十年,倭王あり,姓は阿每,字は多利思比孤,阿輩雞彌號す。使を遣わして闕に詣る。上,所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う,「倭王は天を以って兄と為し,日を以って弟と為す。天未だ明けざる時,出でて政を聴き跏趺(あぐら)して座し,日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め,云う我が弟に委ねんと」と。高祖(文帝)曰く,「此れ大いに義理無し」と。是に於いて訓えて之を改めしむ。)(*4)
「開皇二十年」(600年)の倭では,天と日(太陽)は別の概念であり,天(兄),王,日(弟)の序列の順であった。王は夜明け前に「政」(マツリゴト)を聴き,日が出れば理務を停め,弟に委ねた。「委我弟」は,倭王は実際の自分の弟に理務を委ねたという意味であり,文帝はそのことを「此太無義理」と批判したという説がある。しかし,この説では,「倭王以天為兄,以日為弟」という文をわざわざ前に置いた意味が無くなってしまう。すなわち,前の文のとおり,「弟」は「日」のことである。倭王の重要な政は,暦を定めて播種などの時期を示すことであり,そのあとの作物の生育は,「日」(太陽,天候)に委ねたという意味である。後に編まれた『日本書紀』(720年)では,アマテラスは,太陽神と冶金(イナンナ)の神概念の習合として書かれている。
また,文帝は,「委我弟」だけでなく,「倭王以天為兄,以日為弟」を含めて批判したという説もある。中国の皇帝は,天(示,神)からの天命(信号)を身体に留める存在であり,「天子」と呼ばれた。倭王の「自分は天と日の兄弟である」という主張は,中国の皇帝にとってはまったくの荒唐無稽(此太無義理)な主張であり,こちらの説の方が当を得ている。当時の倭の為政者たちは,中国の国家統治における正当性の概念を理解していなかったか,或いは,あえて異なる統治概念を示した。文帝の訓令に対して,607年に遣隋使として派遣された小野妹子は,さらに以下の内容の国書を献じたが,煬帝は,「野蛮人の無礼な手紙は二度と取り次ぐな」と鴻臚卿を叱責したと,史書は伝える。
「大業三年,其王多利思北孤,遣使朝貢。使者曰,聞海西菩薩天子重與佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。其國書曰,日出處天子,致書日没處天子,無恙,云云。帝覽之不恱,謂鴻臚卿曰,蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」(大業三年,其の王多利思北孤,使を遣わして朝貢す。使者曰く,「聞く,海西の菩薩天子,重ねて佛法を與すと。故に遣わして朝拜せしめ,兼ねて沙門數十人,來って佛法を學ぶ」と。其の國書に曰く,「日出ずる處の天子,書を日没する處の天子に致す,恙無きや,云云」と。帝,之を覽て恱ばず,鴻臚卿に謂って曰く,「蠻夷の書,無禮なる者有り,復た以って聞する勿れ」と。)(*4)
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暦の本来の目的は,作物の播種や収穫などの時期を定めることであり,夏至や冬至の祭祀を行うことでは無い。縄文時代には,播種を伴うような農耕を行っていなかったので,暦の祭祀は廃れてしまった。播種や収穫の時期を知るには,夏至や冬至を知るだけでは意味が無く,農作業暦を作らなければならない。1年の農作業暦を作るには,太陽年を知らなければならず,太陽年を知るには,日を数えなければならない。文字の無い時代に,どのように1年の日を数えたり,農作業暦を作ったりしたのであろうか。
私が古代人であれば,柱,綱,縄を利用して日を数えるであろう。1年365日として,365=5×73である。5は手の指の数なので,文字の無い時代であっても数えることができる。一方,73は大きな素数なので,これを直接数えることは難しい。そこで,365日を360と5に分けて数える。冒頭に述べた4,8,9,12に共通するのは,これらはすべて360の約数ということである。
両手の指を使えば10まで数えることができるので,360を10以下の数で数えればよい。4本の柱を綱で囲んだ場合は,360÷4=90で,柱と柱の間は90日分になる。元日に綱に縄を結んで垂らし,結び玉を1つ作る。1日ごとに縄に玉を作り,玉が5個になったら5日分が終了する。6日目に次の縄を隣に結んで,同様の作業を繰り返す。この場合,柱と柱の間に吊るす玉縄の数は,90÷5=18本になる。18は10より大きい数になってしまうので,1本の縄に作る玉を数を10にすれば,90÷10=9本となり,10以下の数で数えることができる。
柱の数を4,6,8,9,12と変えて,1本の縄に作る玉の数を5あるいは10とし,柱の間の縄の数を計算すると,下のようになる。この中で,10以下の自然数で数えることができる組合せは,(柱4,玉10,縄9),(柱6,玉10,縄6),(柱8,玉5,縄9),(柱9,玉5,縄8),(柱9,玉10,縄4)である。(柱8,玉10,縄4.5)も,柱間の縄は10玉4本と5玉1本なので,数えることはできる。(柱12,玉10,縄3)は,メソポタミアの暦(現在の暦)になる。10も360の約数であるが,柱の数を10にすると,柱間の日数は36となり,5でも10でも割り切れず,複雑になってしまう。
柱の数 | 柱間の日数 | 柱間の縄の本数 | |
玉の数=5 | 玉の数=10 | ||
4 | 90 | 18 | 9 |
6 | 60 | 12 | 6 |
8 | 45 | 9 | 4.5 |
9 | 40 | 8 | 4 |
12 | 30 | 6 | 3 |
1本の縄を10回玉結びにする代わりに,ビーズ(玉)を10個通してもよい。また,1の玉と5の玉を区別できるようにすれば,そろばんのように,5進数と10進数を組み合わせて効率よく数えることができる。
上は中国で古くから使われた算盤で,5の玉が2個,1の玉が5個ある。下は現代の日本のそろばん
365日の残りの5日は,「正月」であるが,これは「5日の月」あるいは「少い日の月」の意味であろう。現在の太陽年はおよそ365.242189日(平均太陽年は100年につき約0.532秒/年短くなっている)なので,単純に365日を数えると実際の太陽年と0.242189日/年ずれてしまう。このため,諏訪大社やメイポールのように,数年ごとに観測して,元日を修正する必要がある。作物別,品種別に,播種や収穫を表す玉を吊るして記録しておけば,農作業暦として使用できる。
日本列島では,遅くとも奈良時代には,多くの稲の品種が存在しており,早生,中生,晩生ごとに播種日,田植え,稲刈りの日が決められていた。農民は稲を勝手に作付けていたわけではなく,為政者によって統制,管理されていた(*5)。そして,そのことは,現代でもほとんど同じである。作付けられる稲の品種は,県ごとに奨励品種が定められており,ほとんどの農家は,奨励品種を作付ける。品種は,公的な農業試験場で育成された品種である。地域ごと品種ごとに,試験場や農協が作成した農作業暦にそって管理が行われる。
資料名 | 品種名 | 早・中・晩 | 播種 | 田植え | 刈り取り | |
筑前国 | 高畑廃寺出土木簡 | 和佐 | 早稲 | 3月10日 | ||
伊予国 | 清良記 | 早稲 | 2月彼岸 | 4月初め~20日 | 6月末~7月初め | |
疾中稲 | 3月初め | 4月末 | 8月末 | |||
晩稲 | 3月なかば | 5月なかば | 9月はじめ | |||
大和国 | (添下・平群郡) | 早稲 | 2月 | 4月 | 7月 | |
令集解古記(葛上・葛下・内郡) | 中稲 | 3月 | 5月 | 8月 | ||
晩稲 | 4月 | 6月 | 9月 | |||
賀茂馬養啓 | 越持子 | 中稲 | 3月 | 5月 | 8月27日 | |
陸奥国 | 荒田目条里遺跡出土木簡 | 古僧子 | 晩稲 | 5月10日 | ||
鬼□□□ | 晩稲 | 5月17日 | ||||
地蔵子 | 晩稲 | 5月23日 | ||||
早稲 | 5月3日 |
農書や木簡に見る稲の品種別耕作時期(『日本の原像』より)(*●)
加賀郡牓示札(848-851)(複製)。朝は寅時(午前4時)の田に下り,夕は戌時(午後8時)に家に還ることや5月30日までに田植えを終えることなどが書かれている。(Author:Saigen Jiro)
伊勢暦(貞享暦)佐藤伊織 1729(享保14)年版。(Author:Momotarou2012)
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文字が使用される以前には,日や物を数えたり,物事を記録するために,「結縄」が使用されていた。
『三皇本紀』では,次のように伝えている。「虵身人首,有聖德。仰則觀象於天,俯則觀法於地,旁觀鳥獸之文與地之宜。近取諸身,遠取諸物,始畫八卦,以通神明之德,以類萬物之情。造書契,以代結繩之政。」(庖犠は蛇身人首で,聖徳があった。仰いでは天象を観察し,俯しては地法を観察し,あまねく鳥獣の模様と地の形勢を見きわめ,近くは自身を参考にし,遠くは事物を参考にして,はじめて八卦を画し,かくして神明の徳に通じ,万物をその本質に適合しておさめた。書契をつくって結縄の政にかえた。)(『史記』)(*6)
『易経』繫辞下伝にも,「上古結縄而治。後世聖人易之以書契。」(上古は縄を結びて治まる。後世の聖人,之れに易(か)うるに書契(文字や割符)を以てす。)とある。
後天図。上が坎(北)
ヘロドトスは,次のように書いている。「ダレイオスは一本の革紐に六十個の結び目を作り,イオニアの独裁者たちと会見していうには,『イオニア人諸君,先に橋について申したわしの考えは取り消すことにする。そこでこの紐を手許において,これからわしのいうとおりにしてもらいたい。そなたらはわしがスキュタイ人攻撃に出発するのを見たならば,その時から始めて毎日結び目を一つずつほどいていってくれ。その期間にわしが戻ってこず,結び目の数だけの日が経過したならば,そなたらは船で帰国してくれてよい。(中略)』」(歴史巻4,98)(*7)
インカの人々は,暦,納税,国勢調査,軍事組織などの情報を記録する道具としてキープを利用した。インカのキープは,綿,ラマ,アルパカの毛などの繊維で作った紐で構成され,数字の情報は10進法で記述されていた。インカ帝国のエリート層は,「教育の家」と呼ばれた学校で,キープの読み書きを教育されたという。
南米のキープ(Author:Claus Ableiter nur hochgeladen aus enWiki)
『隋書東夷伝』には,倭国の結縄の風習が記されている。「人頗恬靜,罕爭訟,少盜賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身,沒水捕魚。無文字,唯刻木結繩。敬佛法,於百濟求得佛經,始有文字。知卜筮,尤信巫覡。每至正月一日,必射戲飲酒,其餘節略與華同。」(人頗る恬靜にして,爭訟罕(まれ)に,盜賊少なし。樂に五絃の琴・笛有り。男女多く臂に黥(げい)し,面に點し身に文し,水に没して魚を捕う。文字無し,唯木を刻み繩を結ぶのみ。佛法を敬す。百濟に於いて佛經を求得し,始めて文字有り。卜筮を知り,尤も巫覡を信ず。正月一日に至る每に,必ず射戲・飲酒す。其の餘の節は略與華と同じ。)(*2)
坂倉源次郎は『北海随筆』の中で,次のように書き残している。アイヌには文字は無いが,物事を記録するときは,縄を結び木を刻んで記録した。何年たっても忘れることはなく,商船が蝦夷地に来て勘定を行うときは,結縄と刻木を取り出して内容を弁ずるという。最上徳内の『渡島筆記』にも同様の記述がある。
沖縄の藁算は,稲藁や藺草などを結んで数の記録や計算の道具として用いた。そろばんのように,5進数と10進数を組み合わせて記録したり,計算したりしていた。
藁算(Author:Daderot)
追記
甲骨文や金文の研究から,殷代の祖先祭祀は360日ないし370日周期で行われ,10日ごとに決まった祖先を祭祀していたことがわかっている。また殷の暦は冬至から始まり,月の満ち欠けによって1年12カ月とし,閏月を設けて季節と暦のずれを修正していたという。『山海経』には,「下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝(下に湯谷があり,湯谷の上に扶桑がある。そこは,十個の太陽が水浴びをする所で,黒歯国の北にある。大木(扶桑)は水中にあり,九つの太陽は下の枝におり,一つの太陽が上の枝にいる」という神話がある。この神話の解釈をめぐっては様々な説があるが,すなわち,10日ごとに日を数えていたということではないだろうか。
Reference,Citation
*1) 伊藤清司. 1996. 中国の神話・伝説. 東方書店.
*2) 公益財団法人 黒川古文化研究所 http://www.kurokawa-institute.or.jp/
*3) 文化庁 https://kunishitei.bunka.go.jp
*4) 和田 清, 石原道博編訳. 1951. 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝. 岩波書店.
*5) 平川 南. 2008. 日本の原像 (日本の歴史 2) . 小学館.
*6) 司馬遷, 野口定男訳. 史記. 平凡社, 1968.
*7) ヘロドトス. 歴史. 松平千秋訳. 岩波書店, 1971.
*8) 地球ことば村結縄 https://www.chikyukotobamura.org/home.html