暦の技術,農耕 Calendar technology, Farming

SHINICHIRO HONDA

私が子供の頃は,年末になると,祖父がどこからか伊勢神宮の札と神宮暦を手に入れてきた。札は厨房の柱に貼り付け,暦は祖父が熱心に読んでいた。しばらくして,神宮暦を見なくなったのは,いろいろなカレンダーが出回るようになり,農協や農業試験場が農作業暦や防除暦を配布するようになったからであろう。

神や仏がいなくても死ぬわけではないが,農民にとって,暦は無くてはならないものである。作物の種を播く時期を間違えれば,発芽せずに腐ってしまったり,発芽しても霜に当たって枯れてしまったりする。農民は農作物以外に収入の道が無いのだから,作物がうまく成長しなければ,たちまち飢餓に陥る。暦は,農民にとって,生きるか死ぬかを左右するほど重要なものである。

一方,オーストラリア大陸で数万年も狩猟と採集の暮らしを続けてきたアボリジニは,正確な暦を持たなかった。アフリカの乾燥地帯に暮らし,原始の人類の特徴を最も保存していると言われるサン族も暦を持たない。狩猟採集民は,同じ場所で何万年も暮らしても,正確な暦を必要としなかった。

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ギリシアのヘロドトスは,『歴史』のなかで,「エジプトはナイルの賜物というべきもの」と書き残した。ナイル川の下流域は砂漠気候で,1年を通じて雨がほとんど降らない。ナイル川の水は,火山地帯のエチオピア高原を源流とする青ナイルと,ヴィクトリア湖を源流とする白ナイルから流れてくるが,水量の70%は,青ナイルに依存している。

エチオピア高原に降る雨によって,ナイルの下流域では,毎年8~10月に定期的に増水が起きる。古代のエジプトでは,ナイル川の両岸のエリアに土手を築き,土手で囲んだ畑を作った。増水したナイルの水を,水路を通じて畑に引き入れ,1.5mほどの深さまで湛水した。45日ほどして,畑の水が引いたあとに,小麦の種を播いた。湛水した畑が,たらい(basin)のように見えることから,「ベイスン灌漑」と呼ばれている。(*1)

乾燥地の灌漑農業では,地面からの水の蒸散量が多いために,土壌水が地下から上昇する。水が蒸発したあとに,塩分が地表面に蓄積する塩害が問題になる。ベイスン灌漑では,湛水によって塩類が流され,火山地帯の肥沃な土が供給されるので,農地の土壌の肥沃さが永続的に維持される。

古代エジプトの記録では,日の出の寸前に東の空にシリウスが現れたら,平均して7日後にナイルの増水が始まると書かれている。エジプト暦は,1週=10日,3週(30日)=1か月,1年=12か月+5日=365日で構成された。また,1年は,農作業にあわせて,「浸水」,「出水」,「干水,収穫」の3期に区分された。1年365日のエジプト暦には閏年が無いので,暦と季節が4年間で1日ずつずれた。

エジプト暦は,紀元前26世紀から使用されていた可能性があり,紀元前25世紀の半ばには確実な証拠があるという。もともと,小麦,大麦などの栽培植物,山羊,羊,牛などの家畜の起原は,レヴァントである。また,灌漑農業の起源はメソポタミアである。1か月30日という暦は,メソポタミアではウルク期(ジェムデト・ナスル期,BC3100~2900年)には使用されていたことが知られており,エジプト暦も,メソポタミアから伝来したと考えられている。

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太陽太陰暦としてよく知られているのは,バビロニア暦である。バビロニア暦は,ウル第三王朝(BC2112~2004年頃)のシュルギ王(BC2094~2047年頃)が定めたウンマ暦を起源とすると言われている。シュルギは,ウル・ナンムの息子である。

バビロニア暦では,月の満ち欠けの周期(朔望月)をもとに,1年を12か月とし,春分の頃の新月の直後を元日とした。1年は,「始期」,「中期」,「終期」の3期に区分された。

平均朔望月は約29.530589日で,1太陽年は365.242189日なので,1年12か月とすると354.367068日にしかならず,1年で10.875121日も暦と季節がずれてしまう。紀元前6世紀までは,最後の月や6月を繰り返すことで,暦と季節をあわせていた。春分の日は,恒星カペラの動きを観察して決定したという。

バビロニアでは,19年が235か月にほぼ等しいことが発見され,紀元前5世紀初頭に,19年に7回の閏月を置く19年7閏法が採用された。19年≒235か月という太陽と月の周期は,ギリシアの数学者メトンにちなんで,メトン周期と言われるが,メトンはバビロニアからこの周期を導入したと言われている。

メソポタミア南部では,冬期にトルコの山岳地帯に降った雨によって,チグリスとユーフラテスが定期的に増水する。11月から水量が増し,雪解けの4~5月に最も水位が高くなる。増水時と渇水時の水位差は,ユーフラテスが3~4m,チグリスの水位差は5mもあった。(メソポタミアの灌漑農業


ユーフラテス川の水位,中流のラマーディでの観察(1911~32年の平均値)(参考:図説メソポタミア文明)(*7)


チグリス川の水位,中流のバクダートでの観察(1906~32年の平均値)(参考:図説メソポタミア文明)(*7)

一方,麦類の播種は11月中旬までに終えなければならず,それ以上遅れると発芽が遅くなって初霜(1月第1週)の害を受ける。麦類への最初の灌漑は,播種後1週間後(11月中旬~12月上旬)で,2回目の灌漑は1月第1週におこなわれる。その後の灌漑は,2月第1週で,さらに3月21日までにもう一度灌漑をおこなう。雨は2月~5月に降るので,灌漑のタイミングは降雨に左右される。最後の灌漑は4月上旬で,麦類の収穫は4月下旬~5月中旬である。

麦の播種が早すぎれば播種直後の灌漑が行えないし,遅すぎれば発芽が遅くなって霜の害を受ける。毎年,安定して麦の収穫を迎えるには,正確な暦が必要不可欠であった。

ヘロドトスは,バビロンの神殿について次のよう書いている。(*8)

この神殿は私の時代まで残っており,方形で各辺が二スタディオンある。聖域の中央に,縦横ともに一スタディオンある頑丈な塔が建てられている。この塔の上に第二の塔が立ち,さらにその上に,というふうにして八層に及んでいる。塔に昇るには,塔の外側に全部の層をめぐって螺旋状の通路がつけられている。階段を中頃まで昇ると踊り場があり,休憩用の腰掛が置いてある。昇る者はこれに腰をおろして一息入れるのである。頂上の塔には大きな神殿があり,この神殿の中に美しい敷物をかけた大きい寝椅子があり,その横に黄金の卓が置いてある。神像のようなものは一切ここには安置していない。また夜もここには土着の女一人以外は誰も泊まらない。その女というのは,この神の祭司を務めるカルデア人(カルダイオイ人)の言葉によれば,神が女たち全部の中から選ばれた者であるという。また私には信じられないことであるが,同じカルデア人のいうところでは,神が親しくこの神殿に来て,この寝椅子に休むのだという。エジプト人の話では,これと同じことがエジプトのテバイにもあるという。ここでは「テバイのゼウス」の神殿に女がひとり寝るのであるが,どちらの場合もこの女は人間の男とは決して関係をもたないといわれている。またリキュアのパタラでも,神の女預言者が同じようなことをする。ただしここの神託は常時あるわけではないので,それが開かれている間だけのことであるが,その期間中女は神殿内に神とふたりだけ閉じ籠るのである。このバビロンの神域には,下手にもう一つ神殿があり,ここにはゼウス(ベル)の巨大な黄金の坐像が安置され,かたわらには黄金製の大テーブルが置かれ,足台も椅子も黄金製である。カルデア人のいうところでは,これらは合計八百タラントンの黄金を用いて作られているという。この神殿の外に金製の祭壇があるが,さらにもう一つ大祭壇があり,ここでは成長した家畜が供えられる。黄金の祭壇ではまだ乳離れしない幼獣以外は供えてならぬことになっているからで,この大祭壇では毎年この神の祭礼の時,千タラントンの乳香を焚くことになっている。
*カルデア人(カルダイオイまたはカルダイア人)はペルシア支配以前のバビロンの支配階級であった。天文学,占星術の祖として知られる。
*一タラントンは約二六キログラムである。したがって八百タラントンというと約二〇トンの重さになる。

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古代中国では,黄帝,顓頊,夏,殷,周,魯の古六暦が存在したと伝えられている。顓頊暦は,紀元前3~2世紀頃に秦に存在した太陽太陰暦で,19年7閏法が用いられていた。古代中国暦では19年を1章と呼び,19年に7回の閏月を挿入した。顓頊暦は,1太陽年を365+1/4日(365.25日),1朔望月を29+499/940日(29.53085日)とする四分暦であった。1年の始まりは10月で,9月(年末)の後に閏月が挿入された。

漢の武帝は,太初元年(BC104年)に,顓頊暦を改めて太初暦を定めた。19年7閏法を踏襲し,1太陽年を365+385/1539日(365.250162日),1朔望月を29+43/81日(29.530864日)としている。食の周期(135朔望月)を取り入れ,分母を81にしたので,八十一分法と呼ばれる。

太初暦では,冬至の月を11月とし,1年の始まりを1月,平年は12か月,閏年は13か月,大月は30日,小月は29日とした。田植え(春),繁忙期(夏),収穫(収穫),休養(冬)の1年の農作業に合わせた,二十四節気を取り入れた。

太陽黄経 節月 日本語 グレゴリオ暦
315° 一月節 立春 2月4-5日
330° 一月中 雨水 2月18-19日
345° 二月節 啓蟄 3月5-6日
二月中 春分 3月20-21日
15° 三月節 清明 4月4-5日
30° 三月中 穀雨 4月20-21日
45° 四月節 立夏 5月5-6日
60° 四月中 小満 5月21-22日
75° 五月節 芒種 6月5-6日
90° 五月中 夏至 6月21-22日
105° 六月節 小暑 7月7-8日
120° 六月中 大暑 7月22-23日
135° 七月節 立秋 8月7-8日
150° 七月中 処暑 8月23-24日
165° 八月節 白露 9月7-8日
180° 八月中 秋分 9月23-24日
195° 九月節 寒露 10月8-9日
210° 九月中 霜降 10月23-24日
225° 十月節 立冬 11月7-8日
240° 十月中 小雪 11月22-23日
255° 十一月節 大雪 12月7-8日
270° 十一月中 冬至 12月21-22日
285° 十二月節 小寒 1月5-6日
300° 十二月中 大寒 1月20-21日

一般に,古代中国の太陽太陰暦は,中国大陸で独自に発明されたと考えられており,顓頊暦は紀元前3~2世紀頃に秦で使われていたとされている。秦は,馬と関係が深い氏族で,『史記』には,秦の祖先は,代々,殷や周の帝に仕えた馬の馭者(御者),調教師,繁殖者であったと書かれている。また,秦の先祖は,顓頊であると伝えられている。(アマルナ文書,馭(御),市場

もともと家畜の馬は中国には存在せず,家畜馬の起源は黒海北方の草原地帯である。さらに,小麦,大麦,羊,山羊,牛,冶金術も西方が起源であり,早い時代に中国大陸に伝来していた。これらのことから,太陽太陰暦も,西方から伝来したと考えるのが自然である。


顓頊

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マヤ文明は,メソアメリカでBC2000年頃から16世紀頃まで栄えた農耕文明である。マヤでは,複数の暦が使用されていた。

Haab(ハアブ)と呼ばれる暦は,1か月=20日,1年=18か月+5日からなり,1年365日の太陽暦である。Haabは,閏日(閏年)をまったく置かないため,太陽の運行と暦が次第にずれる暦であった。

Tzolk’in(ツォルキン)は,20個の名前を持つ日と1~13までの数字を組みあわせた260日周期の暦である。52 Haab=73 Tzolk’inで,HaabとTzolk’inを組み合わせて,約52年で1周期(Calendar Round)の暦としていた。

長期暦は,長期にわたる日付を表す暦で,20キン(日)=1ウィナル(月),18ウィナル=1トゥン(年),20トゥン=1カトゥン,20カトゥン=1バクトゥン(約394年)として記録した。

古代マヤ人は,29 Calendar Round=1508 Haabは,1507太陽年であると考えていたという説があり,その説が正しいなら,1508 Haab×365日÷1507太陽年=365.242203日となり,現代の1太陽年=365.242189日とほぼ同じになる。

マヤの古文書であるドレスデン絵文書には,金星の会合周期(約584日)や日食,月食の間隔が記録されている。また,11,960日=46 Tzolk’in=405朔望月とし,1朔望月=29.53086日としていた。平均朔望月は約29.530589日である。

蓄積した「知」の独占と,蓄積した「知」の世襲が,階層の起源であると書いた。南北アメリカ大陸では,製銅や製鉄などの冶金術は発達しなかった。その代わりに,マヤでは,高度で複雑な「知」である暦の技術がきわめて発達し,王は暦の技術を独占的に世襲することで,王権を正当化(正統化,合法化)することができたのであろう。


キリグア石碑C。神話上の創造の日である13.0.0.0.0 4アハウ8クムク(先発グレゴリオ暦紀元前3114年8月11日)を記す


『ドレスデン絵文書』より55-59,74ページ。日食・月食の表(左),乗算表,洪水(右端)

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太陽暦や太陽太陰暦が整備されるよりも古い時代から,天体の運行を観測する施設が,世界中で建設されていた。

ブリテン島のストーンヘンジの巨石は,BC2500~2200年頃に作られたとされている。ストーンヘンジでは,夏至の朝に,太陽がヒールストーンから昇り,太陽の光は,馬蹄形に配置された石の中央に射し込むように配置されている。また,近くから,BC8000年頃の中石器時代の柱穴が見つかっており,直径75cmの巨大な松の柱が4本立てられていた。柱の3本は東西方向に並んでおり,これと同様の遺跡は,スカンジナビアでも見つかっている。


Computer rendering of the overall site


The sun behind the Heel Stone on the Summer solstice, shortly after sunrise(Author:Andrew Dunn)

アイルランドのニューグレンジは,BC3100~2900年に建設されたマウンドである。かつてマウンドの周囲には,巨石の柱が環状に立てられていた。また,近くには複数の環状木柱列が作られており,一つの環状木柱列は5重の同心円状になっていた。マウンドの内部には,通路が設けられ,冬至の朝に日の出の太陽光が17mの通路に射し込み,奥の部屋の床を照らす構造になっている。地球の歳差に基づいて計算すると,5000年前には日の出と同時に日光が射し込んだという。


Newgrange(Author:Tjp finn)


The entrance passage to Newgrange, and the entrance stone(Author:spudmurphy)

新石器時代のヨーロッパでは,各地に環状の構造物が作られた。ドイツ東部のゴゼック・サークルでは,木柱が直径75mの円環状に二重に立てられていた。ゴゼック・サークルの建設はBC4900年頃とされ,BC4700年頃まで使用されていた。環状の木柱には,冬至の日の出と日の入りを観測できる二つの門が設けられていた。エルベ川およびドナウ川地域では,同じ構造の施設が,複数発見されている。


Goseck circle, Germany 4900 – 4700 BC. From the book OLD EUROPE – FIRST CIVILIZATION 7000-3000 BC AF KENNY ARNE LANG ANTONSEN, JIMMY JOHN ANTONSEN(Author:Kenny Arne Lang Antonsen)


Drawing of the Goseck circle – yellow lines represent the direction in which the sun rises and sets at the winter solstice, while the vertical line shows the astronomical meridian

地中海のマルタ島には,イムナイドラ神殿(Mnajdra Temples)がある。イムナイドラ神殿は,BC3600~3200年頃の新石器時代の巨石神殿群で,異なる時期に建てられた3つの建造物からなる。神殿の一つは天文学的な構造で作られており,天体の観測や暦を記録する場所として使用されていた。春分の日と秋分の日には,太陽の光が正面の扉を通り,部屋の奥を照らし,夏至と冬至の日には,太陽の光が扉の両側にある玉石の縁を照らすという。石の一つには,右から順にたくさんの穴が刻まれており,月と太陽の運行に関連する数字が記録されたのではないかと考えられている。


Niche at the Mnajdra South Temple(Author:Sudika)


Map of the Mnajdra temple(Author:Hamelin de Guettelet)


Schematic overview of the solar angles in the Mnajdra solar temple building, based on a French version by Hamelin de Guettelet(Author:Stijndon)


Sketch of the rows of holes on the calendar stone of Mnajdra(Author:Bautsch)

ヨーロッパの古代人のDNA分析によって,ヨーロッパの新石器時代の農耕民は,アナトリアを起源とする農耕民(エーゲ海集団)を祖先に持ち,中石器時代からヨーロッパに先住していた狩猟採集民と混合していったことがあきらかになっている。

ブリテン島で新石器文化(農耕文化)が現れるのは,BC4000年頃であるが,ヨーロッパ大陸の隣接地域の新石器文化から数千年も遅れた。ブリテン島の中石器時代の6人と新石器時代の67人のDNA分析の結果,中石器時代の狩猟採集民は西ヨーロッパの狩猟採集民と遺伝的に近縁であった。ブリテン島に農耕をもたらしたのは,大陸から移入した農耕民であり,狩猟採集民との混血はほとんどなかった。ブリテン島の新石器時代の農耕民は,イベリア半島の新石器時代の農耕民と近縁で,地中海ルートで分散したアナトリア起源の農耕民の子孫であることがわかった。(*6)

ブリテン島やアイルランドのストーンサークルを建設したのは,アナトリアを起源とする農耕民(エーゲ海集団)と考えられている。

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北アメリカの南西部(ユタ州,アリゾナ州,ニューメキシコ州,コロラド州)には,BC7000年頃から狩猟採集民が暮らしていた。BC2000~1000年頃に,トウモロコシとカボチャの初期栽培が始まり,BC500年頃にはトウモロコシを主要な食料とするようになった。

9世紀頃から,石や日干しレンガの住居と儀式用の広場がある定住集落で暮らした。スペイン人は,先住民の定住集落をプエブロ(人々,村,町の意味)と呼んだために,プエブロ人と呼ばれている。古代プエブロ人は,太陽と月の運行周期を調べるための観測施設を作っていたと考えられている。

古代プエブロ人の末裔であるホピ族やズニ族は,農作業や儀式の時期を決めるための暦(ホライズンカレンダー)を持っていた。太陽は,1年周期で地平線上の日の出日の入りの位置が変化する。日の出日の入りの位置を観測し記録することで,作物の播種などの適期を判断していた。ホライズンカレンダーは,簡便な方法で,1年の温度や降水量の変化を予測するシステムであり,農作業暦としては,きわめて合理的である。


右上から,夏至の儀式(12月),畑仕事の開始(2月),早生トウモロコシ,オニオン+トウガラシの播種(4月),メロン+カボチャの播種(4,5月),いくつかのトウモロコシの播種(5月),主たるトウモロコシ+インゲンの播種(5月),砂地の畑での遅い播種(6月),夏至の儀式(6月),夏至から4日間はトウモロコシを播種してもよい,夏の雨期(7月),早生トウモロコシの登熟(7,8月),笛の踊り(8月),主たる収穫期(9月)(*8)


The Matsakaya sun watching shrine at Zuni, around 1920(*8)

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日本列島でも,縄文時代中期から後期にかけて,多くのストーンサークル(環状列石)や環状列柱が作られた。ストーンサークルは,北海道,青森,秋田に多く,岩手,長野,山梨,群馬,東京でも見つかっている。また,ストーンサークルと似た構造の環状列柱が,富山,石川,福井,滋賀などで発見されている。

秋田県鹿角市の大湯環状列石は,BC2000~1500年に作られ,万座環状列石と野中堂環状列石の二つのストーンサークルからなる。直径は,万座が約52m,野中堂が約44mである。それぞれのストーンサークルの北西側には,日時計状組石が設置してある。二つのストーンサークルの中心と,それぞれの日時計状組石の4点が一直線にあり,その方向は,夏至の日の入りの方向と一致している。ストーンサークルの周囲には,掘立柱建物,貯蔵穴,土坑墓などが同心円状に配置されており,土偶,土版,動物形土製品,鐸形土製品,石棒,石刀などが数多く出土している。


大湯環状列石

北秋田市の伊勢堂岱遺跡は,BC2000~1700年頃に作られ,四つのストーンサークルからなる。最大のストーンサークルの直径は約45mで,列石が三重になっている。四つのストーンサークルと少し離れた位置に,数個の日時計型組石が置かれている。一つのストーンサークルの中心と日時計型組石を結ぶ方向は,夏至の日没の方向と一致する。ストーンサークルの周囲からは掘立柱建物跡,土坑墓,土器埋設遺構,捨て場,土坑などが出土し,214点の土偶が見つかっている。土偶は全て壊されてた。


伊勢堂岱遺跡


伊勢堂岱遺跡出土の土偶(Author:Ko010)

狩猟採集民は,気象や自然を観察して,季節の移り変わりや自然の変化を予測しながらテリトリー内を遊動する。しかし,農耕民のような正確な暦を持たなかった。日本列島の縄文時代中期の人々は,狩猟と採集を生業にしていた。狩猟採集民の縄文人が,自ら暦の施設を発明したとは思われず,すでに農耕社会に移行していた大陸から暦の技術が伝来したと考えるのが自然である。

ブリテン島は,大陸に比べて農耕の開始がきわめて遅く,ブリテン島やアイルランドのストーンサークルを建設したのは,大陸から伝来した農耕民という説が有力である。

日本の人類学者も,日本列島のストーンサークルの文化は,大陸から伝わったと考えていた。日本で初めてストーンサークルが報告されたのは,1886年(明治19年)の渡瀬荘三郎による忍路郡忍路村(後志)のストーンサークルである。1894年(明治27年)には,空知郡音江村のストーンサークルが発見され,その後,北海道各地で多くのストーンサークルが見つかった。(*10)

イギリス人の医師で,考古学を研究していたニール・ゴードン・マンローは,ブリテン島のストーンヘンジから着想を得て,忍路のストーンサークルは石器時代の天体観測の施設と考えた。人類学者の鳥居龍蔵は,シベリア中部のエニセイ川上流や中国北部にストーンサークル群が存在することから,ツソグース族が大陸から日本列島に渡来したと主張した。

北海道各地のストーンサークルを本格的に調査したのは,考古学者の駒井和愛である。駒井は,中国内蒙古自治区ハイラルの南方で調査したストーンサークルが墳墓であった経験から,北海道のストーンサークルも墓であると結論付けた。しかし,その後,大湯環状列石など墓とは異なる施設や構造を持つストーンサークルが,数多く確認されている。

日本列島のストーンサークルの文化(暦の技術)が,大陸から伝わったのであれば,遮光式土偶は,その名のとおり,太陽を観測する女性の姿を表したものなのかも知れない。


遮光器土偶・1886年(明治19年)青森県亀ヶ岡遺跡出土


エスキモーが用いた遮光器

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日本列島に王権が成立する頃にも,太陽の運行を観察する施設が多く作られた。伊勢神宮では,冬至の日に,日の出の太陽の光が,宇治橋と鳥居をまっすぐ通り抜け,太陽は鳥居の中央から昇るように設計されている。


伊勢神宮の宇治橋と朝日(Author:N yotarou)

伊勢の二見興玉神社では,夫婦岩の間に200km遠方の富士山が見え,夏至の日の朝に,夫婦岩の間の富士山頂から太陽が現れる。


二見興玉神社夫婦岩の富士山頂から昇る日の出(Author:Tawashi2006)

中牧弘允氏によれば,敏達天皇の宮殿は,冬至の日に三輪山から昇る太陽を観測できる場所に建てられており,577年には日祀部(ひまつりべ)が各地に設置された(『日本書紀』)。また,三輪山の山麓には檜原神社の三ツ鳥居が立てられ,注連縄に紙垂を吊り下げ,日の出の位置を観測する指標とした(小川光三,『大和の原像―古代祭祀と崇神王朝』)という(*11)。

檜原(日原)神社は,日本最古の神社の一つと言われる大神神社の摂社である。大神神社には,奥に三ツ鳥居があり,前には縄鳥居がある。三ツ鳥居は本柱2本,脇柱2本の計4本の柱でできており,縄鳥居は,2本の柱の間に横綱を渡し,横綱には玉縄が吊るされている。柱を2本,あるいは4本立てて,その間に横綱を張るのが本来の鳥居の形であったなら,鳥居は太陽の運行を観察するための施設と言えるのかもしれない。注連縄とは「示め縄」あるいは「標縄」の意味と思われる。また,檜原神社が,冬至の日に三輪山から現れる日の出が見える位置であるのに対し,大神神社は,夏至の日に三輪山から現れる日の出が見える位置にある。


大神神社 拝殿前の鳥居(Author:Yanajin33)

miwayama

磐座(いわくら)は,ズニ族の太陽観測所と同様に,「標縄」によって太陽を観測する場所に置いた目印の岩(座)のことではないか。例えば京都の岩倉町は,冬至の日に比叡山から昇る日の出を観測できる方角にあり,御所は夏至の日に比叡山から昇る日の出を観測できる方角にある。なお,国を見渡すことができる山を国見山という。三輪山(三諸山)は,倭を見渡す山の「見倭」,あるいは「見諸」の意味と思われる。

このような原初的な暦の技術は,現代にもその痕跡が残されており,諏訪大社では6年ごとに大柱を神社の四方に立てるし,ヨーロッパの夏至祭りでは,3~4年ごとにメイポールを立てる。


小社に設けられた御柱(諏訪市 手長神社境内社)(Author:Saigen Jiro)


Dancing around the maypole, in Åmmeberg, Sweden

アマテラスは,日本神話における最上位の神で,皇祖神,太陽神などとされる。アマテラスを祀る伊勢神宮も,最上位の神社とされている。しかし,本来の神話の構造からすれば,最上位の神は,天空神であり,メソポタミアでもエジプトでも,天空神と太陽神は別の神概念である。

『随書東夷伝』には,次のようにある。

「開皇二十年,倭王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。」(開皇二十年,倭王あり,姓は阿每,字は多利思比孤,阿輩雞彌 號す。使を遣わして闕に詣る。上,所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う,「倭王は天を以って兄と為し,日を以って弟と為す。天未だ明けざる時,出でて政を聴き跏趺(あぐら)して座し,日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め,云う我が弟に委ねんと」と。高祖(文帝)曰く,「此れ大いに義理無し」と。是に於いて訓えて之を改めしむ。)(*12)

この記述から,古事記や日本書紀が書かれる前の倭の為政者は,天と日(太陽)は別の概念であること,王(大王)は天(兄)より序列が低く,太陽(弟)より序列が高いこと,そして,政(マツリゴト)とは,日の出を観察して暦を定めることと考えていたことがわかる。

天空神の起源は,部族同士のポトラッチにおける信号化(神概念)された保証人のことである(神概念1)。天空神は,「空」であり,暴力を伴わない「暇な神」である。

天岩戸神話を見れば,アマテラスは,暦(太陽)と冶金(イナンナ)の神概念の習合と思われる。

Reference,Citation
*1) 熊倉和歌子. エジプト・ナイル流域の土地に刻まれた 歴史の連続と断絶. FIEPLUS 2017 07 no.22.
*2) 国立天文台暦計算室. 暦Wiki.
*3) 山崎 昭, 久保良雄. 1984. 暦の科学. 講談社.
*4) 渡邊敏夫. 2012. 暦入門. 雄山閣.
*5) Clagett, Marshall (1995), Ancient Egyptian Science: A Source Book, Vol. II: Calendars, Clocks, and Astronomy, Memoirs of the APS, No. 214, Philadelphia: American Philosophical Society.
*6) Brace, S., Diekmann, Y., Booth, T.J. et al. Ancient genomes indicate population replacement in Early Neolithic Britain. Nat Ecol Evol 3, 765–771. (2019).
*7) 前川和也. 2011. 図説メソポタミア文明. 河出書房新社.
*8) ヘロドトス. 歴史. 松平千秋訳. 岩波書店, 1971.
*9) Zeilik. 1985. The ethnoastronomy of the historic pueblos, I. calendrical sun watching, Archaeoastronomy, no. 8.
*10) 高倉新一郎監修. 1980. 函館市史 通説編 第一巻 p238-241.
*11) 中牧弘允. 2015. こよみの学校. つくばね舎.
*12) 和田 清, 石原道博編訳. 1951. 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝. 岩波書店.

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