遺伝子の歴史 Gene history

SHINICHIRO HONDA

ペルオキシダーゼは,地球上で唯一,リグニンを分解できる酵素だ。2億9千万年前に分化したハラタケ綱の担子菌が,リグニン分解能力を初めて獲得したとされている。ところが,リグニンを分解できないハラタケ綱の種が多数存在する。どうして一部の担子菌は,ライバル不在の強力な遺伝子であるペルオキシダーゼを捨てたのであろうか。

このような例は,ほかにもたくさんある。殻を無くしたナメクジやウミウシ,飛べなくなったエミューやクイナ,四肢を無くしたヘビやアシナシトカゲ,羽を無くした働きアリ。哺乳類の祖先はネズミに似た生き物で,植物の種子などを食べていたが,ライオンなどの肉食哺乳類は,植物から栄養を摂取する形質を捨ててしまった。


トビゲラの成虫(Author:Bruce Marlin)

トビケラ目は,世界で16,000種以上が知られ,非常に発展した生物のひとつである。中生代三畳紀(2億年前)に,チョウ目との共通祖先から分かれ,河川や湖沼など水中の環境に進出したと考えられている。

幼虫は,水中で生活し,絹糸で小石や植物片をつなぎあわせて巣を作り,捕食者から身を守る。網を作って流れてくる有機物を採集する種もいる。


A Caddisfly larva emerging from its case made of plant material(Author:MyForest)


Trichoptera larvenbau(Author:Kristian Peters)


Caddis pupae stuck to the bottom side of a rock(Author:Waldemarpaetz)


Protective net made by Trichoptera sp. Larvae(Author:Clinton & Charles Robertson)

幼虫の食料は,石の表面の藻,落ち葉などの有機物,水生昆虫など,種によってさまざまだ。蛹もほとんどの種は水生で,筒巣を持つ種は巣の中で蛹になり,筒巣を持たない種は水中の石の裏などに砂粒などで囲いを作りその中で蛹になるという。

成虫は,石などの上に這い上がって羽化する。成虫は夜行性のものが多く,夕暮れ時に蚊柱のような群飛が見られる。

トビケラのなかには,巣を作る形質を捨ててしまったグループもいる。ナガレトビケラ科は,巣を作らず流れの速い場所の石の表面などに生息し,水中を泳いで他の水生昆虫を捕食する。

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巣を作るトビケラの祖先は,水中に進出したあとに,小石や植物片で巣を作る表現型(遺伝子)を獲得したと考えられる。

ここで,以下のようなモデルを考える。水中に進出したトビケラの遺伝子をg0とする。g0の遺伝子プールで,筒巣を作る変種g1が現れたとする。巣を作る遺伝子をΔg1とし,g1=g0+Δg1と表す。筒巣を作るg1は捕食者に食べられないので,遺伝子プールでは,次第にg0が減って,g1が増えていくはずだ。

このような遺伝子プールの変動は,現在の自然界でもしばしば見られる。外来種の侵入によって在来種が駆逐されたり,外来種と在来種が交雑して,純粋の在来種が消滅したりする例がある。

このトビケラは,有性生殖で繁殖し,幼虫は岩に生えた藻を食べて成虫になる。成虫の雄と雌が交配して産卵し,ふたたび幼虫になる。個体には,寿命があり,寿命の期間内に成長しなければ,遺伝子を存続することができない。

卵からかえった幼虫は,藻を食べて栄養を蓄積し,少なくとも最初の2倍以上の大きさに成長しないと,繁殖できないだろう。たとえば,出芽酵母は,もとの大きさの2倍の大きさに成長しないと,細胞分裂して増殖できない。

トビケラは,環境飽和力Kの上限まで個体数が生存しているので,岩の上では,藻を摂取できる限界まで,幼虫が場所を占めている。はじめ,g1の周囲には,6匹のg0がいたとする。この環境中で,g1が1→7へと増加すると,g0は6→0へと減少する。

g1が繁殖できる大きさに成長するには,隣の幼虫を押しのけて藻を食べなければならない。相手を押す運動エネルギーは,押す力×時間(力積:F⊿t)に比例する。

一方,水中には捕食者がいて,幼虫を食べるので,隣の幼虫が捕食者に食べられれば,押さなくても藻が食べられる。g1は,周囲の幼虫のうち,少なくとも1匹が捕食者に食べられるまでのあいだ,隣の幼虫と押し合いを続けなければならない。

幼虫g0が捕食者に食べられる確率をp0とし,食べられるまでの時間をt0とする。幼虫が相手を押す運動エネルギーは時間に比例するので,t0のときの運動エネルギーをw0とすると,g1の運動エネルギーがw0となる確率は,p0となる。

g1のまわりの6匹の幼虫のうち,少なくとも1匹が捕食者に食べられれば,g1の運動エネルギーはw0となる。筒巣を持つg1は,捕食者に食べられないとすると,g1が1→7へと増加したときに,少なくとも1匹は隣の幼虫が居なくなる確率は以下のようになる。

g 1 g 0 p
1 6 1-(1-p 0 6
2 5 1-(1-p 0 5
3 4 1-(1-p 0 4
4 3 1-(1-p 0 3
5 2 1-(1-p 0 2
6 1 p 0
7 0 0

隣が居なくなる確率が大きいほど,運動エネルギーは小さくなるが,隣が居なくなる確率がゼロであれば,永遠に押し合いを続けなければならない。

そこで,隣が居なくなる確率pと運動エネルギーwを以下の式で表す。また,運動エネルギーwは,繁殖コストcに比例すると考えられる。

w = k / p
c ∝ w

w:運動エネルギー
p:隣が居なくなる確率
k:係数
c:繁殖コスト

環境中がg1ばかりになると,自分のコピー同士なので,押す力が同じで決着がつかない。藻を食べるには,永遠に押さなければならず,運動エネルギー(繁殖コスト)は無限大になる。なんらかの偶然の出来事で隣のg1が死なない限り,繁殖できる大きさに成長することができない。遺伝子が存続できるかどうかは,偶然(運)に左右される。

(なお,このモデルでは,ライバルを押しのけるタカ派戦略が有利なので,幼虫は体が大きくなる方向に変異するであろう。しかし,幼虫や成虫が大きくなると,動きが遅くなって捕食者に食べられる確率が高くなるので,ある程度の大きさで進化的に安定になる)

g1は,環境飽和力Kまで増殖するが,Kを超えて増えることはできないので,増加率はr=1になる。r=1の遺伝子プールでは,繁殖コストは無限大である。筒巣を作る遺伝子Δg1は,繁殖の「有利さ」(余剰,利益)を生み出す源泉であったが,r=1になった瞬間に,余剰を生じなくなり,有利さが消滅する。

水中で生活する遺伝子g0も,筒巣を作る遺伝子Δg1も,歴史的に蓄積された情報である。しかし,遺伝子プールのメンバー全員がその遺伝子を保有するようになると,遺伝子は余剰(利益)を生じない。

「ピタゴラスの定理」や「万有引力の法則」は,歴史的にはきわめて重要な発見であるが,誰もが知っているので,その情報そのものでは利益(余剰)を得られないのと同じだ。

ここでは,遺伝子プールのメンバー全員に存在し,余剰を生じなくなった蓄積された遺伝子を,遺伝子の「歴史」と呼ぶ。

モデルでは,増加率r=1のときは,繁殖コストcが無限大になる。しかし,じっさいの生物で繁殖コストが無限大になることはないので,生物の遺伝子プールでは,すべてが「自分のコピー」(変異速度がゼロ)になることはないということだ。

クローン複製で繁殖する細菌では,隣の個体はほぼ完全な自分のコピーなので,闘争コストが甚大になるはずだ。すなわち,クローン複製の生物では寿命が無いのが合理的で,むやみに闘わず,隣が偶然に死ぬまで待って,生じた隙間(ニッチ,余剰)を埋めるように自己複製するのであろう。

すなわち,細菌や古細菌など無性生殖の世代時間は,ふだん我々が観察するよりも,かなり長いことが予想される。

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ナガレトビケラは肉食なので,トビケラ目の分化の後ろのほうで出現したと考えられる。r=1では闘争(繁殖)コストが甚大になるので,筒巣を作る表現型を捨てて,他の水生昆虫を食べるようになった。遺伝子の歴史を捨てて,もとの自分のコピーを食べることで,余剰を生み出している。

これは,ライオンなどの肉食動物やサムライアリも同様だ。

哺乳類は単孔類(カモノハシなど)と獣亜綱に分かれ,獣亜綱は有袋類と有胎盤類に分かれる。有胎盤類は,アフリカ獣類(ゾウなど),異節類(ナマケモノなど),北方真獣類に分かれ,北方真獣類は,真主齧類(サル,ネズミなど)とローラシア獣類に分かれる。ローラシア獣類は,コウモリ目,モグラ目,コウモリ目,ウマ目,鯨偶蹄目,ネコ目,鱗甲目に分かれる。

哺乳類の系統樹を見れば,ライオンなどのネコ目の肉食動物は,進化の後ろのほうで現れて,鯨偶蹄目など,もとは同じ遺伝子プールであった自分のコピーを食べることで,余剰を生みだしている。


Results from the molecular clock analysis showing the divergence times for placental lineages with all posterior probabilities shown in “green” and overlaid on the joint prior shown in “red,” with both shaded to show values of highest likelihood (see table 6 for the 95% HPD values).(*2)

人間も,「歴史」(余剰を生まない蓄積された情報)を捨てることがしばしばある。農耕や牧畜の生活に移行し,銅や鉄の利用が始まると,黒曜石やフリントでヤジリや尖頭器を作る知識や技術は捨てられ,消滅してしまった。

工業社会では,「歴史」はきわめて迅速に捨てられる。わたしの部屋には,たいして使っておらず,壊れてもいないのに,使えなくなったカメラや電化製品がいくつも転がっている。

文献
*1) 野崎隆夫. トビケラ専科Japanese caddisfly (Trichoptera)
http://tobikera.eco.coocan.jp
*2) Tarver, J. E., Dos Reis, M., Mirarab, S., Moran, R. J., Parker, S., O’Reilly, J. E., King, B. L., O’Connell, M. J., Asher, R. J., Warnow, T., Peterson, K. J., Donoghue, P. C., & Pisani, D. (2016). The Interrelationships of Placental Mammals and the Limits of Phylogenetic Inference. Genome biology and evolution, 8(2), 330–344.

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