私的所有7 ハンムラビ法典,ナツメヤシ Code of Hammurabi, Date palm

SHINICHIRO HONDA

ハンムラビ法典碑は,1901-1902年に,フランスの調査隊によって,イランのスーサで発見された。スーサはエラム王国の都であり,エラム軍がバビロニアに攻め込んだときに,戦利品として石碑を持ち帰った(BC12世紀)。石碑は高さ2.25mの玄武岩で,発見時には3つに割れていた。これ以外にも,法典の一部が刻まれた8つの玄武岩の破片が見つかっており,法典碑は3つ以上存在したと考えられている。

法典碑が作られたのは,バビロン王ハンムラビの治世(在位,BC1792-1750)の終わり頃とされている。ハンムラビ法典は世界最古の法典と言われてきたが,その後の研究では,ウルナンム法典(BC2112-2095),リピト・イシュタル法典(BC1934-1923),エシュヌンナ法典など,より古い法典が存在したことがわかってる。ただ,ほぼ全文が残っているのはハンムラビ法典のみであり,古バビロニア時代から後期バビロニア時代にかけての粘土板写本も,多く残されている。


ハンムラビ法典碑(Author:Mbzt)

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前期青銅器時代に繁栄を謳歌したメソポタミア文明は,BC2000-BC1600年に,突然の終焉を迎える。シュメール人の王朝であるウル第3王朝は,エラム人の侵入によってBC2004年頃に滅亡した。また,エブラなどユーフラテス川中流域の都市の多くが破壊され,南レヴァントでも,城壁を有する居住地の多くが放棄された。

これらの現象は,一般には気象変動による乾燥化が要因と考えられているが,社会体制が大きく転換する要因の一つとして,貨幣の蓄積と欠乏が考えられる。文明が繁栄するということは,貨幣が蓄積する人々が増大するということであり,裏を返せば,貨幣が欠乏する人々が増大することを意味する。

前期青銅器時代末の都市国家の崩壊は,アムル人のメソポタミアへの侵入と重なっている。アムル人は,シュメール語でマルトゥ(mar-tu),アッカド語でアムル(Amurrû)と呼ばれた。マルトゥおよびアムルは,「西」という意味であり,メソポタミアの西方に住む人々のことを指していた。アムル語は,アフロ・アジア語族の北西セム語に属する。

アッカド王朝時代の文書に残されている官職名の「ugula mar-tu」および「nu-banda3 mar-tu-ne」は,マルトゥの隊長あるいは指揮官を意味し,当時のアムル人は国家の軍事的役割を担っていたと考えられている。ウル第3王朝の文書には,マルトゥは羊や山羊の供給者として記録されており,あるいは労働者として配給を受ける記述もある。ウル第3王朝時代後半には,マルトゥは体制を脅かす侵入者,野蛮人と見なされている。

山田重郎氏は,次のように報告している。「ブッチェラティは,アムル人は本来前2千年紀のマリ文書に見られるようなユーフラテス中流域の半農・半牧畜の村落住民であったとし,以下のように推察する:これら村落民たちは川沿いに限定された農地を耕作する一方,広大なステップ地域に牧畜による経済活動の拡大を企て,おそらくすでに前3千年紀からマリの都市の権力と独特の関係を保っていた。こうした住民たちの一部はステップの遠方まで進出して都市の支配から離脱し,民族意識を醸成しつつ本格的に遊牧民化し,遠距離を移動して各地に拡散した。このパターンは早期からあったが,それが最も大規模に起こったのが,前3千年紀末から2千年紀初めであったという。」(*4)

セム語の成立過程を見るならば,農耕民が牧畜を拡大することでアムル人が成立したわけではなく,初めに遊牧という生活様式が火山草原地帯で成立し,その新しい生活様式の集団が話す言葉からセム語が生まれ,その集団の発展分化に伴いアッカド語やアムル語などのセム語族が分化したと考えられる。(私的所有4ベドウィン,マーシュアラブ,セム語族,アフロ・アジア語族

ウル第3王朝弱体後の南メソポタミアでは,分立した都市国家が,覇権をめぐって争った。イシン,ラルサ,ウルク,マラド,シッパル,キシュ,マリなどのメソポタミアの主要都市では,アムル語の人名をもつ支配者が現れた。イシン第1王朝もラルサ王朝も,アムル人によって建てられた国家である。バビロンでは,BC1844年頃に,アムル人の王スムアブムがバビロン第1王朝を建国した。アッシリアから北シリアにかけては,アムル人の王シャムシ・アダド1世(BC1808-1776?)の征服活動によって,北メソポタミア全域を支配する国家が出現した。周辺の都市国家は,アッシリアの属国または同盟国となった。

ハンムラビは,バビロン第1王朝の6代目の王である。バビロンは,アッシリアと同盟関係にあったが,シャムシ・アダド1世の死によってアッシリアが弱体化すると,ハンムラビは,ラルサ,イシン,ウルク,ウル,マリ,エシュヌンナなどを攻略し,BC1757年頃にアッシリアを征服して,全メソポタミアを統一した。

アムル人が,メソポタミアを支配するようになったウル第3王朝末ごろから,シュメール語は次第に用いられなくなり,アッカド語が行政文書や文学において使われるようになった。アッカド語はバビロニア語とアッシリア語に分かれ,AD1世紀頃まで使用された。


The extent of the Old Babylonian Empire at the start and end of Hammurabi of Babylon’s reign, c. 1792 BC – c. 1750 BC(Author:Zunkir)

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大西庸之氏は,遊牧民のha.naについて次のように報告している。(*5)
「マリ文書の中に頻繁に現れ,「ハナ人」という個別の遊牧民族集団と見なされていたha.naは,1992年にデュランによって「遊牧民(nomades)」,「ベドウィン(Bedouin)」と解釈され,現在では,このデュランの説がha.naに対する最も一般的な解釈として受け入れられている。」
「ha.naは定住,移牧の別を問わず遊牧民を包括的に指す一方で,職業的に小家畜の飼養を生業とする者,移牧従事者を指す場合もあったのである。包括的に遊牧民を示すことは,ハインペルが述べているような,共通の祖先としてのha.naという認識に起因するものであろう。このような認識がha.naを介した同族意識を生み,これによって,メソポタミア北部に暮らす遊牧民は,自らをha.naと認識していたと考えられる。それ故,遊牧民全般を指すためにha.naが使用されたのであろう。行政経済文書での職名に準じた使用法は,小家畜の飼育,移牧という特徴のみを引き出した,特殊な使用法であったと思われる。1992年のデュランの解釈以降,ha.naは「遊牧民」,「ベドウィン」と訳されてきた。たしかに,訳語的には「遊牧民」,「ベドウィン」でも支障はないのであろうが,メソポタミア北部に暮らす遊牧民がha.naを介した同族意識を持ち,自らをha.naと認識していたことを考慮する必要があるのではないだろうか。デュランとシャルパンが,1986年の共著論文で,ha.naをヤミン人とシマル人の総称としていたように,ha.naはメソポタミア北部の遊牧部族の総称として「ハナ人」ないし「ハナ族」と理解することができるのである。」

また,前田徹氏は,マルトゥにおける族長制度の成立について報告している。(*7)
「独立した政治勢力としてのマルトゥが同時代史料に現れるのは、アッカド王朝時代(前2350年-2100年頃)からである。
ナラムシン碑文
『ユーフラテス川からマルトゥの山であるバシャルに至った。……イナンナ神の加護?により、強き者ナラムシンは、マルトゥの山バシャルにおいて戦闘に勝利した』(RIME 2, 91-92)
シャルカリシャリの年名
「シャルカリシャリが、マルトゥをバシャルで破った年」(RIME 2, 183)
マルトゥとの戦闘はバシャルで行なわれた。バシャルは、マルトゥの原籍地と想定される地域であり、ユーフラテス川を遡った中流域にある。ナラムシンが拡張した領域の外縁でマルトゥとの戦いがあった。」
「ウル第三王朝時代に、マルトゥに対して贈り物をする記録があるが、同様のことがイシン文書においても記録される。一つの文書に、イシビエッラが贈り物をした38人のマルトゥのなかにアブダエルとその子ウシャシュムがいる。この二人は、エシュヌンナの史料から、マルトゥの頭領(rabiān amurrim)と確認される。
「ティシュパク神が愛する者、エシュヌンナの支配者であるヌルアフムが、彼の娘婿であり、マルトゥの頭領(ra-bi2-an MAR.TU)のアブダエルの子であるウシャシュムに(これを)贈った」(RIME 4,486)。
エシュヌンナの王が、有力な「マルトゥの頭領(rabiān amurrim)」との間で姻戚関係を結んでいたことを知りうるのであるが、さらに重要なことは、この例から、ウル第三王朝時代にマルトゥとして贈り物を受け取る人々が、たんなる「傭兵」ではなく、「マルトゥの頭領」という指導層であったことが確証されることである。イシン・ラルサ時代の早期、前20世紀において、ラルサの第4代の王ザバヤと第6代のアビサレは称号の一つとして「マルトゥの頭領」を使用しているが、「マルトゥの頭領」とは、シュメール人やアッカド人でないマルトゥ人であって、マルトゥ集団を率いることができる者といった意味であろう。「マルトゥの頭領」の出現は、マルトゥの自立化過程において一つの画期である。ウル第三王朝やその後の王朝は、彼らを中核としてマルトゥに軍事力の一翼を担わせた。そのことは、周辺異民族=「蛮族」として疎外されてきた遊牧的なマルトゥが中心地域において一定の位置を占めることでもある。一方で、「マルトゥの頭領」は、王の後押しによってマルトゥ内での地位を高めることができた。彼ら「マルトゥの頭領」のイニシアティブによってマルトゥ諸部族の社会的自立化が進展する。このような過程がウル第三王朝時代から始まっていたと見ることが出来る。この時期、エシュヌンナの王ビララマは、「マルトゥの頭領」アブダエルとその後継者との関係を維持しつつ、他のマルトゥ諸族を征服した。」
「前20世紀までのマルトゥが「マルトゥの頭領」を戴く集団を形成したことに特徴があるとすれば、前19世紀後半は、族長体制が確立した時期である。族長体制の確立は、文書に、部族長の称号、部族の名称、それに族長権の継承が現れることで確認される。前19世紀後半に、部族の長(アッダad-da[父]、ルガルlugal[王])を名乗る王が出現する。シュメールの有力都市ウルクに入ったシンカシド(前1860-1833年)が早い例になるが、「マルトゥの頭領」でなく、「(マルトゥの部族)アムナヌムの王」を名乗った。自らの子ワラドシンとリムシンをラルサの王としたクドゥルマブクも、「マルトゥの族長(ad-da)」、「ヤムトバルの族長」を名乗っている。(中略)「マルトゥの頭領」から族長への転換は、マルトゥの自立化過程においておおいに意味がある。頭領から族長への変化と軌を一にして、マルトゥ一般ではなく、アムナヌムやヤムトバルというマルトゥの部族が政治的な活動主体になっていることが注目される。つまり、ウル第三王朝時代にはマルトゥには部族や地域を示す名称が付されていなかったが、それより約200年後の前19世紀後半になると、部族的な自己意識と、社会的・政治的な制度としての部族がはっきりと形成されていたのである。その長としてのアッダ(族長)は、「マルトゥの頭領」よりもさらに拡大した族的集団の長を意味する。それだけ、マルトゥにおける部族的な結合関係が明確になり、政治的にも大きな影響を持つようになったのである。」
「確立した族長体制のもと部族に分かれたのであるが、マルトゥとしては同一の祖から分かれた同族であるという意識を鮮明に持っていたことは、ハンムラビの王統譜と、シャムシアダド1世がアッシリアの王名表に追加した部族の名祖を系譜に繋いだ王統譜を比較すれば明らかになる。」

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オリエントの三日月地帯は,アラビアプレートとユーラシアプレートの境界に由来する。そこでは,活発な火山活動によって,地球内部の新鮮な岩石が噴出し堆積している。チグリス・ユーフラテスの下流域では,火山地帯から運ばれた肥沃な沖積土が堆積している。

三日月地帯の西側では,アンティ・レバノン山脈,ビシュリ山地,ゼノビア・ハラビア火山,カラジャ山へと火山が連なる。秋から春にかけて西風が吹き,地中海の水分を含んだ大気は,これらの山々や台地に雨や雪を降らせる。玄武岩が風化した肥沃な土壌は,豊かな火山草原を作り出す。女たちは,火山草原で麦を収穫し,男たちは,火山草原の栄養のある草を求めて,羊や山羊を放牧した。


Eurasian & Anatolian Plate in Turkey(Author:Joshua Doubek)

レヴァントの遊牧民は,雨が降る秋から春には,火山草原で家畜を放牧し,乾燥する夏期には,ユーフラテスやレヴァントの農耕地帯にやってくる。一般には,農耕民と牧畜民は,農産物と畜産物を交換することで,機能的統一性や経済的合理性が成立すると考えるであろう。しかし,遊牧民と農耕民は,そのような単純な関係ではない。

カエサルは,ゲルマニア人について,次のように書いている。
「スエビ族は,ゲルマニア人の中でも圧倒的に人数が多く,好戦的な部族である。スエビ族は100のパグス(郷)を持ち,毎年,その郷から1000人の兵士を戦場に送り出すと言われている。前の者は家に留まり,後の者は翌年再び戦場へ,このように,農耕も戦争もおろそかではない。しかし,彼らの間には個人が別々に所有する土地はなく,一カ所に一年以上滞在して耕作することは許されない。彼らは穀物をあまり食べず,主に牛乳と肉で生活し,狩猟に多く従事する。彼らの食物の性質,日々の運動,自由な生活,また,少年たちは義務や規律に慣れておらず,自分の意志に反して何もしない。そして,それらは,強さを養い,体の大きな人間を作る。そして,彼らはこの習慣に慣れきっているので,寒いところに住みながら,毛皮の服しか持たず,その毛皮も小さいので,体の大部分は裸で,川で体を洗う。(中略)彼ら(スエビ族)は,部族にとっての最大の賞賛は,無人の土地が,自分たちの領地から可能な限り広いことと考えている。これは,多くの他の部族が,彼らの力に耐えることができなかったことを意味する。したがって,スエビ族の領地の外側には,幅900キロほどの無人の土地があると言われている。」(私的所有2,ヤムナヤ,ガリア,ゲルマニア,ブリタンニア)

ベドウィンは,単に畜産物を生産するだけの牧畜民ではない。D. P. コウルは,次のように書いている。(*8)
「一七,一八世紀に,遊牧民部族はシリア全体にかなりの実権を獲得した。つまり,そこを守ってやるのだからと,それに対する特別な支払いを要求し,農業や,貿易,商業をつねにおびやかしていた。」
「遊牧民は収穫の済んだ畑の刈りあとで家畜を放牧し,同時に,畑への施肥に貢献するわけである。農業中心地の近くで生活している遊牧民を多くは穀物の運搬に重要な役割を果たす。というのは彼らは中東において主要な運搬動物であるラクダを所有しているからである。〔一方〕,定住民の多くは,自分たちの家畜を,沙漠の豊かな草や灌木で放牧してもらうため遊牧民にあずけている。同様に,遊牧民は自分たちの所有しているナツメヤシの木や農耕地を,収穫時に,収穫物の一部をもらう取り決めで,農耕民にまかせている。砂漠の最奥部に,ほとんどいつも陣取っている遊牧民の戦士は,他の遊牧民による攻撃や略奪に対して定住農耕民や半定住牧畜民を守ることを請け負っている。」
「彼らがラクダを売ることはほとんどなく,ナツメヤシ以外の食物を確保するために,ラクダやその生産物をあてにすることはない。しかしながら,彼らは,政府からの給付,すなわち特別給付をあてにしている。強力な中央政府が発展していず,諸部族の国防隊への編入がなされなかった昔,そして貨幣経済が発達する以前には,ベドウィンは都市中心地や村落と特別な関係を有していた。すなわち,彼らは,都市の市場や農耕地を他の部族による破壊と略奪から守っており,その報酬として毎年,ナツメヤシや穀物を受け取っていたのである。」
「リネッジはアール・ムッラの社会組織のきわめて基本的な単位なのであるが,それぞれの世帯が独立した単位であり,リネッジとして結合した世帯間に見られる関係は厳密に平等主義に基づいていることは憶えておかねばならない。戦闘時の一時的リーダーであるアギート以外には,リネッジの指導者はいない。また特別なリネッジの協議会もない。すべての決定は合意に基づく。」
「アール・ムッラは自分たちを七つのクランに分け,そのそれぞれは四~六のリネッジを含んでいる。(中略)クランは政治単位としてより重要である。(中略)あらゆる政治的活動―自らの資源をまもる,政府の許可をとりつける,報復を行なう,あるいは法的なもめごとを解決する―に際しては,クランは全体で支援し,クランのアミールの参与を要請する。(中略)個人やリネッジはどんな紛争であれ,いつでもそのクランのすべてのリネッジの援助を当然あてにできるのであるから。」
「クランは分節化の過程において極めて重要である。(中略)クランは,第四図のように自身を別のクランと結びつける共通祖先によって二つ一組にされている。(中略)紛争がおきれば,アール・フハイダとアール・アスバは,アール・ファディールとして連合し,アール・ブヘと戦う。しかし,アール・ジャベルと戦う時は,彼らはアール・ビシュールとしてアール・ブヘと連合する。アール・ジャベルとアール・ビシュールは,アール・グルフラーンに対してアール・サイードとして連合するが,彼らもアール・アリーに対しては連合してアール・シェビーブとなる。アール・アリーはアール・ジュラバとアール・ガヤスィーンという二つのクランに分れている。アール・アリーとアール・シェビーブはアール・ムッラとして統一するのである。」


アール・ムッラのクラン。太文字の名前はクランの名前。その他は共通であると考えられている祖先の名前。この祖先が人びとを結びつける役割を果たしている。(*8)

ハンムラビの時代のアムル人について,家臣がマリ王にあてた手紙には,次のように書かれているという。「自分だけで強い王はいない。バビロンの王ハンムラビには,10人から15人の王たちが従い,ラルサの王リ・シンに同数の王たちが従い,エシュヌンナの王イバル・ピ・エルに同数の王たちが従い,カトナの王アムト・ピ・エルに同数の王たちが従い,ヤムハドの王ヤリム・リムに20人の王たちが従う」(Syria 19, 1938, p. 117)(*1)

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ハンムラビ法典は,前書き,条文,後書きから成っており,前書きおよび後書きは,初期王朝時代から存在する王碑文との共通性が指摘されている。

「アヌム,崇高なる方,アヌンナック諸神の王,(および)エンリル,天地の主,全土の運命を決定する方が,エアの長子,マルドゥクに全人民に対するエンリル権(王権)を割当て,彼(マルドゥク)をイギグ諸神のなかで偉大なる方とし,バビロンをその崇高なる名で呼び,四方世界でそれを最も優れたるものとし,その(バビロン)ただなかでその基礎が天地の(基礎の)ごとくに据えられた永遠の王権を彼のために確立したとき,(I 1-26)
そのとき,アヌムとエンリルは,ハンムラビ,敬虔なる君主,神々を畏れる私を,国土に正義を顕わすために,悪しき者邪なる者を滅ぼすために,強き者が弱き者を虐げることがないために,太陽のごとく人々の上に輝きいで国土を照らすために,人々の肌(の色つや)を良くするために,召し出された。(I 27-49)
(私,)ハンムラビ,牧者,エンリルに召された者,富と豊かさを積み上げた者,「天地の結び目」ニップルのためにすべてを完成した者,エクルの敬虔なる扶養者,(I 50-62)
有能なる王,エリドゥを復旧した者,エアブズの浄めの儀式を浄化した者,(I 63-II 1)
四方世界を襲撃した者,バビロンの名を偉大にした者,彼の主,マルドゥクの心を喜ばせた者,エサギラに毎日使える者,(II 2-12)
シンがお生みになった王家の胤,ウルを豊かにした者,謙遜にして熱心に祈る者,エキシュヌガルに豊穣をもたらした者,(II 13-21)
賢明なる王,シャマシュに聞き従う者,強き者,シッパルの基礎を確立した者,アヤのギグヌを緑で覆った者,天の住居のごとくエバッバル神殿を高くした者,(II 22-31)
英雄,ラルサを赦した者,彼の助け手シャマシュのためにエバッバルを新しくした者,(II 32-36)
主,ウルクを生かした者,その人々に豊穣の水を回復した者,エアンナの頂を高くした者,アヌムとイシュタルのために豊かな収穫を積み上げた者,(II 37-47)
国土の保護者,イシンの散らされた人々を集めた者,エガルマハ神殿を豊かさで溢れさせた者,(II 48-54)」(*1)

「スム・ラ・イルの子孫,シン・ムバッリトの強き息子,永遠の王朝(に属する者),強き王,バビロンの太陽,シュメールとアッカドの地に光を照り出させた者,四方世界を服従させた王,イシュタルに寵愛される者,(IV 67-V 13)」(*1)

「私,ハンムラビ,完全なる王は,エンリルが贈ってくださり,マルドゥクがその牧人権(王権)を私にお与えになった人々(直訳:黒頭人)に対して怠けず,無為に過ごすこともなかった。私は彼らのために安全な場所を絶えず求め,隘路を切り開き,光を照り輝かせた。(XLVII[R XXIV]9-21)
ザババとイシュタルが私に託された強い武器でもって,エンキが私に定められた知恵でもって,マルドゥクが私に与えられた能力でもって,北や南で敵を根絶し,戦いを鎮め,国民の肌(の色つや)を良くし,(すべての)居住地の人々を安全な牧草地に住まわせ,誰にも彼らを脅かさせはしなかった。偉大な神々が私をお召しになった。私は良く世話をする羊飼,その杖はまっすぐである。私の心地よい影は私の都市に広がる。私はシュメールとアッカド全土の人々を私の胸に抱いた。(人々は)私の守護女神によって栄えた。私は絶えず彼らを平穏のうちに運び,私の知恵によって彼らを守った。(XLVII[R. XXIV]22-58)
強者が弱者を損うことがないために,身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために,アヌムとエンリルがその頂を高くした都市バビロンで,その土台が天地のごとく揺ぐことのない神殿エサギラで,国(民)の(ための)判決を与え,国(民)の(ための)決定を下すために,虐げられた者に正義を回復するために,私は私の貴重な言葉を私の碑に書き記し,(それらの言葉を)正しい王である私のレリーフの下に(直訳:前に)置いた。(XLVII[R. XXIV]59-78)」(*1)

(※エクル:山の家,エンリルの神殿,エアブズ:アブズ,地下の深淵の淡水,エンキの神殿,エサギラ:マルドゥクの神殿,エキシュヌガル:シン(ナンナ)の神殿,アヤ:太陽神シャマシュ(ウトゥ)の配偶神,ギグヌ:アヤの神殿,エバッバル:シャマシュの神殿,エアンナ:天の家,イシュタル(イナンナ)の神殿,エガルマハ:イシンの女主人ニンイシンナの神殿)

四方世界の国土は,アヌム(アン),エンリル,エア(エンキ),マルドゥク(バビロンの都市神),シン(ナンナ),シャマシュ(ウトゥ,太陽神),イシュタル(イナンナ)などの神々によって,王であるハンムラビに託された。(神話神概念1神概念2神概念3神概念4神概念5銅製錬,イナンナの冥界下り,灰かぶり(シンデレラ)銀,キュペレーション,月神ナンナ神概念6

また,「強者が弱者を損うことがない」,「虐げられた者に正義を回復」の文言は,具体的には債務帳消し,債務奴隷の解放などを意味していると思われる。(古代メソポタミアの徳政令貨幣の供給

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近代的個人の要件は,その国の国民は,誰でも,等しく,法的権利を主張し,行使できることである。すなわち,すべての国民は,法的人格である。法的人格である国民が存在するには,法を執行する国家が存在していなければならず,国家が存在するには,固有の領土が存在しなければならない。また,国家は,他国から独立(主権国家)していなければ,その国民は法的権利を行使することができない。

国内では,その人がその国の国民であることを証明できなければならず,誰もが国家の兵士になる資格を有していなければならない。近代国家成立の契機の一つは,国民皆兵制(フランス革命)であり,誰もが兵士になれるからこそ,誰もが平等な法的権利を主張することができる。誰もが兵士になるには,すべての国民が教育(国民教育)を受ける権利を有しなければならない。また,国民の中に身分奴隷が存在してはならない。(初期の近代国家では,参戦する女性はまれであったので,女性の法的権利は制限されていた。)

人間の権利のうち,最も根源的な権利は生存することであり,生存するには,資源を獲得しなければならない。狩猟採集社会における資源は,食料となる動物と植物である。テリトリー平衡段階の狩猟採集社会では,資源とはテリトリーのことであり,野生生物を安定的に食料にするには,広大なテリトリー(土地)を必要とした。

農耕牧畜段階では,農耕民にとっての資源は栽培植物と農地であり,牧畜民にとっての資源は家畜と放牧地である。金石時代以降は,鉱山および森林(木炭の原料)が重要になった。現代人の多くにとって,「土地」とは宅地のことであるが,人口が少ない古代社会では,宅地の広さの土地など問題にならない。

農耕社会のメソポタミアでは,最も重要な資源は農地である。農耕社会における重要な法的権利は,農地を保有する権利であり,法的人格とは,農地を保有する権利を有する主体のことである。古代社会では,個人はリネージあるいは世帯の一員として存在しており,法的人格は,リネージおよび世帯そのものである。

ベドウィンの社会では,井戸,土地,主たる家畜の所有権を有するのはリネージである。リネージを構成する各世帯には,世帯が飼育する家畜が存在し,それらの家畜の処分については,世帯の長に大きな裁量権が認められている。現代でも,リネージが代々世襲してきた家産は,リネージの共同所有であるが,世帯が新たに獲得した財産は,世帯の所有物である。

騎馬遊牧民のゲリマニア人では,「個人が別々に所有する土地はなく,一カ所に一年以上滞在して耕作することは許されない」。ベドウィンの社会でも,放牧地の所有者は存在しない。
「降雨のめぐみを受けた牧草地の利用は,より開かれており,そこにおいては少なくとも広い範囲内では最初に来た者,まっさきに利用した者の権利が一般的に認められている。」(遊牧の民ベドウィン,*8)
「北部でラクダを放牧するために,アール・ムッラは誰の許可も請わない。牧草地があり,すでに誰かに占められているのでないならば,どこを使ってもよいのであり,私は北アラビアの部族が牧草地に対する権利を問題にしたという例を知らない。」(遊牧の民ベドウィン,*8)

軍事組織である遊牧民にとって,リネージおよび世帯は,戦士を供給する単位のことである。遊牧民のリネージや世帯が平等なのは,戦士が平等でなければならないからである。戦士が平等でなければ,個々の戦士は,集団のために命を投げ出したりしない。

リネージの軍事力は戦士の数が多いほど大きいので,兄弟が多いリネージほど大きな法的権利を有する。もし3世代続けて男子が1人しか成人しなければ,そのリネージが有する戦士の数は2人であり,各世代の兄弟の数が2人であれば,リネージの戦士の数は12人である。

「彼(リュクルゴス)は,多くの同様の取り決めを承認した。妻たちは,2つの家庭を担当することを望み,夫たちは,息子たちのために兄弟を得ようとする。兄弟は家族の一員であり,その影響力を共有するが,金銭の分配は要求しない。」(クセノポン,『ラケダイモン人の国制』)

「実際,すべてのブリタンニア人は,青味がかった色になるウォード(大青の木から得られる青色の染料)で身を染めるので,戦いではより恐ろしい姿になる。髪を長く伸ばし,頭と上唇以外は全身を剃る。10~12人の男性たち―特に兄弟同士,その兄弟の親たち―が,共通の妻たちを持つ。しかし,もしこれらの妻たちをめぐって何か問題が起これば,生まれた子供は,女性が処女時代に最初に結婚した男性の子供とされている。」(カエサル,ガリア戦記)(*8)

「各人の男の子供が,その相続人であり,後継者であり,彼らに遺言書は無い。子が無ければ,財産は,兄弟と父方と母方のオジのものになる。彼の親戚が多ければ多いほど,彼のつながりは多くなり,彼の老年にはより尊敬される。子供がいないことには,何の利点もない。」(タキトゥス,ゲルマーニア)(*10)

リネージと世帯の形態は,時間や状況によって変化し,常に流動している。何らかの理由でリネージの構成員数が減少すれば,世帯になるし,リネージから分離した世帯は,新しいリネージを作る。先祖代々世襲されてきた財産は,リネージの共有財産であるが,世帯が個別に獲得した財産は,その世帯に帰属する。例えば,ある一人の戦士が征服戦争で活躍して,広大な農地を与えられれば,その農地はその戦士の世帯の保有物になる。その世帯が繁栄して子孫が増えれば,その世帯は,複数の世帯からなるリネージへと変化し,農地はリネージの共有財産になる。

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ハンムラビ法典の性格については,法律の集大成としての法典,個々の事例の判決集,立法ではなく王碑文,判決を実践するための学術書,模範的判決を示す手引書などの説がある。

「§1 もし人が(他の)人を起訴し,彼を殺人(の罪)で告発したが,彼(の罪)を立証しなかったなら,彼を起訴した者は殺されなければならない。(V 26-32)」(*1)

「人」という言葉について,中田一郎氏は,次のように述べている。「バビロニアの言葉であるアッカド語の名詞は男性名詞と女性名詞に分れ,人間に関する名詞の場合は,そのまま男女の別に対応している。したがって,本書のテキストの訳においても,「子供」ではなく「息子」または「娘」のように男女の別がわかる訳語を用いた。同じ原則に従えば,「もし人が(他の)人を」は,「もし男の人が(他の)男の人を」と訳さなければならない。なぜなら,「人」と訳したアウィールムという言葉は,男性を指す言葉であるからである。」,「ここでは,ロスと共に,便宜上,エリート層市民を指す場合を「アウィールム」,それ以外の場合を「人」と訳しておいた。」(*1)

バビロニア国家の支配の源泉は軍事力であり,軍事力とは戦士と武器のことである。国家における法的権利は,軍事力に由来するので,法的人格を有する主体の中心は,戦士を供給するアムル人のリネージおよび世帯のことである。世帯が法的権利を行使する上では,世帯の長に大きな裁量権が与えられている。

一方,行政文書や文学において使用された言語はアムル語ではなくアッカド語である。アッカド人は,アムル人と同じセム語の話者であり,火山草原地帯の遊牧民を起源とする。サルゴン以来,メソポタミアの有力部族であったアッカド人は,政治,行政,法律,経済,学術などの分野で高い地位を占めていたはずである。また,シュメール時代の知的エリート(シュメール語話者)たちは,次第にアッカド人(アッカド語話者)に同化していったのであろう。

すなわち,「アウィールム」は,遊牧民であるアムル人とアッカド人のリネージや世帯の長のことと考えられる。彼らは,法的人格としてのリネージや世帯を代表し,戦士として国家の戦争に参加する権利と義務を有していた。中世の日本に例えれば,アムル人は「武家」であり,アッカド人は「公家」である。アウィールムは,武家や公家の主(あるじ)に相当する。また,条文には「アウィールム仲間」,「アウィールムの娘」などの表現があることから,アウィールムは,階級としての身分を意味する用語としても使われている。

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「§196 もしアウィールムがアウィールム仲間の目を損ったなら,彼らは彼の目を損わなければならない。(XL[R. XVII]45-49)
§197 もし彼がアウィールム仲間の骨を折ったなら,彼らは彼の骨を折らなければならない。(XL[R. XVII]50-53)
§198 もし彼がムシュケーヌムの目を損ったか,ムシュケーヌムの骨を折ったなら,彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない。(XL[R. XVII]54-59)
§199 もし彼がアウィールムの奴隷の目を損ったかアウィールムの奴隷の骨を折ったなら,彼は彼(奴隷)の値段の半額を支払わなければならない。(XL[R. XVII]60-65)
§200 もしアウィールムが彼と対等のアウィールムの歯を折ったなら,彼らは彼の歯を折らなければならない。(XL[R. XVII]66-70)
§201 もし彼がムシュケーヌムの歯を折ったなら,彼は銀3分の1マナ(約167グラム)を支払わなければならない。(XL[R. XVII]71-74)
§202 もしアウィールムが彼より身分の高いアウィールムの頬を殴ったなら,彼は集会において,牛皮の鞭で60回打たれなければならない。(XL[R. XVII]75-81)
§203 もしアウィールム仲間が自分と対等のアウィールム仲間の頬を殴ったなら,彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない。(XL[R. XVII]82-87)
§204 もしムシュケーヌムがムシュケーヌムの頬を殴ったなら,彼は銀10シキル(約83.3グラム)を支払わなければならない。(XL[R. XVII]88-91)
§205 もしアウィールムの奴隷がアウィールム仲間の頬を殴ったなら,彼らは彼の耳を切り落さなければならない。(XL[R. XVII]92- XLI[R. XVIII]3)
§206 もしアウィールムがけんかで(別の)アウィールムを殴り,彼に傷を負わせたなら,そのアウィールムは「私は故意に殴ったのではない」と誓わなければならない。そして彼は医者に対する責任を負わなければならない。(XLI[R. XVIII]4-13)
§207 もし彼が殴ったために彼(相手)が死んだなら,彼は誓わなければならない。そして,もし(死亡者が)アウィールム仲間なら,彼は銀2分の1マナ(約250グラム)を支払わなければならない。(XLI[R. XVIII]14-19)
§208 もしムシュケーヌム仲間なら,彼は銀3分の1マナ(約167グラム)を支払わなければならない。(XLI[R. XVIII]20-22)
§209 もしアウィールムがアウィールム仲間の女性を殴って彼女の胎児を流産させたなら,彼は彼女の胎児に対して銀10シキル(約83.3グラム)を支払わなければならない。(XLI[R. XVIII]23-30)
§210 もしその女性が死んだなら,彼らは彼の娘を殺さなければならない。(XLI[R. XVIII]31-34)
§211 もしムシュケーヌム仲間の女性を殴って彼女の胎児を流産させたなら,彼は銀5シキル(約41.7グラム)を支払わなければならない。(XLI[R. XVIII]35-40)
§212 もしその女性が死んだなら,彼は銀2分の1マナ(約250グラム)を支払わなければならない。(XLI[R. XVIII]41-44)
§213 もし彼がアウィールムの女奴隷を殴って彼女の胎児を流産させたなら,彼は銀2シキル(約16.7グラム)を支払わなければならない。(XLI[R. XVIII]45-50)
§214 もしその女奴隷が死んだなら,彼は銀3分の1マナ(約167グラム)を支払わなければならない。(XLI[R. XVIII]51-54)」(*1)

ハムラビ法典の刑罰では,「目には目を歯には歯を」というタリオ(同害復讐)の原理がよく知られている。一般に,法学では,同害復讐による刑罰が先に存在し,その後に賠償金の支払いに移ったとされてきた。ハンムラビ法典のタリオは,その証拠とされてきたが,ハンムラビ法典より古いウルナンム法典やエシュヌンナ法典の刑罰は,賠償金支払いであった。

古バビロニアでは,アウィールムとは法的権利や身分が異なる,ムシュケーヌム,奴隷などが存在した。ムシュケーヌムは奴隷を所有しているが,アウィールムがムシュケーヌムの目を損っても,賠償金の支払いで解決することができた。一般には,アウィールムとムシュケーヌムはともに「自由民」であるが,前者はエリート市民,後者は一般市民と説明されている。

アウィールムが,支配階級であるアムル人・アッカド人のリネージや世帯の長であるならば,ムシュケーヌムは,アウィールムと奴隷以外の身分の人々のことと考えられる。ムシュケーヌムは先住農耕民であり,彼らは,部族,リネージ,世帯で農地を保有し,奴隷を所有する人々もいるが,戦士として従軍する権利と義務は無い。

センジャーは,アル・イーサ一族(砂漠の遊牧民で支配部族)に対し,反乱をを起こしたファルトゥース一族(マーシュアラブ)の男の言葉を伝えている。「『アル・イーサ一族には何の権利もない』と彼はぴしゃりと言った。『やつらはマアダンじゃない。砂漠から来た羊飼いだよ。カビーバは湿地帯にある。それはファルトゥース一族のもので,おいらの先祖が葦床に土を積み重ねて“ディビン”を造ったんだ。あいつらの族長どもがカビーバを分捕ってからはいざこざ続きで,おいらの大半は村を出てほかのところに家を造った。何でおいらは故郷を追い出されなくちゃならないんだ?』」(*11)

また,センジャーは,リネージ同士の争いの結果,殺人を犯したマーシュアラブ(マアダン)について書いている。「私はどんなに強力な族長であろうとも,またどんなに尊敬されている「サイイド」であろうと,同害報復をきっぱり解決できないことを知っていた。ただ「クッラ」,つまり世襲の首長だけが葦の周りに頭巾を巻きつけ,一方の端をどちらかのパーティに持たせて,協定に封印することができた。首長の地位は,当人が年老いていようと知的障害があろうと世襲制であった。もし彼が子供のときは,いちばん近い血筋の男が代行した。」(*11)

この「族長」とは遊牧民の部族の長のことであり,「サイイド」は預言者ムハンマドの血筋を引くと自称する人々のことである。遊牧民では,リネージ同士,世帯同士は平等であり,戦闘時の一時的リーダー以外には指導者はいない。つまり,族長であっても,リネージや世帯同士の紛争に対する調停権を有しない。一方,世襲首長の「クッラ」には,集団同士の紛争に対する調停権が存在した。世襲首長の「クッラ」とは,先住農耕民集団に由来する首長のことと考えられる。

これらのことから,賠償金支払いは,シュメール時代の刑罰であり,アムル人によるメソポタミア征服によって,遊牧民の刑罰であるタリオが導入されたと考えるのが自然である。

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「§6 もし人が神(殿)あるいは王宮の財産を盗んだなら,その人は殺されなければならない。また,彼の手から盗品を受け取った者も殺されなければならない。(VI 31-40)
§7 もし人が銀,金,男奴隷,女奴隷,牛,羊,ロバ,あるいは(その他)いかなる物であれ,(他の)人の息子あるいは(他の)人の奴隷の手から証人および契約なしに購入し,あるいは保管のために受け取ったなら,その人は盗人であり,彼は殺されなければならない。(VI 41-56)
§8 もし人が牛,羊,ロバ,豚,あるいは船を盗んだなら,もし(その盗品が)神(殿)の物あるいは王宮の物なら,彼はその30倍を与えなければならない。もし(その盗品が)ムシュケーヌムの物なら,彼はその10倍を償わなければならない。もし盗人が与える物を持たないなら,彼は殺されなければならない。(VI 57-69)」(*1)

§7では,アウィールムが所有する財産として,「銀,金,男奴隷,女奴隷,牛,羊,ロバ,あるいは(その他)いかなる物」と書かれている。これらの財産を処分するときの裁量権は,アウィールムが有しており,アウィールムの息子や奴隷には処分権が存在しない。

「主要な井戸や農耕地はほとんどリネッジで共有しており,また夏のキャンプ地では,一つのリネッジの成員がそこに住む。リネッジの成員のほとんどは,秋,冬,春の間,同じ放牧地域で放牧する。(中略)各世帯は自分たちの家畜群をもっている。多くの家畜群には世帯員以外の者の私有物である少数の動物が含まれるが,それらが産するものは牧畜者のものとなる。個々の世帯員が時には個人の私有物として数匹の家畜をもっていることもあるが,どの家畜群もそのほとんどは集団全体で共有されている。その大部分は父方の祖父から相続されてきたものであり,その他,世帯に婚入してきた女性が持参したり,相続したものの一部が含まれていることもある。この家畜群の中核部分は,その世帯員全員が最年長の男性に,いわば委託しているものである。彼は世帯員の同意なしには,これらの動物のいかなるものでも売却したり,譲渡したりできない。家畜群の分割は,世帯そのものの分裂を意味するからだ。」(遊牧の民ベドウィン,*8)
「家畜は各世帯が所有しているが,リネッジの家畜はすべて一つの目印がつけられ,リネッジの共有財産と考えられている。ただし各世帯長は,好きなように自分の家畜を処分する権利をもっているのではあるが。」(遊牧の民ベドウィン,*8)

§8において,アウィールムが神殿およびムシュケーヌムの「牛,羊,ロバ,豚,あるいは船」を盗んだ場合の刑罰が書かれているが,アウィールムがアウィールムの財産を盗んだ場合の刑罰が書かれていないという指摘がある。しかし,§7には,アウィールムがアウィールムの財産を盗んだ場合,「その人は盗人であり,彼は殺されなければならない」とある。アウィールムは,お互いに命を預けて共に戦う戦士同士なので,アウィールムがアウィールムの財産を盗んだ場合は,裏切り者として,重い罰が課せられたのであろう。

アウィールムが神殿から財産を盗んだ場合,§6では死罪なのに,§8では30倍の賠償となっており,矛盾していると指摘されている。これについては,財産が置かれている場所が,前者は神殿の敷地内(聖)であるのに,後者は神殿の敷地外(俗)であるためという説があるが,別の解釈が考えられる。

§8にあげられている財は,「牛,羊,ロバ,豚,あるいは船」である。「牛,羊,ロバ,豚」は,牧畜民が所有している家畜であるが,これらの家畜の放牧では,群れから逃げ出す個体が存在する。群れから逃げ出してさまよう家畜の所有者を特定するのは困難であるし,人間に保護されなくなった家畜は,ライオンや狼に食べられてしまう確率が高い。また,葦を束ねて作った葦船は,暴風や洪水で流されてしまうと,所有者がわからなくなってしまう。すなわち,§8であげられている財の場合,原告が盗まれたと訴えても,被告が拾ったと主張すれば,どちらの言い分が正しいのかを判断できない。

「アール・ムッラは彼らの生計の,全部ではないがほとんどを,アラビアの東部および南東部の沙漠でラクダや羊,山羊を飼育することで支えている。(中略)アール・ムッラはラクダの乳を飲むばかりでなく,彼らに名前をつけ彼らについての詩や歌を創り,尽きることのない物語を語るのである。彼らはラクダに話しかける特殊な方法を持っており,ラクダと意志を伝え合うことができると言う。」(遊牧の民ベドウィン,*8)
「アール・ムッラは追跡者として有名である。沙漠の砂のなかで彼らはたやすく動物や人間の足跡を確定する。バイトの成員はすべて自分たちのラクダの一匹一匹の足跡と,少なくとも彼らの親族が所有しているラクダの足跡のいくつかを知っている。かくして,若者や大人はだれでもひとかたまりの足跡をみて,そのなかに自分のラクダがいるかどうか言いあてることができる。この能力は,自分がいない間に移動してしまったバイトを捜す時と同様,迷ったラクダを捜す時にも非常に役に立つ。少年や少女はだれでもアアビア沙漠にいるすべての動物の足跡を見分けることができる。十代になるまでにはだれでも,足跡がつけられてからどれくらい時間がたっているとか,そのなかに動物や人間がどのくらいいたかを言いあて,その個々の特徴を示すこともできる。たとえば,人間の足跡のひとかたまりが女のものであるか男のものであるか,若者のものか老人のものか見分けられる。また,女の足跡ならば,彼女が妊娠中であるかどうかさえもいいあてられる。ラクダの足跡の場合も同様のことが識別される。」(遊牧の民ベドウィン,*8)

一方,§6にある「神(殿)あるいは王宮の財産」とは,神殿あるいは王宮が所有する「牛,羊,ロバ,豚,あるいは船」以外の財のことを指していると考えられる。当時の神殿や王宮は,国家の金融センターであり,建物の内部には,秤量貨幣の銀,金が蓄蔵されていた。

「このバビロンの神域には,下手にもう一つ神殿があり,ここにはゼウス(ベル)の巨大な黄金の坐像が安置され,かたわらには黄金製の大テーブルが置かれ,足台も椅子も黄金製である。カルデア人のいうところでは,これらは合計八百タラントンの黄金を用いて作られているという。この神殿の外に金製の祭壇があるが,さらにもう一つ大祭壇があり,ここでは成長した家畜が供えられる。黄金の祭壇ではまだ乳離れしない幼獣以外は供えてならぬことになっているからで,この大祭壇では毎年この神の祭礼の時,千タラントンの乳香を焚くことになっている。この神域内にはまた,十二ペキュスもある純金の像が,その(キュロス遠征の)当時にもまだあった。ただしこの像は私自身見たわけではないので,カルデア人のいうところをここに伝えるだけである。ヒュスタスペスの子ダレイオスはこの像を狙っていたけれども,手に入れる決心が遂につかなかった。しかしダレイオスの子クセルクセスはこれを手に入れ,像を動かすことを制止した祭司を殺したのである。」(※1タラントンは約26kgで,800タラントンは約21トン。1ペキュスは44.4cmで,12ペキュスは約5.3m)(ヘロドトス,歴史,*12)

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「§21 もし人が(他人の)家に穴を開けたなら,彼らはその穴の前で彼を殺し,彼を吊さなければならない。(IX 14-21)
§22 もし人が強盗を働き,捕えられたなら,その人は殺されなければならない。(IX 22-27)
§23 もし強盗が捕えられなかったなら,強盗にあった人は,無くなった物をすべて神前で明らかにしなければならない。そして,強盗が行われたその地あるいは領域の(行政権を有する)市とその市長は,彼の無くなった物は何であれ彼に償わなければならない。(IX 28-45)
§24 もし(無くなった物が)生命なら,市と市長は彼の遺族に銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない。(IX 46-50)」(*1)

軍事力を独占していた遊牧民は,農耕民および都市民の生命と財産の安全を保障することで,支配と統治の正当性を示さなければならなかった。それが果たせないときは,犯罪被害者に対して,損害を補償する義務を負っていたのであろう。

「強力な中央政府が発展していず,諸部族の国防隊への編入がなされなかった昔,そして貨幣経済が発達する以前には,ベドウィンは都市中心地や村落と特別な関係を有していた。すなわち,彼らは,都市の市場や農耕地を他の部族による破壊と略奪から守っており,その報酬として毎年,ナツメヤシや穀物を受け取っていたのである。」(遊牧の民ベドウィン,*8)

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「§26 もし王の遠征に行くことを命じられたレードゥーム兵士あるいはバーイルム兵士が,行かなかったかあるいは傭兵を雇い彼の身代りとして派遣したなら,そのレードゥーム兵士あるいはバーイルム兵士は殺されなければならない。彼を告発した人は彼の家を取得することができる。(IX 66-X 12)
§27 もし,王の要塞で捕虜となったレードゥーム兵士あるいはバーイルム兵士に関して,のちに彼の耕地と果樹園を別の人に与え,彼(別の人)がそのイルクム義務を果し,もし彼が戻り,彼の市に到着したなら,彼らは彼の耕地と果樹園を彼(捕虜になっていた人)に戻し,彼が自分のイルクム義務を果すことができる。(X 13-29)
§28 もし,王の要塞で捕虜となっている[レードゥーム兵]士あるいはバーイルム兵士に関して,彼の息子がイルクム義務を果すことができるなら,耕地と果樹園は彼に与えられ,彼が彼の父親のイルクム義務を果[さ]なければならない。(X 30-40)
§29 もし彼の息子が幼くて自分の父親のイルクム義務を果すことができないなら,耕地と果樹園の3分の1が彼の母親に与えられなければならない。そして彼の母親は彼を養育しなければならない。(X 41-50)
§30 もしレードゥーム兵士あるいはバーイルム兵士がイルクム義務(の厳しさ)に耐えかねて,彼の耕地,果樹園および家を捨てて逃亡し,彼のあとに別の人が彼の耕地,彼の果樹園および彼の家を保有し,3年間彼のイルクム義務を果したなら,たとえ彼が戻ってきて彼の耕地,彼の果樹園および彼の家を要求しても,それ(ら)は彼に与えられない。(それらを)保有し彼のイルクム義務を果したその人が(イルクム義務を引き続き)果さなければならない。(X 51-XI 4)
§31 もし1年間(のみ)逃亡して戻ったのなら,彼の耕地,彼の果樹園および彼の家は彼に与えられる。そして彼自身が自分のイルクム義務を果さなければならない。(XI 5-12)
§32 もし王の遠征で捕虜となったレードゥーム兵士あるいはバーイルム兵士を,商人が請け出し彼を彼の市に到着させたなら,もし彼の家に請け出す物があれば,彼自身が自らを請け出さなければならない。もし彼の家に自分を請け出す物が無ければ,彼の市の神殿によって請け出されなければならない。もし彼の市の神殿に彼を請け出す物が無ければ,王宮が彼を請け出さなければならない。彼の耕地,彼の果樹園および彼の家は,彼の請け出し資金の代りに与えられてはならない。(XI 13-38)
§33 もし中隊長あるいは小隊長(の隊)に(他の労働のための)徴用者がいたなら,あるいは王の遠征に傭兵を身代りとして受け入れ連れて行ったなら,その中隊長あるいは小隊長は殺されなければならない。(XI 39-50)
§34 もし中隊長あるいは小隊長がレードゥーム兵士の家財道具を横領したり,レードゥーム兵士を虐待したり,賃貸したり,裁判で強引に引き渡したり,王がレードゥーム兵士に与えた贈物を横領したなら,その中隊長または小隊長は殺されなければならない。(XI 51-64)
§35 もし人が王がレードゥーム兵士に与えた牛あるいは小家畜を(その)レードゥーム兵士から買ったなら,彼は自分の銀(支払った代金)を失う。(XI 65-XII 4)
§36 レードゥーム兵士,バーイルム兵士あるいはビルトゥム義務を負う者(後方支援担当者)の耕地,果樹園あるいは家は,売却されてはならない。(XII 5-9)
§37 もし人がレードゥーム兵士,バーイルム兵士あるいはビルトゥム義務を負う者(後方支援担当者)の耕地,果樹園あるいは家を買ったなら,彼の文書は破棄され,彼は自分の銀を失う。耕地,果樹園あるいは家はその(本来の)所有者に返されなければならない。(XII 10-21)
§38 レードゥーム兵士,バーイルム兵士あるいはビルトゥム義務を負う者(後方支援担当者)は,彼のイルクム義務の付随する耕地,果樹園あるいは家(の保有名義)を彼の妻あるいは娘に名義変更することができないし,彼の債務(弁済)のために与えてはならない。(XII 22-30)
§39 彼が買い受けて手に入れる耕地,果樹園あるいは家は,(その所有名義)を彼の妻あるいは娘に名義変更することができ,また彼の債務(弁済)のために与えることができる。(XII 31-38)
§40 ナディートゥム修道女,商人あるいは他のイルクム義務(を負う者)は,自分の耕地,果樹園あるいは家を売ることができる。買手は自分が買う耕地,果樹園あるいは家に付随するイルクム義務を果さなければならない。(XII 39-48)」(*1)

レードゥームは,家畜などを「連れて行く者」という意味であり,バーイルムは魚や獣を「捕獲する者」という意味である。彼らがどのような存在であったのかよくわかっていないが,彼らを「兵士」と見る説がある。

軍隊が遠征を行なうには,食料などの物資を補給するための兵站が必須である。しかし,遊牧民の戦士は,軍事行動における指揮命令以外は厳密な平等主義であり,誇り高い遊牧民の戦士が,食料補給のために家畜を連れたり,狩猟や漁労を行なったりしたとは考えられない。

日本でも,足軽は非武士であり,鎌倉時代には戦闘に参加せず,食料などの物資の運搬,馬の世話,土木作業などに従事した。戦国時代に戦闘が大規模化すると,足軽は歩兵として戦闘に参加するようになった。江戸時代の足軽は,戦闘員ではあるが非武士であり,武士と農民の中間的な身分となった。

すなわち,レードゥームおよびバーイルムは,軍隊の兵站業務(イルクム義務)と後方支援業務(ビルトゥム義務)を課せられたアウィールム身分以外の人々のことと考えられる。彼らは,イルクム義務やビルトゥム義務の対価として,王から農地の保有権を与えられた。

§40では,ナディートゥム修道女,商人あるいは他のイルクム義務(を負う者)は,保有する農地の処分権を有すると書かれている。ナディートゥム修道女は,男神と結婚した女性のことである(後述)。条文から,農地の保有権が売買され,「農地の保有権」の売買に,商人が介入していたことがわかる。

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河川の氾濫原であるメソポタミアでは,大洪水が起きるたびに地形が変わってしまう。特に,増水期に水に浸かる湿地帯では,土地の境界が不明瞭である。

「マアダンは『チバーシャ』を恒久的な場所にするため,水中から泥をすくい上げて土台を覆う。彼らはこれを水位がいちばん低い秋に,しかも水があまり深くない場所でのみ行なう。さらにイグサを何層も置いては泥をかぶせる。こうやって『チバーシャ』はやがて『ディビン』になる。もし『ディビン』を造った家族が一年以上使わなければ,所有権を喪失し,だれでも使うことができた。」(湿原のアラブ人,*11)
「アラブの暦は陰暦なので,毎年少しずつ早く一年が終わる。アラビア半島のハドラマウトの耕作者たちと同様,ここの耕作者たちもプレイアス星団やシリウスなど特定の星座の出現によって季節を計算していた。毎年,耕作期のはじめにルファイーヤ以南では,耕作地を一定の幅ごとに葦の杭で目印をつけ,村人はそのどこを耕すかをくじ引きで決める。一人の耕作者が異なった場所にあるいくつかの耕地を得るのが普通だ。そのあと,他の人と協定を結んで共同作業に入ったり,あるいは自分の割当地を自分だけか,あるいは家族の手助けで耕したりすることになる。」(湿原のアラブ人,*11)
「これで彼は三五〇キロの米を収穫した。そのうちの四分の一をマジードに年貢として納め,翌年の一家の食い扶持をたっぷり確保したあと,残りを売って三〇ディナールの収入を得た。物納されるマジードの取り分は,村全体に賦課される。彼は収穫高の三分の一を取り立てることもあるが,だいたいにおいて予想収穫高の四分の一であることが多い。その総額は,彼がその年の水位を見てすぐに決めるのだが,彼の判断はおおむね非常に正確だと言われていた。高水位は川から灌漑用水を引いて稲作をするアザイリジ一族のような耕作者には歓迎されるが,耕地が水面下になってしまうマアダンにとっては不作になる。反対に,低水位ならば,マアダンの耕作面積は増えるが,ほかの人たちにとっては災害だ。」(湿原のアラブ人,*11)

後藤晃氏は,イランのマルヴダシト地方の農村(1972年)について次のように報告している。(*13)
「農耕に2頭の牡牛が欠かせないが、オアシス農業地帯では農民は通常1頭の牡牛しかもたなかった。オアシス農業は灌漑作業などに多くの労働を要し集約度が比較的高い。2頭の牡牛で耕せる耕地の規模は農民1人の労働能力には広すぎた。このため、農民は1頭の牡牛をもち、農民2人が牡牛を持ち寄って農耕を共同で行う制度が生まれた。牡牛を持ち寄ることで共働する農民の組ができるが、この犂組をイランでは〈ジョフトjoft 〉と呼ばれた。〈ジョフト〉はもともと2頭の牡牛を結ぶ「くび木」のことである。このくび木が「一対の牡牛」を意味するようになり、さらに共働する2人の農民の関係、つまり「犂組」に意味を発展させた。ただ、どの地方でも〈ジョフト〉と言っていた訳ではなく、マルヴダシト地方では〈バンデガーウ〉と呼んでいた。バンドは「紐」また「結ぶこと」、ガーウは「牛」のことだから、ジョフトとはほぼ同義である。
牡牛を使役する農作業を通して2人の農民が共働する関係から、犂組としての〈ジョフト〉が耕作の最小の単位となる。このことから村の規模を〈ジョフト〉で表わすこともできた。たとえば「A村は30ジョフトの村である」というとき、この村には30対の牡牛と60人の農民がいることになる。また、土地に対して労働力が不足していたマルヴダシト地方の場合、牡牛2頭引きの犂で耕す農地の広さはおおよそ一定していたため、ジョフト数でおおよその広さを知ることができた。一対の牡牛の犂耕能力は7ヘクタール程であり、耕地のほぼ半分を占める休耕地を含めると1〈ジョフト〉はおおよそ14ヘクタールであった。
村の灌漑用水の持分もジョフトに対応した。ポレノウ村はかつてマルヴダシト地方を縦貫するコル川の堰から分水される灌漑用水に840分の22に持分をもっていたが、この22はジョフト数を表していた。また地方によっては灌漑用水の持分を〈ジョフト・アーブ(アーブは水の意味)〉で表わしていた。つまり、1〈ジョフト〉の耕地を灌漑する水量の単位が〈ジョフト・アーブ〉ということである。
マルヴダシト地方では、農民の耕作権を〈ガーウ gav〉と言い、「私はガーウをもっている」というように表現した。ガーウは本来「牡牛」の意味だが、「私は牛をもっているよ」と言っているのではない。「村に耕作権をもつ農民です」と言っているのだ。なぜ、耕作権が「牡牛」なのか。すでにお分かりのように、牡牛が農耕に不可欠な役畜であったことと関係がある。〈ガーウ〉は農民の裸の労働ではなく1頭の牡牛と一体化した耕作能力に対する権利であった。農民2人の〈ジョフト〉は2〈ガーウ〉からなることになる。
地主が村の土地を所有していた地主制の時代には、農民は1頭の牡牛をもつことを条件に地主経営の農場で働く権利が与えられていた。牡牛が死んだ場合には地主は前貸しによって農民に牡牛を取得させた。この地主の農場で働く権利も〈ガーウ〉といい、農民はみな等しく1〈ガーウ〉の権利をもっていた。農地改革で農地の所権利は地主から村の農民に移った。その後は、村の農地に対する農民の持分権が同じく〈ガーウ〉と呼ばれるようになった。〈ガーウ〉の内容が時代とともに変化したことになる。一般に農地改革といえば、土地の所有権が地主から個々の農民に移ることをイメージする。だがマルヴダシト地方の場合はまったく違っていた。農地改革時に取り交わされたポレノウ村の「農地売買契約書」をみると、土地の買手の欄には36人の氏名が列記され、各農民は「36人の共同所有地に対して無境界の1人分に権利をもつ」と記されていた。つまり村の土地は36人の共有財産になり、農民は等しくこの36分の1に権利をもつことになった。この持分権が〈ガーウ〉と呼ばれたのだ。
〈ジョフト〉は牡牛を使う農作業による農民2人の共働関係であったが、イランのオアシス農業地帯には灌漑の諸作業を契機とするもう一つの共働関係があった。一般に〈ボネ〉と言うこの共働の組織は農民4~8人で編成され、マルヴダシト地方では仲間を意味する〈シェリーキ〉と呼ばれていた。畜力で揚水する井戸を灌漑手段とするある村の場合、6人の農民の共働で灌漑作業が行われていた。灌漑時の農民の配置をみると、馬にロープを結び皮袋に60kgほどの水を満たしてくみ上げる揚水作業で、馬の操作と水の汲み上げに2人が当たり、もう1人が汲み上げられた水を耕地に導いた。つまり3人が井戸灌漑に従事したが、この作業が2交代で行われたため計6人で〈シェリーキ〉が編成されていた。役畜の数では3ジョフトの6頭の牡牛に加えて2頭の馬がこの〈シェリーキ〉に帰属した。
また、河川灌漑のポレノウ村の場合、〈シェリーキ〉は4人で編成され、36人が4人ずつ9つの〈シェリーキ〉で構成されていた。灌漑は輪番で行われ、1昼夜(シャバネルーズ)が1つのシェリーキの持ち時間になっていた。灌漑作業には農民2人が従事し時間を区切って残り2人と交代した。共働する農民の数は河川、井戸、カナートといった灌漑の方式やその他の条件で違ってくるが、いずれにせよ複数の農民の共働が不可欠であった。
農作業に複数の農民が協力することは日本も同じである。灌漑用水の管理は共同で行なわれ田植えには近所の農家が手伝った。ただ日本の場合は労働の貸し借りであり、経営は農家が単位になっていた。これに対して、〈シェリーキ〉は労働の交換ではなく、耕地を共同で利用し耕作の全過程をメンバーが共同で行うというものであった。しかもトラクターが普及し灌漑のシステムも変化して共同の必要性がかなり薄れていた1970年代に至っても〈シェリーキ〉の共同関係は続いていた。
農作業での農民相互の協力が労働交換ではなく農地を共同で利用するという形をとったのには理由がある。マルヴダシト地方では、農地は個々の農民に帰属していなかった。地主制の時代は地主が所有し、農地改革後は村の農民による共同所有であり、個々の農民の権利はこの共有地における持分権であった。後に具体的な事例で紹介するが、〈シェリーキ〉のメンバーは共同の耕地で共同して農作業を行い、また労働の成果である収穫物は均等に分けられた。(中略)
24人の共同所有地は大きく7つの耕区に区切られていた。これを農地の利用で分けると、4耕区(a,b,c,d)は小麦の単作地である。麦作地は2年1作で農地が利用されていたため、a、bの2耕区とc、dの2耕区は各年で小麦が作られていた。これに対して、e、f、gの3耕区は、小麦―綿花―休耕を3年で循環させていた。 1972年10月の時点では、a、b、cの3耕区は、耕起され土塊がゴロゴロした状態にあり、まもなく小麦生産が始まろうとしていた。f耕区は綿花畑でまだ収穫作業が続いていた。一方c、d、gの3耕区は、7月に小麦が収穫された後は、家畜を自由に放牧できる共同放牧地として開放されていた。この刈跡地はまもなく耕起され、1年間休ませて翌年の11月から小麦のための準備が始まる。
1972年11月、小麦の準備作業がa、b、eの3つの耕区ではじまった。その最初の作業が各〈シェリーキ〉の利用地を決めるための耕地割りである。村の代表数人が結び目がついた紐とビール(長い柄のシャベル)をもって集まり、〈シェリーキ〉の数に6等分するために土地を測っていく。紐をもった2人が長さを測り、残りの1人が境界に印として土盛をし土塊を積む。この測量は〈メートルキャルダン〉と呼ばれ、間口だけを2か所を測る簡単なものであった。土盛を結んだ線が〈シェリーキ〉利用地の境界となるが、それぞれは細長い地条をなしている。この年、小麦用に準備された3耕区で同じ作業が行われた。
測量が終わると、耕地割りをした6つの耕地(地条)の帰属を決めるべく〈ゴルケシー(くじ引き)〉が行われる。各〈シェリーキ〉の代表が広場に集まり、6等分された耕地(地条)の位置を記した紙切れを一人ずつ引いていく。小麦でも綿花でも収穫が終った後の耕地は村の共同利用地となるため、播種に先立ってこうした土地割とくじ引きが必要とされた。こうした方法で耕区ごとに農地の利用が決まった。〈シェリーキ〉の利用地は毎年移動したから、全体による耕地規制が強く、農民個々人はもとより〈シェリーキ〉にも農地の利用を決める権限がなかった。
各〈シェリーキ〉が利用する耕地(地条)が決まると種まきが行われる。この作業は農民が腰に巻いた袋に種用の麦を入れ、これをミレーの絵画「種まく人」さながらに耕地に撒いていく。耕したままの耕地は土塊が砕かれないまま露出している。種はこの状態で撒かれ、種まきが終わるとトラクターによる砕土・整地が行われる。砕土作業は土を砕くと同時に種を土壌に埋める役割を果たしている。機械化以前には、この作業に〈マーレ〉が使われた。2頭の牡牛が引っ張る板には、土に面する側に多数の木釘が出ていて、これで耕地の土塊を砕いた。
整地・砕土作業が終わると畦が立てられる。畦はまず耕地の境界を記した2つの土盛を結んで立てられ、ここではじめて地条の境界が見た目にもはっきりする。その後、畦は灌漑のための区画をつくるために縦横に碁盤の目のように立てられていく。この作業もトラクターで行われたが、以前には2人で作業をするコローという農具が使われた。一方が鉄板を差し込み、もう一人が鎖を引っ張って引き寄せることで土を盛りあげ、これを横に移動しながら繰り返して畦を立てていく。灌漑は、畦で囲まれた区画を一つずつ潅水する方法がとられ、小麦が生育するまでに3回ないし4回行われた。この地方の年間降水量は300ミリ前後で東京の7分の1程度と少ない。降雨季は晩秋から春にかけてであり、4月半ばからはほとんど雨はなく高温の乾燥の季節に入る。このため灌漑は4月以降に頻繁に繰り返される。
小麦は鎌で刈り取られてロバで脱穀場に運ばれ、〈シェリーキ〉ごとに山に積み上げられる。続いて脱穀の作業に入るが、これには脱粒、風選、篩かけの3段階がある。 まず、積み上げられた麦束の山を周辺から崩し、これをトラクターが踏み回る。この作業は麦粒を外しワラを破砕するためのもので、トラクター以前には、丸太に多くの鉄片を打ち込んだ〈ボレ〉という農具が使われた。これに人が乗り2頭の牡牛で牽引し山を崩しながら周囲を踏み回った。続く作業は、麦粒を選り分ける〈バードザダン(風選)〉である。風のある日に、フォークで掻き揚げて比重の軽いワラを飛ばして選別する。麦粒が分けられると、篩でワラくずや小石をとり除く。こうして脱穀場には〈シェリーキ〉の数だけ小麦の山ができる。ポレノウ村では36人が4人ずつ9つの〈シェリーキ〉があったから9つの山ができた。それぞれの山は〈シェリーキ〉4人の共同作業の成果であり、これを天秤で丁寧に測り等しく4等分した。実質的な平等原則のもと等しく労働を提供し、等しく分配したのである。」

また,1970年代のイラクの伝統的な灌漑農業について,以下のように報告されている(メソポタミアの灌漑農業)。
Al-Midaq村は,イラク南部のAl-Hammar湿地の北端で,ユーフラテス川の南岸に位置している。村には,約80家族が生活しており,全員がAlbu-Hamdan部族である。増水しても水に浸からない高い土地には,冬作のオオムギ,コムギが作付けられる。4月~11月は低地の水が引くので,夏作のイネ,トウモロコシ,野菜類が作付けられた。冬作のムギ類は灌漑されるが,夏の稲作は沼地の端の湛水した圃場で栽培され,灌漑を必要としない。


メソポタミアの土地利用(ポストゲイト氏)

かつての村の灌漑施設の管理は,水門の建設と維持,用水路の掘削,用水路に生えるアシやパピルスの除去,用水路からのゴミの除去などだった。1次用水路の幅は8~12mで,長さは様々であるが,平均的には,5,000~7,500haの農地に水を供給していた。この「灌漑共同体」は,5~6の村からなり,一つの村は10~15世帯で構成されている。2次用水路は,2~3の村の農地を灌漑し,3次用水路は1つの村だけを灌漑する。


Topview of a traditional Iraqi irrigation system, drawn by Steven George, 2010.(*14)

イラクの灌漑施設で重要な施設に,水門(head-dam)がある。水門は,1次用水路の取水口に設置され,通水のタイミングと量を制御する。1次用水路の水門の幅は8~12mで,高さは3~5mになる。水門の建設や修理は,河川の水位が低い7~9月におこなわれた。建設に必要な労働力と資材は,その水門を利用する灌漑共同体全体に割り当てられる。建設および保守についての決定は,部族の首長を中心に,成人男性の合意によっておこなわれる。


Cross-section of a head-dam, drawn by Steven George, 2010.(*14)

水門の警備や保守は1年をとおしておこなわれる。この仕事は,灌漑施設を利用するすべての世帯に義務づけられている。とくに,2月下旬~6月上旬の増水期には,昼夜を問わず水門の警備と監視がおこなわれた。増水期に何らかの原因で水門が壊れると,水が一気に流れ込んで,洪水の危険がある。
もう一つの危険は,敵対する他の部族の破壊行為がある。かつては,河川からの取水について国家の管理がなく,部族が勝手に水を利用していたので,敵対部族同士が水門を破壊する紛争が頻発した。このため,銃で武装した男性1~3人が,終日で水門を警備していた。敵の攻撃などの緊急事態があったときは,村の全員が参加する義務があった。

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「§42 もし人が耕地を小作のため賃借し,その耕地に大麦を実らせなかったなら,彼らは彼に対してその耕地に播種作業を行わなかったことを立証しなければならない。そして彼は大麦を彼(耕地の所有者)の隣人(の収穫高)にしたがってその耕地の所有者に与えなければならない。(XII 63-XIII-5)
§43 もし彼が耕地を耕作せず放置しておいたなら,彼は彼(耕地の所有者)の隣人(の収穫高)にしたがって大麦を耕地の所有者に与え,彼が放置しておいた耕地を(深く)犂き,まぐわでならして,耕地の所有者に返さなければならない。(XIII 6-16)
§44 もし人が耕作されないままになっている耕地を可耕地に戻すために3年間借り受けたが,無為に過ごし可耕地に戻さなかったなら,4年目に彼はその土地を(深く)犂き,マッルム・シャベルで土を砕き,そしてまぐわでならして,耕地の所有者に返さなければならない。そして,1ブル(約6.5ヘクタール)当たり大麦10クル(約3,000リットル)を計り与えなければならない。(XIII 17-34)
§45 もし人が自分の耕地を小作料とひきかえに小作人に耕作させ,自分の耕地の小作料を受け取り,そののちアダド(嵐)が耕地を水浸しにし,あるいは洪水が耕地を流してしまったなら,損失は小作人に帰属する。(XIII 35-46)
§46 もし彼(耕地の所有者)が彼の耕地の小作料を受け取っていなかったなら,耕地を貸し与えたのが2分の1(小作契約)に基づく場合であれ,3分の1(小作契約)に基づく場合であれ,小作人と耕地の所有者はその耕地に実った大麦を(小作契約の)割合にしたがって分けなければならない。(XIII 47-57)
§47 もし小作人が前の年に元が取れなかったので耕地を(もう1年)耕作したいと言ったなら,耕地の所有者は反対すべきでなく,むしろ彼の小作人が彼の耕地を耕作すべきである。そして彼は収穫時に彼の契約にしたがって大麦を受け取ることができる。(XIII 58-70)」(*1)

ハンムラビ法典には,小作についての条文が多く存在する。メソポタミアを支配したアムル人は,遊牧民であり,直接に耕作を行わない。直接に農地を耕作するのは先住の農耕民であり,先住農耕民が農地の耕作権を有していた。法概念では,国土の所有者は神であり,神から土地を託されたのが王であり,王から農地の保有権を与えられたのがアウィールムである。実際に農地を耕作するのは,ウバイド以来数千年にわたってメソポタミアで暮らしてきた先住の農耕民である。彼らは,メソポタミアの土地を耕作する権利を,慣習的に有している。一方,法の条文では,農地の保有者であるアウィールムが,小作人(先住農耕民)に,農地を貸すという形式になっている。

「遊牧民は自分たちの所有しているナツメヤシの木や農耕地を,収穫時に,収穫物の一部をもらう取り決めで,農耕民にまかせている。」(遊牧の民ベドウィン,*8)

「理論上はアマーラ県のすべての土地は公有地で,それを族長に貸し出すかたちになっている。しかし,族長は税金を払い,土地は自分のものだと思っているし,族長が有力者であるかぎり,だれもその権利を問題にしない。族長たちはもはや司法権を持ってはいないと考えられているが,部族民の間のもめごとで,殺人事件を除いて政府の法廷にまで持ち込まれることはまずない。(中略)ファーリフはいろいろな案件を扱っていた。川の水位が上がる前に堤防の強化を命じたり,次期の米の収穫期の土地割当を議論したり,収穫割当未納者には納入を督促したりした。」(湿原のアラブ人,*11)

「アマーラ県では,湿地帯に隣接する領地を持っている族長たちは,たとえその村々にほかの部族が住んでいても,村を支配する権利を得ており,米の収穫があるところでは年貢米を納めさせ,商売をする者からは権利金をとり,購入資格を与えられている者にしか魚を売らせなかった。族長たちは自分の家やゲストハウス(ムディーフ)の建設のために,乾燥葦の供出を割り当て,水牛に税金をかける場合もあった。」(湿原のアラブ人,*11)

後藤氏は,1962年の農地改革が始まる前の,イランの地主制について報告している。(*15)
「イランでは1960年にはじめて全国規模の農業センサスがまとめられた。これによると,農民総数の59.2%が分益農(raiyati),12.4%が定額小作の借地農(ejarei)であった。農民全体の71.6%が地主が所有する土地で農業をおこなっていたことになる。一般に分益農制では,農民は生産に必要な農具や役畜をもって自己の労働で農作業を行う。しかし地主もまた土地だけではなく水やその他の生産に必要な資本を提供する。このため,分益農は土地のみを地主から借りる借地農と比べて農業経営への独立性が相対的に弱く,地主もまた経営に関与する。(中略)ヘイラーバード村の古老の話によると,地主は50km離れた州都から時々馬に乗ってやって来てさまざまな指示を行ったが,その指示は絶対的なもので意見をはさむことは一切認められなかった。村の紛争に対しては地主が裁決を下し,農民の生存権をも奪う領主裁判権ほどの権限はなかったものの,重大事件を除けば実質的な裁判権を行使した。またポレノウ村の農民の話によると,農民は地主の意思で容易に追放され,農民は「あそこへ行け,こっちへ来いといわれれば,働く場所も住居も移った」。農民は貧困のあまり畑の作物をくすねることもしばしばあったが,地主の差配としてのキャドホダー(kadkhuda)は暴力をもって処罰した。(中略)地主の強い権限から農業労働以外にも農民にさまざまな賦課を命じた。(中略)とくに地主が土地とともに主要な生産手段である水の所有者であったことが重要である。すでに述べたように,乾燥地では灌漑が農業の条件となり灌漑なしに経営は成り立たないから,水利に権利をもつ者が強い請求権をもつことができた。イランでは水は,土地に付属する属地的な性格をもたず人に帰属する属人的な物権である。このため,土地と水の所有者が分離していることもあり,農業に際して水の所有者と土地の所有者の間で水が売買されることもあった。しかし,オアシス農業地帯では多くの場合,地主は同時に水の所有者でもあり,主要な生産手段を独占していた。(中略)農業を成立させる条件でありかつ高い生産性を保証する水は地主によって独占され,この独占が農民に対する地主の強い権限の根拠でもあった。(中略)ケルマン地方の場合,農業労働のメンバーは頻繁に交代させられ,「耕した土地を自らの手で収穫できる保障はまったくない」という状況にあったといわれている。(中略)灌漑農業では農民は労働と雄牛を負担するか,自らの労働力のみしか負担していない。これに対して非灌漑農業では,農民が労働力に加えて役畜と種を負担する場合が割合として非常に高い。これを地主の負担でみると,灌漑農業では土地,水,種,地方によっては牛も負担したが,非灌漑農業では土地のみの提供者である割合が高い灌漑農業を行うポレノウ村の場合でみると,農民は自分の労働力のみ負担した。もっとも役畜としての雄牛は農民が飼養したが,地主が購入資金を出しており,牛が死ぬか農民が村を出るときには地主はこの資金を回収した。したがって農民自身はこの牛を地主のものと思っていた。(中略)マルヴダシト地方の場合でみると,灌漑小麦では地主は土地,水,種,また役畜を負担することで収穫の3分の2に権利をもち,農民は自らの労働を提供することで3分の1を得た。一方,非灌漑小麦では地主は土地のみを提供し農民がその他の要素を負担することで収穫の5分の4を手にした。」

§45の「アダド(嵐)が耕地を水浸しにし,あるいは洪水が耕地を流してしまった」は,耕地土壌や灌漑用水路の破壊という説と,作物の流失という説がある。どちらの説が正しいのかよくわからないが,後藤氏はイランの地主と小作人の分益について,次のように報告している。

「実際の分益風景を再現すると次のようである。農民が刈り取った小麦は脱穀場に山に積まれる。これを牛や馬が牽引する農具で踏みまわり脱粒しワラを砕く。続いて風の強い日を選んで,これを繰り返しフォークで掻き揚げて麦粒を選り分け,最後の節にかけて雑物を除く。脱穀を終了した小麦はその場で山に盛られる。この山には手で触れるとわかるようにモフル(刻印)が押され,農民やよそ者が盗まないように監視される。地主と農民の関係は相互に不信の関係にあり,地主は村の外部者や村の農民やホシネシーン(非農民)の中からモバーシェル(mubashir)とダシトバーン(dashtban)を雇い,農民の監視に当たらせた。モバーシェルは収穫の分益に際してこれに立会い,地主取分が不足なく地主経営者に渡るように監視し,地主取分を倉庫に運び管理する義務も負った。またダシトバーンは畑での盗難を防止することを仕事としたが,とくに収穫期の盗難防止が重要で,脱穀場に運ばれた小麦が農民や外部者によって奪われないように徹夜で監視した。
分益比率による農民の取分は農場における労働の報酬だが,地主の本来支払うべき費用もあらかじめ差し引かれた。分益作業の手順をみると,まず小麦の山から,キャドホダー,モバーシェル,ダシトバーンの費用が支払われた。キャドホダーは地主の差配でもあったが,生産物に5%ないし10%に権利をもち,まずこれが差し引かれた。モバーシェルやダシトバーンも地主のために行動する地主の雇用人だが,分益作業では地主と農民で収穫iを分ける前に彼らの支払い分が控除された。つまり,地主と農民の共同経営という名目で農民も費用の一部を負担していた。さらに種や牛の前貸し分として高い利子を加えて小麦の山から取り除かれ,残った小麦の山が地主と農民の間であらかじめ決められた分益比率で分けられたのである。
このように分益制度は地主と農民の負担に応じて生産物を分ける制度として理解されているが,実際には農民の取分はこれよりはるかに少なかった。地主権力がきわめて強かったことから強制によって余剰が収奪された。農民の負担はこの他にもある。水利施設の維持管理労働は農民の無償の労働により,ヘイラーバード村では税を支払うための農地(モサエデ)が用意されていたが,ここでの耕作も農民の無償労働によっていたのである。」(*15)

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「§48 もし人がフブッルム・ローンを負っていて,アダド(嵐)が彼の耕地を水浸しにしたか,洪水が耕地(の作物)を流してしまったか,あるいは水不足で大麦が耕地に実らなかったなら,彼は,その年は,彼の債権者に大麦を返済しなくてよく,彼の文書(債務証書)を(一部変更のため)水で湿すことができる。彼はまたその年の利息を与えなくてよい。(XIII 71-XIV 17)
§49 もし人が商人から銀を借り受け,大麦あるいはゴマ用に耕された耕地を(担保として)商人に与え,「耕地に種を播き,実った大麦あるいはゴマを収穫し,持っていきなさい」と言い,もし小作人がその耕地に大麦あるいはゴマを実らせたなら,収穫時に耕地の所有者がその耕地に実った大麦あるいはゴマを取り,商人から借り受けた銀とその利息および農作業の経費に見合う大麦をその商人に与えなければならない。(XIV 18-44)
§50 もし(その人が)〈大麦が〉播かれた耕地あるいはゴマが播かれた耕地を与えたのなら,耕地の所有者が耕地に実る大麦あるいはゴマを取り,銀とその利息を商人に返済しなければならない。(XIV 45-55)
§51 もし彼に返済する銀がない場合は,彼が商人から借り受けた銀とその利息に見合う〈大麦あるいは〉ゴマをその相場にしたがって,王の勅令通り,商人に与えなければならない。(XIV 56-66)
§52 もし小作人が耕地に大麦あるいはゴマを実らせなかったとしても,[彼(商人)は]彼の契約を変更してはならない。(XV 1-6)」(*1)
「§t=70+d=L=5.9 もし商人が大麦(?)をフブッルム・ローンとして与えたなら,彼は1クル(約300リットル)につき大麦1パーン4スート(約100リットル:33%)を利息として取ることができる。もし銀をフブッルム・ローンとして[与]えたなら,銀1シキル(180粒,約8.33グラム)につき(銀)6分の1シキルと6粒(36粒,約1.94グラム:20%)の利息を取ることができる。(Si 4’-12’ ;t iii 35-40)」(*1)

ハンムラビ法典には,ローン(融資)についての細かい判例が多く存在する。戦士を供給するアムル人や「知」を支配するアッカド人は,農地を保有する権利を有するが,彼らの出自は遊牧民であり,自らは農耕を行わない。実際に農地を耕作するのは,先祖代々メソポタミアで暮らしてきた先住の農耕民である。遊牧民も農耕民も,リネージ,クラン,部族などの集団を形成し,集団の一員として生きている。部族や身分という「境界」によって分断された社会では,集団と集団の間には,大きな経済的ニッチができる。そのため,商人や高利貸しが,大きな経済的地位を占めるようになる。集団の「外部者」である商人や高利貸しには,農地の耕作権は無いが,貨幣を大量に蓄積することが可能であったために,農地の売買や資本調達に大きく介入するようになったのであろう。

「マアダンは魚を獲るときに網を使うかとサダムに訊いたら,『いやいや,絶対に使わない。網を使うのは“ベルベラ”だけだ。部族民はやすで突く。(中略)“ベルベラ”とは魚を網で獲る下層民のことさ。連中は部族民の間で暮らしている。(中略)』“ベルベラ”は織工,行商人,鉄工,市場向け菜園経営者,サービア教徒などと同様,境界を超える通商に従事しているので,部族民とは仲間として付き合いにくいのだとサダムは対句を口ずさむように説明した。すべてのアラブ部族民と同様,マアダンの間では,富はあまり重視されず,通商は基本的に軽蔑すべき行為なのだ。人間の価値はひとえに,その人の性格と人徳,血筋にかかっている。」(湿原のアラブ人,*11)
「アル・アッガールを出発して三時間後,一人の商人がマットの粗末なシェルターの下で露営している小さな開墾地に着いた。彼の名はムッラー・ジャバルと言い,ほかの二人の商人とともにバグダードの市場用の魚を買い付けに来ていた。彼は六日間,ここにいたのだが,私たちがウンム・アル・ブンニ湖に日暮れ前に着くのは無理だから,ここに泊まったらどうかと忠告してくれた。彼は大きさに関係なく,魚一〇〇匹につき三ディナールを払い,数千匹を買い付けていた。彼が言うには,最近,魚の数がかなり減っているという。魚は「バラム」に乗せて陸部へ送り,そこから氷詰にしてトラックでバグダードへ運んでいた。」(湿原のアラブ人,*11)

メソポタミアでは,秤量貨幣の銀と金が産出せず,アナトリア,ギリシア,エジプト,イタリア,インドなどから貨幣を輸入していた。一方,メソポタミアの財の源泉である麦類は,気候変動の影響を受けやすく,豊作と凶作とを繰り返す。貨幣の供給量が制限され,食料の供給量が変動する状況下では,穀物価格は,極端な乱高下を繰り返す。不作の年は穀物価格が高騰し,豊作の年は暴落する。穀物の買占めや売惜しみ,先物取引によって,貨幣の蓄積と欠乏が起こりやすい。古代メソポタミアでは,貨幣の蓄積と欠乏のために,何度も徳政令が出されている。ハムラビから4代あとのアミツァドゥカ(BC1646-1626)の時代にも,債務を帳消しにする勅令が発せられている。

「利子付貸付として,あるいは,返済を得るために(ana melqetim),銀や大麦を,アッカド人またはアモリ人に与え,そして,書かれた文書(タブレット)を作成した者は,王が国土(mesaram sakanum)に正義を確立したので,彼の文書は無効になる(彼のタブレットは破棄される)。彼は,その文書に基づいて大麦または銀を集めることはできない。」(古代メソポタミアの徳政令

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ハンムラビ法典には,果樹園(ナツメヤシ)についての判例が多く書かれている。ナツメヤシは,遊牧民の主食の一つであり,きわめて重要な食料資源である。

「アール・ムッラの食物のなかで,最もきわだつものはミルクである。彼らが飼っているラクダは,乳で有名な特別な品種である。出産後,めすラクダは人間の飲用として少なくとも一ガロン(約三・八リットル)の乳を毎日供給し,量は少し減るが最低一年間は乳を出し続ける。ラクダは,また時には食用に肉も提供する。とはいってもアール・ムッラは,明らかに病気であるか死にかけているときでなければ成長したラクダを屠ることはめったにない。彼らは,時には生まれたばかりのラクダを屠殺するが,ラクダを常時タンパク源にしているわけではない。ここ数十年の間にほとんどの狩猟動物がとりつくされたが,その前にはふつう,野生動物の狩猟からタンパクを得ていた。(中略)もう一つの主要な食物はナツメヤシである。また,動物の脂をまぶした米やパンの料理も,ほとんど毎日食卓にのる。アール・ムッラは,そのナツメヤシのほとんどを都市の市場,とくにホフーフで現金で買って手に入れている。こうした買物のための金は,サウディアラビア国防予備隊での働きから得て来るが,増えつつあるのは,アラビア東部の都市や石油基地での賃労働からのものである。」(遊牧の民ベドウィン,*8)
「遊牧民は自分たちの所有しているナツメヤシの木や農耕地を,収穫時に,収穫物の一部をもらう取り決めで,農耕民にまかせている。」(遊牧の民ベドウィン,*8)

ナツメヤシは,裸子植物のソテツに形が似ているが,イネなどに近い被子植物の単子葉類である。ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属に分類される。樹高15~30mに主幹が成長し,根元から数本の側枝が生える。根が深く張り,乾燥や暑熱に強い。樹の寿命は,100~150年である。雌雄異株で,雌花だけを着ける雌株と,雄花だけを着ける雄株に分かれている。雄花の花粉は風で雌花に運ばれるが,昆虫も関与しているとされる。実生では,5年目くらいから実をつけ始める。樹高が高く果実が頂上に着くことから,種子拡散は鳥類によって行われると考えられる。乾燥地帯に生息する植物であるが,生育には十分な水が必要で,地下に水が存在する場所に生える。果樹の中では,高い塩分濃度に最も耐えるが,塩分の少ない土地よりも生産量は劣る。


ナツメヤシの樹(エジプト,アレキサンドリア)


授粉後のナツメヤシの雌花(Author:Ahmed1251985)


ナツメヤシの雄花(Author:Philmarin)

栽培の歴史は古く,BC4000年頃にメソポタミアで栽培が始まったとされる。数百種の栽培品種が存在し,世界のナツメヤシの年間生産量は850万トン(2018年)にも達する。栽植は,一般的には,2~4年生の苗木(吸芽)を母樹から切り離して移植する。苗木を植えてから40日間は毎日灌水し,常に土壌が湿った状態にしなければならない。4年生までは3日おきに,5年生以上では1週間おきに灌漑する。多収穫の圃場では,1回の灌漑で1本当たり約100リットルの水が必要とされる。年間に約2節で40~60cm伸張し,定植してから成木に達するには,10年程かかる。

自然状態では,風および昆虫によって授粉が行われるが,安定的な果実生産のために,人工授粉が行われる。花が咲くのは2~3月末で,雌株50株当たり,雄株1本が植えられている。作業者が樹に登り,雄株の花序の一部を切り取って,雌株の花序の上で雄花序を振ったり,雌花序の脇に吊るしたりして交配させる。高所での授粉作業は危険が多いため,熟練の作業者によって行われる。


ナツメヤシの手入れをする農夫(Author:Mark Dolce)

果実(デーツ)は,1つの果房で1000個程(15~25kg)が結実し,1本では数千個(60~70kg)が収穫できる。栽培ナツメヤシの経済樹齢は10~60年生で,40年生頃が生産ピークとなる。


ナツメヤシの果実(Author:Nepenthes)

大麦や小麦などのイネ科植物は,難溶性リン酸を溶解吸収し,大気窒素を固定する能力がある。ただし,これらのイネ科植物は,浅根性で,土壌の上層のリンしか吸収できない。何千年も無施肥で栽培すれば,次第に生産力が低下してくる。一方,ナツメヤシは,地中深くに根を伸ばすので,多くのリンを吸収することが可能である。ナツメヤシのリンの吸収機構はわからないが,地中深くのリンを吸収できることが,経済寿命の長さや果実の豊産性につながっているのであろう。

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「§59 もし人が(別の)人の果樹園の木を,その果樹園の所有者の知らない間に切ったなら,彼は銀2分の1マナ(約250グラム)を支払わなければならない。(XVI 4-9)
§60 もし人が(ナツメヤシを)[植えて]果樹園にするために耕地を園丁師[に]与え,園丁師が果樹園に(ナツメヤシを)植えたなら,彼は4年間果樹園を育てなければならない。そして5年目に果樹園の所有者と園丁師は(果樹園を)等分し,果樹園の所有者が彼の取り分を(優先的に)選び取ることができる。(XVI 10-26)
§61 もし園丁師が耕地に(ナツメヤシを)植え終わらず,手付かずの地を残したなら,彼らはその手付かずの地を彼の取り分のなかに入れなければならない。(XVI 27-33)
§62 もし彼が与えられた耕地に(ナツメヤシを)植えて果樹園にしなかったなら,もし(それが)耕された耕地なら,園丁師は,耕地の小作料を隣人(の収穫高)にしたがって,放置された年数の分,耕地の所有者に計り与えなければならない。そして彼はその耕地に農作業を行い,耕地の所有者に返さなければならない。(XVI 34-47)
§63 もし(それが)休閑地なら,彼はその耕地に農作業を行い耕地の所有者に(耕地を)返し,1年当たり1ブル(約6.5ヘクタール)につき大麦10クル(約3,000リットル)を計り与えなければならない。(XVI 48-57)
§64 もし人が果樹園(のナツメヤシ)を授粉させるため園丁師に与えたなら,園丁師は,果樹園を保有している間,果樹園の所有者に果樹園の産物の3分の2を与え,彼自身は3分の1を取ることができる。(XVI 58-70)
§65 もし園丁師がその果樹園(のナツメヤシ)に授粉を行わず,収穫を減少させたなら,園丁師は〈果樹園の所有者〉に対して彼の隣人(の収穫高)〈にしたがって〉果樹園の産物を[計り与えなければならない]。(XVI 71-XVII 1?)
§a=66=A もし人が商人から銀を受け取り(借り),彼の商人が彼に(その返済を)要求したが,彼に与える物がなく,授粉後の果樹園を(その)商人に与え,「果樹園に生じるかぎりのナツメヤシをあなたの銀の代りに持ち去りなさい」と彼に言っても,その商人は同意してはならない。果樹園に生じるナツメヤシは(その)果樹園の所有者自身が取り,彼の文書(債務証書)にしたがって彼が銀とその利息を商人に(返済する)責任を負う。そして果樹園に生じる余剰のナツメヤシは,果樹園の所有者が取[る]ことができる。(P ii 1-18 ; Q iii 1-27)」(*1)

§59では,アウィールムが他のアウィールムのナツメヤシを無断で伐ったら,銀2分の1マナ(約250グラム)の賠償金を支払わなければならないとある。この金額は,アウィールムの傷害致死の賠償金と同額で,賃労働者の日当の1000倍である。現代の価格からすれば,極めて高額である。

アウィールムの奴隷を人質にして死なせたら銀3分の1マナ(約167グラム)(§116)
アウィールムの妻の離婚料が銀1マナ(約500グラム)(§139)
ムシュケーヌムの妻の離婚料が銀3分の1マナ(約167グラム)(§140)
ムシュケーヌムの目を損ったか骨を折ったなら銀1マナ(約500グラム)(§198)
アウィールムが対等のアウィールムの頬を殴ったら銀1マナ(約500グラム)(§203)
アウィールムがアウィールムを喧嘩で死なせたら銀2分の1マナ(約250グラム)(§207)
アウィールムがムシュケーヌムを喧嘩で死なせたら銀3分の1マナ(約167グラム)(§208)
アウィールムがムシュケーヌムの妊婦を殴って死なせたら銀2分の1マナ(約250グラム)(§212)
アウィールムが女奴隷の妊婦を殴って死なせたら銀3分の1マナ(約167グラム)(§214)
アウィールムが牛を質に取ったら銀3分の1マナ(約167グラム)(§241)
アウィールムが播種用の犂を盗んだら銀5シキル(約41.7グラム)(§259)
アウィールムが耕耘用の犂または馬耙を盗んだら銀3シキル(約25グラム)(§260)
賃労働者の日当は年始~5月が銀6粒(約0.28グラム),6月~年末までが銀5粒(約0.23グラム)(§273)

ナツメヤシの育成には10年を要し,灌漑などにも多くの投資が必要である。また,品種の育成,苗木の栽植,授粉,交配,収穫,調整など,専門的で高度な知識と技術を有していなければならない。ナツメヤシの賠償金が高額であったのは,初期投資が大きく,栽培技術が高度なために,他者が生産に参入することが難しかったからであろう。

§60では,「5年目に果樹園の所有者と園丁師は(果樹園を)等分し」とあるが,これはナツメヤシ(樹)の所有権のことである。農地の保有権はあくまでもアウィールムにあり,ナツメヤシの所有権だけがアウィールムと園丁師で等分される。そのことは,§61の「手付かずの地を残したなら,彼らはその手付かずの地を彼の取り分のなかに入れなければならない」,§62の「小作料を隣人(の収穫高)にしたがって,放置された年数の分,耕地の所有者に計り与えなければならない」,「耕地の所有者に返さなければならない」という記述からも明らかである。

§a=66=Aでは,商人は,ローンの担保として,ナツメヤシの樹や果実を差押さえることができないとしている。このような判例から,債務を抱えるアウィールムが多く存在したことが伺える(幕末の武士に似ている)が,遊牧民にとって,ナツメヤシは,差押えを禁止するほど重要な基本食料であった。

ナツメヤシの栽培化は,農地の保有権および耕作権に関して,重要な転換をもたらしたと思われる。園丁師は,アウィールムが保有する農地にナツメヤシを植えれば,5年後には農地の半分のナツメヤシを所有することができた。法的には,園丁師には,農地の保有権は存在しないが,最低50年間は継続してその農地を使用できることになる。1世代を30年とすれば,3世代にわたって農地の使用権を世襲できる。また,ナツメヤシは,地下水位が高く,灌漑設備が完備された場所でしか栽培できないため,同じ圃場に継続してを苗木を栽植するであろう。

すなわち,先祖代々の伝承や慣習(先取権)によって農地の耕作権を有しているにすぎなかった農耕民は,ナツメヤシの栽培化によって,耕作者自身が永代耕作権を法的に有するのと同じ状態になった。ロックが『統治二論』において,王権神授説を否定し,労働価値説に基づく土地の私的所有権を主張したのは,1689年である。

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「§117 もし人が債務を負い,自分の妻,息子あるいは/および娘を売ったなら,あるいは彼(自身)が債務労働のために与えられたなら,彼らは3年間彼らの買手あるいは債務労働をさせる人の家で働かなければならない。(しかし)4年目には彼らは自由の身とされなければならない。(XXVI[R. III]54-67)
§118 もし男奴隷あるいは女奴隷が債務労働のために与えられたなら,商人は(買い戻し期間を)経過させなければならない。そののち,彼ののち,彼(商人)は(その奴隷を)売ることができる。彼(男あるいは女奴隷)の返還を要求されることはない。(XXVI[R. III]68-73)
§119 もし人が債務を負い,彼に息子たちを生んでくれた彼の女奴隷を売ったなら,(その)女奴隷の所有者はその商人が支払った銀を支払って彼の女奴隷を請け出[す]ことができる。(XXVI[R. III]74- XXVII[R. IV]3)」(*1)

古バビロニアでは,たとえアウィールムの身分であっても,債務を返済できなければ,債務労働を課せられていた。ただし,身分奴隷とは異なり,彼らの債務労働の期間は,3年間に限定されていた。

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「§144 もし人がナディートゥム修道女を娶り,そのナディートゥム修道女が自分の夫に女奴隷を与え息子たちを得させたなら,(たとえ)その人が(さらに)シュギートゥム女性を娶ることを決意しても,彼らは彼がシュギートゥム女性を娶ることを許してはならない。(XXXI[R. VIII]13-27)
§145 もし人がナディートゥム修道女を娶ったが,(その女性は)彼に息子たちを得させず,彼がシュギートゥム女性を娶る決意をしたなら,その人はシュギートゥム女性を娶り,彼女を彼の家に入れることができる。(しかし)このシュギートゥム女性は自身をナディートゥム修道女と同等とみなすことはできない。(XXXI[R. VIII]28-42)
§146 もし人がナディートゥム修道女を娶り,彼女が自分の夫に女奴隷を与え,(その女奴隷が)息子たちを生み,そのあと,その女奴隷が自身を女主人と同等とみなしても,彼女(女奴隷)は息子たちを生んだのだから,彼女の女主人は彼女(女奴隷)を売ってはならない。(しかし)彼女は彼女(女奴隷)に奴隷の目印の髪形をさせ,奴隷の1人とみなすことができる。(XXXI[R. VIII]43-59)
§147 もし彼女(女奴隷)が息子たちを生まなかったなら,彼女の女主人は彼女(女奴隷)を売ることができる。(XXXI[R. VIII]60-64)」(*1)
「§178 もしウグバブトゥム,ナディートゥム修道女あるいはセクレトゥム女官で,彼女の父が彼女に持参財を贈り,彼女のために文書を作成したが,彼女のために作成した文書のなかで,彼女の遺産を誰であれ彼女の意にかなう人に与えることができるとは書かず,彼女に完全な(持参財の)処分権を与えていなかったなら,父親が死亡したあと,彼女の耕地と果樹園は彼女の兄弟たちが取ることができるが,彼らは彼女の取り分に相当する大麦,油および衣料を彼女に(定期的に)与え,彼女を満足させなければならない。もし彼女の兄弟たちが彼女の取り分に相当する大麦,油および衣料を彼女に与えず,彼女を満足させなかったなら,彼女は彼女の耕地,および果樹園を彼女の意にかなう小作人に賃貸し,彼女の小作人が彼女(の扶養義務)を負い続けなければならない。彼女は耕地,果樹園,その他彼女の父親が彼女に与えた物すべてを,彼女の生きている間保有することができるが,売却することはできないし,他の人を相続人と定めることもできない。彼女の相続分は彼女の兄弟たちの物である。(XXXVII[R. XIV]61-XXXVIII[R. XV]19)」(*1)

ナディートゥムとは,男神と結婚した女性のことであり,太陽神シャマシュのナディートゥムがよく知られている。ナディートゥムは,王族や貴族の娘たちである場合が多く,人間と性的関係を結ぶことは禁止されていた。一方,シュギートゥムは,ナディートゥムの姉妹または契約によって姉妹関係にあった女性のことと考えられている。

ヘロドトスは,バビロンの神殿について書き残している。(*12)
「この神殿は私の時代まで残っており,方形で各辺が二スタディオンある。聖域の中央に,縦横ともに一スタディオンある頑丈な塔が建てられている。この塔の上に第二の塔が立ち,さらにその上に,というふうにして八層に及んでいる。塔に昇るには,塔の外側に全部の層をめぐって螺旋形の通路がつけられている。(中略)頂上の塔には大きな神殿があり,この神殿の中に美しい敷物をかけた大きい寝椅子があり,その横に黄金の卓が置いてある。神像のようなものは一切ここには安置していない。また夜もここには土着の女一人以外は誰も泊らない。その女というのは,この神の祭司を務めるカルデア人(カルダイオイ人)の言葉によれば,神が女たち全部の中から選ばれた者であるという。また私には信じられないことであるが,同じカルデア人のいうところでは,神が親しくこの神殿に来て,この寝椅子に休むのだという。エジプト人の話では,これと同じことがエジプトのテバイにもあるという。ここでは「テバイのゼウス」の神殿に女がひとり寝るのであるが,どちらの場合もこの女は人間の男とは決して関係をもたないといわれている。またリキュアのパタラでも,神の女予言者が同じようなことをする。ただしここの神託は常時あるわけではないので,それが開かれている間だけのことであるが,その期間中女は神殿内に神とふたりだけ閉じ籠るのである。」

ナディートゥムは,父親の遺言書によって処分権が与えられれば,農地を保有し,処分する権利を有していた。彼女たちは,自らのリネージを形成しないことから,独立した「個人」に近い存在である。父系リネージを核とするクラン,部族からなる社会の中で,「個人」として法的人格を認められる場合がある特殊な存在であった。その意味では,ナディートゥムは,集団の「外部」に存在する存在である。

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「§175 もし王宮の奴隷であれムシュケーヌムの奴隷であれ,アウィールムの娘を娶り,息子たちを生んだなら,奴隷の所有者はアウィールムの娘の息子たちに対して奴隷身分に留まるよう主張することはできない。(XXXVI[R. XIII]57-68)
§176 もし王宮の奴隷であれムシュケーヌムの奴隷であれ,アウィールムの娘を娶り,彼が彼女を娶ったとき,彼女が彼女の父の家の持参財とともに王宮の奴隷あるいはムシュケーヌムの奴隷の家に入り,そして彼らが一緒になったあと,家を建て動産を得,そののち王宮の奴隷あるいはムシュケーヌムの奴隷が死亡したなら,アウィールムの娘は彼女の持参財を取ることはできるが,彼女の夫と彼女が一緒になったのちに得たものは何であれ,2つに分け,半分を奴隷の所有者が取り,(もう)半分をアウィールムの娘が彼女の息子たちのために取ることができる。(XXXVI[R. XIII]69-XXXVII[R. XIV]9)」(*1)

生まれた息子の身分は,父系だけでなく母系の出自でも決定された。父親が奴隷身分であっても,母親がアウィールム身分であれば,その息子は奴隷身分ではなかった。

一方,ベドウィンの結婚の習慣では,次のようにある。
「アール・ムッラは,女が社会的地位が自分たちより低い集団に嫁ぐことを決して許さない。男は自分より地位の低い女と結婚することができるが,その子孫は部族の完全な成員とはみなされず,またこれらの人びととアール・ムッラの女との通婚は禁じられている。結婚が,たとえ他の部族の者とであっても,同等の地位にある集団間で結ばれる限り,アール・ムッラは,ヘラルすなわち道徳にかなったものとみなしている。」(遊牧の民ベドウィン,*8)
「社会的に穢れているリネッジが三つ―部族の十分の一に満たない―あり,アール・ムッラのその他のリネッジの人びとは,彼らと通婚すべきでないと主張している。これらの集団はアール・ムッラの男と奴隷身分の女の結婚から生まれた者の子孫であると言われており,このために彼らは穢れたものであり,身分が低いと考えられている。過去には,これらのリネッジはラクダをほとんど持たず,その成員の多くはアール・ムッラの他のリネッジ成員のところで牧者として働いていた。」(遊牧の民ベドウィン,*8)

ヘロドトスは,バビロンの次のような風習を伝えている。
「嫁入りの年頃になった娘を全部集めて一所へ連れてゆき,その周りを男たちが大勢とり囲む。呼出人が娘を一人ずつ立たせて売りに出すのである。先ず中で一番器量のよい娘からはじめるが,この娘がよい値で売れると,次に二番目に器量のよい娘を呼び上げる。ただし娘たちは結婚のために売られるのである。嫁を貰う適齢期になったバビロンの青年たちの中でも富裕なものは,互いに値をせり上げて一番器量よしの娘を買おうとする。しかし庶民階級の適齢者は,器量のよいことなどは求めず,金を貰ってむしろ醜い娘を手に入れるのが通例であった。というのは,呼出人が一番器量のよい娘たちを一通り売り終ると,今度は一番器量の悪い娘あるいは娘の中に不具のものがあればその不具の娘を立たせ,最少額の金を貰ってこの娘を娶ろうという男は誰かということで,この娘をせりに出すのであるが,結局娘は最少の額を申し出た者に落ちる。金は器量のよい娘たちから入るのであるから,要するに器量のよい娘が,不器量な娘や不具の娘に持参金をもたせて嫁入りさせたことになるのである。(中略)このような素晴しい風習がこの国にはあったのに,今はもう存在していない。(中略)それというのは,ペルシア人に占領されてさんざんな目に遭わされ,家計をめちゃめちゃにされてからというものは,庶民階級はみな生活に窮し娘たちに売春させているからである。」(*12)
「バビロン人の風習の中でも最も破廉恥なものは次の風習である。この国の女は誰でも一生に一度はアプロディテの社内に坐って,見知らぬ男と交わらねばならぬことになっている。金持で気位が高く,ほかの女たちと一緒になることを潔しとしない女も少なくないが,こういう連中は大勢の侍女を従え天蓋のある馬車で社に乗りつけてそこに立っている。しかし大抵の女は次のようにするのである。女たちはアプロディテの神域の中で,頭の周りに紐を冠のように巻いて坐っている。新たにやってくるものもあり,立ち去るものもあり,その数は大変なものである。女たちの間を縫ってあらゆる方向に通ずる通路が綱で仕切ってあり,よそからきた男たちは,この通路をたどりながら女を物色するのである。女は一旦ここに坐った以上は,誰か見知らぬ男が金を女の膝に投げてきて,社の外でその男と交わらぬ限り,家に帰らない。金を投げた男は「ミュリッタ様の御名にかけて,お相手願いたい」とだけいえばよい。アッシリア人はアプロディテのことをミュリッタと呼んでいる。金の額はいくらでもよい。決して突返される恐れはないからである。この金は神聖なものになるので,突返してはならぬ掟である。女は金を投げた最初の男に従い,決して拒むことはない。男と交われば女は女神に対する奉仕を果したことになり家へ帰るが,それからはどれほど大金を積んでも,その女を自由にすることはできない。容姿に恵まれた女はすぐに帰ることができるが,器量の悪い女は永い間務めを果せずに待ち続けなければならない。三年も四年も居残る女も幾人かいるのである。キュプロスでも幾箇所かに,これと似た風習がある。」(*12)
(※神殿娼婦あるいは神殿聖娼と呼ばれる女性たちは,アッシリア,エジプト,リュディア,アルメニアなどオリエント全域で見られた)(*16)。

ペルシア人は,ギリシア人,ゲルマニア人などと同じ印欧語族であり,黒海北方の火山草原を起源とする騎馬遊牧民である。「イラン」とは,ペルシア語で「アーリア人の土地」を意味する。

沙漠で暮らし遊牧民の伝統を固持してきたベドウィンにとって,何度も異民族に征服されたバビロンの風習は,唾棄すべき風習であったのであろうか。

Reference,Citation
*1) 中田一郎. 1999. ハンムラビ「法典」. リトン.
*2) Jean-Vincent Scheil. 1902. Mémoires. by France. Mission archéologique en Iran; France. Mission archéologique en Iran.
*3) THE CODE OF HAMMURABI. Translated by L. W. King.
*4) 山田重郎. 2006. 文書史料におけるセムの系譜,アムル人,ビシュリ山系. 特定領域研究 Newsletter No.2.
*5) 大西康之. 2009. ha.naとmar.tu―メソポタミアにおける遊牧と定住の対比構造. シリア・メソポタミア世界の文化接触:民族・文化・言語. 科研報告.
*6) 大西庸之. 2007. マリ文書におけるha.naの解釈をめぐって. オリエント 50-1:1-19.
*7) 前田徹. 2009. Martu―族長制度の確立. シリア・メソポタミア世界の文化接触:民族・文化・言語. 科研報告.
*8) Donald Powell Cole. 1975. Nomads of the nomads. 片倉もとこ翻訳. 遊牧の民ベドウィン. 社会思想社. 1982年.
*9) Gaius Iulius Caesar. Commentāriī dē Bellō Gallicō (Latin); Liber I–VIII.
*10) “Tacitus – Germania”. http://www.unrv.com.
*11) Wilfred Thesiger. 1964. The Marsh Arabs. 白須英子翻訳. 湿原のアラブ人. 白水社. 2009.
*12) ヘロドトス. 歴史. 松平千秋訳. 岩波書店, 1971.
*13) 後藤 晃. マルヴダシト地方のオアシス農業社会.
http://www.akibargotou.com/maruvudashito-oasis.html
*14) Rost, Stephanie & Hamdani, Abdulamir & George, Steven. 2014. Traditional Dam Construction in Modern Iraq: A Possible Analogy for Ancient Mesopotamian Irrigation Practices. Iraq. 73. 201-220.
*15) 後藤 晃, ケイワン・アブドリ. 2006. イラン土地制度史論(1)―マルヴダシト地方を中心に―. 商経論叢 第41巻第3・4合併号.
*16) 井本英一. 2007. 聖婚. 大阪外国語大学論集36, 55-74.

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