繰り返し採集,繰り返し繁殖:中国北部の新石器時代2  Repeated gathering,Repeated propagation:Neolithic in Northern China

SHINICHIRO HONDA

中国大陸の新石器時代早期の農耕文化としては,大地湾,裴李崗,磁山,後李,興隆窪,彭頭山,皂市下層,城背渓,跨湖橋,頂螄山,甑皮岩第五期が知られている。このうち,中国北部の農耕文化は,磁山文化,裴李崗文化,興隆窪文化,後李文化,大地湾文化である。


(小川,2013)(*1)

河北省磁山遺跡は,中国北部の新石器時代の最も重要な遺跡のひとつである。遺跡は,洛河南岸の川床より25m高さの台地で,2期の層からなる。下層が磁山文化層で,上層は商代である。下層は,さらに第1層と第2層からなり,第1層からは貯蔵穴,第2層からは住居跡と貯蔵穴が出土した。

遺跡の広さは14haで,80基の貯蔵穴には,炭化した穀物が2~30cmの厚さで堆積していた。深さ3.5mで,1mの穀物が堆積した穴もあった。石器は,打製石器,磨製石器が存在し,農具の石鏟(石の鋤),貝鏟,石刀(穂摘み具),石鎌,貝刀,骨刀,磨盤,磨棒などが出土している。磨盤の数は52,磨棒は50にのぼるという。土器は,調理用の三脚の土器や皿や鉢などの食器があった。また,犬,豚,鶏が飼育されていた。


(槙林,2008)(*2)

貯蔵穴,住居跡,農具を見れば,磁山でキビが栽培されていたことは確実と思われる。2009年の報告では,磁山遺跡で新たに発掘された貯蔵穴から,10,300-8,700 cal BPのキビのプラント・オパールと生体分子成分を確認したという。また,アワが見られるようになるのは,8,700BP以降であるという。(*3)


Fig. 1. Locality map. (A) Map showing the location of Cishan and other important Early Neolithic millet agricultural sites in the semiarid region of northeastern China. (B) The Cishan site is located on a terrace of the Ming River (Inset). A detailed plan of the west area of Cishan site excavated in 1976–1978, showing the outlines of the serried storage pits and the 5 newly excavated storage pits, CS-I to CS-V (numbers in brackets), in an area to the northwest of the earlier excavation is presented. (C) A photograph of the newly excavated storage pit CS-V, found on the cliff of the northern terrace. (D) Close-up photograph of the loose layer of grain crop remains in storage pit CS-III found in situ in the loess layer. (*3)

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裴李崗文化は,河南省の黄河流域に存在した新石器早期段階の文化である。1977~79年に,裴李崗遺跡の発掘が始まり,これまでに160か所の同文化の遺跡が発見されている。発掘調査された遺跡は,裴李崗,賈湖,沙窩李,莪溝北崗,石固,水泉など26か所にのぼる。裴李崗文化の絶対年代について,中国の考古学者は,前9000年~前7000年の約2000年間存続したとしている。


(李永強,中國社會科學院考古研究所,2018)

裴李崗遺跡は,河南省鄭州市新鄭県の双泪河北岸に位置し,河床から25mの台地にある。文化層は厚くなく,裴李崗文化層のみである。遺物は,磁山文化と類似点が多く,石鏟,石刀,石鎌,磨盤,磨棒などの農具が出土している。磨盤は50以上,磨棒も20以上見つかっている。また,裴李崗遺跡では,114基の墓が出土している。墓は,主に長方形竪穴土坑墓で,装具は発見されていないが,土器などの副葬品が埋められていた。墓の方向は,ほぼ南向きで埋葬されている。なお,磁山から裴李崗までは,200kmほどである。


(小川,2011)(*4)


石磨盘 石磨棒,新石器时代裴李岗文化,新郑裴李岗遗址出土(Author:用心阁)


Neolithic stone sickle, Peiligang Culture, Jiaxian, Henan, found in 1976. National Museum of China, Beijing(Author:Prof. Gary Lee Todd)


Neolithic pottery jar, Peiligang Culture, Xinzheng, Henan, 1978. National Museum of Chinan, Beijing(Author:Prof. Gary Lee Todd)

Peiligang Culture: bone arrowheads & teeth scrapers

Peiligang Culture bone arrowheads & teeth scrapers. Henan Provincial Museum(Author:Prof. Gary Lee Todd)

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レヴァントでは,穀類を加工する石器は,ナトゥーフィアンに,脱稃のための搗き臼(石臼,mortar)と石杵(pestle),製粉のための挽き臼(石皿,grinding slab/quern)と磨石(handstone)が使われた。PPNA期になり,食料の穀物依存が高まると,製粉用の挽き臼として,鞍形石皿(サドル・カーン,saddle quern)や樋形石皿(trough quern)が現れた。

藤本003
(藤本,1983)(*5)

藤本004
(藤本,1983)(*5)

一方,磁山,裴李崗には搗き臼は無く,きわめて精工に作られた製粉用の磨盤(saddle quern)が現れる。藤本 強先生は,磁山,裴李崗の石器について,次のように書いている。(*5)

「ほかにこれだけ多量のしかも完成された形の磨臼がみられる時期・地域はみあたらない。・・・華北平原の周辺の地区で,早期の新石器文化についで現れるのは山東の大汶口文化であり,河南の仰韶文化である。これらにも若干の磨盤・磨棒と報告されるものはなくはないが,明確に磨臼とできるものはきわめて少ないし,その出土する量もきわめて少ない。むしろ石杵・石臼あるいは石皿・磨石の類が多い。前項でもすでに触れているように磨臼は穀物を粉にすることを目的とした道具と考えるのが一般的である。石臼・石杵,石皿・磨石が万能の道具であった可能性が強いのに対し,磨臼は製粉という専一の機能を目的にして作られた道具と考えられる。同じ広義の製粉具と考えられるもののなかでは,専門化した道具であり,石臼・石杵,石皿・磨石とは質的に異なる道具である。それが華北平原の東西にある,現在判っている中国最古の新石器文化の各遺跡に,多量にしかも完成された姿でみられる。また,図や文章でみる限り,ここには,他の種のものはほとんどみられないようである。これはきわめて特殊なありかたといわなければならない。磨臼の初現に近い時期と考えられるイランのアリ・コシュ(Ali Kosh)(Hole Flannery, Neely 1969),イラクのジャルモ(Jarmo)(Braidwood, Howe 1960)においても石臼・石杵,石皿・磨石の各種のものと一緒に出土している。むしろ磨臼は少量である。中国では,現在判っているもっとも早い新石器文化に多量の,しかも他の器種を含まない磨臼がみられる。これはきわめて特殊である。さらに足のついた磨臼は旧世界ではきわめて特殊である。」


(藤本,1983)(*5)

私の田舎では,かつては,夏のあいだ,山の小屋で生活する「出作」が行われていた。子供の頃に,村から2里ほど奥山の雑木林に一人で入ったときに,落ち葉や腐葉土にほとんど埋まった,神社の灯篭や石垣を見つけたことがある。それは,山の頂上で,近くには川が無く,水が得られる場所ではない。家の年寄りに聞くと,昔は,奥山に,炭焼きや焼畑を生業にする村があったという。その山の麓には,出作の小屋が1~2戸残っており,夏のあいだは山の小屋に住んで,炭焼きや山仕事をしていた。


白峰村における出作り地の土地利用(岩田,1984)(*7)

磁山,裴李崗の磨盤には脚が付けられており,非常に手の込んだ形状にしている。これは,挽き臼をできるだけ軽くして,遠方まで持ち運ぶためではないだろうか。磁山や裴李崗では,雨期の夏と乾期の冬では,食料を調達できる場所が異なり,季節的に居住地を移動していたのかもしれない。

テリトリー内遊動から定住に移行する段階は,一挙に進んだわけではなく,季節的に定住場所を移動する,「季節的定住」の生活様式が存在したと考えられる。

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賈湖遺跡は,裴李崗文化の代表的な遺跡で,秦嶺山脈の支脈である伏牛山の東方に位置する。ここは,華北平原の西端で,海抜65m,北には沙河が流れ,西には小湖がある。河川の自然堤防の上に作られており,古代には周囲に広い沼沢が存在していたのであろう。

カコ遺跡002

遺跡の広さは5.5haで,住居跡45,灰坑370,濠溝3,陶窯9,墓坑349が見つかっている。住居は,半地下式,平地式,高床式の3種がある。磨盤,石鏟,石鎌等の農具,双耳壺,三足鉢,深腹罐,平底鉢の土器など,裴李崗文化に共通する遺物が出土している。また,亀甲,骨笛,骨器など,賈湖遺跡にしかない出土品もある。


(小川,2010)(*8)

編年は,3期9段に分けられている。絶対年代は,第1期が前7000~6600年,第2期が前6600~6200年,第3期が前6200~5800年で,1200年のあいだ,集落が継続していたと考えられている。20種類以上の動物骨があり,タヌキ,クロテン,アナグマ,山猫,イノシシ,シカ,ゾウ,ノロジカ,ノウサギ,豚,犬,羊,牛,水牛,白鳥,タンチョウ,キジ,コイ,カメなどが報告されている。また,土壌からは,アワ,数百の米粒,大豆,オニビシ,ハス,ドングリなどが見つかっている。野生イネの分布地から遠い場所なので,イネが栽培されていたと考えられている。


賈湖遺跡出土の米粒(河南省文物考古研究院)

2014年の調査では,コイを養殖していたという報告がある。紀元前5800~6200年の地層から出土したコイの58点の咽頭歯の大きさから,コイの体長を推定したところ,幼魚と成魚が混在していた。これは,原始的な養殖の特徴であるという。人為的に管理された池のような水域に,別の場所で捕獲した産卵期のコイを放流して,産卵させたのではないかという(*9) (*10)。もっとも,「養殖」といっても,現代の養殖のように餌を与えて飼育したわけではなく,管理狩猟の一つの形態と思われる。

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東アジアの初期農耕社会は,どのような社会であったのだろうか。ふつう,古代の農耕社会は,集落の全員が共同で農耕に従事していたように書かれることが多いが,私はそのようには考えていない。私が育った田舎は,農業,林業,漁業などを生業にする山村および漁村であったが,男性はあまり農業(百姓)に熱心でない。

私の父は,田起こしや稲刈りなど,馬や機械の作業は率先して行うが,イネの施肥,水管理,野菜の栽培などは,母に任せて,ほとんど口を出さなかった。それは,祖父と祖母の関係でも同じである。父の場合は,とりわけ,青年期まで飼っていた馬(丸太を引かせる馬)のことが大好きであった。男性は,漁業や林業に専従して,百姓(農業)は女性の仕事と考えていたようである。それは,全国どこの山村,漁村でも,そのような感じで,沖縄の糸満の漁師も同じことを言っていた。

ウィッスラーの年代領域仮説によれば,新しい文化形質は,文化の中心地域で繰り返し起こり,それが,同心円状に,文化領域の周縁に向かって拡散して行く。文化の形質がほぼ同じ速度で広がるならば,文化形質の地理的範囲と年代との間には関連性が存在する。そして,文化領域のより周縁で見られる文化的形質は,中心地域で見られる形質よりも古い。

中国北部の初期農耕社会は,アイヌのような生活様式,社会構造と思われる。狩猟採集と小規模な農耕をおこなっていたアイヌの暮らしは,次のように伝えられている。(*11)

「織田ステノさんは一九〇一年(明治三十四年)に染退川(静内川)上流の農家コタン(集落。現在の静内町農屋)に生まれた。育ての親の祖母は,アイヌの言葉以外でしゃべることを禁じ,ステノさんは伝統的なアイヌの風習,生活文化の中で成長した。男たちは狩猟や魚労に出かけて,鹿,うさぎなどの肉や,鮭,ますなどをとってくる。女たちは山菜や野草をとり,乾燥させて一年分の保存食をつくる。」
「コタン(集落)の周辺の山野に自生し,季節ごとの味覚を与えてくれる青もの(山菜や野草)を採取したり,わずかではあるが畑作による雑穀類,野菜類を収穫する。これらはおもに女たちの仕事である。きびしい冬が去るとマッネパといわれる女の季節,つまり夏が来て,山狩りに明け暮れていた男たちにかわって,女たちが山に入るのである。アイヌの人々にとっては,春は冬の終わりか夏のはじめであり,秋は夏の終わりか冬のはじめであり,冬と夏が交互にやってきて一年がすぎる。女たちは一年中の食料を考えねばならず,冬の保存食も蓄えておかなければならない。これに対し,男たちの仕事は夏は狩猟のほか漁労が加わり,一年を通しておもに動物の肉や魚の調達をする。」
「養父母は,この世の中で最も恐ろしいものは飢饉である,とよくいっていた。病気は予防できるし,戦争になっても避難できる。しかし飢饉は広い範囲で起こるので,逃げるところはどこにもない。終日空腹に苦悶し,意識がはっきりしたまま亡くなるまでからだ中痛めつけられる。飢饉の恐怖から逃れるために,養父母は寝る時間を惜しんでまで働いて食料を確保し,山野草の干し葉づくりや魚の焼干しづくりをはじめ,さまざまな保存食を常に備えていた。」(聞き書 アイヌの食事)

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中国の地質をみると,華中の火山岩地帯は,秦嶺山脈である。秦嶺山脈は,甘粛省東部から河南省西部まで東西に連なり,黄河と長江を分けている。平均の標高は2,000~3,000mで,最高峰の太白山は3,767mに達する。地質は,深成岩(花崗岩)地帯と火山岩の地帯が存在している。また,秦嶺山脈の一帯には,「粟」の字が含まれる地名が多く存在する。


華中の地質


華山(Author:chensiyuan)


太白山(Author:Danielinblue)

磁山の近くには火山岩地帯が存在せず,集落は川岸にある。賈湖や裴李崗は,秦嶺山脈の東方の河川の自然堤防上に存在する。また,仰韶文化の仰韶村遺跡や半坡遺跡は,秦嶺山脈の北側の河川の自然堤防上にある。

これは,最初のコムギ栽培の痕跡が見つかるのは,コムギ原産地のカラジャ山の100kmほど西方のネヴァル・チョリ(Nevali Cori)であることと似ている。ネヴァル・チョリ遺跡は,ユーフラテスの河畔にあった(現在はアタチュルクダム湖の湖底)。

また,遺伝子の分析によって,栽培イネの原産地は珠江流域と報告されているが,最初の稲作の証拠が見つかるのは,珠江から数百km離れた長江下流域である。

植物の「ヒト化」(humanization)は,人間によるその植物の「繰り返し採集」(repeated gathering)によって起こる。また,「栽培化」(domestication)は,「繰り返し採集」と「繰り返し繁殖」(repeated propagation)によって起こる。

「繰り返し採集」の場所が,その植物の原産地であれば,その植物の繁殖を,人間が行う必要は無い。その植物の原産地では,人間が繁殖しなくても,その植物が優占的に繁殖するからだ。植物の「繰り返し繁殖」は,その植物の原産地と違う場所であるからこそ,人間によって行われる。人間による「繰り返し繁殖」が,その植物が,その植物の原産地ではない場所で存続する条件である。これが,初期農耕の場所が,その植物の原産地と離れた場所で見つかる理由と考えられる。

私の田舎では,山から採ってきたワラビ,ゼンマイ,コゴミ,ワサビ,ミョウガ,タラノキなどを家の周囲に植えて,山に行かなくても収穫できるようにしていた。田舎の言い方では,「イケル」(生ける,活ける)とか,「イケテオク」という。これは,魚の場合も同様で,鯉やアマゴを「タメ」(溜め,池)や石舟に放すことを,「イケテオク」と言っていた。「栽培化」(domestication)は,「イケル」(繁殖)という行為の繰り返しによって起こる。


家の周囲のミョウガ,ゼンマイ,コゴミ,ヤマウドなど

追記
「池」(イケ)というのは,「イケテオク」(生けておく)タメ(溜め)のことであろう。

文献
*1) 小川 誠. 2013. 中国新石器時代早期の墓に見られる中国化現象. 駒沢女子大学研究紀要第20号p. 23~38.
*2) 槙林啓介. 2008. 中国新石器時代における農耕文化の形成と変容‐黄河・長江流域の農耕具・加工調理具を中心にして‐. 東アジアの文化構造と日本的展開. 北九州中国書店, pp.31-73.
*3) Lu, H., Zhang, J., Liu, K. B., Wu, N., Li, Y., Zhou, K., Ye, M., Zhang, T., Zhang, H., Yang, X., Shen, L., Xu, D., & Li, Q. (2009). Earliest domestication of common millet (Panicum miliaceum) in East Asia extended to 10,000 years ago. PNAS, 106(18), 7367–7372.
*4) 小川 誠. 2011. 裴李崗文化の墓に関する研究. 駒沢女子大学研究紀要 18, 1-15.
*5) 藤本 強. 1983. 石皿・磨石・石臼・石杵・磨臼. 東京大学文学部考古学研究室研究紀要.
*6) 田中啓爾, 幸田清喜. 1927. 白山山麓に於ける出作地帯. 地理学評論3巻5号.
*7) 岩田憲二. 1984. 白峰村における出作り地の土地利用について. 石川県白山自然保護センター研究報告10.
*8) 小川 誠. 2010. 賈湖遺跡墓群の研究. 駒沢女子大学研究紀要 17, 67-85.
*9) 张 居中, 程 志杰, 中島経夫. 2014. 9000年前の魚撈民 : 賈湖遺跡の魚撈についての試論. 岡山理科大学紀要 50, 13-20.
*10) Nakajima, T., Hudson, M.J., Uchiyama, J. et al. (2019). Common carp aquaculture in Neolithic China dates back 8,000 years. Nat Ecol Evol 3, 1415–1418.
*11) 萩中美枝, 藤村久和, 村木美幸, 畑井朝子, 古原敏弘. 1992. 聞き書 アイヌの食事. 農山漁村文化協会.

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