インフレなき財政ファイナンスの条件

最近、MMT(Modern Monetary Theory)という主張がはやっているらしい。超低金利では政府債務は問題でないという理由のようだが、それではなぜ超低金利になっているのかの説明になっておらず、超低金利が根本的な理由でもない。

超低金利の理由は、世界的に貨幣のストックが増大し、フローとフロートが停滞しているためだ。

不況と恐慌の本質
ストックされた貨幣の増大
恒常所得と貨幣量
貨幣の供給


Mt:貨幣の総量
Ms:とうぶん使う予定がなくストックされた貨幣量(stock)
Mft:自由に使えるが流通していない貨幣量(float)
Mfw:財と交換され流通している貨幣量(flow)
Mt=Mfw+Mft+Ms

ストックが増大してフローとフロートが停滞するということは、使ったり活用したりせずに貯めておくお金が増えることなので、低金利になるのは当然だ。ストックが増大する理由は、世界戦争や革命がなく、ストックを保有する先進国の人口増加が停止し、かつ富裕層からの徴税が困難なためだ。投資先は国内法が及ばない他国なので、投資がそれほどすすまず、フローとフロートが大きくならない。賃金が安い国は社会が不安定なばあいが多く、投資のリスクが大きいためだが、最近は移民政策も支持されなくなっている。

次に、日銀が財政ファイナンスによって貨幣を増やしても、インフレにならない理由は、日本の人口が増えず、賃金が上がらず、日本人が生産する商品の競争力が大きいためである。

発行した貨幣は、社会保障や財政支出に使われるので、その分の円のフローは増える。しかし、日本人がつくる商品は競争力が大きいので、輸出量が多い。海外で日本の商品を買って日本の企業にドルで支払うと、日本の企業は賃金を払うためにドルを売って円を買う。貨幣を発行しても市場では円が買われて円安にならず、国内人口は増えず、賃金も上昇していないので、インフレにならない。

インフレになるのは、中国や東南アジアなど、投資が増えて賃金が上昇し、フローとフロートが増大する国だ。

なお、日本がインフレになるのは、おもな輸入品であるエネルギー(石油、天然ガス、穀物)の価格が上昇したときだ。

しかし、国家の財政規律が緩んで、政府が労働者と企業を過剰に保護するようになると、社会の競争力が小さくなる。競争力が無くなると、輸出が減って市場で円が買われないので円安になってインフレになり、貨幣を発行すればインフレが加速する。80年代の原油安で、ルーブルを乱発して崩壊したソ連の状態になる。

インフレなき財政ファイナンスが可能なのは、競争力が大きい国だけある。

また、財政ファイナンスによって政府債務が増大しても、将来世代の負担が大きくなるわけではない。なぜなら、政府と中央銀行は本質的には同一であって、債務者と債権者が同一だ。債権者と債務者が同じなので、全体としては債務と債券の合計はゼロである。つまり、将来も大きな競争力が維持されることとエネルギーの確保が重要なのであって、財政ファイナンスによる政府債務そのものは重要ではない。財政ファイナンスによる政府債務の増加は、それだけ貨幣を印刷して増やしたということにすぎない。

cf
古代メソポタミアの徳政令
為替と賃金
財、貨幣、価格の根源-エネルギーと差異

広告

リンと人間の運動 Phosphorus and human movement

発見されているもっとも古い農業書は、ウル第三王朝時代に書かれた『農夫の教え』という粘土板だ。ウル第三王朝は、紀元前22~21世紀にメソポタミアを支配した王朝である。『農夫の教え』は学校の教科書として書かれたもので、ウルとニップルから出土している。この農業書には、灌水、耕耘、作条、播種などの方法について詳しく書かれているが、肥料については何もふれられていない。

古代のチグリス・ユーフラテス下流域では、作物の生産性がきわめて高かった。しかし、繁栄を誇ったメソポタミア文明が、数千年で衰退してしまったことから考えても、メソポタミアでは肥料を積極的に施用していなかったのかもしれない。


ウル・ナンム(BC.2100)が建造したとされるウルのジッグラト

ヨーロッパの農業書では、古代ローマの大カトー(Marcus Porcius Cato Censorius, BC.234-149)が書いた“De Agri Cultura”がある。この農業指導書には、牛や豚などの糞尿を肥料として作物に与えることが記されている。(*1)


古代ローマのハーベスター

いっぽう、古代中国では、春秋戦国時代の『荀子』(BC.313?-238?)富国編に、「多糞肥田、是農夫衆庶之事也」(肥料を多くして田を肥やすのは、農夫衆庶の仕事である)とあり、『韓非子』(BC.280?-233)解老編には、「積力於田疇、必且糞灌」(田に力を注ぐならば、必ず肥料と灌漑をおこなう)と伝えられている。前漢晩期に書かれた『氾勝之書』には、「春草生、布糞田、復耕、平摩之」(春草が生えたら、田に糞(こやし)を散布し、耕して平摩(鎮圧)する)と書かれている。北魏の賈思勰が書いた『斉民要術』(6世紀)には、「其踏糞法、凡人家秋收治田後、場上所有穰、穀禾戠等、並須收貯一處。每日布牛腳下、三寸厚」(踏糞法とは、およそ農家は秋収、治田が終わったら、作業場にある一切のわら、刈株の類をすべて一か所に取り集め、毎日これを牛舎に三寸厚に敷く)とあり、敷きわらと牛の糞尿から堆肥を製造していたことがわかる。(*2)

南宋の陳旉(1076-?)による『陳旉農書』には、農家が使うべき肥料として、大糞(人糞)、鶏糞、苗糞(栽培した緑肥)、草糞(野草、樹木の葉、雑草、糠、秕を利用して作った肥料)、火糞(燻土、燻肥等の肥料)、泥糞(溝や他の泥を人の糞尿と混ぜたもの)があげられている。その他にも、禽獣の羽毛、皮革、石灰、蚕沙(蚕の排泄物および食べ残した桑の葉)、旧屋の壁土、草木灰、馬蹄や羊角の灰、魚を洗った水、米のとぎ汁、米麦の糠、豆殻等も肥料にされた。


神農氏

日本では、奈良時代初期に編纂された『播磨風土記』(713年~)に、苗代に敷草をしくことが書かれており、平安時代中期の『延喜式』(905年~)には、内膳の菜園で馬糞、牛糞が施されていたことが記されている。江戸初期に会津藩の村役人である佐瀬与次右衛門が書いた『会津農書』(1684年)には、刈敷き、落葉、馬糞、人糞を田畑に施用することがくり返し書かれている。1697年には、農学者の宮崎安貞が『農業全書』を著し、田畑を肥やす肥料として、苗糞(緑肥)、草糞、灰糞、泥糞、油糟、干鰯、人糞などがあげられている。(*3、4)

ヨーロッパや中国には見られず、日本で使われた肥料として魚肥がある。近世の日本では、干鰯、干鰊、〆粕、白子などの魚肥がさかんに利用されていた。干鰯、干鰊は、イワシ、ニシンを乾燥させたもので、〆粕はイワシ、ニシン、サンマなどを煮沸または蒸熱して搾油し、搾りかすを乾燥させたものだ。魚肥には、窒素とリン酸が豊富に含まれており、現代でも魚粉や魚かすとして用いられている。


魚かすの肥料成分(%)(山根, 1986)

干鰯が肥料として使われるようになったのは、戦国時代といわれているが、さかんに利用されるようになったのは江戸時代である。兵庫や堺に魚肥市場が早くから成立していたが、1624年に大坂の永代浜に干鰯揚場ができて、干鰯問屋が栄えて流通を担った。綿や茶などの換金作物にさかんに使用され、畿内では魚肥の需要に供給が追いつかなくなり、干鰯の供給地を関東に求めるようになった。房総半島の太平洋沿岸地域では、紀伊国から進出した漁民や問屋によって干鰯の生産と流通が始まり、代表的な魚肥の生産地域になった。(*5、6)

房総で生産された魚肥は、干鰯問屋によって浦賀に集荷され、関西方面に出荷されていた。元禄期以降には新田開発によって関東でも魚肥の需要が増大し、上総国の太平洋岸以北で生産された魚肥は、北関東地方に出荷されるようになった。

関西では、関東からの干鰯など鰯肥料の供給が減少したために、蝦夷地の干鰊や白子などの鰊肥料を求めるようになった。魚肥の需要の増大による干鰯価格の高騰で、農民と干鰯問屋が対立して国訴に発展するほどであった。


大坂における魚肥価格の推移(古田, 1990)



(古田, 1990)

江戸時代の江戸は、18世紀初頭には人口が100万人を超える世界最大の都市であったと推定されている。文明の中心地であった中国やヨーロッパではなく、極東の辺境地である日本に世界最大の都市が成立したのは、水田作や屎尿などの利用に加えて、豊富な魚肥のリンによって、大都市の人口を支える食料の供給が可能であったためであろう。

日本の近海が世界でも生産性が高い漁場であるのは、大陸の河川と海流によって、リンの供給が多いためである。日本列島の太平洋側を流れる黒潮は、長江から流れ出る豊富なリンを運んでくる。長江の河川水には、きわめて豊富なリンが含まれていることが知られており、年間1,300万トンの懸濁態リンが流れ出ているという。(*7)


(渡辺ら, 2001)

また、オホーツク海や北海道近海には、アムール川(黒竜江)から、豊富な河川水が流れ込んでいる。針葉樹林帯と湿地帯を流れるアムール川は、リンや鉄の溶存量が豊富で、オホーツク海や北海道の周辺は、きわめて生産力が高い漁場である。(*8)


アムール川(右側)とウスリー川(左側)の合流点(Author:Ondřej Žváček)

アムール川(Author:Kmusser)

なお、日本では江戸時代の中期以降に、ウシ、ウマ、クジラ、マグロ、カツオなどの骨を肥料として商う問屋が存在し、「山建座」や「海建座」と呼ばれた。骨の主成分はリン酸カルシウムである。薩摩藩では、シラス(火山灰土壌)の改良が課題であった。薩摩の門ノ浦(知覧町)の出身で、海運業を営む仲覚兵衛(1715-1800)は、大坂の渡辺村で廃棄物として大量に捨てられていた獣骨に注目し、骨粉肥料を開発した。大量の獣骨を大坂から薩摩に運び、水車で骨粉にして、菜種の肥料にした。南薩地方の菜種の生産高は倍増し、一大産地になった。薩摩では1830年に山建座(獣骨取扱所)が設けられて、各地から獣骨が集められ、骨粉肥料が普及した。(*9)


仲覚兵衛屋敷跡(南九州市知覧町南別府門之浦)

ヨーロッパでリン酸肥料が利用されるようになったのは、18世紀のイギリスである。イギリスでは、リン酸肥料の原料として、動物や人間の骨が利用された。骨が肥料として利用されるようになったのには、いくつかの伝承がある。

シェフィールドは11世紀のころから鉄器の製造がさかんであったが、のちに、刃物産業が栄えた。刃物の製造では、柄に動物の骨、角、象牙などが利用されたので、骨や角の削りクズが廃棄物として大量に発生した。18世紀に、骨クズを廃棄した場所では植物の生育が良いことが知られるようになり、骨クズが肥料とて利用されるようになった。骨クズは肥料効果が高く、やがて、商品として取引されるようになった。

ヨークシャー地方でも18世紀の末に獣骨が肥料として利用されるようになり、骨を粉砕するための専用の機械が発明された。骨粉は、肥効をあげるために、堆肥と混ぜて施用されたという。

骨粉中に含まれるリン酸は、リン酸三カルシウム(3Ca3(PO4)2・Ca(OH)2)である。骨粉肥料の平均保証成分は、窒素3.4%、リン酸18.7%で、肥効は緩効性である。

骨粉中のリン酸は、水に溶けにくいが、その60~70%は、2%クエン酸に溶け(ク溶性)、粒が細かいほど肥効が早い。アルミニウムと鉄が多い日本の火山灰土壌では、リンが固定されやすい。しかし、酸性の火山灰土壌では、骨粉が溶解しやすいので、有効なリン酸肥料になる。いっぽう、カルシウムが多いアルカリ性土壌では、骨粉が溶解しにくく肥効が悪くなる。

1808年にアイルランドのジェームズ・マレイ(James Murray)が、骨を硫酸で処理すると、植物にリン酸が吸収されやすくなることを発見した。

1836年に、ジョン・ベネット・ローズ(John Bennet Lawes, 1814~1900)は、3年にわたってカブに骨粉を施用したが、肥料効果が無かった。ローズの農場があるロザムステッドは、石灰岩質の土壌であった。1839年に、骨粉を硫酸で処理して施用したところ、大きな効果があった。ローズは、1842年に過リン酸石灰の特許を取得し、すぐに工場を建設して製造を開始した。

なお、1840年にドイツのリービヒも、骨粉に希硫酸を加えると、施肥効果が高まることを報告している。


ローズが1843年に設立したロザムステッド試験場(Rothamsted Research)

話が脱線するが、ローズとリービヒのあいだで、窒素の施用をめぐって論争がおきた。リービヒは、1840年に刊行した『有機化学の農業および生理学への応用』(Die organische Chemie in ihrer Anwendung auf der Agrikultur und Physiologie)(1843年改定)において、作物は窒素を大気中から得ているので、農業上も十分であると主張した。ローズは、ギーセン大学のリービヒの下で学んだジョセフ・ヘンリー・ギルバート(Joseph Henry Gilbert)をロザムステッドに迎えていたが、リービヒの説に疑問を抱き、1843年に栽培実験を始めた。

その結果、ミネラルのみを施用したコムギの収量は、無肥料の圃場の収量とほとんど同じであった。いっぽう、少量の硫安を施用した圃場は収量が多くなり、それは大量の厩肥を施用した圃場と同等であった。ローズとギルバートは、1845年に論文を発表し、窒素の施用は必要ないとするリービヒの説に反論した。ローズが1843年に設立したロザムステッド試験場では、1856年に開始された長期の栽培実験(Park Grass Experiment)が現在までつづけられており、現代科学のもっとも長い実験の一つである。(*11)



(犬伏, 1988)

過リン酸石灰の発明によって、ヨーロッパ中から動物骨や人骨が集められて、リン酸肥料が大量に製造されるようになった。イギリスでは骨が不足して、代わりのリン酸肥料として、ペルー産グアノが使われるようになった。


グアノ

1~7世紀のペルー海岸のモチェ文化では、灌漑農業が発達していた。長大な灌漑用水が建設され、トウモロコシ、ジャガイモ、ピーナツ、トウガラシなどが生産された。ペルーの沖合の島には、海鳥の糞が堆積した「ファヌ」と呼ばれる肥料が豊富に存在し、これを農地に施用していた。ファヌとはグアノのことだ。

13世紀のインカ帝国でも、グアノは重用され、大きな農業生産力を実現していた。16世紀のインカ帝国には、80の民族と1,600万の人口が存在したとされている。

ペルー沿岸では沿岸湧昇が発生し、海水が深層から表層へ湧き上がるように流れる。このため、海底のリンが海面近くに押し上げられて、プランクトンが大発生する。プランクトンを食べるイワシやニシンが大量に増殖して、それを食べるカツオドリ、カモメ、ペリカンなどが大繁殖する。海鳥が営巣する海岸部の島では、大量の糞が排泄されるが、ペルーの沿岸部は乾燥して雨が降らないので、30mもの厚さで糞が堆積していた。

ドイツの地理学者のフンボルト(1769-1859)は、1799~1804年に中南米を探検して、グアノの肥料効果をヨーロッパに報告した。なお、ダーウインがビーグル号でガラパゴス諸島を訪れたのは、1835年である。

グアノには、窒素質グアノ(N:11~16%、P:8~12%)と、リン酸質グアノ(N:4~6%、P:20~25%)の2種類がある。窒素質グアノは、可溶性のリン酸が多く、そのまま圃場に施用できる。リン酸質グアノは、長期間の風化で窒素が溶脱し、リン酸は卵の殻や下層のサンゴのカルシウムと結合して難溶化、鉱物化している。

スペイン人が新大陸の金や銀の採掘に熱中したのに対し、グアノの価値にいち早く注目したのはイギリスであった。1840年にペルーのグアノがリバプールのマイヤーズ商会を通じてヨーロッパに輸出され、グアノの高い生産力がヨーロッパに広く知られるようになった。

1843年からは、グアノはアメリカに輸出されて、南部のタバコや綿花の生産者に大きな利益をもたらした。そのころ、アメリカ南部や東部の農場では、肥料を施さずに作物を栽培してきたために、大幅な減収に悩まされていた。アメリカでは、1840~50年代に「グアノラッシュ」がおこり、ペルー沿岸やカリブ海の島のグアノをめぐって、国家規模の紛争が発生した。(*11)


チンチャ諸島(Chincha Islands)、1910

チンチャ諸島のグアノ鉱山、1860

チンチャ諸島、1863

チンチャ諸島、1863

アメリカは、1850年代に、グアノを求めて海外へ領土拡張するようになった。ハワイでは、1850年に外国人の土地私有が認められるようになり、1858年にジョンストン島でグアノの採掘がはじまった。日本にペリーが来航したのは1853年である。

1867年に、アメリカのサウスカロライナでリン鉱石が発見され、ロシアのコラ半島(1885年)やフロリダ(1888年)でもリンの鉱床が発見された。リン酸肥料は、リン鉱石から製造されるようになった。

リンを獲得する運動は、エネルギーの獲得とならんで、人間の歴史の変遷の原動力である。

追記
リンの獲得とヒトの運動をホワイト流に書くと、次のようになる。

樹上生活  果実のリン
狩猟採集  動物、子実、根茎のリン
農耕牧畜  イネ科植物のリン
近世    骨のリン
近代    グアノ、鉱石のリン


中国雲南省のリン鉱石、カンブリア紀の生物が濃縮して堆積した鉱物(Author:James St. Joh)

文献
*1)Cato the Elder (BC.234-149) De Agri Cultura.
*2)郭文韜ら (1989) 中国農業の伝統と現代. 農山漁村文化協会.
*3)滝川勉 (2004) 東アジア農業における地力再生産を考える―糞尿利用の歴史的考察. アジア経済45巻3号p59-76.
*4)佐瀬与次右衛門. (1684) 会津農書.
*5)古田悦造 (1990) 近世近江国における魚肥の魚種転換と流通構造. 人文地理第42巻第5号.
*6)古田悦造 (1996) 近世魚肥流通の地域的展開. 古今書院.
*7)渡辺正孝ら (2001) 東シナ海における長江経由の汚染・汚濁物質の動態と生態系影響評価に関する研究.
*8)白岩孝行 (2011) 魚附林の地球環境学. 昭和堂.
*9)高橋英一 (2004) 肥料になった鉱物の物語. 研成社.
*10)犬伏和之 (1988) イギリスの四季ーロザムステッドを中心として. 肥料科学 第11号 79-98.
*11)Jimmy M. Skaggs (1995) The Great Guano Rush: Entrepreneurs and American Overseas Expansio. Palgrave Macmillan.

あらゆる有機物から肥料を作る方法
電子園芸BOOK社 (2016-07-29)
売り上げランキング: 37,206
肥料を知る土を知る―豊かな土つくりの基礎知識
農山漁村文化協会
売り上げランキング: 584,243

リンと生物 Phosphorus and life

「近代農学の祖」と呼ばれているのは、ドイツのアルブレヒト・テーア (Albrecht Daniel Thaer, 1752-1828)だ。テーアはザクセン州の医師の家に生まれ、ゲッティンゲン大学で医学を学んだ。医師として仕事をしながら、園芸や農業に強い興味を持ち、農地を購入して花や果樹などさまざまな植物を栽培した。農業に専念しようとしていたところ、イギリスの王(ジュージ3世)の個人医を委嘱された。

当時のドイツは、イギリスにくらべて農業技術や制度が遅れていた。テーアは、イギリスの最新の農業をドイツに紹介するために、1798年に、“Einleitung zur Kenntniß der englischen Landwirthschaft und ihrer neueren practischen und theoretischen Fortschritte in Rücksicht auf Vervollkommnung deutscher Landwirthschaft”(イギリス農業の知識とドイツ農業の改善に関する最近の実際的および理論的進歩)を書いた。


アルブレヒト・テーア(Albrecht Daniel Thaer, 1752-1828)

1802年に、ツェレにドイツで最初の農業学校を設立したが、1804年にヴリーツェンに移転した。1809~1812年に“Grundsätze der rationellen Landwirthschaft”(合理的農業の原理)を著して、近代農学を創設した。

テーヤは、土壌を分析して、埴土、壌土、砂土などに分け、泥炭、泥灰質土壌、石灰土壌、腐植土などの階級に分類した。そして、土の肥沃さは腐植に由来し、腐植が多いほど、生産力が高いとした。また腐植のもとになるのは堆厩肥などの動植物に由来する肥料と考えていた。テーアが「腐植栄養説」を唱えたのは、腐植は植物性物質であり、植物は、植物に類似した物質を栄養にしていると仮定したからだ。

「作物にその養分の最も本質的なもの、かつ必須の部分を与えるものは、本来的にはただ動植物によってつくり出される堆厩肥だけ、すなわちまさに分解可能な状態にある腐食質(いわゆるフムス「腐植」)だけである」(*3)

カール・シュプレンゲル(Carl Sprengel, 1787-1859)は、ドイツ北部のハノーバーに生まれ、早くから農夫になることを望んでいた。15歳のときにテーアの農業学校に入学し、農業学校で働きながら学んだ。その後、農業のコンサルタントとして働き、ヨーロッパ各地を旅行して農業を研究した。1821年に34歳でゲッティンゲン大学に入学して、化学、物理学、植物学、鉱物学、地質学、数学を学んだ。卒業後に大学に残って農業化学の講義をおこなった。


カール・シュプレンゲル(Carl Sprengel, 1787-1859)

シュプレンゲルは、1826年に、植物の灰から、硝酸、硫酸塩、塩化物、リン酸塩を抽出して論文として報告した。テーアは腐植そのものが植物の栄養素と考えていたが、シュプレンゲルは、植物が栄養にしているのは肥料や腐植に含まれるミネラル(鉱物、無機物)であり、植物中に存在するミネラルが、植物に必須の栄養素であるとした。

1828年には、植物の無機栄養素として、窒素、リン、カリウム、イオウ、マグネシウム、カルシウムなど20種の元素を提示した。また、植物の成長に12の物質が必要ならば、そのうち1つでも不足すれば、植物は成長できないとする「最小律」をあきらかにした。1837年から、土壌や植物栄養についての3冊の教科書を著し、1842年には念願であった農業学校をレーゲンヴァルデに設立した。

なお、シュプレンゲル以前にも、スイスの化学者のドゥ・ソシュールは、1804年に、種々の塩類(とくにリン酸、カリ、カルシウム)が植物の生育に必要なことを示した。また、イギリスのデイヴィは、1813年に、無機物が植物栄養分の一部になると指摘していた。

それまでの農業の歴史では、作物の肥料は、動物の糞尿や動植物の遺体に由来するものであったが、1840年代のヨーロッパでは、ペルー産グアノとチリ硝石が輸入されて、肥料として使われるようになっていた。シュプレンゲルらの無機栄養説によって、鉱物を肥料として利用できることがあきらかになり、グアノ、リン鉱石、硝石が肥料として大量に使用されるようになった。この「肥料革命」は、食料と人口を増大させ、ヨーロッパの産業革命の大きな要素の一つであった。

なお、一般には無機栄養説と最小律は、ユストゥス・フォン・リービヒ(Justus Freiherr von Liebig, 1803-1873)による発見といわれている。これは、リービヒがシュプレンゲルの論文引用を示さず、無機栄養説を自分の説としたためで、リービヒの成功と名声によって、シュプレンゲルの業績は忘れられてしまった。

1950年ごろに、ドイツの研究者によって、忘れられていたシュプレンゲルの業績が報告され、1951年には、三沢嶽郎氏もドイツの歴史的な文献を調べ、無機栄養説と最小律はシュプレンゲルの業績であることを指摘している。最小律の説明として、ドベネックが考案した桶のモデルがよく知られている。


ドベネックの桶(source:Soils and soil fertility)

以前(2016.5.29ブログ)にも書いたが、地球の地殻に存在する元素を多い順から並べると、O、Si、Al、Fe、Ca、Na、K、Mg、Ti、H、P、Mn、F・・である。O、Si、Al、Fe、Caの5つで、91%を占める。つまり「土」の91%は酸素、ケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウムでできている。リンPは、重量あたりで0.12%なので、土1tのなかに1.2kg含まれる。

最初の生命は海で誕生したと考えられているが、海水に含まれる元素は、Cl、Na、Mg、S、Ca、K、Br、C、N、Sr、B、Si、O、F、Ar、Li、Rb、P・・の順になる。リンPは、水1tのなかにわずかに0.062gしか含まれていない。地殻に多いケイ素、鉄、アルミニウム、リンが海水中に少ないのは、水に溶けにくく、重いためだ。

リンは植物の成長に必須な元素で、葉や果実などの組織中の養分の濃度は、N、K、Ca、Mg、Pの順だ(次表)。いっぽう、土壌液中のリンの濃度は他の元素に比べてきわめて低い。植物の根は、培地中のリンを、1,000~10,000倍の濃度勾配を超えて吸収することができるとされている。

土壌中の無機養分は、水と一緒に根から吸収されて道管に入るが、道管汁液中の養分濃度は、植物が薄めている可能性がある(2016.6.19ブログ参照)。そこで、組織濃度と土壌液中の濃度から、濃縮係数(T/S)を別に計算してみる。濃縮係数の大きさは、P、N、K、Ca、Mgの順で、リンは他の元素にくらべて100倍以上も濃縮されている。

植物が、エネルギーを使って能動的に無機養分を吸収していると仮定して、組織濃度に濃縮係数をかけてコストを概算すると表の右側のようになる。キウイフルーツは、無機養分の獲得に要するコストの80%以上を、リンの獲得のために費やしている。

イクラ(サケの卵)の金属元素濃度を見ると、リンの濃度がもっとも高く、P、K、Mg、Ca、Na、Zn、Fe、Cu、Sr、Se、Mn・・の順になる。濃縮係数は、Fe、Hg、Mn、P、Cu、Zn、Co、Ag・・の順だ。これらの金属元素の濃縮係数が大きいのは、元素が重く海底に沈んでしまうので、海水中の存在量が少ないためだ。いっぽう、Na、Mg、Sr、Uについては、コストをかけて外部に排出している。

サケが金属元素を獲得するためのコストを見るために、濃度と濃縮係数をかけると、表の右側になる。獲得コストは、P、Fe、Zn、Cu、Mn、Se、K・・の順であり、リンが全体の96%を占める。また、リンと鉄を合わせると、99.4%にも達する。なお、地殻にきわめて存在量が多いアルミニウムが、イクラにまったく含まれていないのは興味深い。

金属元素だけで見れば、海の生物はほとんどリンを獲得するために、海の中を動き回っているようなものだ。生物が海から陸上に進出した理由のひとつは、リンを獲得するためであろう。また、これほど、海水中にリンが不足していることからすると、海に棲む生物のリンの循環は、海底に沈殿したリンが大きな位置を占めていることが予想される。海底の泥のなかに棲む微生物、センチュウ、貝類、甲殻類などが、海のリン循環に大きな役割を果たしていると考えられる。

生物の生存に必要なのは、エネルギーと物質だ。地球上の生物が利用できるおもなエネルギーは、太陽に由来するエネルギーと、地球内部の熱に由来するエネルギーである。生物は、エネルギーを利用して構造を構築しながらエントロピーを排出するシステムであり、そのシステムを構築するのは情報(自己複製する遺伝子)と物質だ。そして、システムの構築に有用な物質を、地球の環境中から獲得している。


e:エネルギー
s:エントロピー

エネルギーと水が存在するところでは、生物がもっともコストをかけて獲得している物質はリンであり、シュプレンゲルの最小律から考えれば、リンの獲得量に生物量が大きく左右される。生物の個体同士や種同士は、リンをめぐって激しい生存闘争をくりひろげていると見ることもできる。

文献
*1)Albrecht Daniel Thaer (1809-1812) Grundsätze der rationellen Landwirthschaft.
*2)三沢嶽郎 (1951) リービッヒの思想とその農業経営史上における意義. 農業技術研究所報告. H, 經營土地利用.
*3)熊澤喜久雄 (2008) テーアの「合理的農業の原理」における土壌・肥料. 肥料科学,第30号,89~138.
*4)西尾道徳 (2015) 植物の無機栄養説と最小律の発見者はリービッヒではなかった.
*5)西尾道徳 (2015) 植物の無機栄養説と最小律の発見者はリービッヒではなかった:その2.
(三沢嶽郎論文の存在を指摘した読者というのはわたしです)
*6)佐々木泰子 (1976) リンの吸収と生理作用,農業技術大系土壌施肥編.農山漁村文化協会.
*7)原口紘炁, 松浦博孝 (2004) 生体金属支援機能科学と生物細胞全元素分析.
*8)農文協編 (2011) 肥料を知る土を知る. 農山漁村文化協会.

自然農法とは何か: ゆらぎとエントロピー
電子園芸BOOK社 (2016-12-11)
売り上げランキング: 93,260
肥料を知る土を知る―豊かな土つくりの基礎知識
農山漁村文化協会
売り上げランキング: 433,057

地質と土壌 Rock and Soil

人が狩猟採集段階から農耕段階へと生業スタイルを変化させたのは、「無意識」であったと思われる。自然界で、植物を栽培したり動物を飼育したりするのは、人間だけはない。ハキリアリは、木の葉を切り取って巣に運び、ハラタケ科のキノコ(担子菌)を植え付け、キノコを栽培している。また、多くの種類のアリが、アブラムシやカイガラムシを飼育して、甘露を食料にする。


葉を巣へ運ぶハキリアリ(Author:Eli Duke)


葉にキノコの菌を植え付ける(Author:Clinton & Charles Robertson)

彼らはもちろん、「意識」して農耕や牧畜をはじめたわけではない。アリとキノコ、アリとアブラムシの「延長された表現型」の関係は、遺伝子の変異と自然選択の結果にすぎない。

人間も、アリと同じように、「無意識」にイネ科植物と「延長された表現型」の関係へと変化したにちがいない。そうでなければ、西アジア(コムギ、オオムギ)、中国大陸(アワ、イネ)、新大陸(トウモロコシ、カボチャ)で、別々に農耕がはじまったことを説明できない。

人類学者たちは、農耕段階への変化を「革命」とか「ゆっくりした変化」とか区別して書くことを気にするが、そのようなことは本質とは関係がない。長い時間で見れば「急激」だし、短い時間でみれば「ゆっくり」だ。どのような場所で、どのように、「無意識」に農耕がはじまったかを考えるには、農業の知識が無いと話にならない。そこで、農業の基本的なことを述べる。

土と土壌

「土」と「土壌」の定義は、学者によっていろいろな意見がある。土とは、「地殻の上層部の粉状、粒状の物質」というのが一般的な定義で、岩(rock)や木(wood)は、土には入れない。日本の土壌学者は、土と土壌を区別して、土壌とは「生物の活動によって生成した表層の土」と考える人が多い。英語では土と土壌を区別する言葉はなく、両方とも“soil”だ。

地殻の表層の土壌を掘っていくと、風化がすすんでいない岩が出てくるが、これは母材とか母岩と呼ばれる。ふつうは、母材が風化してレゴリス(regolith)になり、生物の作用でレゴリスから土または土壌が生成すると認識されている。レゴリスとは、風化によって岩が砕け、細かい粉砕物が堆積した物だ。生物の作用がない月や火星の土を考えればよい。


月の土


火星の土

地質

地質とは、地殻の岩石や地層などの構造や性質のことであるが、農業と関係が深いのは、母材の成り立ちや古さの指標となる、地質年代と火成岩の性質だ。

冥王代(Hadean):46~40億年前、地球が形成され、生命が誕生するまでの期間、岩石はまれ。

太古代(Archean):40~25億年前、始生代ともいい、古細菌と真正細菌が繁栄。

原生代(Proterozoic):25~5.41億年前、シアノバクテリアによって大気中に酸素が増加した。真核生物や多細胞生物が出現。

カンブリア紀(Cambrian):5.41~4.854億年前、藻類、三葉虫、腕足類、サンゴなどが繁栄。

オルドビス紀(Ordovician):4.854~4.438億年前、オウムガイなど軟体動物、三葉虫など節足動物、魚類、サンゴなど。

シルル紀(Silurian):4.438~4.192億年前、魚類、陸上植物、陸棲節足動物など。

デボン紀(Devonian):4.192~3.589億年前、コケ、シダなどの植物、魚類、多足類が発展。

石炭紀(Carboniferous):3.589~2.989億年前、シダ植物、昆虫、両生類が栄えた。

ペルム紀(Permian):2.989~2.519億年前、シダ植物、裸子植物、両生類、爬虫類、双弓類、単弓類、昆虫、軟体動物、棘皮動物、腕足類、三葉虫など。

三畳紀(Triassic):2.519~2.013億年前、シダ植物、イチョウ類、ソテツ類、針葉樹、アンモナイト、二枚貝、放散虫、エステリア、棘皮動物が栄え、恐竜、翼竜、ワニが出現。

ジュラ紀(Jurassic):2.133~1.45億年前、イチョウ、ソテツ、針葉樹などの裸子植物、恐竜、爬虫類、魚類、アンモナイトなど。

白亜紀(Cretaceous):1.45億~6,600万年前、針葉樹など裸子植物、被子植物、恐竜、爬虫類、硬骨魚類、アンモナイト、棘皮動物など。

古第三紀(Paleogene):6,600~2,303万年前、裸子植物、被子植物、哺乳類、鳥類など。

新第三紀(Neogene):2,303~258万年前、哺乳類、鳥類の繁栄。

第四紀(Quaternary):258万年前~現在まで、ヒト属が出現。

火山岩(volcanic rock):マグマ由来の岩石(火成岩)のうち、火口近くで急激にマグマが冷えて固まったもの。噴出岩(effusive rock)とも。岩石中の鉱物の粒が小さい。

貫入岩(intrusive rock):マグマが地下で冷えて固まった岩石、深成岩。花崗岩は、地下深くでゆっくり冷えて固まるために、石英(SiO2)や長石(KAlSi3O8)などの結晶が成長する。

変成岩(metamorphic rock):もとからあった岩石が、熱や圧力などの変成作用を受け、鉱物の種類や岩石の構造が変化してできた岩石。


火山灰、光学顕微鏡(Author:Wilson44691)


火山灰、電子顕微鏡


軽石、鹿沼土、マグマが発泡して生成(Author:KENPEI)


玄武岩(Basalt)、溶岩流で生成、デカン高原、ハワイなど


安山岩(Andesite)、プレートの沈み込み帯に多い火山岩(Author:Siim Sepp)


花崗岩、マグマが深部でゆっくりと冷却


真砂土、花崗岩が風化してできた砂(Author:Akiyoshi’s Room)


World geologic provinces


World geology map

土壌

土壌は多様で構造や成り立ちが複雑なので、それを分類するのはかなり難しい。現在の世界の土壌分類は、米国農務省土壌分類(USDA soil taxonomy)と世界土壌照合基準(World Reference Base for Soil Resources, WRB)がある。USDA soil taxonomyは、米国農務省のGuy Donald Smithらによって分類され、WRBは、FAOと国際土壌科学会議によって提案された。ここでは、USDA soil taxonomyについてふれる。

エンティソル(Entisol):最近形成された土壌、未熟土。裸岩など、生物による化学的物理的作用を受けていない。

インセプティソル(Inceptisol):特徴が少ない若い土壌。溶脱や風化が少ない。

ジェリソル(Gelisol):永久凍土。1年を通じて土が凍結している。

スポドソル(Spodosol):ポドゾル。針葉樹林の微生物が放出する酸などによって、アルミニウムや鉄が溶解して、上層に砂(ケイ酸)だけが残る。下層ではAlとFeが析出して赤褐色の粘土質になる。強い酸性土壌。

ヒストソル(Histosol):泥炭土、有機質土壌。湿地帯で植物遺体が分解されずに堆積している。

アルフィソル(Alfisol):塩基に富む森林土壌、粘土集積土壌。モリソルより降水量がやや多く、樹木が生育する森林に形成される。やや酸性。上層は砂が多く下層は粘土が多い。下層にはカルシウムが集積して炭酸カルシウムになる。テラロッサ、テラローシャ、レグールなど。

バーティソル(Vertisol):スクメタイトが多く、乾、湿の繰返しにより膨張、収縮する暗色粘土土壌。草原地帯の湿地などで形成され、きわめて肥沃。プレーリーの黒土、レグールなど。

モリソル(Mollisol):チェルノーゼム、プレーリー土。温帯から寒帯にかけての年間250~750ミリ程の降水量では、草原ができる。乾燥する夏と寒冷な気候のために有機物の分解が進まず腐植が多い。中性土壌。

アンディソル(Andisol):黒ボク土。火山灰の土で発達し腐植が多い。

アリディソル(Aridisol):乾燥地域の砂漠土、塩類が集積。

アルティソル(Ultisol):塩基が流亡した森林土壌で、粘土が集積している。東南アジアなどの熱帯雨林の樹木の酸によって塩基が溶解流出しているが、鉄とアルミは溶けずに赤い色になる。熱帯の樹木はアルミが多い土壌で生息できるが、西アジアやアメリカ原産の作物は、アルミの毒で育たない。

オキシソル(Oxisol):ラテライト。熱帯の酸化物に富む極度に風化した土壌、アフリカや南米の古い大陸の熱帯雨林に多い。


エンティソル(Entisol)、未熟土


インセプティソル(Inceptisol)、若い土壌


ジェリソル(Gelisol)、永久凍土


スポドソル(Spodosol)、ポドゾル


ヒストソル(Histosol)、泥炭土


アルフィソル(Alfisol)、塩基に富む森林土壌


バーティソル(Vertisol)、暗色粘土土壌


モリソル(Mollisol)、チェルノーゼム、プレーリー土


アリディソル(Aridisol)、砂漠土


アルティソル(Ultisol)、塩基が流亡した森林土壌


オキシソル(Oxisol)、ラテライト、風化した土壌


世界土壌図 (菅野ら, 2009)

日本では農耕地土壌分類と林野土壌分類が別々に行われてきたが、2017年に日本土壌分類として統一された。

造成土:客土や造成によって自然状態と異なる土壌。

有機質土:湿生植物の遺体が、過湿のため分解せずに堆積した土壌。泥炭土。

黒ボク土:母材が火山灰に由来し、リン酸吸収係数が高く、軽しょうな土壌。アロフェン、Al/Fe-腐植複合体、フェリハイドライトなど非晶質物質、準晶質粘土のイモゴライトなどが多い。

ポドゾル:漂白層の上に粗腐植層が存在する。北海道、東北、中部地方の山地に分布。

沖積土:現世の河成、海成、湖沼成沖積低地の土壌。

赤黄色土:赤黄色の粘土集積土壌。強い風化作用および土壌生成作用を受けており、表層からの粘土の移動集積や塩基が溶脱する。強酸性。

停滞水成土:停滞水や地下水の影響を受け、グライ特徴をもつ。

富塩基土:風化変質層または粘土集積層をもち、次表層が塩基飽和度50%以上の土壌。丘陵地や石灰岩台地に分布。

褐色森林土:風化変質層または粘土集積層をもち、下層は赤黄色の特徴を示す。母材は、固結火成岩、堆積岩、変成岩、非固結堆積物。

未熟土:層位の発達が無いか、非常に弱い。火山放出物未熟土、砂質未熟土、固結岩屑土、陸成未熟土。


黒ボク土(Author:Rockwurm)


日本土壌図 (菅野ら, 2008)

文献
*1)USDA (1999) Soil Taxonomy.
*2)FAO (2015) World reference base for soil resources 2014.
*3)日本ペドロジー学会 (2017) 日本土壌分類体系.
*4)菅野均志ら (2009) 土壌教育教材としての日本および世界土壌図の試作. 日土肥講要55, p201.
*5)菅野均志ら (2008) 1/100万日本土壌図(1990)の読替えによる日本の統一的土壌分類体系−第二次案(2002)−の土壌大群名を図示単位とした日本土壌図. ペドロジスト52, 129-133.

堆肥と土壌の作り方: 身近な有機物を利用する
電子園芸BOOK社 (2016-09-19)
売り上げランキング: 82,403

レヴァントの先土器新石器時代 Pre-Pottery Neolithic in the Levant

新石器革命という理論を提唱したのは、ゴードン・チャイルドであるが、当時は農耕文化の発祥地は、メソポタミアやエジプトと考えられていた。しかし、チグリス・ユーフラテス川の下流域や、ナイル川流域は、雨がほとんど降らない砂漠地帯であり、農耕の方法は、大規模灌漑農業である。「灌漑」というのは、水をよそから運んできて農地に供給するということだ。河川から砂漠の農地に水を引くには、大がかりな土木工事が必要であり、狩猟採集民であった初期の農耕民が、植物や動物がいない砂漠で農耕をはじめたとは考えられない。西アジアのどこかで「農業革命」がおきたとすれば、それは野生ムギ、野生ヤギ、野生ヒツジなどが、生息している場所でなければならない。

農耕の起源地を探して、チグリス・ユーフラテス川の上流域の調査をおこなったのは、アメリカの考古学者のブレイドウッド(Robert J. Braidwood, 1907-2003)らである。ブレイドウッドは、1948年から、野生のムギが自生し、天水農業が可能なイラク北部のジャルモ、カリム・シャヒル、マラッタなどの遺跡を調査した。

ジャルモ(Jarmo)は、チグリス川上流域に位置する、BC. 7000~5000年の新石器時代の集落跡である。ジャルモでは、オオムギやコムギが栽培されており、石鎌、石臼、かまど、石の碗などが出土している。ヤギ、ヒツジ、ブタ、イヌを飼育し、大量のカタツムリを食料にしていた。

建物は土壁によって長方形に仕切られており、20戸ほどの住居があった。集落の人口は150人ほどと考えられている。初期には土器が製作されておらず、土器があらわれるのは、最後の3分の1の期間である。ジャルモの細石器の多くは黒曜石であるが、黒曜石の産地は、いちばん近いところでも480km北である。すなわち、当時の社会では、バンドあるいは部族同士が、広い範囲で「交易」をおこなっていたと思われる。(*1)


ジャルモの住居跡(Author:Emrad284)


ジャルモの出土品(Braidwood,1967)

レヴァントの新石器時代初期の指標は、イギリスの考古学者のケニヨン(Kathleen Kenyon, 1906-1978)らによる、イェリコの調査報告書に準じている。ケニヨンらは、1952~58年に、イェリコ郊外のテル・エッ・スルタン(Tell es-Sultan)で、新石器時代初期の集落跡を発掘した。

イェリコ(Jericho)は、死海にそそぐヨルダン川河口の近くにある町で、1万年以上も前から人が住みつづけてきたことで知られる。旧約聖書にもたびたび登場し、“the city of palm trees”(ナツメヤシの町)と呼ばれ、ヨシュア記では、イェリコでの戦いの様子が描かれている。新約聖書の福音書では、キリストがイェリコを訪れたときに、盲人バルティマイの目を見えるようしたと伝えられる。イェリコの南方のクムラン洞窟では、最古の聖書の写本である死海文書が発見されている。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとっては、イェリコは、歴史的にきわめて重要な町である。

海抜マイナス240mの乾燥地帯にあるイェリコに、古代から人が住みつづけてこられたのは、スルタンの泉と呼ばれる湧水によって、オアシス農業が可能であったからだ。


Tell es-sultan

西アジアでは、新石器時代になっても、すぐに土器があらわれなかったので、ケニヨンは、土器があらわれる前の期間を先土器新石器時代(Pre-Pottery Neolithic)=PPN期と名付けた。PPN期は、PPNA(Pre-Pottery Neolithic A)とPPNB(Pre-Pottery Neolithic B)の2期にわけられ、栽培型のイネ科植物やマメ科植物があらわれるのは、PPNB期になってからである。PPN期の文化の特徴として、次のことがあげられている。

・集落の大規模化。PPNA期で3ha、PPNB期では16haの集落もある
・日干しレンガ、石灰プラスターを使用する。方形家屋が登場する
・石柱やシンボルの建造
・人の頭蓋骨を祭る
・磨製石斧、尖頭器、錐などの石器
・フリント製の鎌

イェリコのPPNA期は、BC. 9500~8500年ごろであり、PPNB期は、BC. 8500~7000年ころと推定されている。テル・エッ・スルタンでは、その後に集落が放棄され、無人になった。なお、中央レヴァントでは、PPNB期のあとに集落が衰退する期間があり、その期間はPPNC期と呼ばれている。


Volume of SGG and wild cereal species occurring in southwest Asian archaeological sites from the UP to the Late PPNB. Average cal B.P. dates were calculated by using the available dates for each site and do not reflect the total time span of occupation. Volume was calculated by using figures by Kislev and colleagues (48-50). PPNA, Prepottery Neolithic A. (Ehud Weiss, et al. 2004)


Map of PPNA sites in the Near East (Goring-Morris, A., et al. 2014)


Map of PPNB sites in the Near East (Goring-Morris, A., et al. 2014)

ブレイドウッドは、1964年に、トルコ南東部のチャヨヌ(Cayönü)遺跡を調査して、ジャルモよりも古い新石器時代の集落であることを確認した。チャヨヌ遺跡はトルコ南東部のカラジャ山(Karaca Dağ)の50kmほど北に位置する。チグリス川の上流地帯で、川のほとりに集落があった。BC. 9500~6500年の約3,000年間、継続して集落が存在していた。

チャヨヌには土器はなく、PPN期の集落跡である。コムギ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシ、イヌなどが出土し、500体以上の人骨が埋葬されていた。チャヨヌでは、規格化された住居が、間隔、方向などを同じくして、何度も建て替えられており、集落全体で、定期的に一斉に住居を立て替えたと考えられている。また、自然銅を加工した、銅製の装飾品やピンが多数出土した。


チャヨヌ(Cayönü)(川の北側)


Cayönü(Author:Krähenstein)


(本郷, 2002)

チャヨヌについては、2009年に本郷一美氏らが、動物骨の分析によって、トルコ南東部で、PPNB後期にヤギ、ヒツジ、ウシ、イノシシの家畜化が始まったと報告している。PPNB後期に、ヤギとヒツジの骨が、出土動物骨の大多数を占めるようになり、ヤギ、ヒツジ、ウシ、イノシシのサイズが小型化した。(2018.5.6ブログ)


チャヨヌ遺跡の各層から出土する動物の種構成とその相対的な割合(本郷, 2008)

レヴァントの新石器時代が、いつ、どこで、どのようにはじまったのかということは、難しい問題であり、結論がでているわけではない。2002年にイスラエルの考古学者のバル=ヨセフ(Ofer Bar-Yosef)らが、ヤンガードリアス期の寒冷化と乾燥化によって、ナトゥーフ時代の狩猟採集民が食料生産の必要性が生じ、農耕が開始されたという説を唱えた。ヤンガードリアスは、12,900~11,700年前(BP)に、北半球全体でおきた、急激な気温低下のことだ。この説は当初は大きな影響を与えたが、現在ではあまり支持されなくなっている。


Younger Dryas and Air Temperature Changes

文献
*1)ロバート・J. ブレイドウッド (1948) 先史時代の人類. 新潮社. 1969.
*2)Ehud Weiss, et al. (2004) The broad spectrum revisited: Evidence from plant remains. PNAS. 2004 Jun 29; 101(26): 9551–9555.
*3)Goring-Morris, A., et al. (2014). The Neolithic in Southern Levant: Yet another ‘unique’ phenomenon…. In La Transition Néolithique en Méditerranée, edited by C. Manen, T. Perrin & J. Guilaine, pp. 59-73.
*4)本郷一美 (2002) 狩猟採集から食料生産への緩やかな移行 : 南東アナトリアにおける家畜化. 国立民族学博物館調査報告33巻p109-158.
*5)本郷一美 (2008) ドメスティケーションの考古学. 総研大ジャーナル 13 30-35.
*6)Hongo, H., et al. (2009) The Process of Ungulate Domestication at Çayönü, Southeastern Turkey: A Multidisciplinary Approach focusing on Bos sp. and Cervus elaphus. Anthropozoologica 44(1): 63-78.

有機農業と未来: アメリカの有機農業から何が見えるか
本田進一郎 (2016-02-13)
売り上げランキング: 23,663

縄文土器と漁撈部族 Jomon pottery and fishing tribe

人類が、粘土を焼成した造形物を製作するようになったのは、かなり古い時代であるようだ。これまでに発見されたもっとも古い焼きものは、チェコ南部のドルニ・ヴェストニッツェ遺跡から出土したヴィーナス像である。遺跡は上部旧石器時代の集落跡で、マンモスなどの動物の骨、埋葬された人、塑像、装飾品なども残されていた。高さ43cmの像は、500~800℃で焼成されたもので、製作された年代は、3.1~2.7万年前とされる。ほかにも、マンモス、ライオン、ウマ、クマ、キツネ、フクロウなどの形の焼きものが多数見つかっている。(*1)


Venus of Dolní Věstonice(Author:Petr Novák, Wikipedia)

世界で古い土器が多く見つかるのは、東アジアである。長江中流域の仙人洞遺跡(Xianrendong Cave)からは、最古級の土器片が出土している。土器が出土した地層の動物骨のC14年代測定では、2.0~1.9万前と報告されている(*2)。中国では、広西壮族自治区廟岩遺跡、湖南省玉蟾岩遺跡、江西省吊桶環遺跡などからも、古い土器が見つかっている。

日本列島も、世界でもっとも古い土器が多く見つかる場所だ。日本列島の最古の土器は、青森県蟹田町の大平山元I遺跡から出土している。遺跡からは、掻器、彫器、石刃、石斧、石鏃など多数の石器と、78点の土器片が見つかった。土器片には、煮炊きに使用されたことを示すコゲやススの炭化物が付着しており、炭化物のC14年代は、1.6万年前とされている。


縄文草創期の土器、大平山元I遺跡

ほかにも、帯広市大正3遺跡、富良野市東麓郷2遺跡、茨城県後野遺跡、神奈川県寺尾遺跡、新潟県壬遺跡、長崎県福井洞穴、長崎県泉福寺洞穴、鹿児島県帖地遺跡などから、1万年よりも古い土器が発見されている。


縄文草創期、神奈川県花見山遺跡出土

また、アムール川流域ではガーシャ遺跡、ゴンチャールカ1遺跡、フーミー遺跡、ノヴォペトロフカ遺跡、グロマトゥーハ遺跡、沿海州ではチェルニゴフカ1遺跡、ウスチノフカ3遺跡、シベリア東部では、ウスチ・カレンガ遺跡、ウスチ・キャフタ遺跡などで、1.2万~1万年前の古い土器群が発見されている。(*4)


(谷口, 2005)

一方、もっとも早くから農耕社会に移行した西アジアでは、コムギの栽培や家畜の飼育が始まっても、すぐには土器は出現していない。土器がつくられるようになるのは、9,000年前からであり、コムギやオオムギの栽培(predomestication cultivation)が始まってから、2,000年ほどあとである。

新石器革命論をとなえたチャイルドは、新石器革命の特徴のひとつとして、土器の存在をあげている(2017.12.16ブログ)。しかし、西アジアでは、農耕や家畜飼育よりもかなり遅れて土器が出現しており、狩猟採集段階の日本列島やアムール川流域では古くから土器が使われた。これらのことは、農耕文化の形成に必須の要素として土器がつくられたわけではないことを示している。

サン族やアボリジニは、時代が下っても土器をもたなかった。遊動する狩猟採集民は、手で持ち運べる分の財しかもたないので、土器のような重くて壊れやすい道具は邪魔になる。つまり、土器の製作と密接に関係があるのは、「農耕」ではなくて、「貯蔵」という生業スタイルだ。古代の遺跡から出土する土器片は、その集団が貯蔵という生業スタイルを採用していたことを示してしる。

日本列島の縄文時代早期以降には、定住集落や土器が出現するので、貯蔵社会であったと考えられる。縄文時代の貯蔵食料としてよく知られているのはドングリであり、縄文遺跡からは、ドングリや貯蔵穴がたくさん見つかっている。

ドングリには、タンニンやサポニンなどの渋が多く含まれており、渋抜きしないと食べられない。縄文土器は、ドングリの渋抜きのためにつくられるようになったという説があるが、確証はない。古代にはどのような方法で、ドングリを加工していたのかと思って、『雑穀・そば』(2010年)という本をつくったときに、日本列島に残っている伝統的な渋抜きの方法を調べたことがある。

「しだみは「下味」から由来するとされるが、どんぐりのことで、一般にはなら(楢)類の実で、かしわ(柏)の実も含んでいる。しだみは、大量に採取でき、凶作年でも実ること、量感があって腹もちがよいこと、栄養があること、食味がさほど悪くないこと、貯蔵性にきわめて富み、備蓄できること、加工の技術と手数がさほどでないことなどから、岩手を代表する救荒食であった。備蓄の場合は、殻のまま三十分以上煮て、天日で四、五日乾かし、いろりの上の火棚や天井裏に干して、十年以上も蓄えておく。すぐ食べる場合は、煮るか、または四、五日以上水に漬けて虫を殺し、殻が割れるまで天日乾燥をし、水車、踏みから臼、つちなどで実と殻とを分け、箕で殻をとり去る。つぎに、あく抜きをするが、昔は木灰か青笹の葉を使い、三回以上水をとり替えながら中火で煮た。これをさらに、三、四回水を替えて一昼夜水に浸し、水気を切って天日に干す。その後、生乾きのままで臼で搗き、完全に粉とする。これをふきんで包み、固くしぼる。本来が土をかむような味であるが、きな粉を別に皿に盛り、これをまぶして食べるのが古来のものであろう。また大正年代には、しだみ粉を味噌汁で練って食べたり、麦がゆに混ぜたり、ひえ飯にふりかけたりして食べたとのことである。古老のなかには、そのような体験をもっている人もいる。外観は土色で、食べすぎると便秘をするとか、下痢止めの薬だったともいわれている。とち(栃)の実は、しだみよりも苦みや渋みが強く、いっそうまずいものとされる。やはり水漬にして干すと、十年以上も虫がつかず、変質しないといわれている。しだみと同じように、水漬にしてから干して皮をとり、臼などで打ち砕いて袋でこし、木灰の上澄み液で煮てあく抜きをし、水を替えながら漂白する。粗い粒を袋に入れ、流水中に木枠を組んでこの中に沈めておくあく抜き法が有効だったらしく、この木枠を「とちたな」といっている。」(『聞き書 岩手の食事』)(*6)

「とちの木はふつう、日陰に生えている。一本の木から一石以上の実がひろえるので、食糧源として大切にされている。大正時代ごろまでは「寄り合い栃」といって、とちの実だけは村の共有とされ、三、四本の木からみなでいっせいにひろったものを平等に分配していたほどである。実が落ちはじめて、一五日間くらいのうちにこまめにひろっておかないと、ねずみに食べられて皮だけにされてしまう。(中略)山からひろってきたとちの実は、すぐ水桶に四、五日間つけて虫を殺してから、よく乾燥させ、袋などに入れてあま(天井の網代)の上にのせて保存しておく。食べるのは冬になってからで、まず五升なべに湯をわかして桶に移し、この中に乾燥させておいたとちの実を入れ、八時間ほどそのままにしておく。夜、ゆるり端の夜なべ仕事に、おじいもおばあも若い衆もそろって、この固い皮を口でむく。大変苦いので、干し柿をつくるさいに出た皮を干して保存しておいたものを食べ、その甘さにまぎらかしては皮むきを続ける。むいた実はゆすぎかごに入れ、翌日から一週間ほど沢の淵につけて流水でさらし、持ち帰ってから今度は桶に入れる。とちの実一升に対し木灰を二升の割合で入れ、煮たったお湯をたっぷりかけて実が完全に浸るようにする。この作業のことを「とちの実を灰がえた」という。つける日数は五~七日で、この間に水の色は鮮やかな黄色に変わっている。灰がえるときに灰の量が足りない場合には、ここでいったんきれいに洗ってから、再び桶に入れ、今度はあく汁に七日間ほどつける。なお、この地方では、一般にいうあく抜きのあくのことを「苦味」といい、その苦味を抜くための灰汁のことを「あく」という。このようにして苦味を抜いたとちの実は、あくの効いている状態なら赤みを帯びている。これでようやく食べられるようになるのである。」(『聞き書 静岡の食事』)(*7)


トチノキ(Author:M.S. del., J.N.Fitch lith.1917)

昔のやり方を読むと、ドングリやトチの渋抜きには、土器が必要ではないことがわかる。舟に水を入れて、焼き石を入れれば、大量の湯をわかすことができるからだ。

わたしが縄文人なら、ドングリの渋を抜くために、少しの量しか処理できず、壊れやすい土器は使わない。舟に水を入れて焼き石を入れてわかすほうが、はるかに効率がよい。

縄文人が土器をつくったのは、重要な貯蔵食料であった魚の油脂を採取するためと思われる。北アメリカ北西部海岸の先住民が、ooligan greaseをつくるときのように、一度に大量の油脂を製造するのなら、舟と焼き石を利用したほうが効率がよい。しかし、少量の魚や、サケのハラスから油脂を抽出するのであれば、舟と焼き石では効率が悪い。土器に湯をわかして、サケのハラスを入れて、棒でかき混ぜながら煮れば、短時間で油脂を分離できる。油脂の採取がおもな用途であれば、湯がわく程度の温度でよいので、低温で焼成した素焼きの土器でも割れにくいはずだ。


カムチャツカの漁撈部族(Описание земли Камчатки. 1755)

最近の研究では、1.5~1.1万年の縄文土器は、サケなどの魚の煮炊きに使用していたと報告されている。北海道帯広市の大正3遺跡と福井県鳥浜貝塚の土器片の多くから、魚の脂質に由来する脂肪酸が検出されている。残っていた脂肪酸には、海水系と淡水系の成分があるため、川を遡上してきたサケを捕獲して煮ていた可能性があるという。(*8)

文献
*1)春成秀爾 (2012) 旧石器時代の女性像と線刻棒. 国立歴史民俗博物館研究報告第172集
*2)Xiaohong Wu, et al. (2012) Early Pottery at 20,000 Years Ago in Xianrendong Cave, China. Science Vol. 336, Issue 6089, pp. 1696-1700
*3)王小慶 (2010) 東アジアにおける土器の起源について. Tohoku Univ. Museum, No. 9, pp. 41–47
*4)谷口康浩 (2005) 極東における土器出現の年代と初期の用途.名古屋大学加速器質量分析計業績報告書16, 34-53
*5)農文協編 (2010) 農家が教える 雑穀・ソバ 育て方・食べ方. 農山漁村文化協会
*6)古沢典夫ほか (1984) 聞き書 岩手の食事. 農山漁村文化協会
*7)日本の食生活全集静岡編集委員会 (1986) 聞き書 静岡の食事. 農山漁村文化協会
*8)O. E. Craig, et al. (2013) Earliest evidence for the use of pottery. Nature volume 496, pages 351–354

日本の食生活全集 (3)聞き書 岩手の食事
農山漁村文化協会
売り上げランキング: 222,590
聞き書 静岡の食事 (日本の食生活全集)
農山漁村文化協会
売り上げランキング: 99,689

漁撈部族の貯蔵食料 Stored food of fishing tribe

海岸部の縄文人、アイヌ、北アメリカ北西部海岸の先住民などの漁撈採集民は、平衡テリトリー・貯蔵段階であると述べた。漁撈部族の貯蔵食料は、どのようなものであろうか。

アイヌ、カムチャツカ、アラスカ、北アメリカ北西部海岸など、北太平洋の狩猟漁撈採集民の魚の保存法は多種多様だ。ここでは、長期にかつ大量に貯蔵できる、発酵、乾燥、燻煙乾燥、焼き干し、油脂について見てみる。

発酵

カムチャツカ半島やアラスカの漁撈採集民は、秋に捕獲したサケを地面の穴に入れて、発酵させて保存していた。食料が乏しい冬期に、発酵貯蔵したサケをイヌに与え、人間の食料にもした。アイヌについては、魚を発酵させる保存食があったかどうか、わからない。温度が高いところでは、魚の発酵保存はむずかしいのかもしれない。

乾燥

アイヌやカムチャツカの漁撈部族のもっとも重要な貯蔵食料は、乾燥サケだ。かつて、アイヌは、産卵を終えたシロザケ(ホッチャレ)を開いて干し棚に吊るし、よく乾燥させて貯蔵食料にしていた。シロザケのホチャレは、脂肪分がきわめて少なく、そのまま食べてもおいしくないが、脂肪が少ないために、貯蔵性がきわめてよい。干したサケのことをアイヌ語で「アタッ」という。アタッを食べるときは、叩いて身をほぐし、水でもどして軟らかくして、シカやマスの油をつけて食べた。(*1)


北海道アイヌの家族と倉(鳥居龍蔵)


イタオマチプ(板綴船)(蝦夷嶋図説)

干し棚によるサケの乾燥は、北太平洋沿岸の多くの地域でおこなわれていた。カムチャツカ半島のコリヤークなどの漁撈部族も、乾燥サケをつくって貯蔵する。カムチャツカでは、サケの捕獲期に雨が多いため、高床式の住居や貯蔵庫の下も乾燥場として利用した。


カムチャツカの漁撈部族(Описание земли Камчатки. 1755)

上の絵は、クラシェニンニコフ(1711-1755)が、1755年に著した『カムチャツカ誌』(Описание земли Камчатки)に掲載されている。クラシェニンニコフ(Крашенинников, Степан Петрович)は、ロシアの民族学者、地理学者で、1733~1743年に、ベーリング(1681-1741)のカムチャツカ探検に加わった。(*5)

北アメリカ北西部海岸のクワキウトル族も、脂肪が少ない産卵後のシロザケを乾燥して、貯蔵食料としていた。干したサケを食べるときは、焼いてオイルをつけたり、煮て軟らかくしてオイルをつけたりして食べる。乾燥サケの貯蔵によって、サケが獲れない時期でも、通年でサケを食べることができたという。(*7)


The Kwakiutl of Vancouver Island by Franz Boas, 1905


Kwakiutl performers in ceremonial dance attire, 1914


Showing of masks at Kwakwaka’wakw potlatch


Kwakiutl in canoes, 1914


Kwakiutl man wearing traditional regalia, 1914


サケの乾燥法、クワキウトル族(Boas, 1921)

魚を保存するには、細菌やカビによる腐敗もあるが、それ以上にむずかしいのは、脂質の酸化だ。脂質に含まれるリノール酸などの多価不飽和脂肪酸は、構造的に酸化されやすい。空気中の酸素に触れて酸化がすすむと、種々の脂質酸化生成物が生じる。脂質酸化生成物には、いやな味や刺激臭だけでなく、毒性の強い化合物が含まれる。

魚の生臭いにおいは、おもにアミン化合物によるといわれている。魚の死後に細菌などの微生物が増殖し、体内に存在するトリメチルアミンオキシドが分解されて、トリメチルアミンが生じる。このトリメチルアミンが、生臭いにおいのもととされてきた。しかし、近年の研究では、魚臭は、トリメチルアミンよりも、脂質酸化生成物のカルボニル化合物などが大きく影響していると報告されている。(*8)

燻煙乾燥

一方、ベニザケやカラフトマスは、産卵を終えた老魚であっても脂肪が多く含まれる。このような脂質が多い魚をそのまま乾燥させても、脂質の酸化を防ぐことができない。サハリンアイヌ、アムール流域、アラスカ、北アメリカ北西部海岸の漁撈部族は、脂質を多く含む魚を燻煙乾燥して保存してきた。燻煙は、専用の小屋などを利用しておこなわれる。ただし、燻煙乾燥による保存法がいつごろ始まったのかはよくわからない。

燻煙の作用としては、熱による乾燥促進とともに、燃焼によって生じる煙の化合物の効果がある。煙には、ホルムアルデヒド、フェノール性化合物、酸類など多くの化合物が含まれる。一般には、これらの化合物の抗菌作用によって、食材の保存性が高まるといわれている。また、燻煙によってスモークカラーと呼ばれる、光沢のある褐色の被膜が表面を覆う。これは、煙のアルデヒド類、フェノール類と食品の成分が反応して、樹脂膜を形成するためらしい。樹脂膜は不透水性で、微生物が食品内部への侵入することを防ぐとされる。

しかし、魚の食品としての劣化は、微生物のみならず、脂質の酸化に大きく左右されるのだから、燻煙の樹脂膜で空気中の酸素を遮断し、脂質の酸化を抑制することが、燻煙の保存効果と考えられる。

縄文人や擦文人が、サケをどのように保存していたのかは、よくわからない。ただ、関東や九州の縄文時代の遺構からは、連結土坑あるいは煙道付炉穴と呼ばれる施設が数多く見つかっている。煙道付炉穴は、二つの穴が地下のトンネルでつながった形をしている。土坑内の土からは、シカやイノシシに似た脂肪酸が検出されており、燻煙乾燥がおこなわれていたと考えられている。


煙道付炉穴、掃除山遺跡、縄文時代草創期(鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書)

縄文時代草創期の掃除山遺跡からは、竪穴住居跡2棟、煙道付炉穴、調理用の炉、多数の隆帯文土器、石皿、磨石、石鏃、石斧、石核、楔形石器、剥片石器など2,000点あまりが出土している。この縄文遺跡は、鹿児島市の約11,500年前の厚い薩摩火山灰層の下から発見された。遺構の規模は小さく、本格的な定住集落は形成されていなかったとされる。(*9)

発見されている日本列島最古の定住集落は、1986年に国分市(現・霧島市)で見つかった上野原遺跡だ。上野原遺跡は、9層からなり、最下層の9,500年前の遺跡から、竪穴式住居52棟、石蒸し料理施設の集石39基、煙道付炉穴19基、道の跡2条が確認された。(*10)


連穴土坑(上野原遺跡)


縄文時代早期中葉の土器、貝殻文系(上野原遺跡)


縄文時代早期中葉の土器、押型文系(上野原遺跡)

焼き干し

北海道やサハリンのアイヌは、夏期に捕獲されるカラフトマスなどを乾燥させるときに、火で焼いてから天日干ししていた。温度が高い夏は微生物の活動が活発なので、急速に腐敗がすすみ、ハエがたかる。火であぶれば、微生物やハエを避けながら、急速に乾燥することができる。さらに、焼いたり煮たりすることで、食品から脂質が除かれるので、保存性が高まる。

焼き干しや煮干しの保存法は、北太平洋の漁撈部族に限らず、世界中に存在する。日本では、イワナやイワシの焼き干し、かつお節、鮎の焼き干しなどがある。(*11)

アマゾンの狩猟民は、大型の動物を捕獲したときは、焚火の上で焼きながら乾燥させて保存食にする。アフリカでも焼いた魚を天日で乾燥させ、食べるときはオイルに浸けてもどす。

油脂

干したサケを食べるには、油脂が必要だ。ただ、油脂の製造法や保存法についての資料をほとんど見つけられない。

マルセル・モースの『贈与論』(Essai sur le don)には次のような記述がある。(*12)

In a certain number of cases, it is not even a question of giving and returning gifts, but of destroying, so as not to give the slightest hint of desiring your gift to be reciprocated. Whole boxes of olachen (candlefish) oil or whale oil are burnt, as are houses and thousands of blankets. The most valuable copper objects are broken and thrown into the water, in order to put down and to ‘flatten’ one’s rival.

「いくつかの事例では、贈り物の返礼を期待していると相手に思われないように、贈与や返礼はまったく問題でなく、ただ破壊する。ユーラカン(candlefish)の油や鯨油が入ったすべての樽が、家屋や何千枚もの毛布と一緒に燃やされる。ライバルを下に置いて『打ちのめす』ために、もっとも貴重な銅製の宝物は破壊されて、水中に投げ込まれる。」

olachenというのは、北米西海岸からアラスカに分布するキュウリウオ科の魚のことで、シシャモに似ている。eulachon, oolichan, ooligan, hooligan , candlefishなどと呼ばれる。candlefishというのは、この魚は脂質を多く含んでおり、乾燥させると、ろうそくのようによく燃えるからだ。


Eulachon (Thaleichthys pacificus)

olachen oilは、北米の先住部族にとっては、重要な交易品であった。また。ポトラッチによって贈与したり、消尽したりする重要な財のひとつであった。「財」というのは、価値(価格)が長期に保存されるほど、財として重要になる。金のように、何千年たっても錆びたり変質したりしない物質が、もっとも重要な財として扱われる。魚のオイルが重要な財であったということは、長期に保存できたことを意味している。

olachen oilは、ooligan greaseとも呼ばれ、北アメリカ北西部海岸の先住民が、現在でも利用している。

伝統的なooligan greaseのつくり方は、おおよそ次のようにおこなう。ooliganは、3月下旬に産卵のために川を遡上してくる。網などで捕獲したooliganを、地面に掘った穴やカヌーに入れて、10~14日ほど熟成(自然発酵)させる。発酵によって、魚の組織が破壊される。カヌーあるいは杉の箱に水を入れ、さらに焼き石を入れて、水を沸騰させる。湯の中に発酵した魚を入れて、数時間、かき混ぜながら沸騰させる。静置したあとに油脂をすくいとり、アザラシの内臓の袋などに入れて保存する。(*13)


Eulachon smelt rendering camp at mouth of Nass River(1884)

上記の『カムチャツカ誌』の、サケを解体加工している絵を見ると、舟のなかに焼き石を入れて湯をわかす姿が描かれている。これは、北アメリカ北西部海岸の漁撈部族のooligan greaseの採取の仕方とよく似ている。

採取した油脂を長く貯蔵するには、密閉容器に入れて、空気中の酸素に触れないようにする必要がある。北太平洋の漁撈部族は、油脂を貯蔵する際に、海獣類の内臓を容器として利用していた。

アイヌは、クマやシカの膀胱を水洗いして、風船のように膨らませて乾燥させたものを、水筒として使用していた。かつては、これと同じような容器に、魚の油脂を保存していたのかもしれない。


クヨイ(kuy-oy)、動物の膀胱でつくった水入れ袋(平取町立二風谷アイヌ文化博物館)

文献
*1)更科源蔵 (1942) コタン生物記. 北方出版社
*2)鳥居龍蔵写真目録. 鳥居龍蔵写真資料研究会・東京大学総合研究博物館
*3)渡部裕 (1997) 北東アジアにおけるサケ漁(Ⅱ). 北海道立北方民族博物館研究紀要6
*4)齋藤玲子, 渡部裕. (1998) アイヌ社会とサケ. 国立民族学博物館学術情報リポリトジ
*5)Крашенинников, Степан Петрович (1755) Описание земли Камчатки
*6)岩崎グッドマンまさみ (2007) 「サケの民」カナダ北西海岸先住民族―サケの保存・調理・分配. 先住民による海洋資源の流通と管理. 明石書店
*7)Boas Franz, Hunt George. (1921) Ethnology of the Kwakiutl, Based on Data Collected by George Hunt. Washington, Government Printing Office
*8)高村仁知 (2007) 食品中の脂質の酸化生成物による風味変化. オレオサイエンス7巻6号
*9)鹿児島市教育委員会 (1979) 掃除山遺跡:鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書
*10)森田郁郎ほか (2002) 上野原遺跡. 鹿児島県立埋蔵文化財センター
*11)農文協編 (2010) 農家が教えるわが家の農産加工. 農山漁村文化協会
*12)Marcel Mauss (1925) Essai sur le don
*13)Kuhnlein, H., Chan, A., Thompson, J.N., Nakai, S. (1982) Ooligan grease: A nutritious fat used by native people of coastal British Columbia. Journal of Ethnobiolgy, 2(2), 154-161.
*14)Traditional Animal Foods of Indigenous Peoples of Northern North America
http://traditionalanimalfoods.org/fish/searun-fish/page.aspx?id=6448
*15)動物の膀胱で作った水入れ袋. 平取町立二風谷アイヌ文化博物館

農家が教える加工・保存・貯蔵の知恵―野菜・山菜・果物を長く楽しむ
農山漁村文化協会
売り上げランキング: 132,650