小農と家族農業 Small farm,Family farm

「小農」と「家族農業」は,似てはいるが本質的な意味は異なる。農耕の歴史を見れば,家族農業や自作農は歴史的存在であるが,小農という存在は,一時的存在(進化的に安定していない),もしくは経営形態の一部としての存在である。

小農とは,農地,生産手段,経営規模が小さく,少人数で営む農民のことである。英語ではPeasantであるが,これはもともと農奴,小作農,農業労働者など農地を持たない貧しい農民を指す言葉なので,現代では,Small farmの用語をあてるのがよいと思う。

一方,家族農業とは,家族(血族集団)を中心に営まれる自作農のことであり,経営規模は関係ない。自作農とは,農地など生産手段を所有し,自分で農作業に従事する農民のことである。

もともと,人間は血族集団を中心とするバンドや部族で生活しており,初期の農耕もバンドや部族の共同作業によって営まれていた。それは,農耕の発祥地であるレヴァントや古代中国でも同じである。農地はバンドや部族が占有するテリトリーの一部であり,個人が農地を所有するという概念は存在していなかった。灌漑や牛を利用した耕起,播種などの作業も,1人で実行するのは不可能であり,集団の共同作業でおこなわれていた。


古代メソポタミアの条播器、カッシート時代(紀元前2000年紀中葉)の印章印影

製銅,製鉄技術によって武器が高度化すると,特定の集団が武器を独占することが可能になった。武装した王や領主が,武力で領地を支配(所有)するようになると,農民は農奴として作業者になるか,小作農として領主に地代(小作料)を収めて,耕作するようになった。このときも,灌漑や農作業の多くは共同で営まれていた。


クレシーの戦い,1346年,フランス対イングランドの百年戦争


中世の農奴,1310年頃

農奴制や領主制では,領地(農地)の所有権は領主にあるので,農奴や小作農の耕作権は不安定であった。農業では,数年おきに凶作がやってくるし,数十年おきに大凶作がやってくる。飢饉になると,農民は村から都市や森に逃げてしまう。

奈良,平安時代の荘園では,農民を領地につなぎ留めておくために,鉄製の鎌,鍬,鋤,犂などの農具を,農民に貸し出すことがおこなわれていた。「荘」というのは,鉄製農具を保管しておくための倉のことである。鎌倉時代の領主は,自ら製鉄と鍛冶をおこなうことで,武器と農具(生産手段)を支配していた。


元寇における武装と戦闘,1293年頃

農産物は,完全競争市場なので,一般均衡では利益がゼロになる。また,偶然の自然の変動に生産が大きく左右されるので,運がよい農家は農地を取得して地主化し,運が悪い農家は小作農に転落してしまう。小作農は,耕作権が不安定な農地には投資しないので,次第に生産性が低くなる。

近世には,徳川幕府は,自作農(本百姓)の没落や消滅を防ぐために,田畑永代売買禁止令(1643年)を公布して自作農を維持しようとした。近世の日本は,領主制であったが自作農の割合が高く,小作農であっても永代耕作権が認められていた。

ヨーロッパでも,農奴や耕作権が不安定な小作農は,土地に投資しないので,生産性があがらなかった。西ヨーロッパでは,次第に農奴制が廃止され,小作農は永代耕作権を持つようになった。

イギリスでは,農奴制の廃止によってヨーマン(自作農)が登場し,ジェントリ(郷紳)が資本主義的農業経営に乗り出すようになった。ドイツ東部でも,ユンカー(地主貴族)が,農業経営に乗り出すようになり,資本主義的農業経営がはじまった。イギリスやドイツでの,自作農と資本主義的農業経営が,現在の欧米の農業経営や社会構造の基盤になっている。

たとえば,アメリカ社会の基盤であるジェファーソン流民主主義(Jeffersonian democracy)では,ヨーマン(自作農)が市民の美徳をもっとも体現する存在であり,政府の政策はヨーマンの利益につながるべきという考えがある。


ウェストバージニア州の紋章,1876年


デラウェア州の紋章,1876年


1861年勅令(農奴解放令)を読むロシアの農奴(Author:Grigoriy Myasoyedov,1834–1911)

一方,ロシアでは近代まで農奴制がつづき,中国でも農地改革がおこなわれなかった。革命後のソ連や中国では,農地は国有化され,コルホーズ,ソフホーズ,人民公社などの集団農場が設立された。

ノーメンクラトゥーラや集団農場のテクノクラートは,短期的な計画の達成を重視するので,一時的には生産性が向上する。しかし,農民の永代耕作権が不安定なので,農民は農地への投資をおこなわず,収奪的な農業生産様式を採用する。このため,長期的には生産性が低下してしまう。

ソ連や中国の集団農場では,設立の初期には生産量が増大し,5か年計画の優位性や大躍進が宣伝されたが,その後の生産力の低下によって大凶作に見舞われた。大躍進後の中国では,1千万人以上の餓死者を出したといわれている。結局,集団農場は解体され,農家生産請負制や自作農化によって,生産性が向上した。


コルホーズ,1938年


人民公社の食堂,1958年

農業経営は,公営化,株式会社化などの集団化によって,一時的に生産性が向上する。それは,規模の優位性だけでなく,集団的な生産組織では,短期的な生産性の向上を重視して,土地収奪的な生産様式を採用するからである。集団化によって,個人の永代耕作権が不確定になると,農民は土地に投資しなくなり,持続的な生産様式を放棄してしまう。

逆に,株式会社などの法人組織であっても,血族集団による家族経営で,かつ農地を所有していれば,相続による永代耕作権が確定しているので,持続的な生産様式を採用する。

世界の持続的な農業生産の実現には,とりわけ「小農」が重要ということではない。耕作者の永代耕作権を安定させ,収奪的な生産様式ではなく,持続的な生産様式の採用を促すことが重要である。


アメリカノースダコタの家族農場。ネルソン農場は,ロジャーさん(上)と2人の息子のグレッグ、ロドニー(下)の3家族が共同で経営している。耕作面積は3600haで、うち2800haは借地(2003年当時)。中心の働き手は、ロジャー、グレッグ、ロドニーの3人で、周年の雇用は2人だけという

「窒素(硝酸イオン)が多いとなぜ作物はおいしくないのだろうか?」の解説、その4
「窒素(硝酸イオン)が多いとなぜ作物はおいしくないのだろうか?」の解説、その5

銅の時代のはじまり Chalcolithic

超協力タカ派戦略の人間にとって,生存にもっとも重要な物資のひとつは,戦闘のための武器である。武器は,ハンドアックス→ヤリ→弓矢へと変化したが,これらの武器は,人間以外の他の種に対して使用されるときは生産手段(獲得手段)になる。情報の蓄積によって,知識と技術が高度化すると,武器と獲得手段の材料は,石器から金属へと転換した。


前6000年~4000年の時代区分(*1)

もっとも早くに利用された金属は銅であるが,金属としての銅の利用に先んじて,マラカイト(孔雀石・Cu2CO3(OH)2)が利用されていた。発見されている最古のマラカイト製品は,イラクの紀元前10,000年ころのShanidar洞窟から出土したペンダントである。トルコ南東部のハラン・チェミ(Hallan Cemi:BC10200~BC9200)やチャヨヌ(Cayönü:BC8630~BC6800)からマラカイトが出土しており,とくにチャヨヌでは,マラカイト製のビーズが464点見つかっている。北西シリアのテル・エル・ケルク(Tell el Kerkh),パレスチナのナハル・ヘマル(Nahal Hemar)洞窟からもマラカイトが出土しており,広くレヴァントで利用されていた。


マラカイト(Author:Robert M. Lavinsky)

もっとも古い自然銅利用の証拠が見つかっているのはチャヨヌであり,自然銅を加工した,銅製の装飾品やピンが多数出土している。また,アシュクル・ホユック(Aşıklı Höyük:BC8200〜7400)では,銅のビーズが埋葬者の副葬品から見つかっており,チャタル・ヒュユク(Çatalhöyük:BC7500~5700)でも,銅の装飾品が出土している。これらの銅製品は,板状に伸ばした銅を巻いて作られている。また,チャヨヌやアシュクル・ホユックの自然銅製品のなかには,焼きなました痕跡があり,銅を熱して伸ばしやすくして,複雑な形の製品を作っていた。


(*2)


自然銅の飾り チャタル・ヒュユク(*3)

銅の製錬がいつはじまったかについては,はっきりとわかっていないが,トルコ南部のメルシン(Mersin)では,紀元前5千年紀の遺跡から,開放型鎔笵(鋳型)による鋳造銅器が出土している。


(*4)

ブルガリアの黒海沿岸のヴァルナ(Varna)では,世界最古(BC4600年)で最大の金の工芸品が発見されており,銅製品も多数出土している。294の墓から,多数の金,銅,陶器,フリント,黒曜石,ビーズ,貝が見つかっており,金の遺物は6kg,3000個にのぼる。


A tomb from the Varna necropolis (Bulgaria), circa 4600 BC, with the world’s oldest gold jewellery yet discovered.

近年,アルプスでBC3400~3100年のミイラのアイスマンが発見された。アイスマンは,製錬された純度99.7%の銅製の斧を携帯しており,製錬,鋳造,冷間鍛造,研磨されていた。銅は,イタリアの南トスカーナから来たものであるという。


アイスマンの斧(Author:Bullenwächter)

銅(Cu)は,ラテン語ではCuprum,ドイツ語Kupfer,英語Copperで,古代中国では「黄」と呼ばれていた。ラテン語の語源は,キプロス島に銅山があったことからとされているが,じっさいはその逆で,銅山があったからキプロスと呼ばれたのであろう。銅の鉱石鉱物には,以下のものがある。


銅(Cu)の主な鉱物(オレンジ色太字:主要鉱物)(*5)

銅鉱石から銅の製錬が始まるのは,BC5500~5000年ごろと考えられているが,当時の銅の製錬がどのようなものであったか,はっきりとはわかっていない。おそらく,酸化物系の銅鉱石の孔雀石(Cu2CO3(OH)2)と砒素カンラン石(Cu2(AsO4)OH),あるいは硫砒銅鉱(Cu3AsS4)などと混合製錬したのがはじまりだろうと言われている。


(*6)

デイルメンテペ (Degirmentepe)は,トルコ南東部のカラジャ山の北西140kmに位置する紀元前6千年紀~5千年紀末の遺跡だ。ウバイド土器,三列構成の遺構,大量のスタンプ印章や封泥が出土しており,ウバイド文化との関係が深い。デイルメンテペでは,2基の炉,銅鉱石,銅鉱滓,インゴット(地金),銅片,坩堝の破片,金床石,破砕用の石などの遺物が出土しており,銅の製錬がおこなわれていた。


(*2)

イラン高原のタル・イ・イブリス(Tall-i-Iblis)は紀元前5千年紀前半の遺跡で,I期とII期の層から坩堝が出土している。II期の層では大量の坩堝の破片と炭化物も検出されており,盛んに銅生産がおこなわれていたと考えられている。また,ピット状の炉内からは坩堝の破片と酸化銅鉱が出土した。


(*7)

(*7)

同じくイランの紀元前5千年紀後半のテペ・ガブリスタン(Tepe Gabristan)では,径30cmほどの炉が2基確認されており,すかし孔のある高台が付いた完形の坩堝が出土している。また,斧やインゴットの鋳型,羽口,破砕されて土器に納められたマラカイトも見つかっている。


(*2)

紀元前4千年紀の遺跡では,ユーフラテス中流域のハジュネビ(Hacinebi)があり,径60cm深さ45cmの炉が4基見つかっている。炉内から,多量の炭化材,坩堝の破片,銅鉱滓,羽口,土製の鋳型の破片,銅のノミが出土している。

トルコ東部のノルシュンテぺ(Norsuntepe)では,紀元前4千年紀の層から,炉,銅鉱滓,土器に入れた銅鉱石,坩堝が出土している。銅の品位が比較的高い酸化銅鉱を製錬していたと考えられている。

パレスチナのティムナ(Timna)では,紀元前4千年紀の製錬炉と考えられる遺構が検出されている。また,パレスチナ南部のベエルシェヴァ川からベソル川下流域にかけての地域では,前4千年紀に銅生産をおこなっていたと考えられる遺跡が,多数確認されている。

イスラエルのナハル・ミシュマル(Nahal Mishmar:BC3500年)では,蜜蝋法によって製作された銅および砒素銅の製品が442個見つかっている。


Fig 14 3: Copper artefacts from the Nahal Mishmar hoard. 1. Macehead (Bar-Adon 1980, 120, no. 184); 2. Macehead (ibid., 118, no. 180); 3. Standard (ibid., 85, no. 110); 4. Standard (ibid., 49, no. 21); 5. Standard (ibid., 101, no. 153); 6. Standard (ibid., 48, no. 20); 7. Standard (ibid., 103, no. 154); 8. Standard (ibid., 98, no. 148); 9. Standard (ibid., 93, no. 129); 10. Standard (ibid., 45, no. 17). Courtesy of the Israel Exploration Society.(*8)

文献
*1)西アジア考古学講義ノート編集委員会. (2013). 西アジア考古学講義ノート. 日本西アジア考古学会.
*2)三宅裕. (2001). 銅をめぐる開発と交流. 西アジア考古学 第2号.
*3)General Directorate of Cultural Assets and Museums. (2012). The Neolithic Site of Çatalhöyük.
*4)Stefan Burmeister; Svend Hansen; Michael Kunst; Nils Müller-Scheessel; Forschungscluster 2, Innovationen – technisch, sozial. (2013). Metal matters : innovative technologies and social change in prehistory and antiquity. Rahden : VML, Verlag Marie Leidorf, 2013.
*5)山口大学工学部学術資料展示館. 銅鉱.
*6)新井宏. (2000). 金属を通して歴史を観る 15 奈良大仏の銅の製錬. Boundary.
*7)Lesley D Frame. (2004). Investigations at Tal-i Iblis: evidence for copper smelting during the Chalcolithic period.
*8)Milena Gosic. (2015). Casting the sacred: Chalcolithic metallurgy and ritual in the southern Levant.

政治的な立場について Political position

世の中には,保守,革新,リベラル,リバタリアン,民主制,独裁制,自由主義,全体主義,一国主義,国際主義,右翼,左翼など,政治的な立場をあらわす言葉がたくさんある。しかし,それらの意味や関係について,よくわかっておらず,意味や用語が混乱している。政治的スペクトルの研究もたくさんあるようだが,成功していない。

ここでは,政治とは,資源をめぐる闘争とする。資源の根源はエネルギーであり,時間当たりの利用可能エネルギー量には限界がある。つまり,政治とは,同種内でのエネルギーの分配をめぐる闘争のことである。

なお,保守,革新という言葉は,現状からの変化に対する態度のことなので,政治的立場には入れない。また,「リベラル」という用語は,時代と場所によって意味が全然違う。民主制,独裁制,君主制などは,集団を組織するためのシステムのことであり,ここでの政治的な立場とは異なる。たとえば民主的な投票で,皇帝や独裁者が選ばれることはふつうにある。

人間は超協力タカ派戦略をとっており,集団内と集団間では,闘争行動がまったく異なる。集団内では個体同士が協力(同一化)して強く団結したほうが,他の集団との闘争に有利だ。しかし,同一化しすぎると,情報の変異速度が小さくなって不利になる。

また,近代以降は,集団双方が共倒れするほど武器が高度化しており,全面戦争はお互いの生存に不利である。現代の人間は,闘争のパラドックスのなかにある。

生物は,変異しながら自己複製する情報であり,情報は遺伝子プールに蓄積される。エネルギーが豊富なときは同一化するのが有利だが,個体が増えて遺伝子プールが大きくなると,個体当たりのエネルギー量が減る。「自分のコピー」がライバルになって(しっぺ返し),個体の生存確率が小さくなるので,「自分のコピー」から差異化した個体が有利になる。

一般的には,現状の分配が少ない人は同一化を求め,分配が多い人は差異化を求めるのが合理的だ。また,将来に1人当たりエネルギー量が増えると予想できるときは,自分も分け前を得るために同一化(平等化)を求める立場が優勢になり,1人当たりエネルギー量が減ると予想しているときは,自分が少しでも多く得るために,差異化を求める立場が優勢になる。

参考
社会脳による共倒れ抑止
ホモ属の超協力超タカ派戦略
表現型変異の速度
差異性向、不確実性性向
パン属、ホモ属、ヒトの進化的な安定
超協力タカ派戦略と資源分配
武器と資源獲得の不確実性
非貯蔵社会における資源分配
情報(知識)の変異速度
ヒトの超協力タカ派戦略とポトラッチ

変異した情報を遺伝子以外の場所に蓄積する動物 An animal that stocks mutated information

人間の存在をあらわす言葉は、いろいろとある。

ポリス的動物(アリストテレス)、我思うゆえに我あり(デカルト)、考える葦(パスカル)、道徳的理想(カント)、超人(ニーチェ)、類的存在(マルクス)。

ここでは、人間は、「変異した情報を遺伝子以外の場所に蓄積する動物」とする。

遺伝子の変異と蓄積は、生物の進化をうながし、歴史的な存在としての地球の生物が生成した。人間は、変異した情報を遺伝子以外の場所に蓄積する動物である。情報が蓄積するということは、変化は不可逆であり、人間は歴史的な存在であることを意味する。つまり、10万年前の人間と現在の人間は異なる存在であり、昨日の人間と今日の人間も異なる存在だ。

マルサスの人口論では、人口増加率は人口に比例する。同じく、情報プールの増加率は情報プールの大きさに比例する。(情報(知識)の変異速度

ΔI=dI/dt=kI
I:情報プール
k:係数

情報プールは、時間に対して指数関数的に増大する。情報プールが巨大化すると、情報プールを利用するためのコストが増大する。超巨大化した情報プールを利用するのは高コストなので、人工知能の登場は必然だ。

情報プールはさらに巨大化していくことが予想されるが、その先はどうなるのかはわからない。現時点では、情報プールの巨大化によって表出しているのは、少子化である。(少子化、情報プール、よみがえるマルサス


原石1kg当たりから製作できる石器の刃の長さの試算

名人農家が教える有機栽培の技術
新井俊春
月曜社
売り上げランキング: 35,062

人間は種子(遺伝情報)を支配(私的所有の固定化)できない

種苗法の改正は、果樹農家などの利害に直接に関係するので、農家のあいだでは大きな関心がある。国は、2015年に「農林水産省知的財産戦略2020」をまとめ、2019年に「優良品種の持続的な利用を可能とする植物新品種の保護に関する検討会」を開いている。検討会の趣旨には、以下のように書かれている。(*2)

「植物新品種は農業の生産性の向上や消費者の多様な嗜好に応えることで、農業者の収益の増大をもたらすものであり、高い技術力に支えられ我が国で開発された新品種は、国内のみならず海外でも高く評価され、我が国農業の強みの源泉の一つとなっている。こうした植物新品種を知的財産として保護するため、種苗法に基づく品種登録制度があるが、近年、我が国で開発された品種が海外に流出し栽培が広がっていることが問題になっている。また、国内においても登録品種が増加するなかで、権利侵害等に対しより実効性の高い保護が求められている。更に、我が国農業の強みを活かした輸出戦略の実現や様々な栽培上の課題の解決を求められるなか、我が国における品種開発は停滞傾向にあることから、将来的な我が国農業の国際競争力への影響が懸念される。」

冒頭に、「植物新品種は農業の生産性の向上や消費者の多様な嗜好に応えることで、農業者の収益の増大をもたらす」と書かれているが、これは正確ではない。経済学では、新しい品種や技術は、消費者の利益を増大させ、農業者の収入を減少させるとされている。(農家は個性的でないと生き残れない-新しい技術は農家の収入を減らす)

話をもどす。改正の理由としてあげられているのは、①品種の海外流出の防止、②国内での育成者の権利侵害の防止、③品種開発における国際競争力の強化である。

これらの法改正の背景には、市場の開放がある。2015年に、TPPが大筋合意し、翌2016年に署名された。2017年に米国が離脱したために、2018年に残りの11か国で署名、発効した。TPPを主導した日本の世界市場戦略からすれば、種苗法の改正は当然の施策といえる。

いっぽう、反対意見で代表的なのは、遺伝資源は人類の共有財産ということだ。歴史的にみれば、現在の栽培種は、人類が1万年以上かけて生み出してきたものであり、人類の共有財産であることはあきらかだ。共有財産である遺伝資源を、特定の個人や集団が私的に所有することは、制限されるべきと主張している。

しかし、「利益」の本質はエネルギーであり、完全競争市場の一般均衡では、ライバル(自分のコピー)との闘争に勝たないとエネルギーを獲得できない。周囲にたくさんいるライバル(自分のコピー)に勝つには、差異化しなければならないので、利益を得ることができるのは差異化した遺伝資源(新品種)ということになる。

このため、差異化した遺伝資源(新品種=変異した情報)を得ようとして、多くのエネルギーを投入する。エネルギーの投資と回収には、時間的なずれが生じるので、知財権(法と暴力)を確立する必要が生じる。

人間は、超協力タカ派戦略であり、集団内では個人同士が協力して、他のライバル集団と闘争する。しかし、資源(エネルギー)が豊富にあるときは集団間戦闘を避けたほうがが有利なので、ポトラッチによって、集団間の全面戦争を抑止している。(ヒトの超協力タカ派戦略とポトラッチ)

遺伝資源の開発能力が高い先進国は、知財権を強化したほうが有利であり、開発能力の低い国は、知財権を強化しないほうが有利である。いっぽう、人類全体の利益を優先するならば、ポトラッチによって、個人や集団の知財権を適度に調整したほうが有利である。

現在の世界では、エネルギー需給が逼迫しているわけではない。しかし、知財権の強化を求める人々のほうが優勢ということは、未来のエネルギー需給が不安定であると予測している人が多数派であることを示している。

ただし、遺伝資源というのは、遺伝情報であり、情報は簡単に複製(コピー)できる。種苗メーカーが知財を所有しているGM作物は、アメリカやカナダでは自家採種が厳しく禁止されているが、インド、パキスタン、南米の各国では、自家採種したGM作物が広く栽培されている。(*3)

たとえば、インターネットで情報が世界中に拡散してしまえば、もはや誰もコントロールすることはできない。ましてや農作物は、コンピュータやインターネットがない貧しい農民であっても、簡単にコピー(自家採種、自家増殖)できる。育成者やメーカーが、アジア、アフリカ、南米の貧しい農民たちが栽培している作物の遺伝情報を調べ上げ、農民に対して裁判をおこし、裁判に勝訴してパテント料を回収することは不可能であろう。

また、競争の自由化は、強者の1人勝ちをもたらし、寡占化や品種の単一化につながるという批判がある。1960年代の「緑の革命」のときや、GM作物が登場したときのように、技術革新によって一般均衡が崩れているときは、一時的にはそのようなことがおきる可能性はある。

しかし、先述したように、完全競争市場の一般均衡では、個々の経営体の利益はゼロになる。経営体同士(自分のコピー同士)が激しく競争するので、利益がゼロになるまで価格が下がるからだ。商品が均一化した瞬間に、差異化の運動がはじまって、多様化に向かう。

文献
*1)農林水産省. (2015). 農林水産省知的財産戦略2020.
*2)農林水産省. (2019). 優良品種の持続的な利用を可能とする植物新品種の保護に関する検討会 開催要領.
*3)白井洋一. (2010). GMO情報:不正種子利用に潜む抵抗性発達の危険性. 農業と環境 No.120.
*4)UPOV:https://www.upov.int/portal/index.html.en

名人農家が教える有機栽培の技術
新井俊春
月曜社
売り上げランキング: 68,855

 

農夫の教え The farmer’s instructions

『農夫の教え』は、世界でもっとも古い農業書で、ウル第三王朝時代の粘土版に書かれている。ウル第三王朝は、紀元前22~21世紀にメソポタミアを支配した王朝だ。『農夫の教え』は学校の教科書として書かれたもので、ウルとニップルから粘土板が出土している。翻訳には諸説あるが、英文をもとに翻訳した。(*1)

「年老いた農夫が息子に助言した

畑の準備をするときは、堤防、用水路、および開けるべき土手(水門?)を点検しなさい。畑に水を引くときは、水位を高くしすぎないようにしなさい。水が引いて畑の土が出てきたら、水が溜まった場所を確認して、囲いをしなさい。そこを、牛たちが踏みつけないようにしなさい。

草を刈って、畑の区画を区切ったら、2/3ミナ(約650g)の重さの薄いクワで、繰り返し平らにならしなさい。平たいクワで雄牛たちの足跡を消し、きれいにしなさい。その区画の畝の底を、木槌で平らにしなさい。クワで区画の4方の周囲を起こしなさい。畑が乾くまでに、平らにならしなさい。

いつも道具の手入れをしておきなさい。くびきの部品は、組み立てておきなさい。新しいむちは釘に掛けておきなさい。古いむちの柄は職人に修理してもらっておくように。手斧、ドリル、のこぎり、あなたの道具の力を、万全にしておきなさい。革の組みひも、革のひも、革の袋、むちをしっかりと取り付けなさい。播種かごを点検して、側面を丈夫にしておきなさい。畑で必要なものは、手に入るはずです。作業内容を注意深く点検しなさい。

犂耕用の雄牛たち(2頭の去勢牛)は、予備の雄牛たちが必要です。雄牛と雄牛の装着具はゆるくしておきなさい。それぞれの犂は、お互いの予備にします。1台の犂(2頭の去勢牛)に割り当てる仕事は180イク(約65ha)です。しかし、1台の犂で144イク(約52ha)を耕すように作業を組むと、作業がはかどるだろう。180シラ(約180ℓ)の種子を、18イク(約6.5ha)の広さの区画に播きなさい。

バーディル犂で、犂1台分(2頭の去勢牛)の区画を耕したあと、その場所をツグシグ犂で耕す。さらにツグラ犂で耕す。ハロー(馬耙)を、1回、2回、3回とかける。大きな木槌で堅い場所をならすときは、木槌の柄をしっかりと取り付けなさい。そうしないと、実行できない。

畑仕事が忙しくなったときは、自分の仕事をなまけてはなりません。「畑仕事をしなさい」と、誰も言ってくれません。空の星座(暦)が正しいときには、雄牛たちの力を、何度も畑作業に使うことをためらうべきではありません。その鍬は、ちゃんと働くはずです。

条播犂で畑の作業するときは、犂をきちんと調整しなさい。条播犂の「カク」の上に、皮の蓋を置きなさい。犂の柄と細い杭を準備しなさい。板を開いて、畝の溝を作りなさい。

ニンダ(約6m)当たり、8本の畝の溝を作りなさい。大麦の種を、畝間よりも狭い間隔で入れなさい。条播犂で作業するときに、種を落とす人から目を離さないように。種を播く深さは、指2本分(約3.5㎝)です。ニンダ当たり1ギジ(約3ml/m)で播きなさい。種子が畝のくぼみにうまく入らないときは、犂のクサビを交換しなさい。締め付けが緩んだら、締め直しなさい。

溝を縦に起こしたところには、次は斜めに溝を起こし、溝を斜めに起こしたところは、次は縦に溝を起こしなさい。溝をまっすぐにすれば、広くてきれいな輪郭ができます。曲がった溝は、まっすぐにしなさい。溝をきれいにしなさい。あなたの耕作地を耕しなさい。土の塊は取り出しなさい。土が軟らかくて開くところは、畝の溝を広くしなさい。土が固まっているところは、畝の溝を狭くしなさい。それが、種の発芽に良いことです。

種が発芽して地面に出たら、ネズミに対して儀式を行いなさい。小鳥のくちばしをそらしなさい。大麦がせまい溝の底から伸び出したら、最初の種の水を与えなさい。大麦が……葦のマットのようになったら、水を与えなさい。作物の穂が出たら、水を与えなさい。大麦の葉が完全に伸びたら、水を与えてはいけません。さもないと、作物が赤さび病に感染しやすくなります。大麦の殻を取るのに適した状態のときに、水を与えなさい。それによって、1バン当たり1シラ(10ℓ当たり1ℓ)の増収になるだろう。

大麦を刈り取らなければならない時期になったら、大麦が過熟にならないようにしなさい。正しい時期に収穫しなさい。1人が大麦を刈って、1人は束を縛りなさい。そして、彼の前のもう1人が、束を振り分けなさい。あなたには、これら3人の人が収穫に必要です。大麦を収穫する人たちに、その穀物を傷つけさせないようにしなさい。大麦を積み重ねているときに、彼らが穀物をまき散らさないようにしなさい。

あなたの毎日の仕事は、夜明けに始まる。あなたを手伝ってくれる人や十分な人数の収穫人を集めなさい。そして大麦の束を、積みなさい。仕事は、慎重に実行しなさい。彼らは、古くなった粗い麦粉を食べていますが、誰にも新しいパンを焼かせてはいけません。収穫した大麦の束は、積んで寝かせなければなりません。大麦の束のための儀式は、毎日行わなければなりません。あなたの大麦を輸送するときは、大麦の運搬人には、少量ずつ、扱わせなさい。

たくさんのあなたの耕地なかの、空き地の境界をわかるようにしなさい。そこに通じる、適切な運搬路を確保しなさい。あなたの荷車を使用できる状態にしておきなさい。荷車を引く雄牛に餌をやりなさい。あなたの道具を・・・・

準備した脱穀場の床を、数日間、静かにしておきなさい。脱穀場を開くときは、表面をなめらかにしなさい。脱穀するときは、脱穀そりの歯と革ひもを、アスファルトで固定しなさい。牛に穀物を踏ませるときに、脱穀機は強くなくてはなりません。穀物を地面に広げたら、まだきれいになっていない穀物の儀式を行いなさい。

あなたが風選(風で籾とワラを選別)するときは、2人目の風選者には頭の良い人を置きなさい。2人の人は、周囲で、穀物を動かす作業をしなさい。

穀物がきれいになったら、それを計りの下に置きなさい。夕方と夜に儀式を行いなさい。正午にその穀物を搬出しなさい。

ニヌルタ神の教え、エンリルの息子ニヌルタ、忠実なエンリルの農夫、お褒めの言葉をお聞かせください。」


古代エジプトの農作業

『農夫の教え』には、180シラの種を18イク(1ブル)に区画に播くと書いてある。前川先生の概算は、300シラの種を1ブルに播くので、農夫の教えの記述より、1.67倍厚播きになっている。

また、1台の犂(2頭の去勢牛)に割り当てる耕作地を180イク(10ブル、約65ha)としており、2頭の牛が1作期に耕うんできる範囲から、耕作地の面積を定義している。古代では、耕作可能面積に対して、労働力や役畜が不足していたはずで、労働力と役畜数から、耕作面積を定義するのは合理的だ。1台の犂(2頭の去勢牛)が耕作する面積が10ブル(65ha)というのはとても興味深い。

アメリカの測量法では、6マイル四方(1マイルは約1.6キロ)が1タウンシップで、これを36のセクションに分割する。1セクションは、1マイル四方(640エーカー)で、その4分の1の160エーカー(64ha)がクォーター・セクションと呼ばれ、畑1枚分の区画になる。これは、10ブル(65ha)とほぼ同じ広さだ。

中東の農業を研究している後藤晃先生は、1970年代のイランの農村について次のように書いている。(*2, 3 4)

かつてのイランでは、灌漑施設を所有する地主が、村の農地の所有者であった。白色革命(1963年)とイラン革命(1978年)によって農地改革がおこなわれたが、農民は村の農地を個々に分割せず、村の農民の共同所有にしていた。生産は、生産単位ごとに共同でおこない、その年に耕作する農地は、毎年くじ引きで割り当てていた。収穫物は、生産単位のなかで、均等に分けた。

イランでは、犂を2頭の牡牛で引く。耕起や整地には2頭の牛が必要だが、農民は、通常は牡牛1頭だけを所有している。農作業には、農民2人牝牛2頭の犂組をつくり、この犂組を「ジョフト」(くび木の意味)という。

1ジョフトが、最少の生産単位であり、30ジョフトの村には、60頭の牝牛と60人の労働力があるとわかる。また、1台の犂(牝牛2頭)の耕作能力は7haほどで、耕地の半分は休耕されるので、1ジョフトの広さは14haと概算できるという。

さらに、灌漑用水の量もジョフトであらわされ、1ジョフトの耕地を灌漑する水量は1ジョフト・アーブ(アーブは水の意味)とあらわされる。

マルヴダシト地方では、牝牛のことを「ガーウ gav」というが、これは同時に、耕作権のことを意味する。「私はガーウをもっている」というと、「村に耕作権をもっている」という意味になる。

また、灌漑農業のマルヴダシト地方では、「シェリーキ」と呼ばれる協業単位がある。畜力で井戸から揚水するばあいは、1シェリーキは6人で編成され、6頭の牡牛(3ジョフト)と2頭の馬がいた。河川灌漑のばあいは、1シェリーキは4人で編成されたという。

「農夫の教え」では、畜牛に雄の去勢牛を使用していたが、イランでは牝牛を使用している。去勢牛と牝牛という違いはあるが、イランの耕作面積の1ジョフト(14ha)は,古代メソポタミアの耕作面積の10ブル(65ha)の1/5である。一方,古代メソポタミアの10ブル(65ha)は,アメリカの開拓農民の畑の広さクォーター・セクション(64ha)とほぼ同じである。中東では,長い歴史のなかで人口が増え,耕地が細分化されて1人当たりの獲得資源量が減少してきたことを示している。

参考文献
*1)Black, J.A., Cunningham, G., Fluckiger-Hawker, E, Robson, E., and Zólyomi, G., The Electronic Text Corpus of Sumerian Literature (http://www-etcsl.orient.ox.ac.uk/), Oxford 1998- .
*2)後藤 晃. (2002). 中東の農業社会と国家. 神奈川大学経済貿易研究所研究叢書.
*3)後藤 晃. マルヴダシト地方のオアシス農業社会.
*4)後藤 晃. イランの伝統農具と生活用具.

名人農家が教える有機栽培の技術
新井俊春
月曜社
売り上げランキング: 15,187

メソポタミアの灌漑農業 Irrigated agriculture in Mesopotamia

人類が最初に灌漑農業をおこなったとされているウバイド期は、BC6500~3800年の2000年以上もつづいた。しかし、ウバイド期がどのような社会であったのか、よくわかっていない。

わかっているのは、泥の日干しレンガで家屋を建設していたこと、灌漑農業をおこなっていたこと、コムギ、オオムギ、豆類、亜麻などを栽培していたこと、ヒツジ、ヤギ、ウシの牧畜をおこなっていたこと、漁撈をおこなっていたこと、彩色土器がさかんにつくられたこと、10ha以上の「都市」があらわれたこと、社会の階層化が徐々にすすんでいったことなどである。


Ubaid III pottery 5300-4700 BC Louvre Museum (Author:ALFGRN)


Ubaid IV pottery jars 4700-4200 BC Tello, ancient Girsu, Louvre Museum (Author:ALFGRN)

ウバイド期の代表的な遺跡としては、エリドゥがある。エリドゥは、最大時に1万人が居住し、世界でもっとも早く登場した「都市」と考えられている。

最下層(ウバイド1)の深い窪地の中から、祭壇のような施設がある建物が出土している。部屋の中央には焼けた跡があり、供物台があったのではないかと考えられている。この建物は、後のメソポタミアの神殿の特徴を持ち、同じ場所に何度も立て替えられていた。ここは、1000年以上も神聖な場所であったと考えられている。

シュメール王名表の冒頭には、「王の位が天から降りた後、王の位はエリドゥにあった。エリドゥで、アルリムは王になった。彼は28,800年間支配した」と書かれている。また、シュメールの神話では、エリドゥはエンキによって建設されたと伝えられている。


エリドゥの神殿(レベル7)


(*1)

古代のメソポタミアの農業についての研究は、粘土板文書の文献研究が中心で、考古学的な研究がほとんどすすんでいない。文献研究では、前川和也先生の研究がある。(*2)


条播器、カッシート時代(紀元前2000年紀中葉)の印章印影(*3)

メソポタミアでは、オオムギは条播器を使用して条播きされていた。シュメールでは、オオムギの標準の条間は約60cm(50~75cm)だったという。面積の単位は1サルが1ニンダン四方(6×6m)で、100サル=1イク(60×60m)、18イク=1ブル(6.48ha)だ。

オオムギの容量は、180シェ(粒)=1ギン、60ギン=1シラ(1ℓ)、10シラ=1バン、6バン=1バリカ、5バリカ=1グルだ。1ニンダン(6m)当たりの播種量は1ギンで、1ブル当たり播種量は1グルだった。1ブル当たりの予定収穫量は30グルで、播種量の30倍の収穫量が期待されていた。耕地のユニットは、短辺(102~120m)と長辺(2.8~4km)からなる、短冊のような形状だったという。

イラクの圃場を見ると、用水路の間隔は50~60mで、2本の用水路のあいだに正方形の畑が2列にならんでいる。1枚の畑は、30×30mほどで、日本で言えば1反(10a)の面積とほぼ同じ大きさだ。畑1枚が25サルほどで、1イクは畑4枚分になる。


イラクの圃場、用水路の間隔は50~60mで1枚の畑は約30×30m

面積単位
メソポタミアの圃場モデル(前川氏の記述をもとに本田作図)

メソポタミアの土地利用については、ポストゲイト氏の作図がよく知られている。メソポタミア南部では、冬期のトルコの山岳地帯の降雨によって水量が増し、雪解けの4~5月にもっとも水位が高くなる。増水時と渇水時の水位差は、ユーフラテスが3~4m、チグリスの水位差は5mもあった。4~5月は、オオムギやムギの収穫の前なので、洪水がおこれば、収穫前の作物がだめになってしまう。つまり、ムギ類は、増水しても水に浸からない高い場所に作付けられた。


ポストゲイト氏の作図(*4)


ユーフラテス川の水位、中流のラマーディでの観察(1911~32年の平均値)(参考:図説メソポタミア文明)


チグリス川の水位、中流のバクダートでの観察(1906~32年の平均値)(参考:図説メソポタミア文明)


Clay tablet showing a map of canals and irrigation systems to the west of Euphrates, Babylonia (1684-1647 B.C.E.)

日本で用水路を建設するには、山を削ったり、水路を掘り下げたりしなければならないので、ツルハシやシャベルなどの道具が必要だ。いっぽう、雨がほとんど降らない氾濫原のメソポタミアでは、泥の日干しレンガを積み上げて、貯水池や用水路を築けばよい。道具は、日干しレンガをつくる木枠があればよい。そのため、青銅器や鉄器が普及していない時代であっても、貯水池や用水路などの灌漑施設を建設することが可能だったのであろう。


Romania Danube Delta making material for constructing

現在のイラクの灌漑システムは、チグリス川、ユーフラテス川を中心に、25か所のダムと堰、275か所の灌漑ポンプ場、総延長約27,000kmの用水路網からなる。近年、チグリス・ユーフラテス川上流のトルコとシリアに大規模ダムが建設されたために、イラクでの水量が大きく減少し、問題になっている。(*5)


イラクの水利、湖、ダム、堰など(*5)


チグリス川のクート堰は、1930年代に周辺地域に灌漑するために建設された。26,440haの農地に給水されている

現在の下流域では、チグリス・ユーフラテスの本流に堰を築いて、用水路に水を導く方法がとられている。堰によって水位が一定になるので、1年をつうじて用水路への給水が可能になる。しかし、古代のメソポタミアでは、本流に堰を築くことはできない。ここで、伝統的なイラクの農業について見てみる。

Abdulamir Hamdani氏という、1965年生まれのイラク人が、1970年代のイラクの伝統的な農村の暮らしを報告している。(*6)

Hamdani氏の出身のAl-Midaq村は、イラク南部のAl-Hammar湿地の北端で、ユーフラテス川の南岸に位置している。村には、約80家族が生活しており、全員がAlbu-Hamdan部族だ。12月~3月の増水期には、村の周囲の低地は、水に浸かって沼沢になる。


ユーフラテス川の下流域、増水期には低地は沼沢になる

増水しても水に浸からない高い土地には、冬作のオオムギ、コムギが作付けられる。4月~11月は低地の水が引くので、夏作のイネ、トウモロコシ、野菜類が作付けられた。冬作のムギ類は灌漑されるが、夏の稲作は沼地の端の湛水した圃場で栽培され、灌漑を必要としない。

村の住民が所有する農地は約1214haで、村の灌漑は1977年にHamdani氏のいとこがポンプを導入するまで機械化されていなかった。シリアで大規模なダムが建設され、ユーフラテス川の水位が下がったために、ポンプによる揚水が重要になっている。

イラクでは、夏はほとんど雨が降らず高温乾燥になるので、農業生産の中心はオオムギ、コムギの冬作物だ。夏作物のコメ、トウモロコシ、綿花、ゴマ、キビ、レンズマメ、インゲン、エンドウなどの生産量は少なく、おもに自家用であった。

ムギ類の播種は11月中旬までに終えなければならず、それ以上遅れると、発芽が遅くなって初霜(1月第1週)の害を受ける。ムギ類への最初の灌漑は、播種後1週間後(11月中旬~12月上旬)で、2回目の灌漑は1月第1週におこなわれる。その後の灌漑は、2月第1週で、さらに3月21日までにもう一度灌漑をおこなう。雨は、2月~5月に降るので、灌漑のタイミングは、降雨に左右される。最後の灌漑は、4月上旬で、ムギ類の収穫は、4月下旬~5月中旬である。

夏作のイネは、5月下旬に作付けされ、11月に収穫される。果物や野菜は、河川や用水路に隣接する集落の近くの果樹園で栽培される。野菜は、作付け中に40回ほど灌漑が必要なので、“dalia”(重りとポールからなる揚水装置)、“noria/saqia”(水汲み水車)、“cherd”(ロバ、雄牛、ラクダによる揚水装置)などを用いて灌漑する。


Egypt, drawing water with a shaduf Egypt 1950 and 1955 Photographer Harris, Eugene V., 1913-1978

かつての村の灌漑施設の管理は、水門の建設と維持、用水路の掘削、用水路に生えるアシやパピルスの除去、用水路からのゴミの除去などだった。

1次用水路の幅は8~12mで、長さは様々であるが、平均的には、5,000~7,500haの農地に水を供給していた。この「灌漑共同体」は、5~6の村からなり、一つの村は10~15世帯で構成されている。2次用水路は、2~3の村の農地を灌漑し、3次用水路は1つの村だけを灌漑する。

近年まで用水路は、土の堤防を補強しただけのものであった。用水路を長く使用していると、土砂が水路に堆積してくる。水路にたまった土砂を除去できなくなると、古い用水路は放棄され、既存の用水路と平行して新しい用水路が建設された。


Topview of a traditional Iraqi irrigation system, drawn by Steven George, 2010. (*6)


Cross-section of a head-dam, drawn by Steven George, 2010. (*6)

イラクの灌漑施設で重要な施設に、水門(dam)がある。水門は、1次用水路の取水口に設置され、通水のタイミングと量を制御する。1次用水路の水門の幅は8~12mで、高さは3~5mになる。

水門の建設や修理は、河川の水位が低い7~9月におこなわれた。建設に必要な労働力と資材は、その水門を利用する灌漑共同体全体に割り当てられる。建設および保守についての決定は、部族の首長を中心に、成人男性の合意によっておこなわれる。話し合いがおこなわれるのは、ムディーフ(Mudhif)と呼ばれるゲストハウスで、BC3200年の飼い葉桶にも描かれている。ムディーフでの会合は、厳格な序列と作法にもとづいて運営される。(ムディーフでの会合はポトラッチであろう)


Mudhif at Neserya (Author:Mohamad.bagher.nasery)


Drinking trough; limestone; wide convex ends; impractical, as if it were raised high enough to see the relief decoration, it could not be used as a trough or basin; probably a cult image in the temple of Inanna; decoration shows flocks of sheep approaching reed hut and lambs emerging from it; scene probably reflects fecundity of flocks under Inanna’s protection; high volutes projecting from the hut and repeated elsewhere are symbols of the goddess as are rosettes on the ends. Uruk, c 3,200 BC. (British Museum)

労働力が不足するときは、近隣の村から作業員が手伝いに来ることもあり、相互に労働力の交換がおこなわれた。建設現場の作業員には食事が支給され、工事が終了すると、盛大な宴会が開かれる。

水門の建設を監督するのは、“estad”または“ustadh”と呼ばれる専門家の老人だ。estadが村にいなければ、他の村から招かれる。estadには金銭が支払われ、家畜、ボート、オオムギ、衣服などの贈り物も受ける。estadは首長からも尊敬されており、直接の労働作業には参加せず、建設の監督だけをおこなう。estadとしての監督の仕事は季節的なので、他の期間は、農業や他の仕事に従事している。

水門の警備や保守は1年をとおしておこなわれる。この仕事は、灌漑施設を利用するすべての世帯に義務づけられている。とくに、2月下旬~6月上旬の増水期には、昼夜を問わず水門の警備と監視がおこなわれた。増水期に何らかの原因で水門が壊れると、水が一気に流れ込んで、洪水の危険がある。

もう一つの危険は、敵対する他の部族の破壊行為がある。かつては、河川からの取水について国家の管理がなく、部族が勝手に水を利用していたので、敵対部族同士が水門を破壊する紛争が頻発した。このため、銃で武装した男性1~3人が、終日で水門を警備していた。敵の攻撃などの緊急事態があったときは、村の全員が参加する義務があった。

水門の用水路側には、流入する水流のために土が削られ、大きな池が自然にできる。この池には、さまざまな機能があった。渇水期の貯水池、河川からの土砂の堆積池、洪水のときの調整池、動物の水飲み場、魚の漁場、衣類の洗濯、輸送用の船の停泊場所などだ。水門は、2次用水路と3次用水路の取水口にも、小型のものが建設された。

前川先生は、ウル第三王朝時代の粘土板文書から、“erin”と呼ばれる集団労働組織が存在し、灌漑の専門の仕事に従事していたのではないかと推察している。(*7)

水門、用水路などの灌漑施設の建設と管理は、部族集団の組織的な労働、高度な知識の蓄積、社会の階層化、ポトラッチによる部族間の利害の調整など、社会の高度化をもたらした。そして、都市の登場によって、知識の集積と社会の高度化が急速にすすみ、農耕文明の成立につながっていったと思われる。

文献
*1)G.J. Wightman. (2007). Sacred Spaces: Religious Architecture in the Ancient World.
*2)前田和也. (2011). 図説メソポタミア文明. 河出書房新社.
*3)Donald M. Matthews. (1992). Kassite Glyptic of Nippur. Vandenhoeck & Ruprecht Gmbh & Co.
*4)Nicholas Postgate. (1994). Early Mesopotamia: Society and Economy at the Dawn of History. Routledge.
*5)国際協力機構. (2016). イラク国水資源管理・農業灌漑情報収集・確認調査.
*6)Rost, Stephanie & Hamdani, Abdulamir & George, Steven. (2014). Traditional Dam Construction in Modern Iraq: A Possible Analogy for Ancient Mesopotamian Irrigation Practices. Iraq. 73. 201-220.
*7)前川和也. (1966). 古代シュメールにおける農業生産. オリエント 9巻 2-3号.

名人農家が教える有機栽培の技術
新井俊春
月曜社
売り上げランキング: 12,995