メソポタミアへの進出 Advance into Mesopotamia

SHINICHIRO HONDA

農耕文化は、メソポタミア北部のハッスーナから、中部のサマッラ、チグリス・ユーフラテス下流域のテル・エル-オウェイリへと進出していった。


メソポタミア


PN期後期の編年(参考:西アジア考古学ノート)(*1)

ハッスーナ(Tell Hassuna)は、イラク北部のモースルの南西35キロに位置する。BC6000年ごろの集落遺跡で、200×150メートル、高さ7メートルの大きさだ。ハッスーナは、メソポタミア北部でもっとも初期の農耕文化の1つとされている。遺跡からは、日干しレンガの住居、彩文土器、穀物を製粉するための石臼、斧、鎌、貯蔵容器、窯、家畜の骨などが出土している。年間の降水量は360ミリほどで、天水だけでムギの栽培が可能であった。

ハッスーナ文化は、チグリスの川沿いに、100~200人の小さな集落をつくって生活していた。村は、広場を中心にして周りに家屋が建てられていた。舟といっしょに遺体が埋葬されていたが、威信財など身分の差を示すものは見られず、神殿や共同施設もなかった。ハッスーナ土器は、メソポタミアの北部に広く分布しており、これらの集落間には親族関係など、何らかのつながりがあったと考えられている。


Hassuna redware bowl circa 5500 BC(Author:United States Agency for International Development)


Fragment of pottery with incised and painted decor. From Tell Hassuna, 6500 – 6000 BC.(Author:Vassil)


モースルの気候

メソポタミアで灌漑農業がはじまったのは、チグリス中流のサマッラ文化といわれている。

チョガ・マミ(Choga Mami)遺跡は、イランとの国境にちかいマンダリー(Mandali)の北西17キロに位置する。直径200メートル、高さ2~5メートルの集落遺跡で、現在は周囲に草木がほとんどない荒涼とした環境だ。

遺跡の年代はBC5600~4800年で、サマッラ文化と同じ素材、同じ外観の土器の破片や女性像が出土している。住居は長方形で、泥レンガでつくられており、集落の入り口には見張り塔があった。栽培されていたのは、コムギ、オオムギ、レンズマメ、エンドウマメ、亜麻、ピスタチオなどで、家畜はヒツジ、ヤギ、ウシが飼われていた。

地域の年間降水量は200ミリほどで、天水だけではムギの栽培はできない気候だ。チョガ・マミでは、集落の北側に沿って、人工の用水路の跡が見つかっており、ザクロス山地から流れてくるGangir川の水を利用して、灌漑農業がおこなわれていたと考えられている。

乾燥地では、水の蒸散量が供給量を上回ると、水の蒸発にともなって地中から塩類が地表面に上昇する。チョガ・マミでは、初期にはオオムギの殻粒の長さは6.5ミリあったが、後期には3.4ミリ以上のものが見あたらなくなったという。オオムギの品質低下は、塩類集積が原因といわれている。


Plate XXII From Choga Mami 1967-68: A Preliminary Report by Joan Oates in Iraq (1969) Pages 115-152


(*3)

新石器時代のサマッラ(Samarra)は、BC5500年ごろに定住がはじまり、BC3900年ころに放棄された。サマッラ文化は、動物、鳥、幾何学模様などが描かれた土器で知られている。サマッラの土器は、遠方まで輸出され、古代の中東で最初に広まった土器のひとつだ。


The Samarra bowl (ca. 4000 BC) at on exhibit at the Pergamonmuseum, Berlin.(Author:Dbachmann)


Female statuette, Samarra, 6000 BC(Source:PHGCOM)


サマッラの気候

テル・エッ-サワン(Tell es-Sawan)は、サマッラの町から6キロほど南に位置し、サマッラ文化の典型的な集落と考えられている。チグリス河岸に位置し、350×150メートル、高さ3.5メートルの集落遺跡だ。年代はBC5600~5000年で、穀倉や住居が、日干しレンガで整然と建てられていた。村は、深さ3メートルの堀と厚い泥壁によって囲まれていた。

コムギ、オオムギ、亜麻などが栽培されていたが、年間降水量は170ミリほどしかないことから、灌漑農業がおこなわれていたとされている。


テル・エッ-サワン(Tell es-Sawan)

農耕文化が、メソポタミア南部へ進出したのは、BC6000年ごろと考えられており、もっとも古い文化はウバイド文化と呼ばれている。発見されているもっとも古い遺跡は、テル・エル-オウェイリ(Tell el-‘Oueili)で、ラルサの南東3.5キロに位置する。ウバイド0期からウバイド4期まで、2000年以上つづいた。集落跡は直径200メートル高さ5メートルで、最下層の遺物は、サマッラ文化の様式を受け継いでいる。多い時期の集落の人口は、2,000~4,000人と推定されており、時代が下ると周囲には多くの町が点在するようになったと考えられている。

テル・エル-オウェイリの夏の日中の気温は50℃以上で、年間降雨量は150ミリほどしかない。天水農業は不可能な気候条件であり、宝石や金属などの貴重な鉱物もなく、樹木も生えていない。あるのは、氾濫原に堆積した肥沃な土(リン)だけだ。

チグリス川とユーフラテス川は、アナトリアの山地の雪解けがはじまると、水量が増して、下流域では洪水がおこる。増水するのは春なので、収穫前のコムギやオオムギがだめになる。逆に、種播きと発芽の時期は、まったく雨が降らず水位も低い。ウバイド期の初期には、流れが遅くゆっくり増水するユーフラテス川の自然堤防に沿って集落ができた。アシと泥で日干しレンガをつくり、家や堤防を築いた。


テル上部の屋根裏部屋(Obeid 4)(*4)


住居(*4)


土器(*4)


土器の鎌(*4)


バスラの気候

文献
*1)西アジア考古学講義ノート編集委員会. (2013) 西アジア考古学講義ノート. 日本西アジア考古学会.
*2)Jr, William H. Stiebing; Helft, Susan N. (2017) Ancient Near Eastern History and Culture. Routledge.
*3)Hans Helbaek. (1972) Samarran Irrigation Agriculture at Choga Mami in Iraq. Iraq, Vol. 34, No. 1.
*4)Jean-Louis Huot. Le début de la sédentarisation en Mésopotamie méridionale et le début de l’Obeid.

名人農家が教える有機栽培の技術
新井俊春
月曜社
売り上げランキング: 21,513

コメントを残す