アマルナ文書,馭(御),市場 Amarna letters, Horse training, Market

SHINICHIRO HONDA

1887年に,エジプト中部のテル・エル・アマルナで,楔形文字が書かれた粘土板が発見された。アマルナは,BC1353年頃に,第18王朝のファラオ,アメンホテプ4世によって建設された新首都だが,アメンホテプ4世の死後(BC1332年)に放棄された。アマルナ文書を発見したのは,地元の農民で,粘土板の大部分は農民たちによって回収され,博物館に売られた。その後の発掘調査で,50枚ほどが発見され,全部で382枚の文書が確認されている。

文書のほとんどは,アメンホテプ3世とその息子のアメンホテプ4世に送られた手紙だ。手紙の相手は,バビロニア,アッシリア,ミタンニ,ヒッタイト,アラシア(キプロス),アルザワなど独立国家の王,それに,ダマスカス,ビブロス,アッコ,ハツォル,シェケム,メギド,シドン,エルサレムなど,エジプトの支配下にあった都市国家の統治者らである。

アマルナ文書は,おもに,当時のオリエント世界の共通語として用いられていたアッカド語で書かれている。ノルウェーのJ.A. Knudztonによって翻訳されたものが,標準版となっている。(*1)


Map of the ancient Near East during the Amarna period

EA 1 アメンホテプ3世 → カダシュマン・エンリル(バビロニア王)
・・・貴方は私の娘を貴方の妻として求め,そして,私の父が貴方に与えた私の妹が貴方と一緒にいる。しかし,現在,彼女を見たものが誰もおらず,彼女が生きているか死んでいるかもわからない・・・

EA 2 カダシュマン・エンリル → アメンホテプⅢ
・・・私は貴方の娘を望みます,なぜ彼女と結婚してはいけないのですか?・・私の娘たちは利用可能です,しかし,彼女らの夫は,王であるか王室の血でなければなりません。王室の血でないものに,自分の娘を王は一人もいません。貴方の娘たちは利用可能なのに,なぜ私に一人も与えないのですか?・・・良い馬・・20木製の・・金の・・120シュケル・・貴方への挨拶の贈物を送ります。60シェケルのラピスラズリを貴方の妹への挨拶として送ります・・私の妻・・・

EA 3 カダシュマン・エンリル → アメンホテプⅢ
・・・貴方は使者をすぐに送りだし,私の父にも美しい挨拶の贈物を送った。・・しかし,今私が貴方に使者を送ったとき,貴方は彼を6年間も拘留しました・・・貴方が私に送ったのは,わずか30ミナの金でした。私が得た贈物は,毎年私が貴方に与えた合計に達しません。・・・木製の戦車10頭と10組の馬を,挨拶の贈物として送ります。

EA 4 カダシュマン・エンリル → アメンホテプⅢ
・・・この夏の間,タマズまたはアブの月に,貴方が金を送るなら,私は貴方に私の娘を与えると書きました。それで,貴方が促されたと感じた分の金を送ってください。・・・貴方は私に3000タレントの金を送るかもしれないが,しかし,しかし,私はそれを受け入れません。私はそれを貴方に送り返し,私の娘と結婚させません。

EA 5 アメンホテプⅢ → カダシュマン・エンリル
・・・使者が戻って来たら,私は貴方に(それらを)送ります。 象牙と金箔で装飾された黒檀のベッド1台,金箔の黒檀のベッド3台,金箔の黒檀の uruššuを1,金箔の黒檀の椅子1,これらの物,すべての金の重量7ミナ,銀9シェケル,黒檀の足のせ台10,黒檀の・・,金箔の象牙の足のせ台,金の・・,10シェケルと7シェケル,金の・・・

EA 7 ブルナ・ブリアシュⅡ(バビロニア王)→ アメンホテプⅣ
・・・私が貴方に送った使者のサルムのキャラバンは,2回略奪されました。・・・兄弟は,この事件をいつ裁定するのですか?・・・彼の物は彼に返却されるべきであり,彼の損失は補償されるべきです。・・・

EA 8 ブルナ・ブリアシュⅡ → アメンホテプⅣ
・・・男が私の商人を殺し,私が送った彼らのお金を奪いました・・・カナンは 貴方の国であり,その王たちは 貴方の国の僕です。私が略奪されたことを彼らに説明させ,奪ったお金を賠償させてください。私の僕を殺した男たちを殺し,私の血の復讐をして下さい。そして,貴方がその男たちを殺さなければ,彼らは,私のキャラバンであろうと貴方の使者であろうと,再び殺すでしょう。だから私たちの間の使者は,それによって遮断されます・・・

EA 19 トゥシュラタ(ミタンニ王)→ アメンホテプⅢ
・・・私は,また,兄弟に多くの金を求めました。「兄弟が,父が与え,私に送ったよりも多くのものを送ってください。貴方は,私の父に多くの金を送りました。貴方は,彼に,大きな金の壺と金の水差しを送りました。貴方は,彼に複数の金のレンガを送りました。まるで,それらが,銅と全く同等であるかのように」・・・

EA 23 トゥシュラタ(ミタンニ王)→ アメンホテプⅢ
・・・したがって,すべての土地の女神,ニネヴェのシャウスカは言った。私は愛する国へ行き,そして,戻りたい。今,私はここに彼女を送り,彼女は彼女の道を進んでいます・・・

EA 35 アラシア王 → ファラオ
・・・私はここに500タレントの銅を送ります。兄弟への挨拶として送ります。兄弟,銅の量が少ないことを心配しないでください。ネルガルの手は,今,私の国にある。彼は,私の国のすべての人を殺しました,そして一人の銅職人もいません。しかし,心配する必要はありません。すぐに,使者を私の使者と一緒に送ってください。そして,私の兄弟,あなたが要求するどんな銅でもあなたに送ります。あなたは私の兄弟です。彼が私に非常に大量の銀を送ってくれますように。 兄弟よ,私に最高の銀を与えてください。そうすれば,私の兄弟,貴方が要求するものは何でも送ります・・・

EA 38 アラシア王 → ファラオ
・・・兄弟よ,なぜ私にそんなことを言うのですか?「兄弟はこれを知らないのですか?」と。私に関する限り,私はそのようなことは何もしていません。じっさい,ルッカ人たちが,年々,私の国の村々を占領しています・・・

EA 144 Zimriddi(シドン王)→ ファラオ
・・・主君よ,王の射手が到着する前に私が準備をしたことを王は知っているでしょう。私は主君である王の命令に従って,すべてを準備しました。王よ,私の主君よ,我らに対する戦争が非常に厳しいことを知ってください。王が私の責任を負わせたすべての都市は,アピル(ハビル)に対して参加しました・・・

--------------------

オリエントの紀元前14~13世紀は,青銅器時代の最後期である。すなわち,武器と生産手段が,銅から鉄へと大きく転換する直前のオリエント世界の情勢が書かれている。オリエントの大国の王たちは,娘や妹を相手国の王に嫁がせて血縁関係を結び,金,銀,ラスピタズリ,象牙,黒檀,オリーブ油,弓,馬,戦車などを相互に贈与することで,同盟関係あるいは協力的な政治的関係を作っていた。

バビロニア王は,エジプトのファラオに娘や金を求めるが,ファラオはそれほど積極的ではない。バビロニアからは,馬,戦車,ラピスラズリなどが送られ,エジプトからは,金,銀,黒檀,象牙などが送られた。バビロニア王は,カナンでバビロニアの使者が賊に殺害,略奪されたことに対して,ファラオに賊の殺害と賠償させることを要求している。

一方,ミタンニとエジプトの王は,3代にわたって相手の娘を自分の妻に迎えており,緊密な同盟関係を結んでいた。ミタンニからエジプトへは,馬,戦車,弓,剣など大量の武器が送られ,ニネヴェのシャウスカと呼ばれる女神の像が貸し出された。エジプトからは,多くの金がミタンニに送られた。

ミタンニは,紀元前16世紀頃に建国されたフルリ人の国であるが,王,貴族,軍人などの支配層は印欧語族と考えられている。フルリ語は膠着語であるが,王や軍人の名前は印欧語で書かれた。ミタンニは,建国の当初は,トトメス朝のエジプトと戦争していたが,ヒッタイトが台頭すると,ミタンニとエジプトは同盟を結んで,ヒッタイトに対抗した。また,フルリ人は,オリエント世界に馬を供給していたことが知られている。ミタンニは,馬,戦車,弓,銅剣など,軍事技術の先進地で,ミタンニの弓は,ユーラシア草原で発達した強力な複合弓と考えられる。

ミタンニからエジプトへは,次のような多くの武器が送られた。金の装飾の青銅zalleweナイフ1,青銅のzalleweナイフ10,金の装飾の鉄の短剣1,短剣(鉄の刀身,金の装飾の柄)1,短剣(鉄の刀身,金のガード)1,金で装飾されたapisāmūš弓1,apisāmūš弓100,鋭い弓1,000,弓2,000,弓3,000,弓20,とげのある弓20,šukūdu弓20,炎形の弓20,銀箔の盾1,青銅の盾9,金で装飾された青銅の槍,刃が鉄製の投げ槍10,刃が青銅の投げ槍10,槍10,槍10,青銅の槍10,金で装飾された弓1,金で装飾された鞭,鋭い矢,金で装飾された鉄製の槌鉾1,銀が使われた青銅製の斧1,青銅の鎧1・・・。(*2)

アラシアは,キプロス島に存在した王国で,アラシアからエジプトには銅が送られ,エジプトからアラシアへは,銀が送られた。かつては,銅の主産地の一つであったキプロスは,このころには弱体化したようで,「ネルガルの手は,今,私の国にある。彼は,私の国のすべての人を殺しました,そして一人の銅職人もいません」と窮状を訴えている。ネルガル神は鉛のことであり,冶金職人が一人もいないということから,キプロスでは,鉛中毒症が蔓延していたと思われる。

また,アラシアからの手紙には,「ルッカ人たちが,年々,私の国の村々を占領しています」とある。ルッカ人は,デンイェン,シャルダナ(サルデーニャ人),ルッカ(リュキア人),メシュウェシュ,テレシュ,エクウェシュ(ギリシア人),シェケレシュ,ペレセト(ペリシテ人),チェケル,ウェシェシュ(ギリシア人)などと記録された「海の民」の一部族である。すでに,「海の民」の軍事力が優勢になっていることが伺える。

--------------------

南レヴァントでは,ハビル(アピル)と呼ばれる武装集団が,ビブロスやシドンなど各地の統治者と戦争している。ハビルの名前は,メソポタミアでは紀元前3000年紀末から登場するが,傭兵,使用人,労働者,あるいは,殺人,強盗,略奪を行う無法の集団として記録されている。ハビルはヘブライ人のことという説が唱えられたことがある。紀元前1550年頃のアナトリアの「ティクナニ・プリズム」には,438名のハビルの名前が,傭兵,労働者として記録されていた。ハビルは,10人ずつの班に編成され,長によって組織されていた。ハビルの大部分はフルリ語の名前で,セム語の名前はごく一部にすぎなかった。


Areas of reported Habiru activity during the Late Bronze IIA period (based on the Amarna letters corpus) (Author : PioGal; © Sémhur / Wikimedia Commons / CC-BY-SA-3.0; © Sweet Publishing / CC-BY-SA-3.0; the Metropolitan Museum of Art / CC-Zero)

当時の軍事力の中心は,馬と戦車である。戦場では,士官は戦車に乗って弓などで闘うが,戦車の操縦には馭者(御者)が必須である。また,馬を調教できる調教師も必要だ。ヒッタイトの首都ボアズキョイから出土した粘土板に,キックリのテキストがある。これは,2頭立て戦車の馬を調教するための教科書で,紀元前15世紀に書かれた原文を,前13世紀に書き写したものと考えられている。

テキストの冒頭には,「このようにキックリは語る。ミタンニの地から来た馬の調教師」とある。教科書には,約200日間にわたって,戦車の馬を調教する方法や給餌の方法が,詳細に書かれている。温めた湯で馬の身体を洗い,燕麦,大麦,干し草を,少なくとも1日3回給餌した。(*3)(*4)


キックリ文書が刻まれた2枚の粘土板


Hittite Chariot. drawing from an egyptian relief

ハビルは,紀元前3000年頃から記録に現れるようになり,その活動範囲は,オリエント全域である。戦争のときは傭兵,労働者として王に雇われ,戦争が無いときは,殺人,略奪など無法の集団と記録されている。ハビルは,何らかの機能集団であることは間違いなく,その構成員の多くはフルリ人であった。馬に戦車を引かせるには,馬の調教が必須であり,調教の教科書が書かれるほど専門化していた。また,じっさいの戦闘時にも,馭者(御者)が必要である。これらのことから,ハビルは,馬の繁殖,調教を担い,戦場では馭者として戦闘に参加したフルリ人を中心とする集団と考えられる。

中国神話では,馬について書かれたものが多く存在するが,もっとも馬が重要視されているのは,秦の起源神話である。神話では,秦の祖先は,代々,殷や周の帝に仕えた,馬の馭者(御者),調教師,繁殖者であったと書かれている。

秦之先,帝顓頊之苗裔孫曰女修。女修織,玄鳥隕卵,女修吞之,生子大業。大業取少典之子,曰女華。女華生大費,與禹平水土。已成,帝錫玄圭。禹受曰:「非予能成,亦大費為輔。」帝舜曰:「咨爾費,贊禹功,其賜爾皁游。爾後嗣將大出。」乃妻之姚姓之玉女。大費拜受,佐舜調馴鳥獸,鳥獸多馴服,是為柏翳。舜賜姓嬴氏。大費生子二人:一曰大廉,實鳥俗氏;二曰若木,實費氏。其玄孫曰費昌,子孫或在中國,或在夷狄。費昌當夏桀之時,去夏歸商,為湯御,以敗桀於鳴條。大廉玄孫曰孟戲,中衍,鳥身人言。帝太戊聞而卜之使御,吉,遂致使御而妻之。自太戊以下,中衍之後,遂世有功,以佐殷國,故嬴姓多顯,遂為諸侯。其玄孫曰中潏,在西戎,保西垂。生蜚廉。蜚廉生惡來。惡來有力,蜚廉善走,父子俱以材力事殷紂。周武王之伐紂,并殺惡來。是時蜚廉為紂石北方,還,無所報,為壇霍太山而報,得石棺,銘曰「帝令處父不與殷亂,賜爾石棺以華氏」。死,遂葬於霍太山。蜚廉復有子曰季勝。季勝生孟增。孟增幸於周成王,是為宅皋狼。皋狼生衡父,衡父生造父。造父以善御幸於周繆王,得驥,溫驪,驊騮,騄耳之駟,西巡狩,樂而忘歸。徐偃王作亂,造父為繆王御,長驅歸周,一日千里以救亂。繆王以趙城封造父,造父族由此為趙氏。自蜚廉生季勝已下五世至造父,別居趙。趙衰其後也。惡來革者,蜚廉子也,蚤死。有子曰女防。女防生旁皋,旁皋生太幾,太幾生大駱,大駱生非子。以造父之寵,皆蒙趙城,姓趙氏。非子居犬丘,好馬及畜,善養息之。犬丘人言之周孝王,孝王召使主馬于汧渭之閒,馬大蕃息。孝王欲以為大駱適嗣。申侯之女為大駱妻,生子成為適。申侯乃言孝王曰:「昔我先酈山之女,為戎胥軒妻,生中潏,以親故歸周,保西垂,西垂以其故和睦。今我復與大駱妻,生適子成。申駱重婚,西戎皆服,所以為王。王其圖之。」於是孝王曰:「昔伯翳為舜主畜,畜多息,故有土,賜姓嬴。今其後世亦為朕息馬,朕其分土為附庸。」邑之秦,使復續嬴氏祀,號曰秦嬴。亦不廢申侯之女子為駱適者,以和西戎。・・・(『史記,秦本紀』)

秦の先祖は,帝顓頊の後裔である。顓頊の孫を女脩といった。女脩があるとき機を織っていると,燕が卵をおとした。女脩はこれを呑んで,子の大業を生んだ。大業は諸侯の少典の子の女華を娶った。女華は大費を生んだ。大費は禹とともに洪水をおさめて土地をひらいた。その工事が完成すると,帝舜が功をよみして禹に玄圭(黒い玉)を賜うた。禹はそれを受けて,「わたくしがひとりで成就したのではありません。大費が輔けてくれたのです」といった。帝舜は,「ああ,費よ,よく禹の功業をたすけてくれた。なんじには皁游(黒い旗)をあたえよう。なんじの子孫には大いに興隆するものがでるだろう」といって,姚姓(舜の同姓)の美女を娶せた。大費はこれらを拝受して,舜をたすけて鳥獣を調練した。鳥獣は多く馴れしたがった。この大費が柏翳(ハクエイ)である。舜はかれに嬴(エイ)氏という姓を賜うた。大費は子二人を生んだ。一人は大廉といい,鳥俗氏の祖であり,もう一人は若木といい,費氏の祖である。若木の玄孫を費昌という。その子孫はわかれて,あるいは中国に居住し,あるいは夷狄の地に居住した。費昌は夏の桀王の時代の人で,夏を去って殷に帰属し,湯王の御者になって,桀王を鳴条でやぶった。大廉の玄孫を孟戯,中衍という。中衍は身体は鳥で,人語をよくした。帝太戊がこのことを聞いて,中衍を御者にすることの可否を卜った。吉とでたので,側において御者にし,妻をもたせた。帝太戊より後世,中衍の子孫は世々功績があって殷国をたすけた。それ故に,殷では嬴姓のものが多く世にあらわれ,ついに諸侯になった。中衍の玄孫を中潏という。中潏は西戎のなかに住んで西垂の地を領有し,蜚廉を生んだ。蜚廉は惡来を生んだ。惡来は剛力であり,蜚廉はすぐれた走者であった。父子はその才能を生かして殷の紂王につかえた。周の武王が紂王を伐ったとき,あわせて惡来を殺した。このとき,蜚廉は紂王のために北方に使していた。そして,帰ってきたが,紂王は死んでいて報告する相手がなかった。そこで,壇場を霍太山(山西省)につくって,紂王をまつり,それにむかって報告した。たまたま壇を築こうとして土を掘っているとき,石棺をみつけた。その銘に,「天帝は處父(蜚廉の別号)を殷の乱に関係させなかった。そして,ここに,なんじ處父に石棺を賜い,なんじの子孫を光華あらしめんとするものである」とあった。蜚廉が死んで,霍太山に葬られた。蜚廉には,惡来のほかにまた子があり,季勝といった。季勝が孟増を生んだ。孟増は周の成王に寵幸された。これが宅皋狼といわれた人物である。皋狼が衡父を生んだ。衡父が造父を生んだ。造父はすぐれた御者として周の繆王に寵幸され,驥(赤驥,赤色の馬),温驪(盗驪,浅青色の馬),驊駵(鮮紅色の馬),騄耳(緑色に耳の馬)の四俊馬をみいだした。繆王は西方に巡狩して,楽しんで帰ることを忘れた。そのすきに,徐(安徽省)の偃王が乱を起こした。造父は繆王の御者になって,一日に千里も長駆して周に帰り,そのために乱を収拾することができた。繆王はその功を嘉して,造父を趙城に封じた。造父の一族はかくして趙氏になった。蜚廉が季勝を生んでから,のち五世で造父にいたり,造父は嬴姓の同族と別れて趙に居住した。趙衰(趙の祖)はその子孫である。惡來革は蜚廉の子である。若死したが,子があって女防といった。女防が旁皋を生んだ。旁皋が太几を生んだ。太几が大駱を生んだ。大駱が非子を生んだ。当時,造父が周の繆王に寵幸されたおかげで,惡來革の子孫もみな趙城の姓の趙氏を称していた。非子は犬丘(陜西省)に居住していた。馬や畜類を愛好して,それらをよく養った。犬丘の人々がこのことを周の孝王に言上したので,孝王は非子を召して,汧,渭二水のあいだで,馬を主管させた。馬は大いに蕃殖した。孝王は非子を大駱の嫡嗣にしたいと思った。たまたま申侯の女(むすめ)が大駱の妻であって,子の成を生み,成はすでに嫡嗣にきまっていた。そこで,申侯は孝王に言った。「むかし,わが祖先で酈山(陝西省)に居住したものの女が,西戎の胥軒(中衍の曽孫)の妻になって中潏を生みました。中潏は母方の縁故で周に帰服し,西垂の地を保有しました。西垂はこうした理由で周と和睦したのです。いま,わたくしはまた大駱に妻を与えて,嫡子の成をもうけました。つまり,申と駱とが婚姻関係を二重にしましたので,西戎がみな周に帰服し,それによって周が王業をたもちえているわけです。王には,どうかこの点をご熟考ください」そこで,孝王は言った。「むかし,伯翳は舜のために畜類を主管したところが,畜類は大いに蕃殖した。舜はこれを嘉して,伯翳に領土を与え嬴姓を賜うた。いま,その子孫もまた朕のために馬を蕃殖させた。朕も領土を分かちあたえて付庸としよう」かくして,非子に秦の地をあたえ,ふたたび嬴氏の祭祀をつがせ,号して秦嬴といった。また,申侯の女の子で駱の嫡子であったのを廃嫡しないで,西戎と和をたもったのである。・・・(*5)

中国馬車
1本の轅の馬車のあと,安陽孝民屯,前14~11世紀(*6)

御(ギョ),馭,卸の字体は,契文と金文に3種類存在する。『左伝』の服虔注には,「圉(ギョ)人は馬を養ふを掌る臣の賎者なり」とある。また,説文には「圉は囹圄なり,罪人を拘する所以なり」とあり,犯罪者,無法者の意味もあった。(*7)

契文と金文の形を見れば,御,馭は,𠂤(シ,士官)の後に従う従者であり,また,馬を馭(ギョ)する馭者,調教師の象形と考えられる。ギ音には,技,義,羲,犠など,役畜の馭(ギョ)に関する字が多く存在する。

--------------------

超協力タカ派戦略の人間にとって,軍事力が重要であることは当然である。アマルナ文書でも,馬,戦車,弓,剣など,武器の記述がきわめて多い。もうひとつは,秤量貨幣としての金と銀の重要性である。すでに,ウル・ナンムの時代から,銀が秤量貨幣として使われていたが,紀元前15世紀には,金,銀は,国家間の取引の支払いに使われており,すでに国際通貨が成立していた。

一方,銅については,銅の主産地のアラシア(キプロス)の弱体化や,ミタンニ王の「貴方は,彼に複数の金のレンガを送りました。まるで,それらが,銅と全く同等であるかのように」という記述などから,銅は貴重品として扱われていないことがわかる。

当時,オリエントに金を供給していたのはエジプトである。エジプトの金は,ヌビアで採掘されていた。一方,銀は,エジプトでは産出せず,鉛の同位体分析によって,古代エジプトの銀は,ギリシアのラブリオに由来することがわかっている。近年,ラブリオ港の近くで,これまで知られていなかった古代の銀山が発見され,坑道,落書き,陶器,ランプ,石造りのハンマー,壁の採掘跡などが見つかっている。この銀山での採掘は,BC3200年にさかのぼるという。(*8)

そもそも,金,銀は,食べられるわけでもないし,武器や生産手段が作れるわけでもない。にもかかわらず,人々は,金銀を求める。マルクスは,このような貨幣の性質を,”Geldfetisch”(貨幣崇拝),あるいは”Daher die Magie des Geldes”(貨幣の魔術性)と呼んだ。日本語では,「貨幣物神」,「貨幣の物神性」などと訳される。

たとえば,野生のチンパンジーに銀を与えても,チンパンジーは,見向きもしない。しかし,飼育しているチンパンジーに,銀と交換でバナナがもらえることを学習させれば,チンパンジーは,与えられた銀を貯め込むようになるかもしれない。チンパンジーに学習させるには,銀とバナナが常に交換できることを,飼育者が常に保証することが必要である。つまり,銀がバナナの担保であるためには,そのことを保証する保証人が常に存在しなければならない。もし,保証人(飼育者)がいなくなれば,チンパンジーは野生と同様に,銀に見向きしなくなるだろう。つまり,銀の崇拝に必要なのは,神や魔術ではなく,恒常的な保証人である。

国家においては,貨幣が債権債務の担保であることを保証するのは,王(統治者,政府)とされている。しかし,異民族の国同士の取引では,王は他国の人々の債権債務の保証人になれないので,保証人が存在しない。天空神は,唯一,部族を超越した保証人であるが,天空神は軍事力を持たない「暇な神」なので,効力が無い。また,バビロニア,アッシリア,エジプト,ヒッタイトでは,別々の神概念を作り上げており,国家や民族を超越する絶対神概念は存在していない。

すなわち,紀元前15世紀のオリエントには,絶対神概念とは異なる,超越性,絶対性を有する「保証人」が存在していたことを意味する。それは,武器,生産手段,麦,家畜,衣類などを,国境を越えて等価交換する「市場」の存在である。「市場」こそが,金銀が債権債務の担保であることを保証する保証人である。

オリエントでは,金,銀が通貨であったにのに対し,東アジアでは,早くから,計数貨幣,信用貨幣の銅銭が普及した。これは古代中国では,経済規模に比べて銀が不足していたためと思われるが,中国の帝にとっては,信用貨幣の銅銭を国際通貨にできれば,独占的に貨幣を支配できる。日本で,もっとも早い貨幣は,秤量貨幣の銀であったが,『日本書紀』天武天皇12年(683年)の記述には,「夏四月戊午朔壬申,詔曰,自今以後必用銅錢,莫用銀錢。乙亥詔曰,用銀莫止」とあり,銀の通貨を廃止して,銅銭を用いることを命じている。そして,富本銭や和同銭を自国で発行しようとしたが,結局,日本では,中国に砂金を輸出し,中国から銅銭を輸入して使用していた。当時は,銀の精錬が困難で,黄銅鉱(硫化銅鉱)を効率よく製錬する技術もなかったために,自国で銅銭を製造するよりも,中国銭を輸入したほうが安かったためであろう。

人間の個体間,集団間では,債権債務によって関係性が構築され,債権債務関係は,財の受け渡しによって運動している。財の受け渡しは,個体間,集団間の血縁度によって,無償贈与,平等分配,等価交換,略奪などの形態をとる。貨幣は,債権債務を担保する信号であり,現代の貨幣は,コンピュータのチップに書かれた電気信号である。

電気信号が,人間の債権債務の担保であることを保証する保証人は,一般には,国家の統治者とされているが,本当は,保証人は「市場」である。国家の統治者が保証人であるならば,デフォルトが起こるはずがない。市場は,債権債務のネットワークであり,ネットワークで財を等価交換している。ネットワークで,債権債務の担保として運動するのが貨幣(信号)である。

債権債務のネットワークである市場が,民族や国境を越えて拡大するのは,なぜであろうか。

ウナギは,成長すると何千キロも移動してマリアナ諸島の海山に到達し,新月の夜に一斉に産卵する。何十万匹ものウナギが,何十億もの配偶子を一斉に海水中に放出して,遺伝子を交換する(*9)。魚類だけでなく,昆虫も鳥類も,何十万,何百万と集合して,一斉に交配する。遺伝子は情報であり,情報を交換することで,ライバルと差異化すると同時に,同種内では同一性を維持する。

人間が他の生物と異なるのは,情報プールを形成することである。財は情報化されたエネルギーであり,財の交換によって,情報を交換している。情報を交換することで,ライバルと差異化すると同時に,同種内では同一性を維持する。

市場は,債権債務のネットワークであり,債権債務のネットワーク上で,財の等価交換が行われる。債権債務のネットワーク形成は,情報の交換の運動であり,情報プールの形成のことである。


債権債務のネットワーク

文献
*1) J.A. Knudzton. (1893). Die El-Amarna-Tafeln. Leipzig, Pfeiffer.
*2) 齊藤麻里江. (2018). 紀元前14世紀における古代エジプトと西アジアを中心とした古代東地中海世界の文化交流 : アマルナ文書に記された工芸品と考古学的資料を中心に. Journal of historical studies (90), 502-547.
*3) Peter Raulwing. (2009). The Kikkuli Text. Hittite Training Instructions for Chariot Horses in the Second Half of the 2nd Millennium B.C. and Their Interdisciplinary Context.
*4)高橋幸一. (1999). F.シュタルケによるキックリ・テキストの馬術論的考察. スポーツ人類学研究 第1999巻第1号 p 79-88.
*5) 司馬遷. 史記. 平凡社, 1968.
*6) 林 巳奈夫. (2009). 中国古代の生活史. 吉川弘文館.
*7) 加藤常賢. (1970). 漢字の起源. 角川書店.
*8) Evgenia Choros. (2016). Newly Discovered Greek Silver Mine Rewrites History. GreekReporter.
*9) Tsukamoto, K. (2006). Spawning of eels near a seamount. Nature 439, 929.

コメントを残す