日本の農学者たちの研究

栽培植物の起源をめぐっては、日本の農学、遺伝学の研究者たちも、大きな成果をあげてきた。

コムギの起源

木原均(1893-1986)は、日本を代表する遺伝学者の一人で、世界に先駆けて普通コムギ(パンコムギ)の起源を明らかにした。木原は、1893年に東京で生まれ、北海道大学(当時は東北帝国大学農科大学)で植物生理学を学んだ。木原が遺伝学に進むきっかけとなったのは、坂村徹の「遺伝物質の運搬者」と題する講演を聞いたことであった。当時、坂村は大学院生で、木原の先輩であった。(*1)

坂村徹(1888-1980)は広島県で生まれ、北海道大学で植物細胞学・植物生理学を学んだ。坂村は、1918年にコムギの染色体の倍数関係と正確な染色体数を世界で始めて発見した。

コムギ属の倍数性、染色体数、ゲノム、種類は表のように分類されている。この中で、栽培種としてもっとも普及しているのは、普通コムギ(パンコムギ)とマカロニコムギ(デュラム)である。コムギの染色体数は、7を基本とする倍数関係にあり、一粒系2n=14、二粒系2n=28、普通系2n=42であり、それぞれ2倍体、4倍体、6倍体となる。

倍数性 染色体数 ゲノム 種類
2倍性 2n=14 AA 一粒系 野生ヒトツブコムギ、アインコルンコムギなど
4倍性 2n=28 AABB 二粒系 パレスチナコムギ(野生)、エンマーコムギ、マカロニコムギなど
AAGG チモフェービ系 アルメニアコムギ(野生)、チモフェービコムギ
6倍性 2n=42 AABBDD 普通系 スペルタコムギ、パンコムギなど
AAAAGG ジュコフスキー系 ジュコフスキーコムギ

その後、坂村は、ヨーロッパへ留学し、帰国して北海道帝大教授に就任した。1941年に、名著といわれた『植物生理学』を著し、後継の研究者に大きな影響を与えた。

坂村が留学したために、木原が、コムギ研究を坂村から引き継ぐことになった。京都大学に移った木原は、染色体数の異なるコムギをかけあわせて雑種をつくり、その染色体数の変化を調べた。1930年に、コムギは7本の染色体セットが完全な形でそろっているときに、最小限の遺伝的機能を果たしていることを発見し、「生物をその生物たらしめるのに必須な最小限の染色体セット」を「ゲノム」(genome)と名づけた。

1944年に、二粒系コムギ(2n=18、AABB)と、タルホコムギ(2n=14、DD)が交雑して、普通系コムギ(2n=42、AABBDD)になったことを解明し、終戦後の1948年には、じっさいにタルホコムギとマカロニコムギを掛け合わせて、パンコムギを作出することに成功した。


普通系コムギ(パンコムギ)の起源

1955年、木原は、京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊を組織した。メンバーには、岩村忍(東洋史学)、梅棹忠夫(民族学)、岡崎敬(考古学)、北村四郎(植物学)、今西錦司(生態学)、中尾佐助(植物学)らがいた。ヒンズークシ隊は、パキスタンからカスピ海に至る1万キロを踏破し、マカロギコムギの畑で、雑草のタルホコムギが一緒に生えている場所を発見した。そして、パンコムギの起源地は、カスピ海西岸であると結論づけた。

木原は、コムギの研究のほかにも、スイバ(タデ科の多年草で雌雄異株)を使って、高等植物にも性染色体があることをはじめて発見(1923)したり、種なしスイカを作出するなど、大きな業績を残した。「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」という言葉を残している。なお、木原は、ニコライ・ヴァヴィロフの友人であり、ヴァヴィロフが調査のために来日した1929年に交流している。

イネの起源

1898年、滋賀県農業試験場長であった高橋久四郎は、人工交配によるイネの新種の作出に初めて成功した。1904年に、農商務省の農事試験場畿内支場で、加藤茂苞(1868-1949)がイネの品種改良を開始した。のちに、加藤は、形態や交配親和性の違いから、イネをインディカとジャポニカの2つの型に分類することを提案した(1928)。

加藤の共同研究者であった安藤広太郎(1871-1958)は、1951年に『日本古代稲作史雑考』を著し、戦後の稲作史研究の指針となった。

九州帝大の盛永俊太郎(1895-1980)は、アブラナ属の種間の遺伝的類縁関係の解析を初めて手がけ(1925)、その後、イネの遺伝学的解析を行った。戦後は、農林省農事試験場長、農業技術研究所長を歴任し、1969年に、安藤広太郎、柳田國男と共著で『稲の日本史』発表した。

また、京都大学の渡部忠世(1924-)は、アジア各地のイネや、遺跡から出土したイネの籾殻の粒形を比較検討し、栽培イネの発祥地を、インド東北部のアッサムと雲南高地とする説を唱えた。

オオムギの起源

高橋隆平(1910-1999)は北海道大学農学部で育種学を学び、農林省農事試験場を経て、大原農業研究所(現在の岡山大学資源生物科学研究所)で、オオムギ研究に従事した。中国を始め、世界中から栽培品種4000種、野生種200種のオオムギ品種を集めた。

高橋は、多数のオオムギ品種の交雑試験を行う過程で、オオムギの脱粒性は、2つの優勢遺伝子(Btr1、Btr2)によって支配されており、2つを同時に持つと脱粒性(野生型)となり、どちらか一方でも欠けると非脱粒性(栽培型)になることを発見した。また、Btr2はヨーロッパの品種に多く、Btr1は東アジアの品種に多いことを見出し、西域型(W型)と東亜型(E型)と名づけた。(*2)

これは、栽培オオムギには2つの祖先があり、それぞれが西と東に伝播していったことを意味している。ヨーロッパ、トルコ、エチオピアではW型が80%以上を占め、中国、朝鮮半島、日本ではE型が80%以上となっている。さらに、北アフリカ(エジプト、アルジェリア、チュニジア、モロッコら)では、中東より西にもかかわらず、E型が90%以上を占めており、これは、7世紀以降のイスラム教の隆盛の影響と考えらえる。

また、高橋は、日本の在来オオムギの品種を調べ、日本海側には皮麦が多く、太平洋側と瀬戸内には裸麦が多いことを指摘している。

アブラナ属の起源

農事試験場の禹長春(1898-1959)は、水島宇三郎(1903-2000)、永松土己とともに、アブラナ属栽培6種の相互関係を「禹の三角形」として明らかにした(1935)。


禹の三角形

なお、禹の父は乙未事変(閔妃暗殺事件)に加わった、朝鮮王朝武官の禹範善である。禹範善は事変後に日本に亡命し、日本人女性と結婚して、禹長春が生まれた。禹範善は、1903年に、閔妃に仕えていた高永根に広島県呉市の自宅で暗殺された。禹長春は、戦後の1950年に韓国に招かれ、韓国農業科学研究所所長、中央園芸技術院院長を歴任した。渡韓からわずか9年後の1959年に、61歳で亡くなったが、韓国農業発展への貢献は大きく、「韓国農業の父」と呼ばれている。

戦後、東北大学に移った水島宇三郎は、1965年に、角田重三郎(1919-2001)とともに海外学術調査を行った。アブラナ属の野生の基本種3種を収集し、その分布を調べた。そして、アブラナ属作物の起源について、以下のように明らかにした。(*3)

a:アブラナ属は地中海性気候に適応し、地中海周辺でアブラナ科植物の変異がもっとも多い。また、最少染色体数のB. adpressa(n=7)やクロガラシ(n=8)、B. fruticulosa(n=8)は地中海周辺で優勢である。アブラナ属は地中海周辺を故郷とすると考えられる。

b:クロガラシは、インド、エチオピア、地中海島嶼などで古くから薬用、香辛料、油料、疏菜として栽培化されている。

c:キャベツ類の野生型は海岸の急峻な岩崖に生息し、栄養分に富んだ厚肉葉の永年生植物である。古代より疏菜として利用され、栽培化された。さらに、キャベツ類野生型は地中海から、アイルランド南岸、英仏海峡の両岸、ユトランド半島まで自生地を拡げ、様々な栽培型に分化した。

d:アブラナ類(カブ、アブラナなど)の野生型は、地中海域から亜寒帯冬雨気候まで、生育地を北上させた。低温下でよく生育し、小アジアの高原地帯に優勢な生育地がみられる。そこからコーカサス、スカンジナビア、シベリアにまで分布している。油料用やカブとしてヨーロッパ全域で栽培されている。さらに、インドに伝播してインドナタネを生じ、中国東部および日本に伝播して、多様なツケナ類とナタネに分化した。

e:カラシナ類の野生型は、トルコ、イラク、アラビアなどの中東に多く、この地域でクロガラシとアブラナ類の交雑により生じたと考えられる。インドや中国で、油料、葉菜、根菜および香辛料として多数の栽培型が分化した。

f:アビシニアガラシは古来よりエチオピア人の重要疏菜であるが、地中海域にはその野生型が皆無である。エチオピア高原に伝わったキャベツ類と、クロガラシとの交雑に由来すると考えられる。

g:セイヨウアブラナ類の野生型は北欧に見いだされる。セイヨウアブラナ類は、キャベツ類とアブラナ類の間に生じた可能性が高い。セイヨウアブラナ類は、西洋ナタネと飼料カブの2つの系統に分化した。


アブラナ属作物の3基本ゲノム種の自生地の分布と伝播ならびに、3複2倍体種の推定成立地帯(水島・角田, 1969)(source:農業環境技術研究所報告第36号)

青葉高(1916-1999)は、山形大学農学部教授、千葉大学園芸学部教授を歴任し、日本の蔬菜園芸の研究で大きな業績を残した。青葉は、日本のカブの在来品種を調べ、洋種系と和種系の2つが存在し、和カブの系統をたどりと、中国大陸にたどりつくのに対し、洋種カブの系統は、中国東北部からシベリアを経由してヨーロッパにまで到ることを明らかにした。(*5)

カブは、栽培化の早い段階でヨーロッパ系とアジア系に分かれ、ロシア、トルコ、中央アジア、インド、中国、日本などで独自の品種が発達した。また、日本への伝来は、古代に別ルートで2回あったと考えられる。

なお、カブと同様に、同じアブラナ科のダイコン属にも、2つの伝来ルートが予想される。ダイコンの近縁種は、地中海沿岸や黒海周辺にみられることから、この地方が原産地であろうと考えられている。ダイコンは、栽培の歴史が長く、ヨーロッパ、インド、中国、日本などで、その地方の気候に適応して多くの品種が分化している。大きくは欧州系とアジア系に分けられ、アジア系はさらに、低温乾燥に適応した華北群と、温暖多湿を好む華南群に分けられる。日本の大根の多くは華南群に属するといわれるが、華北群との交雑種など、独自の在来種が各地に発展している。

中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』

中尾佐助(1916-1993)は、京都学派の代表的な植物学者で、モンゴル、ネパール、ブータン、インドなどを探検して、植物の学術調査を行った。1966年に『栽培植物と農耕の起源』を発表し、豊富な植物学の知見に、栽培法、収穫法、利用法などの人類学的視点を加え、世界の栽培植物と農耕の起源を論じた。日本人研究者としては、初めての取り組みであり画期的な論考であった。

中尾は、アルフォンス・ドゥ・カンドールやヴァヴィロフの業績を評価する一方で、当時のイギリス研究者の単系文化進化主義を強く批判している。そして、サウアーとマードックの説に触れながら、自分の説は、マードック説に近いと述べ、以下の4つの農耕文化起源地を挙げている。(*6)

a:根菜農耕文化
マレー半島やニューギニア島を中心とする東南アジアの熱帯雨林地域が発祥地。バナナ、ヤムイモ、タロイモ、サトウキビ、サゴヤシ、パンノキなどを栽培化し、ブタ、ニワトリを家畜化。

b:サバンナ農耕文化
ニジェール川流域、エチオピア、インドのサバンナ地帯が発祥地。雑穀(アワ、キビ、モロコシなど)、マメ類、ウリ類、ゴマ、アブラヤシ、イネなどを栽培化。

c:地中海農耕文化
地中海性気候の中東地域が発祥地。コムギ、オオムギ、ライムギ、エンバク、エンドウ、ソラマメ、ナタネ類を栽培化し、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ウマ、ロバを家畜化。

d:新大陸の農耕文化
メキシコ、アンデス高地、南米北部が発祥地。トウモロコシ、マメ類、トマト、ジャガイモ、カボチャ、トウガラシ、サツマイモ、キャッサバなどを栽培化。

中尾は、サウアー説にならって、旧大陸の3箇所の農耕起源地の中では、根菜農耕文化がもっとも古いと考えていた。また、根菜農耕文化が温帯の照葉樹林帯に伝播し、照葉樹林文化が発達したと唱えた。アッサム、雲南、長江流域、日本列島にいたる照葉樹林帯では、ワラビ、コンニャク、ヤマノイモ、シソ、カイコ、ムクロジ、ウルシ、チャ、ミカン、ヤマモモ、ビワなどの作物が共通してみられ、文化要素としては、アク抜き、発酵茶、絹の利用、漆器、バラ麹などの利用も共通しているとした。70年代以降に、中尾は佐々木高明とともに、照葉樹林文化論を積極的に提唱するようになり、日本の民族学などに大きな影響を与えたが、考古学者や農学者からの批判も多かった。

(敬称略)

文献
*1)木原ゆり子、木原均先生小伝、北海道大学総合博物館、2015
*2)武田和義、オオムギの進化と多様性、麦の自然史、北海道出版会、2010
*3)水島宇三郎、アブラナ連植物の進化と育種、化学と生物 Vol. 10、1972
*4)遺伝子組換えセイヨウアブラナの生物多様性影響評価に必要なカラシナ(Brassica juncea)、アブラナ(B. rapa)、セイヨウアブラナ(B. napus)の生物情報集、農業環境技術研究所報告第36号、2016
*5)青葉高、カブ、農業技術大系野菜編第9巻、農山漁村文化協会
*6)中尾佐助、栽培植物と農耕の起源、岩波新書、1966

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ダーウィンの「創造の一つの中心」:Single centres of creation

ダーウィンは、『種の起源』の12章で、“single centres of creation”(創造の一つの中心)について論じている。

Some few families, many subfamilies, very many genera, a still greater number of sections of genera, are confined to a single region; and it has been observed by several naturalists that the most natural genera, or those genera in which the species are most closely related to each other, are generally confined to the same country, or if they have a wide range that their range is continuous.(Chapter XII)

「いくつかの科、多くの亜科、非常に多くの属、さらに多くの属の節が、一つの地域に限定されている。 もっとも自然な属、すなわちそれに含まれる種がもっともお互いに近縁な属は、一般的に同じ地域に限定されているか、あるいは広い範囲に連続的に生息していることが、博物学者たちによって観察されている。」

Hence, it seems to me, as it has to many other naturalists, that the view of each species having been produced in one area alone, and having subsequently migrated from that area as far as its powers of migration and subsistence under past and present conditions permitted, is the most probable. (Chapter XII)

「したがって、私には次のように思え、それは、多くの博物学者もそうであろう。各々の種は、一つの地域のみで生み出され、その後、過去および現在の条件が許す範囲で、その移動力と生存力によって可能なかぎり遠くまで、移動した可能性がもっとも高い。」

このような、「創造」が起きやすい場所についても、4章で考察している。

To sum up, as far as the extreme intricacy of the subject permits, the circumstances favourable and unfavourable for the production of new species through natural selection. I conclude that for terrestrial productions a large continental area, which has undergone many oscillations of level, will have been the most favourable for the production of many new forms of life, fitted to endure for a long time and to spread widely.(CHAPTER IV)

「主題は極端に複雑ではあるが、可能な範囲で、自然選択によって新しい種が生成する有利な状況と不利な状況について要約する。私は、地上では、多くのレベルの階層を経験してきた広い大陸のエリアが、長期に存続し広範囲に生息できるような新種の生成に、もっとも有利であると結論づける。」

さらに、創造の中心から離れ、隔離された地域について、以下のように述べる。

The importance of isolation is likewise great in preventing, after any physical change in the conditions, such as of climate, elevation of the land, &c., the immigration of better adapted organisms; and thus new places in the natural economy of the district will be left open to be filled up by the modification of the old inhabitants. Lastly, isolation will give time for a new variety to be improved at a slow rate; and this may sometimes be of much importance. If, however, an isolated area be very small, either from being surrounded by barriers, or from having very peculiar physical conditions, the total number of the inhabitants will be small; and this will retard the production of new species through natural selection, by decreasing the chances of favourable variations arising.(CHAPTER IV.)

「隔離の重要性は、気候、標高、より適応した生物の移動など、条件の物理的変化を妨げることである。そして、このような、地域の自然経済における新しい場所は、古い住民の変化によって満たされるように開いたままにされる。最後に、隔離は、新しい種がゆっくりした速度で変異する時間を与える。ときにはこれが非常に重要になる。しかしながら、隔離された区域は非常に小さく、障壁で囲まれたり、特異な物理的条件であることから、生物の個体の総数は少なくなる。これは、有利な変異が起きる可能性を減少させるので、自然選択による新種の生成を遅らせる。」

ダーウィンの、「創造の中心はただ一つ」という説は、植物学者のヴァヴィロフだけでなく、人類学者にも影響を与えた。

アメリカの人類学者のクラーク・ウィッスラー(1870-1947)は、インディアナ大学やコロンビア大学で心理学を学び、のちにボアズに師事して人類学に転じた。ニューヨーク自然史博物館で40年間にわたって指導し、『アメリカインディアン』(1917)を著した。

ウィスラーは、それぞれの部族の文化的な特徴を、言語、食文化、衣類、建築、冶金、芸術、社会制度、神話、儀礼などの要素によって分類し、「文化領域」の概念を提案した。さらに、文化領域の地理的な分布を調べることで、「年代領域原理」を提唱した。

ウィッスラーの年代領域仮説によれば、新しい文化形質は、文化の中心地域で繰り返し起こり、それが、同心円状に、文化領域の周縁に向かって拡散してく。文化の形質がほぼ同じ速度で広がるならば、文化形質の地理的範囲と年代との間には関連性が存在する。そして、文化領域のより周縁で見られる文化的形質は、中心地域で見られる形質よりも古い。(*2)


How to Make Blackfoot Moccasins Circa, Excerpt from “Material Culture of the Blackfoot” by Clark Wissler , 1909

ここで、ダーウィンの「創造の一つの中心」のモデルを考える。


Nn:ニッチ
Kn:環境収容力
gn:遺伝子プール
mn:遺伝子プールの個体数
l:遺伝子プール間の距離

以前のブログで、遺伝子プールの表現型変異の速度rmを以下のように導いた。

rm=p0m/tg
rm:遺伝子プールの表現型変異の速度
p0:個体の1回の複製時に表現型変異が起きる確率
mn:遺伝子プールの個体数
tg:世代時間

上記の式から、遺伝子プールの個体数が長期的に安定である場合、p0およびtgが同じ値ならば、個体数mが大きいほど、変異速度rmは大きくなる。遺伝子プールの個体数mは、ニッチNの環境収容力Kが大きいほど大きくなり、変異速度rmも大きくなる。

また、存在する個体数に比べて環境収容力Kが大きい場合は、遺伝子プールの個体数は増加してdm/dt>0、drm/dt>0となり、変種や新種が生じる確率が大きくなる。

遺伝子プール同士は、時間の経過に比例して、遺伝子プール間の遺伝的距離dmが大きくなる。環境の違いは蓄積される変異に差をもたらす。g2とg3のように遺伝子プール間の距離lが小さい場合は、異なる遺伝子プールに属する個体同士が接合する確率が大きくなり、g2-g3間の遺伝的距離dm23はあまり大きくならない。ただ、この場合、遺伝的差異が存在する個体同士が接合するので、単独の遺伝子プールの変異速度に比べて、g2-g3全体の変異速度rm23は大きくなる。なお、遺伝子プール間の遺伝的距離は、遺伝子プール間の物理的距離と時間的距離が大きいほど、大きくなる。

g1のように他の遺伝子プールとの距離lが大きく、隔絶している場合は、他の遺伝子プールに属する個体と接合できないので、次第に遺伝的距離dmは大きくなる。このとき、環境収容力K1が小さければ、個体数m1は小さくなり、かつ遺伝的に近い個体同士でしか接合できないので、g1の変異速度rm1は小さくなる。すなわち、“this will retard the production of new species”=新種の生成を遅らせる。

「創造の中心」から遠く隔絶した例としては、以下の生物がある。

カモノハシは、哺乳綱単孔目カモノハシ科カモノハシ属に分類されるが、カモノハシ科カモノハシ属は1種のみである。オーストラリアの森林地帯の河川や湖沼などの淡水域に分布し、群れは作らず単独で生活する。1億5000万年前に他の哺乳類から分岐したグループの末裔で、卵を産むことや、乳首がないなど、他の哺乳類にはない原始的な特徴を多く残している。卵を産む哺乳類である単孔類は、かつては多くの種が存在したが、現在はカモノハシとハリモグラしか生存していない。(*2)


カモノハシ(Author:Klaus)

ハイギョ(肺魚)は、肉鰭綱・肺魚亜綱に属する。肉鰭綱は、肉質の鰭(ひれ)を持つ原始的な魚類で、現存する系統はハイギョ類とシーラカンス類のみである。ハイギョは、肺や内鼻孔などの両生類的な特徴を持つ魚で、4億年前に出現し、古生物学では64属280種が知られる。現存する種はオーストラリアハイギョ1種、ミナミアメリカハイギョ1種、アフリカハイギョ4種のみで、これらは全て淡水域に生息している。


オーストラリアハイギョ(Author:Tannin)

アマミノクロウサギは、兎形目ウサギ科アマミノクロウサギ属に分類され、1種のみが存在する。日本の奄美大島および徳之島の固有種で、DNA解析や形態から、原始的形質を多く残した種とされている。


アマミノクロウサギの剥製(Author:Momotarou2012)

なお、ダーウィンは、『種の起源』4章で、“living fossils”(生きた化石)として、カモノハシとハイギョを例にあげている。

All fresh water basins, taken together, make a small area compared with that of the sea or of the land. Consequently, the competition between fresh water productions will have been less severe than elsewhere; new forms will have been more slowly produced, and old forms more slowly exterminated. And it is in fresh water basins that we find seven genera of Ganoid fishes, remnants of a once preponderant order: and in fresh water we find some of the most anomalous forms now known in the world, as the Ornithorhynchus and Lepidosiren, which, like fossils, connect to a certain extent orders at present widely separated in the natural scale. These anomalous forms may be called living fossils; they have endured to the present day, from having inhabited a confined area, and from having been exposed to less varied, and therefore less severe, competition. (CHAPTER IV)

「淡水域は、それをすべてあわせても、海や陸地に比べて面積が小さい。その結果、淡水生物間の競争は、他の地域と比べてそれほど厳しくはないであろう。新しい形質はゆっくりと発生し、古い形質はよりゆっくりと消滅するであろう。かつて優位な地位を占めていた硬鱗魚類7属は、すべて淡水域で発見されている。そして、淡水域では、カモノハシやレピドシレン(Lepidosiren:ミナミアメリカハイギョ)のような、世界でもっとも異常な形質が見つかる。それらは、化石のように、現在では自然の階層が遠く離れた種類をつないでいる。これらの異常な形質は、『生きた化石』と呼べるであろう。彼らは限られた地域に住んでいて、それほど変化がなく、あまり厳しくない競争にさらされていたため、今日まで耐えてきた。」


South American lungfish (Lepidosiren paradoxa)

文献
*1)Charles Darwin, The Origin of Species, The sixth edition, 1872
*2)Stanley A.Freed and Ruths.Freed, Clark Wissler, National Academy of Sciences, 1992
*3)How the Venomous, Egg-Laying Platypus Evolved
https://news.nationalgeographic.com/2016/07/animals-platypus-evolution-science/

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植物学、遺伝学からのアプローチ:Approach by botany and genetics

ダーウィンとカンドール

『種の起源』(1859)の第1章には、「飼育栽培下における変異」があてられている。ダーウィンは、人間が、家畜や栽培植物の育成や品種改良をできるのであれば、何億年もの時間を使うことができる自然が、自然選択によって種を作れないはずはないと考えた。
ダーウィンは、家畜と栽培植物の起源についても大きな関心を持っていたが、当時の知見では、家畜や作物の起源を明らかにすることはきわめて困難であった。

In the case of most of our anciently domesticated animals and plants, it is not possible to come to any definite conclusion, whether they are descended from one or several wild species. The argument mainly relied on by those who believe in the multiple origin of our domestic animals is, that we find in the most ancient times, on the monuments of Egypt, and in the lake- habitations of Switzerland, much diversity in the breeds; and that some of these ancient breeds closely resemble, or are even identical with, those still existing. But this only throws far backward the history of civilisation, and shows that animals were domesticated at a much earlier period than has hitherto been supposed. The lake-inhabitants of Switzerland cultivated several kinds of wheat and barley, the pea, the poppy for oil and flax; and they possessed several domesticated animals. They also carried on commerce with other nations. All this clearly shows, as Heer has remarked, that they had at this early age progressed considerably in civilisation; and this again implies a long continued previous period of less advanced civilisation, during which the domesticated animals, kept by different tribes in different districts, might have varied and given rise to distinct races. Since the discovery of flint tools in the superficial formations of many parts of the world, all geologists believe that barbarian man existed at an enormously remote period; and we know that at the present day there is hardly a tribe so barbarous as not to have domesticated at least the dog.
The origin of most of our domestic animals will probably forever remain vague.・・・

「古い家畜や栽培植物のほとんどについて、それらの祖先の野生種が、ひとつなのか複数なのか、明確な結論に至ることはできない。家畜の複数起源を信じる人たちがよりどころにしているのは、古代エジプトの記念碑やスイスの湖上住居遺跡では、品種の多様性が非常に高いことである。これらの古代品種のいくつかは、現存する品種ときわめて類似しているか、あるいは同一であることもある。しかし、これは、農耕文明の歴史がより古いことを意味するだけであり、これまで想定されていたよりはるかに早い時期に、野生動物が家畜化されたことを示しているにすぎない。スイスの湖上に住んでいた人々は、いくつかの種類のコムギ、オオムギ、エンドウ、ケシ(油)、亜麻を栽培していた。また、何種類かの家畜を飼育していた。彼らはまた、他の国々と物品を交換していた。ヘーア 氏が指摘したように、これらはすべて、農耕文明がかなり早い段階に進んでいたことを明確に示している。そして、これは再び次のことを意味する。初歩的な農耕文明には、その前の長い期間が存在し、その長い期間に、異なる地域の異なる部族によって飼われた家畜は変化し、異なる品種を生み出した可能性がある。世界中の多くの地域からフリントツール(石器)が発見されて以来、すべての地質学者は、原始の人々は非常に広範囲に離れて存在していたと信じている。また、現在、犬を家畜化していない野蛮な部族はほとんどいないことを知っている。
ほとんどの家畜の起源は、おそらく永遠にあやふやなままであろう。・・・」(文献1)

ダーウィンが、栽培植物の変異と進化を検討する際、とくに参考にしたのは、アルフォンス・ドゥ・カンドールの『合理的植物地理学』(1855)である。

アルフォンス・ドゥ・カンドール(1806-1893)は、フランス系スイス人の植物学者で、彼の父親は高名な植物学者のオーギュスタン・ドゥ・カンドール(1778-1841)である。オーギュストが提唱した「自然の戦争」という概念は、ダーウィンの自然淘汰の原理に大きな影響を与えた。

We will now discuss in a little more detail the struggle for existence. In my future work this subject will be treated, as it well deserves, at greater length. The elder De Candolle and Lyell have largely and philosophically shown that all organic beings are exposed to severe competition.

「生存闘争についてもう少し詳細に論じよう。この主題については、それにふさわしいように、より詳細に扱う予定である。ドゥ・カンドールとライエルは、すべての有機的存在がきびしい競争にさらされていることを、包括的、論理的に示した」(文献1)

アルフォンス・ドゥ・カンドールは、のちに『栽培植物の起源』(1882)を著し、初めて体系的、実証的に作物の起源について論じた。カンドールは、栽培植物の野生原種が存在する地域が、栽培植物の起源地と考え、植物学のみならず、言語学、歴史書、旅行記など多くの文献を吟味して、250種の作物について検討した。そして、中国、西南アジア、熱帯アメリカの3つの地域で、独立に農耕が始まったと論じた。

ニコライ・ヴァヴィロフ:栽培種の発祥中心地説

20世紀にはいると、多くの植物学者、考古学者、歴史学者、言語学者、農学者が、栽培植物と家畜の起源について注目するようになった。とりわけ大きな足跡を残したのは、ソ連の植物学者、遺伝学者のニコライ・ヴァヴィロフ(1887-1943)である。


Nikolai Vavilov, 1933,(Author:World Telegram staff photographer)

ヴァヴィロフは、モスクワ農業大学で学び、同大学の育種試験場で、作物の耐病性の研究に従事した。フランス、ドイツ、イギリスに留学し、高名な遺伝学者のウィリアム・ベイトソン(1861-1926)から多くのことを学んだ。

ロシアでは、1917年に革命が起きて、ソヴィエトが権力を掌握した。4年後の1921年には、ロシア南東部のステップ地帯はひどい旱魃に襲われ、収穫皆無となった。このとき、ヴァヴィロフは、低温や乾燥、病害虫に抵抗性のある作物品種の育成が必要なことを痛感した。同年、応用植物学・育種学研究所の所長に就任すると、アメリカ農務省植物導入局を訪問した。ここで、全世界から種子が収集され、整然と管理、保存されているのを見て、食料の安定供給と国の発展のためには、遺伝資源の収集と保存が重要であることを気付かされた。

1923年ごろから、2~3名の探検隊を組織して、世界各地に派遣し、野生植物と栽培植物の収集事業に乗り出した。1940年までにヴァヴィロフたちが行った探検は180回、65か国におよび、収集したコレクションはコムギ36,000点、トウモロコシ10,000点、マメ類23,000点など、全体では25万点にも達した。これらのコレクションの収集、保全のために、2,000人以上の職員が働いていた。

ヴァヴィロフは、膨大な遺伝資源の探索するなかで、多数の品種群が著しく集中している地域が存在することに気が付き、そのような種の変異形成中心地こそが、栽培種の発祥中心地であると考えた。そして、発祥中心地として、以下の7大中心地を提案した(1940)。


栽培植物の発祥中心地 Ⅰ:熱帯南アジア地域、Ⅱ:東アジア地域、Ⅲ:南西アジア地域、Ⅳ:地中海沿岸地域、Ⅴ:アビシニア地域、Ⅵ:中央アメリカ地域、Ⅶ南アメリカ・アンデス山系地域(source:栽培植物発祥地の研究)

Ⅰ:熱帯南アジア
a:インド熱帯地方、b:インドシナ半島~中国南部、c:スンダ諸島の3地域に分けられ、栽培植物全体の約30%が発祥している。イネ、サトウキビ、バナナなど熱帯果樹、サトイモ、ヤムイモなど。

Ⅱ:東アジア
中国中央部~東部、台湾、朝鮮、日本を含む地域。各種のキビ、大豆、多くの野菜、膨大な数の果樹類の発祥地。ここを発祥地とする栽培植物の数は花卉類を除いて全世界の20%を占める。1次中心の中国と2次中心の日本とに分けられる。

Ⅲ:南西アジア
a:コーカサス地方、b:中近東、c:北西インド地域を含む地域。コムギ、オオムギ、ライムギなど麦類、エンドウ、ヒラマメ、ソラマメ、ガラスマメ、ヒヨコマメなど豆類。また、多くの野菜類、ブドウなど多くの果樹類、アジア綿など、全世界の栽培種の14%を占める。

Ⅳ:地中海沿岸
オリーブ、イナゴマメ、各種の野菜と飼料作物の発祥地。ギリシャ・ローマ文明が栄えた地域にもかかわらず、全栽培植物の11%にとどまる。

Ⅴ:アフリカ大陸
アビシニア(エチオピア)地方が発祥中心地として存在する。テフ(イネ科)、ヌグ(油料作物)、コーヒー、モロコシなど。

Ⅵ:北アメリカ
a:南メキシコ、b:中央アメリカ、c:西インド諸島の3つに分けられる。トウモロコシ、ワタ、インゲンマメ、カボチャ類、カカオ、サツマイモ、トウガラシ、グアバなど果樹類、バンレシ、アボガドなど90種ほどが発祥。

Ⅶ:南アメリカ
a:アンデス地域(ペルー、ボリビア、エクアドル)、b:チロエ地域(チリ南部、チロエ島)、c:ボゴタ地域の3つに分けられる。多くのジャガイモ、オカ、ウルコ、アヌウなどの塊茎類、キナ、コカなど薬用植物、ラマ、アルパカの家畜が発祥した。

なお、これらのほかにも、南アフリカのスイカ、南アメリカの熱帯内陸部ではキャッサバ、パイナップル、ラッカセイ、北アメリカのキクイモ、ヒマワリなどがある。

ヴァヴィロフは7つの発祥中心地は、古代の農耕文化の発祥地と一致していると考えた。ヴァヴィロフが唱えた栽培植物の発祥中心地は、現在の最新の学説とおおむね一致している。

1936年に行われた講演のなかで、ヴァヴィロフは次のように述べている。

「わが国の栽培植物の品種を改良し、それに耐乾燥性や耐病性を付与するためのさまざまな種や品種を探索する仕事において、筆者らが出発点としたのはダーウィンの進化論なのである。その学説によれば、動植物の発達と変化は、その当初の属や種が集中している特定の自然的・歴史的地域から、そこでの植物地理的な諸条件に立脚しながら、空間的・時間的に発展していったのである。ダーウィン自身、『種の発祥中心地』という言い方をしており、かれは種の発祥中心地に関する命題を一つの法則と考えていた」(文献2)

1934年、ウクライナ出身の農学者トロフィム・ルイセンコ(1898-1976)は、メンデル遺伝学を否定し、後天的に獲得した形質が遺伝するという学説を発表した。スターリンは共産主義の史的唯物論に合致するという理由で、ルイセンコの学説(獲得形質の遺伝)を支持した。当時のソ連では、権力を掌握したスターリンによる大粛清が始まり、ルイセンコ説に反対するソ連の生物学者や植物学者の多くが、投獄され処刑された。ルイセンコ説に反対したヴァヴィロフは、1940年に投獄され、1943年1月に栄養失調で獄死した。この偉大な農学者は、55才で世を去ってしまった。

ジャック・ハーラン

ジャック・ハーラン(1917-1998)は、アメリカの植物学者で、父親のハリー・ハーランも、アメリカ農務省の育種研究者であった。ジャックは子供のころに、オオムギの育種農場にたびたび連れて行かれ、父親から大きな影響を受けた。15歳のときに、父親と親交があったニコライ・ヴァヴィロフが家に滞在したことがあり、ヴァヴィロフに大きな影響を受けた。ハーランは、ソ連に留学してヴァヴィロフに師事しようとしたが、ヴァヴィロフの投獄と死によってかなわかった。

ジョージワシントン大学およびカリフォルニア大学で学び、1942年からアメリカ農務省で働いたあと、1951年にオクラホマ大学に赴任した。1966年にイリノイ大学に移り、作物進化研究所を共同で設立した。1948年以降、アメリカ農務省の支援のもと、アフリカ、アジア、中央アメリカ、南アメリカ、オーストラリアを探索し、数多くの遺伝資源を収集した。訪れた国は45か国に及び、12,000点のコレクションを持ち帰った。1960年代には、中東での考古学調査にも参加して、野生ムギの収穫実験を行った。(文献3、4)

ハーランは、基本的にはヴァヴィロフの発祥中心地説を支持したが、ヴァヴィロフたちの調査が不十分であったアフリカやパレスチナも探査し、ヴァヴィロフ説に修正を加えてより精緻な作物の発祥地を提唱した。

文献
1)Charles Darwin, The Origin of Species, The sixth edition, 1872
2)ニコライ・ヴァヴィロフ、栽培植物発祥地の研究、八坂書房、1980
3)THEODORE HYMOWITZ, JACK RODNEY HARLAN, National Academy of Sciences, 2003
4)Calvin O. Qualset, Jack R. Harlan, Plant Explorer, Archaeobotanist, Geneticist, and Plant Breeder

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日本の人類学:Anthropology in Japan

日本の人類学についても一瞥しておく。

江戸中期に、幕府の蝦夷地探検に加わった最上徳内(1754-1836)が、アイヌの記録を残している。出羽国の農家に生まれた徳内は、学問を志して江戸の本多利明の音羽塾に入門し、天文、測量、航海術を学んだ。1785年、師の代理人として幕府の蝦夷地調査に随行した。その後も、樺太、択捉、国後、ウルップなど、生涯で9回の探検と調査を行った。『蝦夷草紙』、『渡島筆記』を著し、アイヌ語辞典の『蝦夷方言藻汐草』の編纂にも参加した。

江戸後期には間宮林蔵(1780-1844)が樺太を探検して、『東韃地方紀行』や『北夷分界余話』を残している。間宮林蔵は、常陸国の農家の出身だが、祖は戦国武将の間宮康俊とされる。長じて幕府の下役人となり、派遣された蝦夷地で伊能忠敬から測量技術を学んだ。1808年、幕府の命により樺太を探索し、その後、海峡を渡ってアムール川下流域まで調査した。


北夷分界余話(source:国立公文書館デジタルアーカイブ)

明治維新後の日本に、はじめて欧米の考古学、人類学、生物学をもたらしたのは、アメリカの生物学者のエドワード・S・モース(1838-1925)である。モースは、1877年に腕足動物を研究するために来日したが、列車で横浜から新橋へ向かう途中、崖に貝殻が積み重なっているのを発見した。訪れた文部省で外山正一に請われて、東京大学法理文学部の教授に就任し、同年、大森貝塚を調査した。土器や骨器を発掘して、縄文土器を見いだした。また、モースは、はじめて、ダーウィン進化論を日本に紹介した。


大森貝塚出土品(source:文化遺産オンライン)

モースの発見から7年後の1884年、東京大学の学生だった坪井正五郎(1863-1913)、白井光太郎、有坂鉊蔵らは、大学近くの弥生町内の貝塚を調査し、学芸雑誌に発表した。発見された無紋の土器は、後に縄文式土器と異なるものと認められ、「弥生式土器」と名付けられた。ただし、このとき報告された「弥生式土器」が出土した場所は、はっきりしておらず、1974年の調査では、東京大学構内の旧浅野地区から弥生式土器が検出されている(文献3)。坪井は、その後イギリスに留学して欧米の人類学を学び、日本の人類学を創始した。なお、坪井は、古代の日本にはアイヌとは別の食人種が住んでいたというモースの説を引き継いで、原日本人はコロポックルであるとの説を唱えた。


壷形土器 東京市向ヶ岡(現東京都文京区弥生)、向ヶ岡貝塚(source:東京大学総合研究資料館)

坪井の研究室で学んだ鳥居龍蔵(1870-1953)は、日本で最初に人類学の現地調査を行った。踏破した地域は、中国東北部、台湾、千島、中国西南部、蒙古、朝鮮半島、シベリア、中南米におよび、膨大な資料を残した。(文献4)


台湾ヤミ族 粟を搗く男


台湾アミ族 脱穀中の女性


台湾水尾のアミ族の牛飼い少年。背景の建物と人は漢族風


台湾プュマ族(?) ひき臼


台湾卑南にある巨石文化遺跡


台湾パイワン族 臼と杵を使って脱穀をする女


台湾パイワン族 高床式穀倉


台湾東勢角 タイヤル族の倉庫


台湾ツォウ族 粟の庭仕事をする阿里山蕃の女たち。臼と杵で脱穀、箕で殻をあおぎ分けている。右端の女の手にある農具は石器と思われる


千島アイヌの木幣


北海道アイヌの家族と倉。撮影時期・場所ともに不明


千島アイヌの竪穴式住居。おそらく色丹島と思われる


拓殖博覧会展示の樺太アイヌの幣柵


北海道アイヌの倉。撮影時期・場所とも不明


朝鮮 メンヒル(立石)。鳥居(1922)は、立石里の立石について、「常に注連を張り、藁を以て覆い、その上から藁宝殿を作って一種の神体のようなものとして、祈願などをして居ります」と述べている
(source:鳥居龍蔵の世界、鳥居龍蔵写真目録)

農商務省の高等官僚であった柳田國男(1875-1962)は、全国の山村、漁村を調査し、日本の民俗学を創始した。民俗学は、渋沢敬三(1896-1963)を経て宮本常一(1907-1981)へと引き継がれた。

民族学および文化人類学については、ウィーン大学のヴィルヘルム・シュミットのもとで学んだ岡正雄(1898-1982)や、同じウィーン大学に留学した石田英一郎(1903-1968)らが主導した。

日本の考古学は、歴史地理学の喜田貞吉(1871-1939)、ヨーロッパに留学して欧米の研究方法を日本に導入した濱田耕作(1881-1938)、縄文土器の編年を作った山内清男(1902-1970)、八幡一郎(1902-1987)、遠賀川式土器を見いだした小林行雄(1911-1989)らによって進展していった。

終戦後の1948年、考古学者の江上波夫(1906-2002)は、岡正雄、石田英一郎、八幡一郎らと行った座談会の中で、騎馬民族征服王朝説を発表して大きな話題になった。しかし、他の考古学者、民族学者からは支持されていない。

京都大学では戦前、戦中を通じ西田幾多郎(1870-1945)、波多野精一(1877-1950)、田邊元(1885-1962)、和辻哲郎(1889-1960)、三木清(1897-1945)、戸坂潤(1900-1945)らの哲学者が、京都学派として大きな影響力をもっていた。

戦後の1949年に改組された人文科学研究所では、貝塚茂樹(1904-1987)、桑原武夫(1904-1988)、藤枝晃(1911-1998)、今西錦司(1902-1992)、梅棹忠夫(1920-2010)、中尾佐助(1916-1993)らが、人類学、生態学、民族学の分野で成果を上げ、戦後の日本社会に大きな影響を与えた。

日本の人類学のなかでも、やや特異な位置に立っているのは、大林太良(1929-2001)、伊藤清司(1924-2007)、吉田敦彦(1934-)らの比較神話学である。大林や吉田らは、ユーラシア全域にまたがる、広範な神話の伝播を提示した。

欧米の人類学者が、欧米人や西洋文化の起源に強い関心をもつように、日本の人類学者も日本人と日本文化の起源を追い求めてきた。日本人のばあい、ベネディクトが『菊と刀』で日本文化を論じたように、欧米人から「観察される側」であるため、日本の人類学はボアズ主義の影響をそれほど強くうけていない。社会進化論においても、ヨーロッパ中心主義が強い単系社会進化は当然、支持されず、多系社会進化や文化圏論が中心となっている。

農耕の起源論と関係が深い論考としては、和辻哲郎の風土論、中尾佐助と佐々木高明による照葉樹林文化論などがある。

文献
1)最上徳内記念館
2)北夷分界余話、文化遺産オンライン
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0403030000/00
3)壷形土器、東京大学総合研究資料館
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1994collection1/tenji_sekki_05.html
4)鳥居龍蔵写真目録、鳥居龍蔵写真資料研究会・東京大学総合研究博物館
http://torii.akazawa-project.jp/cms/photo_archive/photo_index.html

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構造主義、戦後の人類学、言語学:Structuralism, Anthropology after war, Linguistics

構造主義

構造主義といえばレヴィ=ストロースであるが、その前に、マルセル・モース(1872-1950)について触れておく。モースは、フランスの社会学者のエミール・デュルケム(1858-1917)の姉の子で、ユダヤ系フランス人である。幼少の頃から叔父のデュルケムに教えを受けていた。高等教育資格を取ったのち、コレージュ・ド・フランスに続いてパリ大学民族学研究所で教えた。師のデュルケムは、機能主義、社会進化主義の立場をとったが、モースは、進化主義については、かなり慎重で、抑制した表現にとどめている。

モースは、ユダヤ系アルザス人で東洋学者のシルヴァン・レヴィ(1863-1935)から大きな思想的影響を受け、レヴィを「私の二番目の叔父であり、私のグル(師匠)である」と述べている(文献1)。1925年に発表した『贈与論』は反響を呼び、レヴィ=ストロースの構造主義にも大きな影響を与えた。

クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)の両親はユダヤ人で、父は印象派の画家であった。ブリュッセル(ベルギー)で生まれ、1914年に大戦が始まるとパリ近郊に移り、高校時代にマルクス主義の運動に参加するようになった。パリ大学で学び、教授資格取得後、高校で哲学を教えたが、この頃にロバート・ローウィ(1883-1957)の“Primitive Society”(原始社会、1919)を読み、人類学に強い興味を持った。

1935年にサンパウロ大学に社会学教授として赴任し、ブラジル内陸のボロロ族などの調査を行った。1939年にフランスに帰国し招集されて軍務についたが、1941年にフランスを脱しアメリカに渡った。ここで、ローウィ、ボアズ、ベネディクト、言語学者のロマーン・ヤコブソン(1896-1982)らと交流し、思想的影響を受けた。

構造主義の源流は、フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)の記号論とされている。レヴィ=ストロースは、ヤコブソンを通じてソシュールの構造主義言語学を学び、これから着想を得て、親族構造論へと発展させた。

1948年に『親族の基本構造』を博士論文として書き上げ、49年にフランスに帰国して発表すると、大きな話題を呼んだ。レヴィ=ストロースは、構造主義人類学の創始者というだけでなく、彼の書いた“Tristes tropiques”(悲しき熱帯、1955)や“La Pensée sauvage”(野生の思考、1962)は、文学作品としても高い評価を受けている。

アメリカの戦後の人類学

戦後のアメリカの人類学は、長く、ボアズとその弟子たちの影響下にあった。ローウィは、アメリカインディアンの民族誌調査を通じて、モーガンの進化主義を批判し、ルース・ベネディクト(1887-1948)は、『菊と刀』(1946)を書いて、文化相対主義的な手法で、日本文化を分析しようとした。マーガレット・ミード(1901-1978)は、オセアニアの部族の女性の地位について報告し、フェミニズム運動に大きな影響を与えた。

ボアズらは社会進化主義を強く批判したため、戦後のアメリカの人類学者たちは一般的な社会理論を構想することさえはばかられていた。

こうしたアメリカ人類学の雰囲気に対して、ミシガン大学のレスリー・ホワイト(1900-1975)は、スペンサー、モーガンら19世紀の進化主義を再評価するとともに、ボアズらの文化相対主義を批判した。ホワイトは、技術革新とエネルギー消費量の観点から社会発展を理論化(『文化の進化』1959)し、社会の発展段階を、次の5段階に区分した。

1、人間の筋肉のエネルギーを利用する
2、家畜のエネルギーを利用する
3、栽培植物のエネルギーを利用する(農業革命)
4、化石燃料(石炭、石油、天然ガス)のエネルギーを利用する
5、原子力エネルギーを利用する

ホワイトらの立場は、「ネオ進化論」と呼ばれた。

また、イリノイ大学のジュリアン・スチュワード(1902-1972)は、世界各地の固有の技術革新や社会的な変革が多様であることを示し(多系進化)、これらの多系進化を、環境に対する適応という観点で理論化することを試みた。これは、のちに文化生態学の成立へとつながっていった。

ホワイトやスチュワードの影響を受けたマーシャル・サーリンズ(1930-)やエルマン・サーヴィス(1915-1996)は、多系進化による新進化主義人類学を提唱した。

農耕の起源をめぐる議論については、カルフォルニア大学のカール・O・サウアー(1889-1975)が発表した、“Agricultural Origins and Dispersals”(農耕の起源と拡散、1952)がある。地理学者のサウアーは、農業、作物、家畜が環境に対して大きな影響を与えると考えた。そして、農耕の起源は中東ではなく、東南アジアであるとし、栄養繁殖による根菜の栽培と、ニワトリ、ブタの家畜化が始まったと主張した。

また、人類学者のジョージ・ピーター・マードック(1897-1985)は、多系進化と生態学的な観点で、世界中の民族文化を比較検討し、通文化研究の礎を築いた。「核家族」という用語を最初に使ったことでも知られる。のちに、マードックはアフリカの部族の文化と歴史に関する『アフリカ』(1959)を著し、その中で、ニジェール川流域で、マンデ族が独立に雑穀農耕を開始したと主張した。そして、中東のムギ農耕、東南アジアのイモ農耕、新大陸の農耕、アフリカの雑穀農耕の四か所を、農耕の独立発祥地として提唱した。

言語学

イギリス人の判事でインドを研究していたウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)は、1786年に、ラテン語やギリシャ語が、サンスクリット語と共通の起源をもつと発表した。その後、インド・ヨーロッパ語族の研究が発展し、比較言語学が科学として確立した。同じ語族では、同語源の音韻が規則的に対応し、音韻変化をたどることで、祖語が同定でき、同語族に属する諸言語は、系統樹で示すことができる。そして、インド・ヨーロッパ語族の故地の探求が大きな関心となった。(文献2)

ドイツに生まれでイギリスに帰化した言語学者のマックス・ミュラー(1823-1900)は、インド人とヨーロッパ人を「アーリア人」と呼び、インド・ヨーロッパ語族の人種的優位性を暗示させた。これは、20世紀には、ナチスドイツのアーリア至上主義と人種差別へとつながっていった。

戦後は、インド・ヨーロッパ語族の故地として、カリフォルニア大学のマリヤ・ギンブタス(1921-1994)の黒海沿岸ステップ説と、ケンブリッジ大学のコリン・レンフルー(1937-)のアナトリア説の二つの説が提唱されてきた。

最近の遺伝子の解析による調査では、約4500年前のヨーロッパの文化的変容は、人間集団の移動を伴っており、青銅器時代にインド・ヨーロッパ語族がヨーロッパに拡散した可能性が提示されている。インド・ヨーロッパ語族の祖は、カスピ海~黒海の北方の草原地帯にいたヤムナ文化集団と考えられている。(文献3)


Indo-European expansion(Author:Dbachmann)

近年の比較言語学の成果としては、オーストロネシア語族の研究がある。オーストロネシア語族は、台湾、東南アジア島嶼部、ポリネシア、マダガスカルにいたる広大な地域に分布することが明らかになり、さらに、言語学、考古学、人類学者らの共同研究でそれらの島々に到達した年代も実証的に研究されている。(文献4)

ただし、全般的に比較言語学は、かつての勢いが無くなっており、発展が停止してしまったかのようにみえる。もともと音韻変化をたどる方法に依拠する学問であり、言語学者のモリス・スワデシュによれば、1000年ごとに20%の語彙が失われるとされ、数千年よりも古い時代に分岐した言語については、比較言語学では限界がある。

そこで、より古い言語にアプローチする方法も提出されている。ロシアのイリッチ・スヴィティチは、印欧語族、アフロ・アジア語族、ウラル語族、カルトヴェリ語族、ドラヴィダ語族、アルタイ語族は、もっとも古い時代までさかのぼれば、「ノストラティック語族」を起源とするという大語族説を提唱した。また、アメリカのジョーゼフ・グリーンバーグは音韻対応を無視して多角比較を導入し、印欧語族、ウラル語族、アルタイ語族、朝鮮語、日本語、アイヌ語、ギリヤーク語、チュクチ語、エスキモー・アリュート語を含む、「ユーラシア大語族」を提唱した。ただし、これらの大語族説は、言語学者からの評判はよくない。

なお、日本の松本克己は、類型論的立場から、ユーラシア内陸言語圏と環太平洋言語圏という新しい方法を提出している。(文献5)

文献
1)マルセル・モース、1925、贈与論、筑摩書房、2009
2)風間喜代三、言語学の誕生、岩波書店、1978
3)Ewen Callaway, 2015, DNA data explosion lights up the Bronze Age, Nature, 522
https://www.nature.com/news/dna-data-explosion-lights-up-the-bronze-age-1.17723
4)Austronesian Basic Vocabulary Database
https://abvd.shh.mpg.de/austronesian/research.php
5)松本克己、世界言語のなかの日本語、三省堂、2007

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新石器革命論、伝播主義、生態学的アプローチ:Neolithic Revolution, Diffusionism, Ecological Approach

ゴードン・チャイルドの新石器革命論

ゴードン・チャイルド(1892-1957)は、オーストラリアのシドニーに生まれ、シドニー大学とオックスフォード大学で考古学を学んだ。在学中に熱心な社会主義者になり、卒業後に労働党出身の州長官の秘書として活動していた。1921年にロンドンに移り、王室考古学研究所の図書館員になった。1925年に、“The Dawn of European Civilisation”(ヨーロッパ文明の夜明け)を出版し、1927年にはエジンバラ大学に移って、オークニー諸島のスカラ・ブレイ遺跡を発掘して大きな業績を残した。


House 1 of Skara Brae(Author:Wknight94)

1936年に、“Man makes himself”(文明の起源)を発表し、1940年にロンドン大学先史ヨーロッパ考古学教授に就任、1942年には“What Happened in History”(歴史のあけぼの)を出版した。チャイルドが提唱した新石器革命論は、世界の考古学、歴史学に大きな影響を与えた。1956年にロンドン大学を辞し、シドニーで引退生活を送っていたが、1957年にブルー山脈中の崖から身を投げて自死した。

チャイルドは、文化史(先史考古学)に、マルクスの唯物史観を導入したことで知られている。

「考古学は、人間の経済や社会的生産制度における急激な変革を追及できるし、また追及するものである」、「考古学は、経済制度の変化や生産手段の改良を観察し、これを年代順に示すことができる。考古学者は先史時代を石器時代、青銅器時代および鉄器時代に三分しているが、・・かれらは、物のきる道具、とくに斧(そしてこの道具はもっとも重要な生産道具の一つである)につかった材料にもとづいている。唯物史観は、社会制度や経済組織の形式を組たて、これを決定するにあたって、生産道具の重要性を主張する」(文献1)

チャイルドが立脚したもうひとつの原理は、進化論である。

「歴史家のいう『進歩』とは、動物学者のいう進化と同種のものである、といっていい。ここで、のぞましいことは、動物学の規則に適用できる標準は、動物学者とか、そのほかの自然科学者の特徴とする公平さや客観的判断を歴史家にもたせるかもしれないことである。さて、生物学者にとって、進歩は(もしこの言葉をつかうとすれば)生存競争における成功を意味することになっている」(文献1)

また、イギリスの産業革命を例にして、旧石器時代から新石器時代への変遷を『革命』と位置づけた。

「歴史上の変革は、それが、われわれ人類の存続と繁殖に役だった度合いによって、判定できる。これは人口表に、あらわすことのできる数字上の標準である。歴史上、われわれは、この数字の標準を直接に応用できる事件にであっている。そのもっとも、いちじるしい例はイギリスの『産業革命』である」


イギリス本国の人口概算表(1500-1800年)(参考:『文明の起源』)

「この数字と曲線の教訓に注意すれば、人類最古の時代にも別種の『革命』があったことを、看破することができるであろう。この『革命』は『産業革命』と同じ工合いに、すなわち人口曲線の上昇のような形であらわれているが、これも、おなじ標準から判定されなくてはならない。本書のおもな目的は、この角度から先史学と古代史を考察することである」(文献1)

そして、「新石器革命」を次のように定義する。

「人類の経済を変えた第一の革命(新石器革命)によって、人類は自分の食料供給を支配するようになった。人類は栽培と耕作をおこない、また食用の雑草、根茎および木をえらびだして、改良をはじめた。また、できるかぎり、ある種の動物に飼料をやり、保護をくわえ、めんどうをみてやった結果、その動物をならして、密接に、自分にむすびつけることに成功した」

新石器革命の特徴として以下の点を列挙している。

磨製石斧:食料生産者の最古の居住地に発見されるが、農耕の無かった時期のバルチック沿岸でも見つかるし、逆に穀物を生産していたナトゥーフ期人は斧を持っていないため、確実な指標ではない。

土器:新石器時代の共同体の一般的な特徴は壷の製作。ただし、ナトゥーフ期人はこれをつかわなかった。

織物:エジプトや西南アジアの新石器時代の遺跡では、亜麻などを材料にした織物の痕跡が見つかる。

村落:新石器時代の村の住居はバラバラでなく、キチンとした秩序で配置されている。共同体の活動を調整するための社会機関があったことを意味する。

なお、チャイルドはマルクス主義者らしく、「われわれは『新石器時代の体制』や『新石器時代の宗教』についての記述はこころみない。こうしたものが存在したことは本当にありそうもない」、「根強くしみこんだ習慣や、熱狂的に信じられた迷信は、社会の変革や、これを必要とする科学的進歩にたいして、あきらかに有害である」と論じている。

今日から見れば、チャイルドのマルクス主義の唯物史観、すなわち労働価値説および余剰価値説によって、古代の社会の構造や変化を説明することは、かなり無理がある。

チャイルドは、当時の「文化移動論者」(太陽巨石文化説)や「ドイツ歴史学派」(ウィーン学派、文化圏説)などの伝播主義を、非科学的であると批判した。さらに、「ヒットラー氏と御用学者たちが公然と説明するファシスト哲学は―しかし、これはときどき、イギリスやアメリカでは優生学というマスクをかぶっているが―進歩というものを、神秘的に表現された生物学上の進化と、まったくおなじもの、とみている」と、優生思想を厳しく批判している。

伝播主義

伝播主義は、19世紀末~20世紀前半に、ドイツ、オーストリア、イギリス、アメリカなどで盛んになった人類学の立場である。伝播主義では、異なる文化の間の共通性や類似を、人の移動、あるいは文化の伝播の結果と考える。

代表的な理論の一つに、ウィーン学派の「文化圏説」がある。文化圏説は、ドイツのフロベニウスによって民族学の理論として導入された。つづいて、歴史家のフリッツ・グレープナーは、『民族学方法論』(1911)を著して、様々な民族が、共通の起源から発生したとする進化論(単一起源説)に反論した。その後、文化圏説はドイツ、オーストリアで発展し、ウィーン学派のヴィルヘルム・シュミット(1868-1954)が、『神の思想の起源』(1912-1955)を著した。

シュミットはローマ・カトリック教会の司祭で、ベルリンとウィーンで言語学を学んだ。東南アジア、オーストラリア、オセアニアの言語を研究するなかで、すべての部族には、創造神である原始一神教が存在し、それぞれの文化圏が発展する過程で、多神教が発生した主張した。

一方、イギリスでは、マンチェスター大学の解剖学者のエリオット・スミスとペリーが、世界の文明の起源は古代エジプトであり、世界中の巨石文化などの遺物は、太陽崇拝のエジプトの巨石文化民族が移動して成立したと主張した。これは、「太陽巨石文化説」と呼ばれて大衆には人気があったが、人類学者からは実証に基づかない空論と批判された。

アメリカでは、ボアズと弟子のクローバー、ウィスラーらが、限られた地域内での緻密な分布研究を基に、人の移動や文化の伝播が、文化の成立に果たした役割を実証的に示した。しかし、その後、人類学における伝播主義の影響力は小さくなっていった。

グレイアム・クラークの生態学的アプローチ

チャイルドの新石器革命論に対し、同じ考古学者として批判したのは、グレイアム・クラーク(1907-1995)である。クラークはケンブリッジ大学ピーターハウス・コレッジで学び、同大学のディズニー教授、ピーターハウスのフェロー、学長の要職を長く務めた。クラークは、ヨークシャーのスター・カーの発掘調査(1949-1951)で大きな業績をあげた。

スター・カーは、ヨークシャーの中石器時代の遺跡である。数家族の狩猟民のキャンプ地跡で、最終氷期の氷床が解けて浸水したため、湖底に大量の遺物が残されていた。骨角製遺物をはじめ、多くの有機物が保存されており、気候、植生、動物相などの多岐にわたる情報が得られ、当時の生態環境の復元が可能となった。クラークらは、環境学的、生態学的な手法で総合的な調査を実施し、その後の考古学研究に大きな影響を与えた。


Star Carr collection at Yorkshire museum – mesolithic spear tips from the earliest known post glacial settlement in England(Author:Jonathan Cardy)

クラークは、チャイルドの新石器革命論=「経済や社会的生産制度における急激な変革」に対し、次のように述べる。

「先史時代の人間がコムギ、オオムギあるいはコメ、トウモロコシ、マニオク、カボチャ、マメなどを管理可能な栽培植物として育て始めたまさにその時、突如として新しい次元が開け文明化が可能となったと考えるのは誤りであろう」(文献3)

「インド、中国あるいは西南アジアの最古の農耕社会を理解するためには、先行する先史社会を充分に解き明かす必要がある。世界のあらゆる場所で高文明を支える基礎を敷いた先史時代―中石器時代ないし中間期―を、今や徹底的に調査する必要が生じている」(文献3)

チャイルドの新石器革命論以後、多くの考古学者や人類学者の調査により、新石器革命の理論と一致しない例が数多く存在することが明らかになってきた。たとえば、農耕を行わず、狩猟と採集を生業としていたにもかかわらず、きわめて精巧な土器を製作したり、大きな定住集落が存在した日本の縄文文化は、新石器革命論では説明がつかない。

さらに、農学者のジャック・ハーラン(1917-1998)の実験がある。ハーランは、トルコ南東部の野生コムギが自生する地域で、石器で作った鎌を使用して収穫実験を行った。結果は、野生ヒトツブコムギの1時間当たりの収穫量は、2ポンド(0.9kg)以上であった。これは、狩猟採集民の一家族が、3週間ほど野生コムギの採集をすれば、1年間食べていくのに十分な量である。(文献4)

労働価値説および余剰価値説に基づく唯物史観では、生産力の発展に応じて生産関係が発展するはずである。つまり、狩猟採集民が、狩猟採集社会の状態にあるのは、生産力が小さいためと説明される。ところが、中東の狩猟採集民は、十分な余剰価値を生み出すほど生産力が大きかったにもかかわらず、新たな生産関係に発展しなかったことを意味している(これについては後述)。

文献
1)ゴードン・チャイルド、1936、文明の起源、岩波書店、1951
2)アラン・バーナード、人類学の歴史と理論、明石書店、2005
3)グレイアム・クラーク、中石器時代、雄山閣出版、1989
4)Harlan, J.R., A wild wheat harvest in Turkey, 1967

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文化相対主義、機能主義:Cultural relativism, Structural functionalism

フランツ・ボアズ

19世紀の進化主義の隆盛に対して、文化相対主義を提唱したのは、フランツ・ボアズ(1858-1942)である。ボアズは、ドイツの自由主義的なユダヤ人夫婦のもとに生まれ、両親は、ボアズの自由主義、平等主義的な思想形成に影響を与えた。長じてボン大学やキール大学で物理学、数学、地理学を学んだ。大学生のときに、反ユダヤ主義者と決闘して傷を負い、人類の単一起源説を強く支持していた。

大学院の1883年に、イヌイットの調査を行うために、カナダ北東部のバフィン島を訪れたが、調査の過程で、食料、住居、病気などの困難をすべてイヌイットに頼らざるを得なかった。バフィン島での経験から、非西洋文化の研究に強い関心を持つようになった。

1885年にアメリカに移住し、博物館勤務、サイエンスジャーナルの副編集長、大学勤務などを経て、1896年にコロンビア大学で人類学の講師のポストを得た。1899年には、人類学の教授に昇進した。当時のアメリカの人類学は、モルガン以来の文化進化論が主流であり、ボアズはこれらの進化主義、人種主義を厳しく批判した。

1911年に” The Mind of Primitive Man “(未開人の心)の発表し、未開人も文明人もその心や知性は同等であり、その文化は平等であると唱え、台頭しつつあった人種差別主義と優生思想に対抗した。なお、ボアズはダーウィン進化論の支持者であったとされている。

ボアズはコロンビア大学で、ロバート・ローウィ、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミードなど、多くの弟子たちを指導した。ベネディクトの” The Chrysanthemum and the Sword”(菊と刀、1946)は、日本でもよく知られている。


The Chrysanthemum and the Sword

ボアズとその弟子たちは、20世紀のアメリカの人類学研究の中心的存在となり、長きにわたって大きな影響をおよぼした。

機能主義

機能主義では、社会は体系的に構造化されており、その機能体系は生物学的有機体に類似していると論じる。ユダヤ系フランス人で社会学者のデュルケム(1858-1917)は、機能主義的かつ進化論的立場をとっており、社会はさまざまな機能を有する部品からなり、それぞれの部品が進化して多様性を増すと考えていた。その後、ラドクリフ=ブラウンとマリノフスキは、進化論的立場をはなれ、同時代的な機能主義に純化していった。

ラドクリフ=ブラウン(1881-1955)はケンブリッジ大学で学び、アマンダン諸島とオーストラリアでフィールドワークを行ったのち、『アマンダン島人』(1922)として発表した。彼は、親族関係、宗教、政治などの社会制度は、個々の身体の器官のようであり、全体として健康な身体のように、社会体系の中で機能すると主張した(構造機能主義)。ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は、レヴィ=ストロースの構造主義人類学にも大きな影響を与えている。

なお、ラドクリフ=ブラウン自身は、自分が機能主義者であることを否定し、マリノフスキの機能概念と自分の機能概念を区別していたという。


Andamanese,1875

ブロニスワフ・マリノフスキ(1884-1942)は、ポーランド生まれで、父は貴族でスラブ語の教授であった(幼いうちに死んでいる)。大学で物理学と数学を学んだが、フレーザーの『金枝篇』を読んで影響を受け、民族学を志した。1910年からロンドンで学び、1914年にオーストラリアへ野外調査に出かけた。第一次世界大戦が始まったため、結果として6年間にわたってオーストラリアに滞在し、長期のフィールドワークを行った。1922年にトロブリアンド諸島の調査をまとめた『西太平洋の遠洋航海者』を発表すると、大きな反響を呼んだ。マリノフスキは、現地の言葉を用いて「参与観察」による長期のフィールドワークを始めて実施し、その後の人類学に大きな影響を与えた。


Picture of Bronislaw Malinowski with natives on Trobriand Islands(Author:likely Billy Hancock)

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