ユーラシア東方の青銅器時代,由,亜,吉 Bronze Age of Eastern Eurasia

SHINICHIRO HONDA

中国の青銅器時代は,慣例では,二里頭文化(BC1900-BC1500),二里岡文化(商(殷)前期,BC1600-BC1400),殷墟文化(商後期,BC1300-BC1046),西周文化(BC1046-BC771)の時代を指している。

しかし,中国大陸で発見されている最古の青銅器は,二里頭より1000年も古い時代である。黄河上流域の甘粛省東郷族自治県林家遺跡(馬家窯文化段階)から青銅製の刀子が出土しているが,その年代はBC2900-BC2740と推定されている。馬家窯文化(BC3300-BC2000)は,黄河最上流部の甘粛省や青海省に存在した新石器時代後期の文化であり,華麗な装飾が施された彩陶が多く作られた。文化的な特徴から,馬家窯文化は黄河中流の仰韶文化が上流側に拡がったものとされている。


Bronze knife found in Dongxiang, Gansu(Author:Prof. Gary Lee Todd)


Cerámica de Banshan, China, ca. 2600-2300 a.C.(Author:Miguel Hermoso Cuesta)


Painted pottery jar from the Machang type of Majiayao culture, c 2200-2000 B.C.(Author:Captmondo)

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黄河中流域で銅が出現するのは,龍山文化(BC 3000–BC 1900)である。龍山文化は,新石器時代後期の文化で,高度な陶器製造技術を有していたことで知られる。轆轤を使用して,卵の殻のように薄い卵殻陶や黒光りするまで磨かれた黒陶が製造された。

龍山文化で最も多く栽培された作物はアワであるが,キビや稲が栽培され,小麦も出土している。家畜は豚が多く飼育されていた。家畜の羊と山羊は,BC4000年紀に西方から黄土高原に伝来しており,BC2800年頃には河南西部で飼育され,黄河中下流域まで拡がった。飼育した蚕から絹を生産することも始っていた。


Black egg-shell pottery stemmed cup of the Shandong Longshan. Shandong Museum(Author:Gary Todd)


White pottery gui. Shandong Museum(Author:Gary Todd)

黄河中下流域では,BC3000年紀に人口が増加し,多くの城壁集落(版築土塁で囲まれた集落)が現れた。城壁集落は,やがて都市と呼べるほど大きくなり,最大規模の山西省陶寺遺跡(BC2500-BC1900)は,東西1.8km,南北1.5kmもの大きさであった。陶寺遺跡には,宮殿区,エリート層の居住区や墓地,一般民の居住区などが存在しており,社会の構造は首長制社会と考えられている。エリート層の墓からは,鼓,銅鈴,歯車型銅器が見つかっており,日の出を観測する暦の施設も出土している。龍山文化は,祖中国語(シナ・チベット語)との関係が指摘されている。なお,黄河中流域では,BC2000年頃に人口が減少し,二里頭文化期に至るまで回復しなかった。


(*2)


陶寺观象台春分观测缝日出(何弩/摄)(中国科学院)

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二里頭文化(BC 1900-BC1500)は,黄河中流域の青銅器文化である。河南省偃師市の二里頭遺跡では,1.8km四方の区画内に,宮殿とされる大型建物跡や多数の建物跡が確認されている。1号宮殿は,100m四方の版築基壇をもつ。最大時の人口は,24,000人と推定されている。


二里頭遺跡1号宮殿の基壇図

二里頭遺跡からは,爵,斝,盉,鼎などの彝器,戈,戚,鏃などの武器,小刀,鑿,錐などの道具,鈴,円形青銅器,獣面紋牌飾など多数の青銅器が出土している。遺跡の南には鋳造所があり,二里頭2期には銅鈴や銅牌,二里頭3期に銅爵や銅製武器,二里頭4期には各種の彝器や武器が製作された。なお,二里頭文化と同時期の夏家店下層文化でも銅器の鋳造が行われており,大甸子遺跡の25基の墓からは59点の銅器や鉛器が出土している。大甸子遺跡の付近には銅や鉛の鉱山が多く分布しており,岡村秀典氏は,「ここで採掘された銅原料が有力者間の交易によって二里頭文化にもたらされた可能性があろう。」としている。(*3)


Bronze ceremonial axe (yue 鉞) with pattern of crosses inlaid in turquoise, dated between 1800-1500 BC(Author:H. Sondaz)


(*2)

二里頭文化を起源とする土器様式は,遼河,長江流域,四川など広い地域に拡がった。また,黄河流域では,玉璋,玉斧,玉刀などの玉器が発達したが,このうち玉璋は,二里頭から,山東,陝西,長江流域,四川,広東,ベトナム北部まで拡散した。


二里頭系土器の拡散(*3)


玉璋のひろがり(黒丸は玉璋の出土地)(*3)

中国の学者や日本の中国史の学者たちは,二里頭文化は,史書における夏王朝であるという説を唱えている。二里頭文化が,禹が創始した伝説の夏王朝に当たるのかはわからないが,二里頭文化が,広大な中国大陸の地方にまで文化的な影響をおよぼす強い求心力(知と技術)を持っていたことは確かであろう。

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東アジアの冶金技術の起源は,長いあいだ不明であったが,1990年代にChernykh氏らの研究によって,冶金技術伝播におけるユーラシア草原の重要性が明らかにされた。以下の報告のように,現在では,冶金技術の起源はアナトリアであると多くの研究者が考えている。(*4)

西アジアにおける冶金学の発展は,金属製錬のずっと前に始まった。孔雀石(銅鉱石)をビーズ,ペンダント,顔料に使用することは,新石器時代の重要なステップであり,シャニダール洞窟,Zawi Chemi(イラク),Hallan Çemi(トルコ),Rosh Horesha(イスラエル)など,BC11000-BC9000の初期農耕および牧畜民の遺跡で発生した。Çayönü Tepesiなどトルコ東部では,自然銅,孔雀石,鉛鉱石の加工品が増加しており,BC8000年紀に焼きなましが行われていたことが金属組織学的分析により示されている。この地域では,BC7000年紀に自然銅の採掘が盛んに行われたが,他の金属,特に鉛と隕鉄(BC6000年紀初頭)が初めて出現した。

最も記述されている初期の銅製錬は,BC6000年紀後半-BC5000年紀前半のTal-i Iblis(イラン南東部)やBelovode(セルビア東部)など,肥沃な三日月地帯から遠く離れた地域で発生している。BC5000年紀後半までに,銅の生産はトルコ東部で一般的になり,レヴァント南部とBrixlegg(オーストリア)など中央ヨーロッパでも始まった。銅製錬の起源の中心はおそらくアナトリアであり,そこでは孔雀石と自然銅が数千年にわたって開発されていた。


Figure 1. a) The exploitation of copper ores and naturally occurring copper metal; b) the spread of copper smelting technology.(*4)

一方,金の開発と加工は,最古の銅精錬から数世紀後のBC5000年紀半ばに,バルカン半島で発生した。これは,ヴァルナ(ブルガリア)の多数の埋葬品で証明されている。

銀については,天然の金属銀はほとんど存在しないが,トルコ南東部のDomuztepeから出土したBC6000年紀中期の2つのビーズなどによって,初期の利用が知られている。西アジアでは,BC4000年紀初頭までに,含銀鉛鉱石の製錬によって得られた銀鉛合金(貴船)を特殊なセラミック容器(キュペル)内で酸化すると,酸化鉛がセラミックに浸透して金属銀が残ることが発見されていた。キュペレーション(灰吹法)と呼ばれるこの方法は,BC4000年紀中頃までには中央アジアの東方まで広がった。また,ギリシャ南部のアレポトリパ洞窟から出土したBC5000年紀中頃-BC4000年紀初頭の銀製品に示唆されるように,南東ヨーロッパではそれよりも古い可能性がある。

BC5000年紀後半-BC4000年紀前半に,ヒ素および鉛を含んだ銅鉱石が,西アジア,中央アジア,南東ヨーロッパで開発され,BC4000年紀半ばに,ヒ素銅やアンチモン銅などの銅合金が製造されるようになった。錫青銅は,BC4000年紀末までに西アジアで出現し,BC3000年紀前半までに中央ヨーロッパ,中央アジアでも利用された。

西ヨーロッパ,東アジア,東南アジアにおける冶金技術の起源については,独自の発明か他所からの伝播なのか,激しい議論が行われてきた。現在,多くの学者は,ヨーロッパにおける銅冶金の最古の年代は,主要な河川や海岸線に沿って東から西への伝播を示していることを認めている。ヨーロッパの銅冶金は,BC6000年紀後半に東南ヨーロッパで始まり,BC3000年紀半ばには,英国とアイルランドで最高潮に達した。

中国大陸では,BC4000年紀後半-BC3000年紀初頭に銅製品が存在しており,それらは,ユーラシア草原の東側の集団と関連があることが証明されている。そこではBC4000年紀後半までに,銅,銀,金が利用されていた。BC3000年紀初頭には,中国北西部の鉱石源から,銅,ヒ素銅,錫青銅が製錬されていた。中国中部における銅および錫青銅冶金の年代がBC2000年紀初頭-中期であることは,冶金技術が独自の発明ではなく,急速に導入されたことを示している。タイやベトナムなど東南アジアでも,BC2000年紀初頭-中期に,錫青銅の生産が突然出現したが,これは,冶金技術の移動の結果であり,草原地帯の冶金集団から伝播した可能性もある。

アメリカ大陸では,北アメリカ東部森林地帯でBC5000年紀から自然銅の加工が始まり,南アメリカのアンデス中央部ではBC2000年から金の使用が始まった。アメリカ大陸における冶金技術の起源と発展は,ユーラシアとは完全に独立しているようである。(*4)

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アファナシェヴォ文化(BC3300-BC2500)は,中央アジアに存在した新石器時代末~青銅器時代初期の文化である。西はカザフスタン,北はシベリア南部(ミヌシンスク盆地),東はアルタイ山脈を越えてモンゴル中部までの広い範囲に拡がった。


Map of Afanasievo Culture.(Author:naturalearthdata.)

アファナシェヴォ文化の人々は,牛,羊,山羊,馬を飼育し,野生動物を狩猟しながら遊動する生活様式であった。定住集落や農業を行った証拠は見つかっていない。車両の残骸が出土していることから,ウシに車を牽かせて移動していたと考えられている。使用された主な道具は,石器(鏃,斧),骨器(釣り針,槍先),角などであるが,銅,銀,金の装飾品も出土している。


Afanasievo utensils, Anokhin Museum(Author:Алексей)

アファナシェヴォ文化集団のDNA分析によれば,Y-DNAパプログループRとJが存在し,mtDNAパプログループではUが確認されている。Y-DNAパプログループR1bが優勢であり,印欧語族の祖と言われているヤムナヤ文化集団と遺伝的に近縁であった。(*5)


Earliest Bronze Age cultures in Central Asia.(Author:Rasmus Bjørn)

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アファナシェヴォ文化の後,南シベリアでは,オクネフ文化(BC2700-BC1800)が栄えた。オクネフ文化は,エニセイ川上流のミヌシンスク盆地を中心とする青銅器文化である。生業は,牛,羊,山羊,馬を飼育し,狩猟,漁労も行われた。石器の鍬,石皿,磨棒,銅製の鎌が出土しており,農耕も行っていたと見られている。荷車は,4輪と2輪のものが使用された。オクネフ文化の人々は,アルタイ山脈やサヤン山脈で金属鉱石の採掘と製錬を行っていた。銅製品だけでなく,ヒ素青銅,錫青銅による鋳造も行われていた。


オナホフ村の近くで発見されたオクネフ文化の石碑,紀元前2000年頃(Author:Anadolu-olgy)


Okunev animal petroglyphs (Author:Dolche far niente)


Ceramics of the Okunev Culture on the Yenisei River Siberia. First half of the II millennium BC. Hermitage Museum, Saint Petersburg(Author:MarisaLR)


Okunev culture standing stone

Bone_comb_from_grave_1,_mound_No._1_of_the_Krasny_Kamen_burial_ground,_Okunev_culture,_circa_2200_BCE
Bone comb from grave 1, mound No. 1 of the Krasny Kamen burial ground, Okunev culture, circa 2200 BCE(Author:I.P. Lazaretov, A.V. Polyakov)

ミヌシンスク盆地の埋葬地(BC8世紀-1世紀)から採取したmtDNAの分析結果が,報告されている。当時の住人はタガール文化集団と見られているが,彼らのmtDNAプールは,西ユーラシア人のハプログループ(H,HV6,HV*,I,K,T,U2e,U4,U5a,U*)の頻度が高く,やや程度は低いものの東ユーラシア人のハプログループ(A*,A8,C*,C5,D,G2a,F1b)が混在していたという。(*7)

ユーラシア西方から南シベリアへの集団の移動は,青銅器時代に起きたと考えられており,移住の波は大きく2回あったという。1回目は初期青銅器時代(BC3000年紀)で,ヤムナヤ文化集団に関連していた。2回目は中期青銅器時代(BC2000年紀前半)で,アンドロノヴォ文化集団に関連していた。


Fig 3. Results of multidimensional scaling based on matrix of Slatkin population differentiation (FST) based on mtDNA HVRI sequences in the Tagar series and other ancient populations from different regions of Eurasia (details in S3 Table).
Populations: Tagar—Tagar series (red pentagon) (this study); Iron Age populations related with the ‘Scythian world” (red circles): Pazyryk—Pazyryk culture from Altay Mountains (Russia, Kazakhstan, Mongolia) [1, 2, 4, 22–25]; Aldy_Bel—series from Aldy Bel culture, Arjan-2 burial complex, Tuva, Russia [4]; Scythians—Classic Scythians from North Pontic region [3, 4, 26]; Neolithic and Bronze Age populations (black squares): Yamnaya—Yamnaya culture population (Early Bronze Age) [18, 27–29]; Catacomb—Catacomb culture population (Bronze Age) [18, 29]; Afanasievo—Afanasievo culture population from the Minusinsk Basin (Early Bronze Age) [27, 30]; Okunevo—Okunevo culture population from the Minusinsk basin (Bronze Age, pre-Andronovo time); Andronovo_B—Andronovo time population from West-Siberian forest-steppe zone [31]; Andronovo_M—Andronovo culture population from Minusinsk basin [10]; Cisbaikalian_Neo—Serovo and Glazkovo cultures from Cis-Baikal region, Russia (Neolithic and Bronze Age) [32]; Tianshanbeilu—Tianshanbeilu site, eastern Xinjiang, China, Bronze Age (1900–1300 YBC) [33]; Bronze_MA—Middle Bronze Age population from the Mongolian Altai [34]; Lajia_Neo—population from the Lajia site, Qinghai, northwestern China (3800–3400 YBP) [35]; Jiangjialiang_Neo—Neolithic population from the Jiangjialiang site, North China [36]; Iron Age populations not related with the ‘Scythian world” (black triangles): Xiongnu—Xiongnu population from Mongolia and Transbaikalia [12, 37, 38]; Taojiazhai—Taojiazhai site, Qinghai, northwestern China (1900–1700 YBP) [39]; Dondhu—Donghu population from Jinggouzi site, Inner Mongolia, northern China (~2500 YBP) [40].(*7)

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アンドロノヴォ文化(BC2000-BC1150)は,青銅器時代中期~後期の文化で,ヨーロッパ東部,中央アジア,南ウラル山脈,中央シベリアのエニセイ川上流までの広い範囲に拡がった。牛,馬,羊,ヤギ,ラクダを飼育し,牛の割合が高かった。馬は,乗馬と牽引の両方で使用され,草原地帯をキャンプしながら遊動していた。中央アジアでは,数戸~20戸の定住集落が設けられたが,農耕は重要ではなかった。


Archaeological cultures associated with Indo-Iranian migrations (after EIEC): The Andronovo, BMAC and Yaz cultures have often been associated with Indo-Iranian migrations. The Gandhara grave (or Swat), Cemetery H, Copper Hoard and Painted Grey Ware cultures are candidates for the Indo-Aryan migration into South Asia.(Author:Dbachmann)


Chariot model, Arkaim Museum(Author:Андрюша Романов)

アンドロノヴォ文化の陶器は,幾何学的な装飾が施されていた。この陶器は,南ウラルからカシュガルまでのユーラシア地域の広範囲に拡がっており,特に中央アジアの定住集落で多く見られる。アンドロノヴォ文化集団は,冶金技術に優れており,多くの青銅製品が製造された。彼らは,BC14世紀頃から,アルタイ山脈で銅鉱床を採掘していたことが分かっている。


Andronovo ceramics, 14th-13th century BCE(Author:mtucan)


Andronovo tools and foundry molds(Author:mtucan)

アンドロノヴォ文化の人々は,インド・イラン語話者と関連があるとされているが,フィン・ウゴル語(ウラル語族)やエニセイ語族との関連も指摘されている。DNAの分析では,アンドロノヴォ文化集団のY-DNAハプログループの大部分はR1aであり,mtDNAの大部分はUに属してた。彼らは,縄目文土器(Corded Ware)文化,スルブナヤ(Srubnaya)文化,シンタシュタ(Sintashta)文化,ペトロフカ(Petrovka)文化集団と遺伝的に近縁であることが判明している。(*8)

印欧祖語の話者であるヤムナ文化集団では,Y-DNAハプログループR1bが高頻度であり,R1aは検出されていない。このため,R1a集団は,ヤムナヤ文化集団から言語的な影響を受けたのではないかと考えられている。


The Bronze Age spread of Yamnaya steppe pastoralist ancestry into two subcontinents, Europe and South Asia. Pie charts reflect the proportion of Yamnaya ancestry, and dates reflect the earliest available ancient DNA with Yamnaya ancestry in each region. There is no ancient DNA yet for the ANI and ASI, so for these the range is inferred statistically. (*8)


Fig. 3 Ancestry transformations in Holocene Eurasia.
(A) Ancestry clines before and after the advent of farming. We document a South Eurasian Early Holocene Cline of increasing Iranian farmer– and West Siberian hunter-gatherer–related ancestry moving west-to-east from Anatolia to Iran, as well as a North Eurasian Early Holocene Cline of increasing relatedness to East Asians moving west-to-east from Europe to Siberia. Mixtures of peoples along these two clines following the spread of farming formed five later gradients (shaded): moving west-to-east: the European Cline, the Caucasus Cline from which the Yamnaya formed, the Central Asian Cline that characterized much of Central Asia in the Copper and Bronze Ages, the Southwest Asian Cline established by spreads of farmers in multiple directions from several loci of domestication, and the Indus Periphery Cline. (B) Following the appearance of the Yamnaya Steppe pastoralists, Western_Steppe_EMBA (Yamnaya-like) ancestry then spread across this vast region. We use arrows to show plausible directions of spread of increasingly diluted ancestry (the arrows are not meant as exact routes, which we do not have enough sampling to determine at present). Rough estimates of the timing of the arrival of this ancestry and estimated ancestry proportions are shown.(*8)

Indo-European_migrations
Early Indo-European migrations from the Pontic steppes and across Central Asia.(Author:Background: Map created from DEMIS Mapserver, which are public domain.)

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日本列島の青銅器文化の起源を,中国中原のみならずユーラシア草原に求める説は,古くから存在してきた。ただし,はっきりとした系譜関係は明らかでなかった。近年のユーラシア草原における青銅器文化研究の進展を踏まえて,小林青樹氏は,以下のように報告している。(*9)

「細形銅剣の起源については,北方ユーラシアでは起源前1千年紀前半の段階から,中国北方系の青銅短剣の影響を受けたカラスク文化系青銅短剣の系列があり,一方,アンドロノヴォ系青銅器文化の銎柄式銅矛系列の影響を受けた系列があった。これらは相互に関係があり,部分要素を相互に補完する関係にあった。細形銅剣の祖型である遼寧式銅剣系列の起源は,このアンドロノヴォ系青銅器文化の銅矛にあり,この影響が山西経由で遼西から遼東に及び,銎柄部の製作に必要な土製鋳型を使用する技術がなく,無柄の有茎式の銅剣を創作し,そこに伝統的な骨剣や石剣の特徴を取り入れて成立したと考えた。一方,細形銅矛の形成についても,アンドロノヴォ系青銅器文化の銅矛に求め,山西地域を経て燕山地域や遼西地域に段階的に流入し,柳葉形銅矛系列となったものに系譜を辿ると考えた。」(*9)

図5青銅

図6青銅

図7青銅
(*9)

「以上のように,弥生文化の青銅器のうち,銅剣・銅矛の起源と系譜を辿ったところ,いずれも中央ユーラシアから北方ユーラシアに起源があることがより鮮明となった。そして,青銅武器は実用的な武器としてだけではなく,集団の不安定な状態を安定へと導く辟邪の象徴としても機能し,それが,埋納行為などとして実践されて弥生文化に受け継がれていった。銅剣・銅矛・銅戈といった青銅器がセットで日本列島に渡来するのは,前期末から中期初頭頃である。この時期以降に日本列島に出現する祭祀具は多く,たとえば,卜骨,鳥形木製品,木製男女像などがあり,鹿などの絵画もこの頃以降に現れる要素である。このうち,卜骨は殷代末期併行期から中国北方地域にあり,遼寧青銅器文化においても見られる。また,木製男女像は,新疆の青銅器文化において紀元前2千年紀から見られ,春秋戦国時代併行期にまでも系譜が続いている[韓2007]。そして,この新疆でも見られるが,モンゴル平原を中心に,中央ユーラシアから北方ユーラシアで見られる鹿石に代表される鹿への崇拝があり,中国北方地域でも春秋戦国時代頃から,多数の青銅製品などに鹿は形象された[小林2012]。これら弥生文化の祭祀にかかわるもののほとんどが,ほぼ同時期に日本列島に渡来し,また,銅剣や銅矛と同様に中央ユーラシア地域から北方ユーラシア地域,そして中国北方地域に系譜が辿れるとすれば,いずれもが北方系の祭祀要素であることが推測される。本稿では,弥生青銅器のなかでも銅剣と銅矛に焦点をあてて検討してきたが,以上のように,他の弥生祭祀の要素の多くも北方系起源である可能性が非常に高いのである。ただし,銅戈の問題で指摘したように,中原系の影響を受けている要素があることも付け加えておかなければならない。」(*9)

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『漢書食貨志』には,金銀銅を貢上するのは揚州(江蘇省南部,浙江省,安徽省,江西省)および荊州(湖北省,湖南省)とあり,これらはいずれも長江流域である。古代中国の重要な銅鉱山として知られているのは,山西省中条山,安徽省銅陵,湖北省大冶県銅緑山,雲南省東川,内蒙古大井古銅鉱などである。(*10)(*11)


(*11)

江西省北部の瑞昌銅嶺遺跡(BC2000年紀-BC6世紀)は,中国で発見されている最も古い銅山の一つであり,露天掘,立坑,選鉱用の水槽,製錬などの跡が見つかっている。瑞昌銅嶺遺跡は,商(殷)王朝と同時代の呉城文化に属する銅山であり,採掘時代は商代初期から戦国時代まで続いた。

呉城文化は,長江支流の贛江流域に存在し,黄河中流域の殷墟,四川盆地の三星堆遺跡と並ぶ青銅器時代の文化である。呉城文化の遺跡は,江西省を中心に100以上発見されている。中心となる呉城遺跡は,広さ4km 2以上で,商代の都市遺跡としては最大級である。遺跡からは,銅器鋳造用の石の鋳型300点以上,大量の銅のスラグ(鉱滓),木炭などが出土している。呉城文化に属する大洋洲遺跡では,商代の墓から青銅器475,玉器754,陶器139点が出土し,陶文38件,刻画符号66字が見つかっている。


孔雀石,瑞昌铜岭铜矿遗址出土,江西省博物馆藏品(Author:Zhangzhugang)


铜锛,瑞昌铜岭铜矿遗址出土,江西省博物馆藏品(Author:Zhangzhugang)


新干大洋洲遗址双面神人青铜头像(Author:Siyuwj)


虎耳虎形扁足青铜鼎,高44.5cm,口径30cm,足径24cm,商代,1989年新干县大洋洲出土(Author:Zhangzhugang)


勾连雷纹青铜铙,商代,1989年新干县大洋洲出土(Author:Zhangzhugang)

古代人のDNA分析としては,馬橋(Maqiao),新地里(Xindili),呉城(Wucheng),大渓(Daxi),陶寺(Taosi)の各遺跡についての報告がある。呉城遺跡から出土した人骨のY-DNAハプログループは,3人のうち2人がO-M95(旧O2a)であり,残り1人がO-M122(旧O3*)であった。O-M95は,オーストロアジア語族(ベトナム語,クメール語,モン語など)と関連が指摘されている。一方,O-M122は,シナ・チベット語族と関連し,漢民族,ビルマ系民族,朝鮮人に高頻度であり,日本でも男性の約20%に見られる。(*12)


Fig. 1 Locations of the archaeological sites, cultures and the distributions of Y SNP haplogroups(*12)


Table 1 Case counts of Y SNP haplogroups of the archaeological sites(*12)

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湖北省大冶銅緑山は,自然銅,孔雀石,赤銅鉱を産し,BC1000年頃から1300年間採掘された。遺跡は南北2km,東西1kmの広さで,春秋時代の坑道には,竪坑8本と斜坑1本があり,戦国時代の坑道には,竪坑5,斜坑1,横坑10が確認されている。坑道の深さは50mに達し,鉄製の堀り具,バケツ,水槽,籠,鉱石を砕く台石,石の槌なども出土している。


(*13)

大冶銅緑山では銅スラグが40万t堆積しており,8万~10万tの銅が生産されたと推定されている。スラグの銅含有率は,0.7%にすぎなかった。春秋時代の竪型製錬炉の跡が8基発見されており,炉高は不明だが,下部の炉壁の厚さは約40cmで,突き固めた土を芯にして,内壁には高嶺土と石英砂を塗り,外壁は赤色粘土,鉄鉱石,焼土を混ぜたもので固められていた。

復元された炉の外形は方形で,炉内は短径40cm,長径60cmの楕円形に作られた。炉底の近くに,スラグと銅を取り出すための幅30~40cm,高さ十数cmの取り出し口が設けられ,炉底から40~50cmのところに,炉の長径の側に径5cmの羽口が一対設置された。炉底の下にはトンネルが設けられ,トンネル内で火を焚いて,保温と防湿を行ったと考えられる。

復元炉での製錬実験では,砕いた銅鉱石とナラ炭を用意して,10.5時間のあいだに鉱石1300kg,木炭600kgを順次投入した。スラグを14回取り出し,銅を2回取り出した。得られた銅は計100kgで,銅の純度は94~96%であったという。実験では熔剤として石灰を利用したが,当時は褐鉄鉱が利用されたと考えられている。(*12)


大冶銅緑山の銅製錬炉復元図,前7~3世紀(*13)

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中国西南部の青銅器文化としては,四川省の三星堆遺跡が存在する。遺跡の存在は1927年から知られていたが,1986年に発見された2つの祭祀坑から,何千点もの金,青銅,翡翠,陶器の工芸品が出土した。三星堆遺跡の始まりは,新石器時代末(龍山文化)であるが,青銅器が製作されたのは商(殷)文化と併行している。


貼金銅人頭像(Author:momo)


青銅縦目仮面(Author:Tyg728)


玉璋(Author:Tyg728)


青銅太陽輪(Author:G41rn8)

雲南省の銅の産地としては東川が知られており,2000年前から「雲銅」と呼ばれる良質の銅を産した。一方,青銅の材料である錫の産地については,『漢書地理誌』に,「益州郡,・・・賁古,北采山出錫,西洋山出銀,鉛,南烏山出錫.」とあり,『後漢書郡国志』には「賁古,采山出銅,錫.」とある。益州郡は,漢代から晋代にかけて,雲南省に設置された郡であり,賁古は現在の箇旧一帯の古名である。(*10)

箇旧市は,雲南省紅河ハニ族イ族自治州に位置し,中国最大の錫の鉱山がある。箇旧の旧称は古臼であり,彝語で「石の多い場所」を意味すると言われる。彝族(イ族)には,次のような伝説があるという。昔々に箇旧一帯の彝族の人々が砂錫の上で薪を積んで焚火をしたところ,木炭の還元作用によって錫石が銀色に光る錫の珠に変わった。彝族の人々は,錫の珠を利用して装飾品を作ったり貢物にしたりした。(*10)

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商周代の銅の産地は黄河流域にはほとんど存在せず,錫の産地は雲南にあった。規模が大きな青銅器鋳造所は中原にあったので,銅や錫は長江流域や雲南から中原に運ばれたと考えられている。商周時代の青銅器の鋳造所として知られているのは,河南安陽殷墟にあった工房である。安陽殷墟苗圃北地や安陽殷墟孝民屯遺跡からは,原型,范,中子などの鋳型数万点,大量の炉壁などが出土している。

また,古代中国の鋳造技術を知る上で重要な遺跡として,山西侯馬晋国鋳造遺跡がある。この遺跡は,BC6-BC4世紀の春秋後期から戦国前期にかけて存在した,古代中国最大級の鋳造遺跡である。建造物,道路,陶器窯,溶解炉,墓,牛,馬,羊の埋葬跡など,数十万点の文化的遺物が出土している。

晋(BC11世紀-BC376)は,山西省に西周代から春秋時代に存在した国家であり,『史記(晋世家)』には,次のようにある。「晉唐叔虞者,周武王子而成王弟。初,武王與叔虞母會時,夢天謂武王曰:「余命女生子,名虞,余與之唐。」及生子,文在其手曰「虞」,故遂因命之曰虞。武王崩,成王立,唐有亂,周公誅滅唐。成王與叔虞戲,削桐葉為珪以與叔虞,曰:「以此封若。」史佚因請擇日立叔虞。成王曰:「吾與之戲耳。」史佚曰:「天子無戲言。言則史書之,禮成之,樂歌之。」於是遂封叔虞於唐。唐在河,汾之東,方百里,故曰唐叔虞。姓姬氏,字子于。唐叔子燮,是為晉侯。」(唐叔虞は,周の武王の子で,成王の弟である。はじめ,武王が叔虞の母と会った時,夢のなかで,天帝が武王にいった。「なんじに子供を授けてやろう。なんじはその子に虞と名づけるだろう。わしは,その子に唐の地をあたえよう」子供が生まれてみると,その掌の筋が,虞という文字をあらわしていた。それ故,ついに虞と命名した。武王が崩じて成王が立った。唐に反乱が起こった。周公が唐を誅滅した。成王が叔虞と遊戯していて,桐の葉を削って珪(たま。諸侯を封ずる印)の形をつくり,叔虞にあたえていった。「この珪で,おまえを封じよう」史佚が,これを聞いて,吉日をえらんで,叔虞を封ずる式を挙行しようと請うた。成王はいった。「朕は,叔虞と遊戯をしていたにすぎない」史佚がいった。「天子には,たわむれの言葉というものはありません。お言葉が発せられれば,史官がこれを記録し,礼をもってこれをおこない,音楽をもってこの行事を歌うのであります」そこで,ついに叔虞を唐に封じた。唐は,河水(黄河)と汾水との東にあって,百万四方の地である。この故に,唐叔虞というのである。姓は姫氏で,字は子于である。唐叔の子の燮は国号を晋とあらためたので,晋侯という。)(*14)

侯馬晋国遺跡からは,大量の鋳造関連遺物が出土している。鋳型や陶製原型は数万点にのぼり,青銅器の種類も,彝器,武器,工具,装身具など多岐にわたる。さらに,炉壁,坩堝,羽口,銅と骨で作られたナイフ,砥石,熔銅炉,羽口,スラグ,100個あまりの銅インゴットなどが見つかっている。復元された熔銅炉は,直径50cmほどの大型のものである。


侯马晋国古都博物馆馆藏 东周饕餮纹鼎鉴范


中国の熔銅炉(山西省侯馬鋳銅遺跡) 晋国の青銅器生産遺跡で,春秋時代中期-戦国時代前期(紀元前6-4世紀)に属する。大型の熔銅炉は復元直径約50センチ程度である〔山西省考古研究所編,1993〕(*15)


(*16)

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「由」の文字の起源は,古来より異論が多く,定説が無い。王国維,丁福保,加藤常賢先生らは,「籠」の意で「西」と同字であるとしている。藤堂明保先生は,酒や汁を抜き出す口のついた壺の形で,物が出てくる意味とする。白川静先生は,瓢箪の実が熟して溶け,殻の中がからっぽになった形とする。陳剣は,「口」に従い「針」(あるいは「鍼」)に従い,「針」(「鍼」)が声符も兼ね,「堪」字に通じるとする。

「由」の字体は,「器」と「十」の組合せである。「十」の象形は「線と黒点」であり,物が線の向きに動く様子を表している(Ankh,示,帝,ケイ,皇,古,十,夬,マ(M))。また,「ユウ」の音は,湯,融,游,宥,由,油,勇,湧,「ゆるい」,「ゆらゆら」,「ゆれる」など,液体状の物が湧いたり流動したりすることを意味する(玉,工,巨,左,右)。鋳造業では,溶融した金属材用のことを,「湯」,「溶湯」と呼ぶ。これらのことから,「由」の文字は,溶融した銅の象形ではないだろうか。

「亜」の文字は,金文に多くの字が存在する。説文には「人の曲背の形に象る」とある。加藤先生は,古代の地下穴居の室の形であり,竪穴穴居の地下室の意としている。藤堂先生は,建物や墓を作るために四角く掘った土台の形であり,転じてあるものに次ぐことを表すとする。白川先生は,王や貴族を埋葬した地下の墓室の平面形とする。

「ア」あるいは「アク」の音には,空,開,飽,悪,啞(声がつかえて出ない),阿(入りくんだところ),堊(粘土),椏(木の枝が窪んでゆがんだところ)などの文字があり,「入りくんでいて物が入らず空きができる」という意味がある。「亜」の文字は,鋳型に流し込んだ「湯」がきちんと入らずに,鋳物に窪みや空洞など(鋳巣)ができてしまうことの象形と考えられる。

「吉」の文字は,契文,金文に別体が多い。加藤先生は食物を口に満たして喫する意としている。藤堂先生は,壺の中をいっぱいにして蓋をした形で,内容が充実している意とする。白川先生は,鉞(まさかり)と口(祝詞を入れる器)を組み合わせた形で,めでたい意とする。

「キチ」あるいは「キツ」の音には,詰,拮,佶,吃,迄,屹,「キチキチ」,「きっちり」,「きちんと」,「ぎっしり」などがあり,最後まで物がきちんと詰まることを意味してる。すなわち,鋳型に流し込んだ「湯」が,最後まできちんと詰まることの象形である。

中国神話の神で,「ユウ」の文字があるのは,祝融である。

「顓頊に黎(れい)という息子がいた。彼は祝融となった。火正(火に関するまつりごとを司る役職の長官)の祝融は,のちに竈神として祀られるようになった。彼は姓を蘇といい,名前を吉利と称した。彼の夫人は姓を王,名を搏といった。」(後漢,『五経異議』)(*23)

「諸侯に共工氏なるものがあり,智謀にすぐれて,よく刑罰を用いたので強大になり,覇者になったが王者になれなかった。みずから水徳だといい,木徳の女媧氏の天下を奪おうとして,洪水をおこして木をおし流そうとした。そして,火徳の祝融と戦ってやぶれ,怒って頭を不周山(天をささえる柱の山)にぶつけた。そのために不周山はくずれ,天を支える柱が折れ,地をつなぐ維がきれて天地が傾いた。女媧氏は五色の石を練って天をおぎない,鼇(おおがめ)の足を切って地の四方をつなぐ柱を立て,蘆の灰を集めて大洪水をとどめ,冀州を救済した。かくて,地は平らになり天はおさまって,もとのままの状態になった。」(司馬貞『三皇本紀』)(*14)

祝融は,火の神,竃の神と伝えられており,名前を吉利(きちり,きっちり)と称した。

Reference,Citation
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