前方後円墳1 Zenpokoenfun : Japanese ancient tombs

SHINICHIRO HONDA

縄文時代から古墳時代にかけての古代人のDNA分析の結果が,以下のように報告されている(2021年)。(*1)

日本列島における農耕開始前後の時代の12の古代人ゲノムを報告する。分析によれば,縄文人は数千年にわたって1,000人ほどの小さな人口を維持しており,海面上昇によって日本列島が隔離化した2万~1.5万年前に,大陸の集団から大きく分岐していたことが判明した。稲作は,北東アジア系の人々によって伝えられ,その後の古墳時代に,東アジア人の祖先が流入したことを確認した。これら3つの祖先構成要素は,現在の集団を特徴づけており,日本人のゲノム起源の3要素モデルを裏付けている。

農耕文化が到来する前,列島には土器の使用を特徴とする縄文文化に属する多様な狩猟採集漁撈民集団が住んでいた。縄文時代は,最終氷期極大期(LGM)に続く最古ドリアス期に始まり,最古の土器の破片は約16500年前に遡り,これらの人々は世界で最も古い土器使用集団のひとつとなっている。縄文人の生存戦略は多様であり,人口密度は時空を通じて変動し,定住傾向が見られる。この文化は,水田稲作の到来により列島に農業革命が起こった弥生時代の初め(約3000年前)まで続いた。これに,約1700年前に始まった古墳時代が続き,政治的な中央集権化と天皇の統治が出現し,この地域を定義するようになった。

遺伝学的研究により,現在の日本人集団内の集団階層が特定されており,これは日本列島へ移住の波が少なくとも2度あったことを裏付けている。歴史言語学の観点から,原日本語の到来は,弥生文化の発展と水田稲作の普及に対応していると理論化されている。

列島の8000年にわたる12の新たに配列された古代人ゲノムは,年代が判明しているゲノムの最大のセットであり,最古の縄文人個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれている。また,公開されている5つの先史時代のゲノムも含めている。3人の縄文人(縄文時代後期のF5とF23,縄文時代後期のIK002)のほか,九州北西部から弥生文化に関連する2000年前の人体2名が発見され,その骨格は渡来系ではなく縄文のような特徴を示しているが,他の考古学的資料は明らかに弥生文化との関連を裏付けている。この形態学的評価にもかかわらず,この2人の弥生人は縄文人と比較して現代の日本人集団との遺伝的類似性が高いことを示しており,これは大陸集団との混合が弥生時代後期までにすでに進行していたことを示唆している。これらの列島人ゲノムを,中央ステップ・東部ステップ(17,18),シベリア(19),東南アジア(12),東アジア(15,20,21)にまたがるより大規模な古代ゲノムデータと統合することにより,縄文時代の先農耕集団の特徴をより明確にするとともに,その後の移民と混合が今日の列島の遺伝的特性を形成していることを明らかにする。


Fig. 1. Sampling locations, dates, and genome coverage of ancient Japanese individuals. (A) Archaeological sites are marked with circles for individual genomes newly sequenced in this study and triangles if previously reported (see Table 1 and table S1). The colors represent three different periods of Japanese pre- and protohistory: Jomon, Yayoi, and Kofun. (B) Each individual is plotted with whole-genome coverage on the x axis and median age (years before present) on the y axis. The nine Jomon individuals are split into five different subperiods on the basis of their ages (see note S1): Initial (JpKa6904), Early (JpOd274, JpOd6, JpOd282, JpOd181, and JpFu1), Middle (JpKo2), Late (JpKo13, JpHi01, F23, and F5), and Final (IK002).(*1)

すべての縄文人個体のmtDNAハプログループは,N9bまたはM7aに属しており,これらは縄文人集団と強く関連しており,現在では日本列島外では稀である。3人の縄文人男性は,Y-DNAハプログループD1b1に属しており,これは現代の日本人集団には存在するが,他の東アジア人にはほとんど存在しない。対照的に,古墳時代個体はすべて,現在の東アジア人に共通するmtDNAハプログループに属している。一方,1個体の古墳時代男性はY-DNAハプログループO3a2cを持っており,これも東アジア全域,特に中国本土で見られる。

統計f3(個体1,個体2;Mbuti)を使用して,古代と現代の両方の日本人集団の個人のすべてのペアワイズ比較の間で共有される遺伝的浮動を調べることにより,時系列データ内の遺伝的多様性を調査した。その結果は,縄文,弥生,古墳時代という3つの異なるクラスターを極めて明確に定義しており,古墳時代のグループは現代日本人と同じグループであり,文化的変化がゲノム変化を伴ったことを示唆している。縄文データセットには大きな空間的および時間的変動があるにもかかわらず,12人全員の間で非常に高いレベルの共有浮動が観察される。弥生時代の個体は互いに最も近縁であり,また古墳時代の個体よりも縄文時代との類似性が高い。古墳時代と現代日本の個体は,この指標では互いにほとんど区別できず,過去1400年間にわたってある程度の遺伝的連続性があったことを示唆している。


Fig. 2. Genetic diversity through time in Japan. (A) A heatmap of pairwise outgroup f3 statistic comparisons between all ancient and modern Japanese individuals. (B) Principal components analysis (PCA) visualizing ancient Japanese individuals (i.e., Jomon, Yayoi, and Kofun) and continental ancient individuals (presented as colored symbols) projected onto 112 present-day East Eurasians (gray circles with Japanese highlighted in dark green). (C) Selected individuals from an ADMIXTURE analysis (K = 11; complete pictures from K = 2 to K = 12 are presented in figs. S5 and S6), showing a distinct Jomon ancestral component (represented by red), a component common in ancient samples from the Baikal region and the Amur River basin (represented by light blue) and a broad East Asian component (represented by yellow). A gray component that is most dominant in the Central Steppe is absent in the ancient and modern Japanese samples. The middle and bottom rows show selected Ancient East Eurasian populations from each geographical regions: Southern China (from left to right: Liangdao1, Liangdao2, and Xitoucun), Yellow River (YR) (Middle Neolithic, YR_MN; Late Neolithic, YR_LN; Late Neolithic, Upper_YR_LN; Late Bronze Age/Iron Age, YR_LBIA; and Iron Age, Upper_YR_IA), Northern China (Yumin, Bianbian, Boshan, and Xiaogao), West Liao River (WLR) (Middle Neolithic, WLR_MN; Late Neolithic, WLR_LN; Bronze Age, WLR_BA; Middle Neolithic individual from Haminmangha, HMMH_MN; and Bronze Age individual with a different genetic background from WLR_BA and WLR_BA_o), Amur River (AR) (Early Neolithic, AR_EN; and Iron Age, AR_IA and AR_Xianbei_IA), Baikal (Early Neolithic, Shamanka_EN and Lokomotiv_EN), and Central Steppe (Botai, CentralSteppe_EMBA, and Okunevo_EMBA).(*1)

縄文人が他の集団から離れていること(Fig.2)は,以前の研究で提案されたように,縄文人が東ユーラシア人の中で別個の系統を形成しているという考えを支持している。この分岐の深さを調べるため,混合イベントの数を変えたTreeMixを使用して,縄文人と他の17の古代および現代集団との系統関係を再構築した(Fig.3A)。この結果から,縄文人は,上部旧石器時代東ユーラシア人(田园人とサルキート人)と古代東南アジアの狩猟採集民(ホアビン人)が早期に分岐した後で,現在の東アジア人を含む他のサンプルが分岐する前に出現したと推測される。古代ネパール人(Chokhopani),バイカル地方の狩猟採集民(Shamanka_ENとLokomotiv_EN),沿海地方のChertovy Vorota洞窟(悪魔の門洞窟),更新世アラスカ人(USR1)など。さらに,f4(Mbuti, X; Hoabinhian/DevilsCave_N, Jomon)を用いた対称モデルの正式な検定により,このツリーにおける他の2つの深く分岐した狩猟採集民系統の間に縄文人が位置することを確認した。このことは,縄文人がホアビン人と東アジアに関連する系統の混合であるという以前提案されたモデルではなく,東ユーラシアにおける3つの異なる狩猟採集系統の系統発生を支持するものである。また,検証したすべての移動モデルにおいて,縄文人から現代日本人への遺伝子フローが一貫して推測され,遺伝的寄与率は8.9~11.5%であった。これは,ADMIXTURE解析から推定された現代日本人の平均縄文人成分9.31%と一致する。これらの結果は,縄文人の深い分岐と現在の日本人集団への祖先的なつながりを示唆している。


Fig. 3. Demographic history of the Jomon lineage. (A) Maximum likelihood phylogenetic tree reconstructed by TreeMix under a model of two migrations. The tree shows a phylogenetic relationship among ancient (bold) and present-day (italic) populations. Colored arrows represent the migration pathways. The migration weight represents the fraction of ancestry derived from the migration edge. All other migration models from m = 0 to m = 5 are presented in fig. S7. (B) ROH spectra for Mesolithic and Neolithic hunter-gatherers including the 8.8-ka-old JpKa6904. Total length of ROH is plotted against different sizes of homozygous fragments ranging from 0.5 to 100 Mb. (C) Fitting of the models under different combinations of N (x axis) and T (y axis) for the 8.8-ka-old Jomon individual. Each point in the balloon plot represents a log10-scaled approximate Bayes factor (aBF) that compares likelihoods between a model with the highest likelihood and each of the other given models; the point with aBF = 0 is the model with the highest likelihood (N = 1000 and T = 20 ka ago; see fig. S10). NA means that aBF is not measurable for the model due to its likelihood equal to zero. (D) A comparison of outgroup f3 statistic results for the Jomon dataset divided into three subperiods measured using f3(Jomon_Sub-Period, X; Mbuti) (see fig. S12 for an expanded analysis). The three subperiods are as follows: Initial Jomon (JpKa6906); Early Jomon (JpFu1, JpOd6, JpOd181, JpOd274, and JpOd282); and a merged group for all Middle, Late, and Final Jomon (F5, F23, IK002, JpHi01, JpKo2, and JpKo13).(*1)

集団サイズと分岐年代のパラメータ空間を探索した結果,縄文人の系統が出現したのは2~1.5万年前と推定され,その後,少なくとも縄文時代早期までは,1,000人程度の非常に小さな集団サイズが維持された(Fig.3C)。これは,LGMの終わりに海面が上昇し,本土との陸橋が切断されたことと一致し,縄文土器が列島に初めて出現する直前である。そこで,縄文人の系統が分岐した後,列島で孤立する前に大陸の上旧石器人と接触があったかどうかを,統計f4(Mbuti, X; Jomon, Han/Dai/Japanese)を用いて検討した。検証した上部旧石器時代の個体のうち,Yana_UPだけが漢人,傣(Dai),日本人よりも縄文人に有意に近い。この類似性は,これらの参照集団を他の東南アジア人や東アジア人に置き換えても検出可能であり,縄文人の祖先と,LGM以前に北ユーラシアに広く分布していた集団である古代北シベリア人との間の遺伝子流動を支持している。

最後に,縄文人集団内の時間的・空間的変動の可能性について調べた。縄文時代の早期,前期,中期・後期・末期で定義される3つの時代区分集団は,古代および現在の大陸集団と同程度の遺伝的浮動の共有を示しており,これらの期間にわたって列島外からの遺伝的影響はほとんどないことを示唆している(Fig.3D)。このパターンは,統計f4(Mbuti, X; sub_Jomon-i, sub_Jomon-j)(iとjは3つの縄文集団の任意のペア)で観察される,有意な遺伝子流動の欠如によってさらに裏付けられる。これらの縄文人個体も同様に,地理的条件(サンプルが存在する異なる島々:本州,四国,礼文島)でグループ化した場合,大陸の集団との遺伝的類似性に多様性は見られない。縄文時代の個体間で観察可能な唯一の違いは,本州に位置する地点間の類似性がわずかに高いことであり,これは本州と他の島々との間の遺伝子の流れが制限された島国的効果を示唆している。全体として,これらの結果は縄文人集団内の空間的・時間的な遺伝的変動が限られていることを示しており,数千年にわたりアジアの他の地域からほぼ完全に隔離されていたという考えを裏付けている。

弥生文化に関連する列島南西部の2個体(Fig.1)は,縄文人と大陸人の両方の祖先を持つことが判明した(Fig.2)。qpAdm解析は,弥生人が縄文人の混血していない子孫であるというモデルを否定し,これら2個体を縄文人系統の一部として分類した形態学的評価とは対照的である。縄文人以外の祖先構成要素は,列島に稲作をもたらした人々によって持ち込まれた可能性がある。まず,f4(Mbuti, X; Jomon, Yayoi)を用いて,東ユーラシアの古代集団が縄文人より弥生人に遺伝的類似性が高いかどうかを検証した(Fig.4A)。大陸でサンプルされた古代の集団のほとんどは弥生人との有意な類似性を示さず,その中には長江下流域から稲作が最初に広まった黄河流域の集団(ジャポニカ米,水稲の起源仮説)も含まれる。しかし,稲作と文化的関係がない集団,すなわち中国東北部の西遼河流域(WLR_BA_oとHMMH_MN),バイカル(Lokomotive_EN,Shamanka_EN,UstBelaya_EBA),北東シベリア(Ekven_IA)の集団では,弥生人との過剰な類似性が検出された。この類似性は,他の青銅器時代の西遼河の個体(WLR_BA_o)と同じ考古学的遺跡から来た,さらに2つの個体(WLR_BA; Z = 1.493)では観察できない。この2人の個体は,WLR_BA_o(1.8±9.1%)よりも黄河に関連した祖先(81.4±6.7%)がはるかに多く,このことは,検査された古代の黄河集団が弥生人の持つ非縄文系祖先の主要な源であるとは考えにくいことを示唆している。


Fig. 4. Genetic changes in the Yayoi period. (A) Geographical map highlighting results from f4(Mbuti, X; Jomon, Yayoi); continental ancient populations who are significantly closer to the Yayoi than the Jomon (with Z > 3.0) are represented by red triangles, while those who are symmetrically related to the both populations are represented by gray circles. (B) Genetic ancestry of the Yayoi modeled with a two-way admixture of the Jomon and the other source represented by: Bronze Age or Middle Neolithic individuals from West Liao River (WLR_BA_o or HMMH_MN) or Baikal hunter-gatherer (Lokomotiv_EN). Vertical bars represent ±1 SE estimated by qpAdm. The values of admixture proportions are shown in table S7. (C) Correlation of shared genetic drift between the Yayoi and a Jomon individual with the geographic locations of Jomon sites. The spherical distance from the Yayoi site is measured with the Haversine formula (93). The map marks the archaeological site of Yayoi with a red arrow and the sites of Jomon by circles with different colors.(*1)

これら6つの大陸祖先の可能性をさらに区別するために,qpWaveを用いて弥生人を縄文人とそれぞれの二元混合としてモデル化した。混合モデルは,このうち次の3つについて確信をもって支持された。バイカル狩猟採集民と西遼河の新石器時代中期または青銅器時代の個体で,アムール流域を祖先とする人々である。これらの集団は全て,支配的な北東アジアの祖先成分を共有している(Fig.2C)。これら3つの集団をそれぞれ第2起源集団とした場合(Fig.4B),qpAdmによって縄文時代の混合率は55.0±10.1%,50.6±8.8%,または58.4±7.6%と推定され,西遼河中期新石器時代と青銅器時代の集団を1つの起源集団に統合した場合は61.3±7.4%となった。

混合モデルで使用した西遼河の集団は,彼ら自身は稲作を営んでいなかったが,日本列島への農耕伝播の仮説ルートのすぐ北に位置しており,今回の結果はその仮説に重みを与えている。このルートは山東半島(中国北東部)に沿って遼東半島(朝鮮半島北西部)に入り,朝鮮半島を経由して列島に達する。

さらに,弥生人と縄文人の各個体間の遺伝的類似性を測定するf3統計を用いて,弥生文化がどのように列島に広がっていったかを調べた。その結果,遺伝的浮動の共有の強さは,弥生個体の位置からの距離と有意な相関があることがわかった(Fig.4C)。縄文時代の遺跡が弥生遺跡に近いほど,縄文個体は弥生人と遺伝的浮動を共有していることになる。この結果は,朝鮮半島を経由して稲作が導入され,その後,列島南部の縄文人集団と混血したことを裏付けている。

歴史的記録は,古墳時代にも大陸から列島への人口移動が継続していたことを強く裏付けている。しかし,古墳時代の3個体についてqpWaveモデル化を行ったところ,弥生時代の個体に見られた縄文人と東北アジア人の二元混合は否定された。このように,古墳時代には弥生時代とは遺伝的に異なる祖先集団が存在していたことが,f3,PCA,ADMIXTUREクラスター(Fig.2),およびこれまでの形態学的研究から支持された。古墳時代個体の遺伝的構成に寄与した祖先グループをさらに同定するために,f4(Mbuti, X; Yayoi, Kofun)を用いて古墳時代個体と各大陸個体群との間の遺伝的類似性を検定した(Fig.5A)。データセットに含まれる古代または現代の集団のほとんどは,弥生人よりも古墳人にかなり近いことがわかった。この発見は,この2つの時代のゲノムを隔てる6世紀の間に,この列島にさらなる移動があったことを示唆している。


Fig. 5. Genetic changes in the Kofun period. (A) Geographical maps highlighting results from f4(Mbuti, X; Yayoi, Kofun); continental ancient and present-day populations who are significantly closer to the Kofun than the Yayoi with a Z score of >3.0 are represented by red triangles, while those that are symmetrically related to both populations are represented by gray circles. The populations tested are split into four different periods, depending on their ages: Upper-Paleolithic (>16,000 years B.P.), Jomon (from 16,000 to 3000 years B.P.), Post-Jomon (from 3000 years B.P. to the present), and present day. Han is highlighted by a blue triangle in the present-day panel. (B) Genetic ancestry of the Kofun individuals modeled with a three-way admixture of the Jomon, Northeast Asia (WLR_BA_o and HMMH_MN), and Han. Vertical bars represent ±1 SE estimated by qpAdm. The values of admixture proportions are shown in table S10.(*1)

この移動の原因を絞り込むために,弥生人とf4統計から古墳人に有意に近いと同定された個体群との二元混合の適合性を検証した。この混合モデルはテストした59個体群のうち5個体群でのみP > 0.05で確信をもって支持された。次に,qpAdmを適用して,弥生人とこれらの起源それぞれからの遺伝的寄与を順番に定量化した。その後,二元混合モデルは,異なる参照セットからの支持が得られなかったため,さらに2つの集団で棄却された。残りの3つの集団(漢族,朝鮮族,YR_LBIA)は古墳人に対して20~30%の寄与を示している。これら3つの集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており,ADMIXTUREプロファイルにおいて,広く東アジアの祖先の主要な構成要素を特徴としている。古墳時代個体における追加的な祖先の出所をさらに選別するために,弥生人の祖先を縄文人と北東アジア人の祖先に置き換えて三元混合をテストした。その結果,漢族のみが祖先の源としてうまくモデル化され(Fig.5B),二元混合モデルよりも三元混合モデルの方が有意に適合した。縄文人の祖先はサンプリングされた弥生人と古墳人の間で約4倍に希釈されていることを考えると,これらの結果は,国家形成期に東アジア人の祖先を持つ移民が大量に流入したことを示唆している。

次に,弥生時代と古墳時代の両方で観察された大陸系の祖先は,同じ起源に由来し,東北アジアと東アジアの祖先が中間的なレベルにある可能性を探った。古墳時代については,黄河流域の青銅器時代後期と鉄器時代の集団(YR_LBIA)の二元混合に適合する候補が1つだけ見つかったが,これは参照セット間で一貫していなかった。縄文人を除外した弥生人との統計的に有意な遺伝子流動は見られなかったにもかかわらず(Fig.4A),YR_LBIAと縄文人の間の二元モデルは弥生人にも当てはまることがわかった。この黄河の集団は,qpAdmによって推定されるように,約40%の東北アジア人と約60%の東アジア人(すなわち漢族)を祖先とする中間的な遺伝的特性を持っている。したがって,これはあるモデルにおいて弥生人と古墳人の両方に適合する中間的な遺伝的特性であり,これらの集団の流入は37.4±1.9%と87.5±0.8%であった。これらの結果は,弥生人と古墳人の間の遺伝的変化を説明するには,単一の発生源からの継続的な遺伝子の流れで十分である可能性を示唆している。

しかし,より広範な分析では,2つの異なる移住の波よりも,単一の遺伝子流入源である可能性の方が低いことを強く示唆している。第一に,ADMIXTUREで同定された東北アジア人と東アジア人の祖先の比率は,弥生人(1.9:1)と古墳人(1:2.5)の間で著しく異なっていた(Fig.2C)。第二に,大陸親和性のこのコントラストは,f統計の異なる形でも観察可能であり,弥生人は北東アジアに祖先を持つ人々と有意な類似性を持つというパターンが繰り返される一方(Fig.4A),古墳時代の個体は漢族や古代黄河の集団を含む他の東アジア人と緊密なクラスターを形成している(Fig.5A)。最後に,DATESによる古墳個体における混血の年代測定から,2波モデルを支持する結果が得られた。中間集団(すなわちYR_LBIA)との単一混血事象は,現在(B.P.)より1840±213年前に起こったと推定され,これは弥生時代の開始(~3000年前)よりはるかに遅い。対照的に,2つの異なる起源を持つ2つの混合事象を仮定した場合,結果として得られた推定値は弥生時代と古墳時代の始まりの時期(縄文人と北東アジア人の祖先の混血は3448±825年B.P.,縄文人と東アジア人の祖先の混血は1748±175年B.P.)と合理的に一致する。これらの遺伝学的知見は,考古学的証拠と歴史的記録の両方によってさらに裏付けられており,これらの記録には,この時代に大陸から新しい人々がやってきたことが記されている。

Fig.2に示すように,古墳時代の3人の個体は現在の日本人と遺伝的に類似している。このことは,古墳時代以降,日本人集団の遺伝的構成に大きな変化がないことを示唆している。現代の日本人サンプルに遺伝的祖先が追加されているシグナルを探すために,f4(Mbuti, X; Kofun, Japanese)を用いて,大陸の集団が古墳時代に比べて現代のゲノムと優先的な類似性を持つかどうかを検定した。古代の集団のいくつかは日本人よりも古墳に高い類似性を示したが,qpAdmによって古墳人に存在する追加的な祖先源として支持されたものはなかった。予期せぬことに,古代の集団も現代の集団も,古墳人を除外して現代の日本人との間に付加的な遺伝子流動を示す集団はなかった。混合のモデル化によって,縄文人や弥生人の祖先を増やしたり,現代の東南アジア人や東アジア人,シベリア人に代表されるような追加的な祖先を導入したりすることなく,現代の日本人集団が古墳人の祖先によって十分に説明できることがさらに確認された。また,現代日本人の集団は,古墳時代の個体における三元混合と同じ祖先構成要素を持っており,古墳時代に採集された個体と比較して,現代日本人の東アジア系祖先のレベルがわずかに増加していることがわかった。これは一定の遺伝的連続性を示唆しているが,絶対的なものではない。古墳時代と現代日本人集団の間の連続性についての厳密なモデル(すなわち,古墳人系統に特有の遺伝的浮動がない)は否定された。しかし,古墳時代の個体(13.1±3.5%)に対して,日本人の集団(15.0±3.8%)では縄文人の祖先の希釈は見られない。混合無しモデルを用いてqpAdmで古墳時代と日本人の間の遺伝的クレード性を検定したところ,古墳時代は日本人とクレードを形成していた。これらの結果は,国家形成期までに確立された3つの主要な祖先構成要素の遺伝的特性が,現在の日本人集団の基盤となっていることを示唆しており,歯形や非定形頭蓋形質からも支持される。

我々のデータは,縄文人と弥生人の混合という確立された二重構造モデルを改良し,現在の日本人の集団が三重祖先構造であることを証明するものである(Fig.6)。縄文人は,LGM後の日本列島における長期間の隔離と強い遺伝的漂流によって,独自の遺伝的変異を蓄積した。弥生時代はこの隔離の終わりを意味し,遅くとも2300年前にアジア本土からの集団移動が始まった。しかし,その後の日本の先史時代および原史時代における農耕期と国家形成期に列島にやってきた人々のグループ間には,明確な遺伝的区別が見られる。弥生人の遺伝子データは,形態学的研究から支持されるように,列島に東北アジア人の祖先が存在することを立証している。縄文文化,弥生文化,古墳文化のそれぞれを特徴づける祖先は,今日の日本人の集団形成に大きく寄与した。


Fig. 6. Genomic transitions in parallel with cultural transitions in pre- and protohistoric Japan. The Jomon had a very unique genetic profile due to strong genetic drift and a long-term isolation in the Japanese archipelago. The rice cultivation was brought by the people who had Northeast Asian ancestry (represented by WLR_BA_o and HMMH_MN) in the Yayoi period. An additional wave of migration brought widespread East Asian ancestry (represented by Han) to the archipelago in the Kofun period. Since then, this tripartite ancestry structure has been maintained in the archipelago and become the genetic foundation of modern Japanese.(*1)

縄文人の祖先系統は東南アジアで誕生し,他の古代および現代の東アジア人から深く分岐したと提案されている。この分岐の時期は,以前は3.8~1.8万年前と推定されていたが,8800年前の縄文人のROH特性を用いたモデル化によって,この時期は2.0~1.5万年前の範囲内に下限が絞られた(Fig.3)。LGMの初め(2.8万年前)には,日本列島は朝鮮半島を通ってアクセスできるようになっており,大陸と列島の間の人口移動が可能になっていた。その後,海面上昇によって1.7~1.6万年前に朝鮮海峡が拡大したことで,縄文人の系統が大陸の他の地域から隔離された可能性があり,縄文土器が生産された最古の証拠とも一致する。ROHモデル化は,縄文人が縄文時代初期に1,000人以下の小さな有効人口規模を維持していたことも示しており,その後の時代や列島の異なる島々間で,彼らのゲノム特性にほとんど変化がないことも観察している。農耕の普及は,ヨーロッパの新石器時代への移行に見られるように,多くの地域で狩猟採集民の貢献はごくわずかであり,人口の入れ替わりを伴うことが多い。しかし,我々は有史以前の日本における農耕の変遷には,入れ替わりというよりもむしろ同化の過程があったことを示す遺伝学的証拠を発見した。このことは,少なくとも列島のいくつかの地域では,弥生時代の初めには,農耕移民と同規模の縄文人の集団が維持されていたことを示唆している。

弥生人が受け継いだ大陸成分は,我々のデータセットでは,アムール流域の祖先を多く持つ西遼河流域の新石器時代中期と青銅器時代の個体(WRL_BA_oとHMMH_MN)が最もよく表している。この地域の集団は時間的にも空間的にも遺伝的に異質である。新石器時代中期から後期への移行期(6500~3500年前)には,黄河系祖先が25%から92%に増加する一方で,アムール流域系祖先が75%から8%に減少する特徴があり,これは雑穀農耕の強化と関連づけることができる。しかし,約3500年前に始まった青銅器時代には,アムール流域からの明らかな流入によって,人口構造は再び変化する。これは,トランスユーラシア語族とシナ語族サブグループ間の集中的な言語借用が始まった時期と一致する。古代のアムール流域の集団や現在のツングース語を話す集団に遺伝的に近い個体には,弥生人との過剰な類似性が観察される(Fig.4)。この発見は,水田稲作が遼東半島周辺に住んでいた人々によって列島に導入されたことを示唆しているが,彼らの祖先の大部分はさらに北の集団に由来している。しかし,稲作の伝播は西遼河流域の南側に端を発している。

古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は,エリートを鍵穴状の古墳に埋葬する習慣であり,その大きさは階層的な地位や政治的権力を反映している。今回の研究で塩基配列が決定された古墳時代の3人は,そのような古墳には埋葬されていなかった。彼らのゲノムは,東アジア人を多数祖先とする人々が日本に渡来し,弥生人と混合したことを記録している(Fig.5)。この追加的な祖先は,我々の分析では,複数の祖先構成要素を持つ漢族が最もよく表している。最近の研究で,大陸では新石器時代以降に人々の形態が均質になったと報告されており,これは古墳時代の移住者がすでに高度に混合していたことを示唆している。

いくつかの考古学的証拠は,弥生・古墳時代の移行期に,おそらく朝鮮半島南部から新しい大規模な集落が日本にもたらされたことを裏付けている。日本,朝鮮半島,中国の間の強い文化的・政治的類似性は,中国の鏡や貨幣,鉄生産のための朝鮮半島の原材料,金属製品(刀剣など)に刻まれた漢字など,いくつかの輸入品からも観察できる。海外からこれらの資源を入手することは,列島内の共同体間の激しい競争をもたらし,黄海沿岸など大陸の諸政体との覇権をめぐる政治的接触を促進した。したがって,古墳時代を通じて,継続的な移動と大陸からの影響が見られる。我々の発見は,この国家形成段階における新しい社会的,文化的,政治的形質の出現に関与した遺伝的交流を強く支持する。

この分析には注意点がある。第一に,弥生文化に関連する骨格が形態学的に縄文人に類似している地域から出土した弥生後期の2人のみである。他の地域や他の時点の弥生人は,大陸系や古墳系など,異なる祖先特性を持つ可能性がある。第二に,今回のサンプリングは非ランダムであり,古墳時代の3個体は同じ埋葬地から得られている。弥生人と古墳人の遺伝的祖先の時間的・地域的変異を追跡し,今回提案した日本列島の集団の三者構造を包括的に把握するためには,さらに古代のゲノムデータを追加する必要がある。

まとめると,本研究は,日本列島に住んでいた人々のゲノム特性の変化について,農耕と科学技術に牽引された人口移動が,数千年にわたる大陸からの孤立を解消する前と後の両方で,詳細な情報を提供するものである。このような隔離された地域の古代のゲノミクスは,大きな文化的変遷が人類集団の遺伝的構成に及ぼす影響の大きさを観察するまたとない機会となる。(*1)

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日本列島は,「創造の中心」であるユーラシア大陸から隔離しているために,社会の変化がゆっくり進む。そして,大陸からの影響を受けたときに,社会の変化が急激に進む。縄文から弥生への転換期(BCE10世紀頃),および弥生から古墳時代への転換期(2~3世紀頃)にも,ユーラシア大陸の影響を大きく受けた。

中国の歴史では,一般には,青銅器時代の二里頭文化(河南省洛陽市偃師区,BCE1900-BCE1500)が,伝説の夏王朝に比定されている。しかし,二里頭の時代には文字が存在しないので,夏の存在を証明できるような遺物は見つかっていない。文字が書かれた遺物が出土するのは殷墟以降であり,『史記』に書かれた殷王と同じ名前が書かれた甲骨が出土したことから,殷(商)王朝の実在が証明された。

夏? 二里頭文化 BCE1900~
殷代前期 二里岡下層文化1期 BCE1600~
二里岡下層文化2期
二里岡上層文化1期
白家荘期(中丁~)
殷代後期 洹北商城前期(盤庚~) BCE1300~
洹北商城後期
殷墟文化1期(武丁~)
殷墟文化2期
殷墟文化3期
殷墟文化4期(~紂)
西周 武王~ BCE1046~
幽王 BCE771


武丁の夫人であった婦好の墳墓(Author:Chris Gyford)

殷代は,BCE1600頃から600年程続いたが,BCE1000年頃に周の武王が牧野の戦いで殷(商)王朝を滅ぼして,周王朝を創設した。『史記』は次のように伝える。

殷王朝第30代の王であった紂(帝辛)は,才能も腕力も優れていたが,うぬぼれやで,池に酒を満たし,木々に食肉をかけて,酒宴にふけった。殷には西伯昌,九候,鄂候の三公(最高位の官職)がいたが,紂は九候を殺して醢(肉醤)にし,これを諫めた鄂候を殺して脯(乾肉)にした。西伯も幽囚されたが,財宝と領地を献上したことで赦放され,西伯(西方の諸侯の長)に任じられた。また,王家一族の微子啓(紂の長兄で庶長子),比干(紂の叔父),箕子(紂の叔父)らが紂を諫めたが,微子啓は国を追われ,比干は殺されて胸を割かれ,箕子は奴隷の身となり幽囚された。

西伯は善徳を施したので,諸侯はこれに従うようになった。西伯は邘(河南省の国)や崇国(陝西省の国)を伐ち,豊(関中,陝西省)に都した。西伯(文王)が死んで,太子の発(武王)が立った。周の武王は諸侯を率いて紂を伐った。両軍は牧野(河南省)で会戦し,敗れた紂は自ら焼死した(BCE1046)。天子となった武王は,比干の墓を造り,幽囚されていた箕子を解放して朝鮮に封じた。また,微子啓に殷の祭祀を行わせ,宋(河南省)に封じた。周(西周)は,渭水盆地(関中)の鎬京に都を築いた。


長安(西安)の変遷

周王朝第12代の幽王は,褒姒を寵愛して子の伯服が生まれると,正妃の申后(申候の娘)を廃して太子の宜臼をしりぞけた。申候は怒って犬戎とともに幽王を攻めて殺した。諸侯は宜臼を立てて平王とし,都を雒邑に遷した(BCE771,東周)。東周以降の中国大陸は,諸侯が覇を争う時代となり,前半期を春秋時代(BCE771-BCE5世紀),後半期を戦国時代(BCE5世紀-BCE221)と呼ぶ。


春秋時代の諸国(Author:玖巧仔)


BCE260年の戦国七雄(Author:Philg88)

戦国時代の国々の中で,次第に強勢となったのは秦である。秦の孝公は,商鞅の変法(BCE356,354)によって中央集権化と富国強兵を断行し,孝公の子の恵文王は,初めて王を称した(BCE324)。秦は,BCE318年に韓,趙,魏,燕,楚の連合軍を函谷関で破り,BCE316年には巴蜀を占領した。恵文王の子の昭襄王は,領土を拡大し,BCE255年に西周を亡ぼした。BCE247年に13歳で即位した秦王政(昭襄王の曾孫,始皇帝)は,他の国々を次々と攻め滅ぼして中国を統一した(BCE221)。秦王政は,自ら皇帝を名乗り,度量衡,文字を統一し,郡県制を実施した。

BCE210年に始皇帝が死去し,末子の胡亥が二世皇帝に即位したが,秦の苛烈な治世に対する反感が高まり,農民出身の陳勝,呉広らによる反乱が起きた(BCE209)。陳勝が楚の王を宣すると,これを機に燕,趙,斉,韓,魏は王を立てて復活した。陳勝は反乱から6カ月で殺されてしまい,楚の名族出身の項羽と農民出身の劉邦が台頭して覇を争った。BCE206年,秦王の子嬰は,咸陽へ入城した劉邦に降伏し,秦王朝は滅亡した。劉邦は,垓下の戦いで項羽に勝利し,漢王朝を建てた(BCE202)。

漢は,第7代の武帝(BCE141-BCE87)の時代に国力が最大となり,匈奴を打ち破り,南越を征服し(BCE112),西域諸国を服属させた。また,衛氏朝鮮を滅ぼして漢四郡を置いた(BCE108)。武帝は戦費調達のために,塩と鉄を専売制とし,国家が独占的に価格を決定した。また乱高下する穀物価格を安定化させるために,均輸官と平準官を置いて,穀物の物流を統制し,価格の平準化を行った。

BCE1年に平帝が9歳で帝位(第14代)に就くと,外戚の王莽が政治の実権を握った。平帝が14歳で亡くなると,王莽は2歳の襦子嬰を太子に立てたが,襦子から帝位を禅譲させて自ら皇帝に即位し,新王朝を建国した(CE9)。周の政治を理想とした王莽は,土地所有の上限を3000畝とし,奴婢所有の上限を200人とした。また,天下の田を王田とし,井田制によって土地所有を均等化しようとした。漢代には土地や奴婢は自由に売買されていたため,貨幣の蓄積と欠乏によって大土地所有者や多数の奴婢を所有する富者が出現していた。しかし,黄河の決壊や大飢饉などによって赤眉の農民反乱が勃発し,新王朝は滅亡した(CE22)。新朝滅亡後の中国大陸は,争乱に乗じて地方の太守や豪族が軍閥を形成し群雄割拠となった。CE25年に,数十万の兵を旗下に入れた劉秀(光武帝)が天下を統一し,漢王朝を復興した。

光武帝は,奴婢の解放,官吏の削減などを断行し,次の明帝は黄河の治水事業を行うなど,後漢の初期には社会が安定した。しかし,2世紀になると,水害,旱魃,蝗害,疫病,地震などの災害が多発し,党人と宦官との抗争(党錮の禁,166)や黄巾の乱(184)などが起こった。洛陽に進軍した董卓は,少帝弁を廃して献帝を皇帝に擁立したが,後漢王朝は事実上崩壊し,魏,呉,蜀の三国時代(220-280)に移った。

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二里頭文化(BCE1900-BCE1500)は青銅器文化であり,遺跡からは宮殿とされる大型建物跡や多数の建物跡が確認されている。都市の人口は,24,000人と推定されており,都市文化を担うエリート層や祭祀を司る首長層が存在したと考えられる。

その後の殷周時代が「首長制社会:Chiefdoms」であったのか,「国家:States」であったのかは難しい問題である。サーヴィスによれば,首長制社会は,組織化された政治センターが存在し,一般人と区別された世襲の首長や貴族の階級が存在する。生産物や資源の一部は,首長のもとに集められ,首長は,呪術師,職人,平民などに,資源を再分配する(資源分配権)。首長制社会では,それぞれの部族内での裁判権は各部族に存在する。各部族の首長の中から選ばれた大首長は,部族同士の紛争に対して,調停権を有する。一方,国家は,社会的に承認された合法的な権力行使を独占する政治指導者の存在によって,非国家社会と区別される。国家では,政府以外の集団や個人が暴力を行使することは許されず,政府だけが合法的な暴力を行使できる。

一般に,首長制から国家へと転換する契機は,大規模な戦争である。カエサル(BCE100-BCE44)は,ガリアおよびゲルマニアについて,次のように記録している。
「アルウェルニ族で最高の権力を持つ若者であるウェルキンゲトリクス―彼の父親のケセルティルスはガリア全体の覇権を握っていたが,王位を目指したために仲間に殺された―が,隷属者を集め,簡単に彼らを興奮させた。叔父のゴバニティオをはじめとする有力者たちは,このような危険を冒すべきでないと考えていたが,彼はそれをやめず,領地内で困窮した命知らずの人々を集めて,兵を募った。こうして部隊を集めた彼は,同胞を自分の計画に引き込み,ガリア人の自由のために武器を取るように勧めた。大軍を集めた彼は,少し前に自分を追放した敵対者を領地ら追い出した。彼は,同調者たちから王として敬意を表され,各方面に使者を送り,誓約を必ず守るようにと呼びかけた。セノネス族,パリシイ族,ピクトネス族,カドゥルキ族,トゥロニ族,アウレルキ族,レモウィケス,その他海に面したすべての部族をすぐに味方につけた。彼らは,満場一致の同意により,最高指揮権をウェルキンゲトリクスに授けた。」,「(ゲルマニア人は)部族が仕掛けられた戦争を防衛したり,仕掛けた戦争を遂行したりするときは,生殺与奪の権力を持ち,戦争を指揮する全体の首長(戦争指揮者,判事)を選ぶ。平時には,部族全体の首長は存在せず,地方や郷の首長たちは,自分の部族内での紛争を裁決する権利を主張する。各部族の境界の外で行われる略奪行為は,不名誉な行為ではなく,彼らは,若者の訓練と怠惰を抑制する目的で行われると公言している。また,首領たちのうちの一人が,『自分が指導者になる,自分に従う人は表明せよ』と言うと,大義名分と人物の両方を承認する者が立ち上がり,援助を約束し,大勢の人々から拍手喝采を浴びる。彼に従わなかった者は,脱走者,裏切り者の数に入れられ,彼らのすべての信頼は,その後,彼らから奪われる。」(ガリア戦記)(*4)

平㔟隆郎氏は,次のように書いている。「殷・周ともに直接的統治がおよぶのは,ごく限られた範囲であり,線的にのばされて設定された洛邑のごとき軍事拠点の経営とは別に,都の近傍に設定された諸族の食邑への宗教的行為を通して,観念的に諸族を支配下において関係を維持したのであった。」,「銘文を青銅器に鋳込む技術は西周時代にあっては周王朝の独占下におかれ,諸侯がこれをまねることは難しかったと見られる。青銅器銘文には,諸侯の側から周王との関わりを称揚する文面がしたためられており,この文面を本国で確認することが,諸侯みずからの権威構築に役だてられた。この青銅器銘文を紐帯とする関係が,後に「礼」という形にまとめられるのである。」(*5)

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中国大陸において,合法的な権力行使を独占する政治指導者が登場するのは,春秋戦国時代(BCE771-BCE221)である。『左伝』にはBCE536年,「鄭人,刑書を鋳る」とあり,鄭の宰相子産が,「参辟」という法律を定めて鼎に鋳込んだという。また,『左伝』にはBCE513年,「冬,晋の趙鞅,荀寅,師を師いて汝濱に城く。遂に晋国に一鼓の鉄を賦し,以って刑鼎を鋳て,范宣子つくる所の刑書を著す」とある。ただ,これらの法律の内容は伝わっていない。

『史記』は,秦の商鞅の変法(BCE356,354)について次のように伝える。成人男子はそれぞれの室(核家族)を持つ,五戸または十戸で組を作らせ互いに監視および告発させる,戦功に応じて爵位を与える(貴族であっても戦功が無ければ降下する),爵位や官秩の等級に応じて田宅や奴婢を所有でき刑罰が減免される,私闘の禁止,農畜産業と家内工業の奨励,商人と貧者は奴婢身分とする,父子兄弟が一つの家に住むことを禁止,国土を県に分け令(長官)と丞(補佐)を配置して中央集権を強化する,田地の境界を畦道などで正す,度量衡を統一する。

考古学的な資料では,四川省青川の戦国墓から,「秦武王二年(BCE309)十一月己酉朔朔日 王は丞相茂 内史匽 □□に命じて改めて田律を修為せしむ」と書かれた律の木簡が出土している。また,1975年に,湖北省雲夢県の秦代の墓から「睡虎地秦簡」が出土し,戦国秦および統一秦代の多数の律が発見された。睡虎地秦簡の中には,「魏戸律」,「魏奔命律」という名の律が存在し,律の中で記された年代はBCE252となっていた。睡虎地秦簡の秦律には,以下のような条文があった。

[田律] 雨が潤いを為して粟が秀でたときは,書を以って,潤った稼,秀でた粟,稼が無い墾田の頃数を言え。稼が生じた後の雨,雨の多少,利するところの頃数を言え。旱魃,暴風雨,洪水,螽䖵,他の稼を傷なう者もその頃数を言え。春の二月に山林の木を伐ること,および水路を塞ぐこことは禁止。夏前に,灰(肥料)の為に夜に草を燃やすこと,新芽を取ること,若い動物や卵を捕まえること,毒を流すこと,わなを設置することは禁止であり,禁止は七月まで解除してはならない。死亡により棺を作るために木を伐る者だけが,時期の制限を受けない。・・・頃に芻(草)と藁を入れよ。それは,耕作か不耕作かに関係なく,授田の頃数ごとに行なうこと。頃には芻三石,藁二石を,輸送の度に入れよ。・・・穀物を取り去った芻藁,薦の石数をすぐに県廷に報告せよ。それらは,敷料に使用せよ。・・・田舎に居る百姓は酒を売ることは禁止,田嗇夫と部左は之を厳しく禁止すべきであり,令に従わない者は有罪となる。

[廄苑律] 四月,七月,十月,正月を以って,田牛を検査する。一年後,正月に大いに之を課す。最ならば田嗇夫に酒壺と束脯を賜い,役の者には役を一回免除し,牛に三旬の長日を賜う。殿の者は,田嗇夫を責め,役の者に二月の罰を与える。牛で田を耕し,牛の胴回りが減ずれば,一寸ごとに十回笞打つ。里に之を課し,最ならば田典に日旬を賜い,殿ならば笞打つこと三十。鉄器を使用によって毀損した者は,書を用いて報告せよ,責めは受けない。・・・

[倉律] 禾(粟)は倉に入れ,一万石を一積とし黎で仕切り,戸を設置する。縣嗇夫もしくは丞及び倉,鄉が相集まり以って之を印す。・・・禾を計るときは,黄,白,青を別に,モチを人に授けるなかれ。・・・種,稲と麻は畝に二と三分の二斗用いる,禾,麥(小麦)は畝に一斗,黍,荅(小豆)は畝に三分の二斗,叔(大豆)は畝に半斗。良い田であればそれ以下でも可なり。・・・縣で種用に遺されている麥は,粟と同じに蔵す。・・・軍や仕事で縣に行く者は,食料を持参し,縣から借りてはならない。・・・

[金布律] 布の長さは八尺,幅は二尺五寸。悪い布,長さや幅が式でないものは行えない。錢十一は布一に当たる。金,布を以って銭を出入するは,律を以って行う。・・・売買のときは,その売値の札を付ける。一銭の小物には能わず。・・・

[關市律] 作務及び官府の為に市に出るときは,受け取った銭を必ず直ちに缿の中に入れよ。買手が入れるところを見えるようにせよ。従わない者は罰金一回を科す。

[工律] 同じ物者の器を作るには,その大小,長短,広さ狭さを必ず等しくせよ。計上するには,同じでない規程の者を,同じ出帳にしてはいけない。縣及び工室は,衡石,斗,升を年1回は官吏に正してもらわなくてはならない。工者なら正さなくてよい。・・・公有の甲兵(武器)には,官名を之に久しく刻まなくてはならず,久しく刻むことが不可の者には之を丹で書かなければならない。百姓が甲兵を借りるときは,必ず其れを久しく書き,以って之を久しく受ける。・・・公有の器も,之を久しくしなくてはならず,久しくすることが不可の者にも,之を久しくしなければならない。・・・

[均工] 新しい工人が工の事を初めたら,一歳で功の半分をなし,其の後の歳は故と等しい功を賦す。工の師は之を善く教え,故工は而して一歳で成し,新工は而して二歳で成す。先機に学んで成しえた者は上に謁し,上は且つ之に賞を与える。満期に学を成さなかった者は,籍を上の内史に而して書く。・・・

[工人程] 冗の隸妾二人は工人一人に当たり,更の隸妾四人は工人一人に当たり,使うことができる小の隸臣妾五人は工人一人に当たる。隸妾及び女子が針を用いて刺繍や他の者を為すは,女子一人は男子一人に当たる。

[司空] 貲贖及び公における債の責を以って有罪ならば,其の令日に之を問われ,償を入るが能わざるは,令日を以って居(労役)す,日当八銭,公を食す者は日当六銭にて居す。官府で労働し公を食す者は,男子は三分の一斗,女子は四分の一斗。公士以下で,死罪の刑罪の償いで労役する者は,城旦(築城)や舂(搗)で居するが,赤い衣でなくてよい,刑具もなくてよい。・・・

[內史杂] 各縣は,其の県のいる都官に,官が用いる律を写すを告げよ。・・・下吏で書く能がる者であっても,史の事に従事することなかれ。・・・

[效律] 衡石が不正で,十六兩以上のときは,官嗇夫は一甲を贖う。十六兩未満で八兩以上のときは,一盾を贖う。桶が不正で,二升以上のときは一甲を贖う。二升未満で一升以上のときは,一盾を贖う。・・・數が余り,あるいは不備で,值が百一十錢から二百廿錢のとき,官嗇夫は誶を受ける。二百廿錢から千一百錢のときは,嗇夫は一盾を贖う。千一百錢から二千二百錢のときは,官嗇夫は一甲を贖う。二千二百錢以上のとき,官嗇夫は二甲を贖う。・・・

郷は縣の出先機関であり,一縣は平均4郷で,郷には吏がいた。郷の下に里が置かれ,里は標準100戸から成る。里内の有力農民が,里正に任ぜられた。郡は,元来征服地に対する軍政機関であったとされる。戦国秦では,1つの室(核家族)に1頃(100畝,約4.6ha)が授田され,芻(草),藁,薦(まこも)などを肥料としていた。田牛(農耕牛),鉄製農具は公の所有物であり,公が民に貸与していた。倉律では,穀物の播種量が指定されているが,漢の景帝時代の墓から出土した木簡には,鄭里の25戸に対し国家が田1畝につき1斗の種子を貸与したことが記録されていた。公は,民に対して農業生産の作業時期や方法を指導し,農地を授け,農耕牛,鉄製農具,種子などの生産手段を貸与し,その使用料として税を徴収していた。

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『春秋公羊伝』には,宗主たる者は,一族を代表して一族の罪をかぶるという論理があり,一族の者が殺人を犯した場合,宗主が殺したように記されるものだと書かれている。即ち,本来,法的主体の単位はリネージやクランであり,個人はリネージやクランの一員として存在していた。秦では,伝統的なリネージが「核家族」に解体されたかのように見えるが,牛,鉄製農具,種子などの生産手段は公の所有であり,生産や徴税の単位は「里」であった。

始皇帝の死後,中央集権的な専制に対する反乱が拡大し,秦王朝は滅亡した。秦を亡ぼした漢王朝は,秦が定めた制度のほとんどを引き継いだが,統制よりも自由放任の政治が理想とされた。前漢前半期には,行政権の多くは地方の県にまかされ,爵・田・宅の賜与,租税の徴収,徭役の課徴,裁判,官営工房の管轄,貨幣の鋳造などを県が行っていた。文帝5年には,民間で貨幣を自由に鋳造することさえ許された。郡や国は,軍事,監察を除く県の行政については,限定的にしか関与しなかったという。

前漢前半期には商業が非常に栄え,『史記』貨殖列伝は,「漢が興って,海内を統一すると,関梁を開き山沢の禁をゆるめたので,富商大賈は天下をめぐり,交易の物資は流通しないものがなく,欲するものは何でも手に入った」と伝える。文帝期には納粟授爵政策が行われ,4000石の粟を北辺の郡に納入する者は,五丈夫の爵を入手できた。各地に豪族が成長する一方で,貧農が増大し,農民層の階層分解が進んだ。この期に葬られた豪族の墓からは,家内奴隷,労働奴隷などの奴婢50人の名と労働内容を書かれた遣策が出土している。

商人,高利貸,塩鉄製造業者などへの貨幣蓄積,豪族層と貧民層の階層分化は,武帝期になると大きな社会問題となった(法的には,商工業者の農耕地の所有は禁じられていた)。都市を中心に商業や高利貸が発展する一方,穀物の豊凶によって物価が乱高下した。武帝は,算緡銭,塩鉄専売,均輸平準法を制定して,財政悪化を打開しようとした。算緡銭は財産税であるが,商工業者の税率を高くし,申告漏れがあれば1年間辺境に屯戍させ財産を没収した。南陽の製鉄業者の孔僅と斉の製塩業者の東郭咸陽を大農丞に登用して,国家が塩鉄の販売を独占した。洛陽の商人出身の桑弘羊を治粟都尉に任命し,地方の県に均輸官を,中央には平準官を置かせた。政府が穀物を買い上げて備蓄し,物価上昇期に放出して穀物価格の安定化を図った。

古代中国の貨幣について触れておくと,殷の時代は子安貝が用いられたとされており,BCE7世紀の春秋時代に,銅,銀,金の金属貨幣が使われるようになった。これらの金属貨幣は秤量貨幣であり,総重量を計りやすいように穴が空けられ,国家ごとの重量単位が存在していた。中国を統一した秦の始皇帝は,度量衡,車軸,文字を統一し,銅銭の半両銭(両は重量の単位)を鋳造した。漢代には秦の銅銭が踏襲され,文帝のときは民間での貨幣の鋳造も認められていた。武帝は,三銖銭と五銖銭を鋳造し,額面と重量を一致させた。五銖銭は,実物貨幣,秤量貨幣,計数貨幣としての側面を合わせ持つようになったことで,唐代まで700年間も踏襲された。


燕国刀銭(Author:PENG Yanan)


半両銭(Author:Symane)


汉五铢,漢武帝時期鑄(Author:Prof. Gary Lee Todd)

漢代には,算賦と口賦の二つの人頭税があったが,これは,戦国時代以前の軍税から発展したものである。算賦は,15~56歳の男女から毎年一人当たり1算(120銭)を徴税し,馬,戦車,武器の購入費用に当てられた。文帝時代には40銭に改められ,武帝時代には120銭,宣帝時代に90銭,成帝時代に80銭となった。口賦は,7~14歳の男女より毎年一人当たり23銭を徴収し,うち20銭は天子の奉養費に,残り三銭は車騎の馬を補う費用に当てられた。

漢代には,人頭税を徴収するために全国の戸口統計が実施されており,前漢末(CE2)の戸数は12,233,000戸,口数は59,594,978人と記録されている。前漢末から後漢前期にかけて,大きく人口が減少したが,その後徐々に回復し,5000万人前後で安定している。

CE 口数 戸数
前漢末 2 59,594,978 12,233,000
後漢前期 57 21,007,820 4,279,634
75 34,125,021 5,860,573
88 43,356,367 7,456,784
後漢中期 105 53,256,229 9,237,112
125 48,690,789
144 49,730,550
145 49,524,183
後漢後期 146 47,566,772
156 50,066,856

(*12)

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人口が増加する条件は,人々が十分に食料を得られることである。農耕社会では,食料の供給は,主に農業生産によって賄われており,農業生産物の源泉は太陽エネルギー,水,栄養素(元素)である。また,農産物の生産手段は,農地,放牧地,灌漑設備,遺伝資源(栽培種,家畜種),肥料,暦,農具,労働力などである。人間は,太陽エネルギーや降雨をコントロールすることはできないので,長期的な人口の増加は,遺伝資源,肥料,農具,灌漑技術などの生産技術の革新によるところが大きい。

中国大陸では,北部でキビとアワが栽培化され,南部で稲が栽培化された。キビ,アワなどの雑穀類は生産力が低く,現在の世界の雑穀生産量は1億トンにすぎない。一方,稲の生産力は大きく,世界の米の生産量は7.5億トンである。また,西アジアで栽培化された小麦の世界生産量は,7.6億トンである。

中国大陸における最古の小麦(炭化種子)は,BCE2200年頃の甘粛省東灰山遺跡で見つかっている。BCE3000年紀後半の植物利用を見ると,陶寺遺跡(山西省)ではアワとキビが主体であり,両城鎮遺跡(山東省)では稲が存在するが,主体はキビ亜科とその他である。(*13)

次に,河南王城岡遺跡における時間的変遷を見ると,小麦が龍山期に初めて導入され,二里岡期に次第に増加し,殷墟期に急増している。陝西周原遺跡(周王朝発祥地)では,龍山期にはアワとキビ亜科主体であったが,先周期には小麦が大きく増加している。このことから,小麦の導入による高い農業生産力が,新石器時代から青銅器時代への転換の背景のひとつにあったことが伺える。


黄河中下流域における遺跡ごとの植物種子構成比(*13)

なお,農業生産力が大きいということは,土壌中から栄養素が失われる速度がそれだけ大きいことを意味する。春秋戦国時代の『荀子』(BCE313?-BCE238?)には,「多糞肥田,是農夫衆庶之事也」(肥料を多くして田を肥やすのは,農夫衆庶の仕事である)とあり,『韓非子』(BCE280?-BCE233)には,「積力於田疇,必且糞灌」(田に力を注ぐならば,必ず肥料と灌漑をおこなう)と伝えられている。秦律にも,「頃に芻(草)と藁を入れよ。それは,耕作か不耕作かに関係なく,授田の頃数ごとに行なうこと。頃には芻三石,藁二石を,輸送の度に入れよ。・・・穀物を取り去った芻藁,薦の石数をすぐに県廷に報告せよ。それらは,敷料に使用せよ。」とある。また,前漢晩期に書かれた『氾勝之書』には,「春草生,布糞田,復耕,平摩之」(春草が生えたら,田に糞を散布し,耕して平摩(鎮圧)すると書かれている。北魏の賈思勰が書いた『斉民要術』(6世紀)には,「其踏糞法,凡人家秋收治田後,場上所有穰,穀禾戠等,並須收貯一處。每日布牛腳下,三寸厚」(踏糞法とは,およそ農家は秋収,治田が終わったら,作業場にある一切のわら,刈株の類をすべて一か所に取り集め,毎日これを牛舎に三寸厚に敷く)とあり,敷きわらと牛の糞尿から堆肥を製造することを奨励している。

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春秋戦国時代には,鉄製農具の登場によって,農業生産力が飛躍的に高まったとされている。BCE2~1世紀に鉄製の犂先が作られているが,前漢末までは鉄製農具の所有者は国家であり,公から民へ貸与されていた。後漢になると国家による管理体制が崩れ,一般村落の豪族や個人が鉄製農具を所有するようになった。


からすきの部品 鉄 咸陽北斗嶺 礼泉烽火公社 前1~後1世紀頃(*14)

中国大陸における鉄の歴史については,おおよそ以下のように報告されている。(*16)

BCE6~5世紀の春秋戦国時代に,塊煉法(固体直接還元法)による製鉄が始まった。椀形の炉を用いて,赤鉄鉱または磁鉄鉱を原料とし,木炭を燃焼加熱することにより鉄を得ていた。塊煉法では炉内温度が低く(約1,000℃),十分な還元雰囲気が確保できなかったため,鉄器には夾雑物が多く,酸化第一鉄(FeO)および鉄カンラン石(2FeO・SiO2)が常に見られるという。


(*16)

春秋晩期には,炉体と送風技術の改善によって銑鉄が作られた。世界で最も早く中国で銑鉄生産が始まった背景には,製陶技術と青銅の鋳造技術の発達があったと考えられている。銑鉄生産とほぼ同時に,白銑鉄(融解した銑鉄を急冷すると硬く脆いセメンタイトになる)の焼き鈍し処理によって,可鍛鋳鉄が発明された。洛陽市水泥廠出土の手斧などの金属学的分析の結果,焼き鈍し処理によって発生した棉花状の黒鉛が確認できたという。BCE4世紀頃には,農具や工具に焼き鈍し技術が使用され,鉄器の利用が拡大した。


(*16)

前漢時代になると,「炒鋼法」も確立したとされる。炒鋼法とは,銑鉄を加熱溶融し,空気と撹拌することにより酸化脱炭する精錬技術のことである。炒鋼の夾雑物は,単相ケイ酸塩を主とし,広く薄く変形も大きく,比較的均等に分布するのが特徴という。夾雑物の成分は,ケイ素が多く,カリウム,マグネシウム,アルミニウム等も比較的多く見られる。


(*16)

BCE2世紀頃から鼠銑鉄が生産され,その鉄器が,製鉄技術に一大進展をもたらしたとされる。鼠銑鉄は,焼き鈍し処理された可鍛鋳鉄に球状黒鉛が見られるのが特徴の一つであり,鋳型焼成窯などでゆっくりと冷却することにより生産されたと考えられている。河北省満城漢墓出土の車鐗(車軸の鉄),鍬内笵,鋤内笵は,中国で最古の鼠銑鋳造品と言われている。また,河南省南陽,古榮,鉄生溝,縄池等の漢代遺跡から,鼠銑の鋳造品が出土している。(*16)

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人口の増加は,農業生産技術の革新によるところが大きいと述べたが,人類史において,急激な人口減少をもたらすのは伝染病である。歴史的にパンデミックを引き起こした伝染病としては,麻疹,天然痘,ペスト,コレラ,チフス,結核,インフルエンザ,マラリア,エイズ,コロナウイルスなどがある。

ウイルスや寄生性の細菌が,元の宿主生物種から別の種に寄生するようになると,新しい宿主種には免疫が無いので,死亡率が極めて高くなる。種の乗り越えは,病原体の突然変異によって起きるので,多数の動物と多数の人間が長期間接触するほど,パンデミックを引き起こす確率が高くなる。また,戦争,集団の移動,婚姻,市場の拡大など,人間の集団同士の接触によって,パンデミックが拡大する。

天然痘の正確な起源は不明であるが,アフリカの齧歯目ウイルスから分岐した可能性が高いとされている。BCE14世紀のヒッタイトでは,エジプトから連行した捕虜によって伝染病が蔓延し,ヒッタイトの人口が激減したとの記録があり,この伝染病は天然痘という説がある。また,BCE1100年頃に死亡したラムセス5世のミイラには,天然痘の痘痕が認められている。中国大陸では,5世紀末から全土で流行し,6世紀以降には朝鮮半島,日本列島でも流行した。

天然痘は,アメリカ大陸の先住民に大きなパンデミックをもたらしている。アステカでは,1520年頃にコルテスの軍によって天然痘が持ち込まれて大流行し,アステカを滅亡される原因となった。スペインによる占領が始まると,天然痘,麻疹,チフスなどの伝染病が蔓延し,征服前には2500万人だった人口が,16世紀末には100万人にまで激減したと言われている。

麻疹(はしか)ウイルスは,BCE4世紀に牛疫ウイルスから分岐したことが報告されている(*17)。中国大陸における最古の麻疹の記録は後漢末(3世紀)であり,日本で麻疹の記述が見られるのは平安中期(11世紀)である。

中国の史書および医学家によって記録された疫病の流行は,BCE1100~CE548年の間に90回あり,BCE1100~CE1949年の3000年間で見ると619回に上る。疫病の種類は,癩病,赤痢,肥前瘡,マラリア,痘瘡,狂犬病,流行性脳炎,肺結核,ハシカ,インフルエンザ,お多福風邪,ジフテリア,ペスト,コレラ,猩紅熱,回帰熱,住血吸虫病,発疹チフス,小児麻痒,風疹などが記録されている。(*18)

後漢末の2世紀から疫病の記録が多くなり,111年(会稽郡),125年(京師),151年(京師,九江,盧江)に疫病が流行している。冬から春先にかけての流行が多く,病名は記録されていないがチフスではないかと考えられている。後に医聖と呼ばれた張仲景(150-219)は,南陽の200人以上いた一族の3分の2が死亡し,そのうち7割が「傷寒」による死亡と記録している。傷寒は,インフルエンザ,腸チフス,マラリアなどの発熱を伴う感染症と言われている。後漢末には,水害,旱魃,蝗害,地震などの災害が多く,黄巾の乱(184)が起こり戦乱の時代となったことで,疫病が蔓延したと考えられる。

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朝鮮半島の歴史について,『史記』は次のよう伝える。箕子は,殷王朝29代帝乙の弟で,箕の国に封じられた。殷30代帝辛(紂)の叔父に当たる。箕子は比干(紂の叔父)とともに紂を諫めたが,比干は紂に殺されて胸を切り開かれた。箕子は,自ら狂気をよそおって奴隷に身を落としたが,囚えられて幽閉された。殷を亡ぼした周の武王は,箕子を解放して道理秩序を問い,箕子は天地の大法である「洪範九疇」を語った。武王は箕子を崇めて自らの臣下とせず,朝鮮に封じたという(BCE11世紀)。

箕子朝鮮が存在したことを裏付ける考古学的証拠は見つかっておらず,史実か伝説かはわかっていない。なお,『史記』が夏の桀や殷の紂を残虐な暴君として描くのは,新しい王朝の正当性(易姓革命)を強調するためであり,史実ではないとされている。

衛氏朝鮮(BCE195?-BCE108)については,『史記』に次のように書かれている。
「朝鮮王の衛満というのは本来燕の人である。戦国時代,まだ侵略を受けないころから燕は真番と朝鮮を攻略して領有し,統治のために官吏を置き,城塞を構築していた。秦は燕を滅ぼすと,遼東の外側の地帯まで領有した。漢の始め,それらの地域が遠方で守備が困難なことから,もう一度遼東の古いとりでを修理して,浿水までを国境線とし,燕国の領土とした。燕王の盧綰が漢にそむいて匈奴の国へ逃げこんだとき,衛満も亡命し,千人あまりの仲間を集め,魋結をゆって蛮人の服装に変え,東に向かい国境を越えて逃げ,浿水を渡り,秦の時代には誰も住まなかった地域にある城塞に居住した。だんだんと,真番と朝鮮に住む蛮人と,むかし燕や斉から亡命して来たものを支配下に収め,かれらの統治者となって王険(平壌)を都とした。そのとき,孝恵帝と呂后の時代で,天下は安定したばかりだった。遼東の太守はそこで衛満と条約を結び,かれを外臣として扱い,国境外の蛮人を支配下に置かせるが,国境地帯で略奪をはたらかないこと,蛮人たちの首長が漢に入国して天子に拝謁しようとする場合じゃましないことをとりきめて,報告した。お上はそれらのことを認めた。そのおかげで,衛満は軍事の実権と財物を手に入れ,近辺の小さなまちを侵略して降伏させることができた。真番と臨屯はすべてやって来て帰服し,広さは数千里にわたっていた。位は子から孫の衛右渠へと伝えられた。誘い入れた漢からの亡命者は非常に多く,そのうえ一度も漢に入国して天子に拝謁することはしなかった。真番の周辺の諸国の長が上書して天子に拝謁したいと思っても,やはり妨害して通さなかった。」(*19)

BCE109年に,漢の武帝は,楼船将軍の楊僕と左将軍の荀彘に命じて,衛右渠を討伐させた。衛右渠は,漢軍を撃退し王険城にこもって抵抗した。楊僕と荀彘の両将軍は対立して,数カ月たっても城を陥落できなかった。一方,朝鮮の側でも,逃亡して漢に降伏する宰相や将軍たちが相次いだ。

「元封三年(前一〇八年)の夏,尼谿の宰相であった参は,人をやって朝鮮王の衛右渠を暗殺させ,降伏して来たが,王険城はそれでも陥落しなかった。もと衛右渠の大臣であった成己もそむき,またも漢の官吏を攻撃した。左将軍は衛右渠の子の衛長と降伏した宰相の路人の路最をやって人民に布告して説諭させ,成己を処刑した。その結果やっと朝鮮を平定でき,四つの郡(真番・臨屯・楽浪・玄菟)とした。」(*19)

漢四郡はBCE108年に始まり,BCE82年に真番郡と臨屯郡が廃された。BCE75年に,玄菟郡は西へ移され,半島には楽浪郡だけとなった。玄菟郡は,107年にさらに西に移転して遼東郡の一部となった。後漢末に中国大陸の政治が不安定になり,184年に黄巾の乱が起こった。動乱が収束した後も,大陸全土に軍閥が多数出現し,群雄割拠する戦乱の状態となった。

遼東郡の出身の公孫度は,玄菟郡の小役人であったが,出世して遼東太守に着任すると,政敵を次々と処刑して支配を固めた。高句麗や烏丸など周辺部族を攻撃し,「遼東の王」を称した。公孫度が死ぬと,子の公孫康が位を相続し,弟の公孫恭を永寧郷候に任じた(204)。公孫康は,204年に帯方郡を置き,朝鮮半島を支配した。公孫康が死ぬと,弟の公孫恭が地位を世襲したが,公孫康の子の公孫淵が成人すると,公孫恭を脅迫して位を奪いとった(228)。公孫淵は,魏に臣従する一方で,呉と通じたり逆に呉の使者を殺害したりした。236年に魏は公孫淵に出頭命令を出したが公孫淵は従わず,出撃した毋丘倹の軍と交戦した。公孫淵は,毋丘倹らの軍を退け,魏から独立して燕王を称した。魏は,太尉の司馬懿(仲達)をさしむけ,2カ月にわたる籠城戦の後,公孫淵親子は殺された。漢四郡は,ことごとく平定された(238)。中国王朝は,朝鮮半島北部および中部を郡県によって直接支配し,半島南部に対しても間接統制を行った。313年に高句麗が楽浪郡と帯方郡を滅ぼし,中国による朝鮮半島の直接支配は終了した。

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陳寿(223-297?)が著した『三国志』魏書東夷伝は,次のように伝える。

「夫餘は長城の北に在り。玄菟を去ること千里。南は高句麗と,東は挹婁と,西は鮮卑と接す。北には弱水有り。方二千里可り。戸は八萬。其の民,土著す。宮室・倉庫・牢獄有り。山陵・廣澤多し。東夷の域に於て最も平敞なり。土地は五穀に宜しかれども,五果を生ぜず。其の人麤大にして,性は彊勇・謹厚なり。寇鈔せず。國に君王有り。皆な六畜を以て官に名づく。馬加・牛加・豬加・狗加・大使・大使者・使者有り。邑落には豪民有り。下戸と名づくるは皆な奴僕たり。諸加は別に四出道を主る。大なる者は數千家を主り,小なる者も數百家。食飲には皆な爼・豆を用い,會同して拜爵・洗爵し,揖讓して升降す。殷の正月を以て天を祭り,國中大いに會す。連日飲食し歌舞す。名づけて迎鼓と曰う。是の時に於て刑獄を斷ち,囚徒を解く。國に在りては衣は白を尚ぶ。白布の大袂・袍・袴あり。革鞜を履く。國を出づれば則ち繒・繍・錦・罽を尚ぶ。大人は狐・狸・狖・白黒貂の裘を加え,金銀を以て帽を飾る。譯人辭を傳うるに皆な跪き,手は地に據りて竊かに語る。刑を用うること嚴急なり。人を殺せる者は死し,其の家人を沒して奴婢と爲す。竊盗は一に十二を責す。男女淫すると婦人妬むは,皆な之を殺す。尤も妬むを憎む。已に殺さば之を國の南の山上に尸し,腐爛するに至らしむ。女家得んと欲すれば,牛・馬を輸らば乃ち之を與う。兄死せば嫂を妻る。匈奴と俗を同じうす。其の國,善く牲を養う。名馬・赤玉・貂・狖・美珠を出だす。珠の大なる者,酸棗の如し。弓・矢・刀・矛を以て兵と爲す。家家に自ら鎧仗有り。國の耆老自ら説く,古えの亡人なり,と。城柵を作るに皆員く,牢獄に似たる有り。道を行くに晝夜,老幼と無く皆な歌い,通日聲絶えず。軍事有るときも亦た天を祭る。牛を殺して蹄を觀,以て吉凶を占う。蹄解れしは凶と爲し,合うは吉と爲す。敵有らば諸加自ら戰う。下戸倶に糧を擔い,之を飲食す。其の死せるや,夏月には皆な冰を用う。人を殺し徇葬せしむ。多き者百もて數う。厚葬す。槨有れども棺無し。魏畧に曰わく,其の俗,喪を停むること五月にして,久しきを以て榮と爲す。其れ亡者を祭るに生有り熟有り。喪主速やかなるを欲せざれども,他人之を彊い,常に諍いて引く。此を以て節と爲す。其れ喪に居る男女,皆な純白なり。婦人,布の面衣を著,環珮を去る。大體,中國と相倣拂するなり,と。夫餘は本と玄菟に屬す。漢末,公孫度海東に雄張し,威もて外夷を服するや,夫餘王尉仇台,更ためて遼東に屬せんとす。時に句麗・鮮卑強し。度,夫餘の二虜の間に在るを以て,妻わすに宗女を以てす。尉仇台死するや,簡位居立つ。適子無く,孽子麻余有るのみ。位居死するや,諸加共に麻余を立つ。牛加の兄の子,位居と名づくるもの,大使と爲り,財を輕くし善く施す。國人之に附す。歳歳に使を遣わし京都に詣り貢獻せしむ。正始中,幽州刺史毋丘儉,句麗を討つ。玄菟太守王頎を遣わし夫餘に詣らしむ。位居,犬加を遣わし郊迎せしめ,軍糧を供す。季父牛加に二心有り。位居,季父父子を殺して財物を籍沒し,使を遣わし簿斂して官に送らしむ。舊もと夫餘の俗,水旱調のわず,五穀熟らざれば,輒ち咎を王に歸し,或いは當に易うべしと言い,或いは當に殺すべしと言いき。麻余死するや,其の子の依慮,年六歳にして,立ちて以て王と爲る。漢の時,夫餘王葬むるに玉匣を用う。常に豫め以て玄菟郡に付し,王死すれば則ち迎取して以て葬る。公孫淵誅に伏せるとき,玄菟の庫に猶お玉匣一具有り。今,夫餘の庫に玉璧・珪・瓚數代の物有り。傳世して以て寶と爲す。耆老言わく,「先代の賜わりし所なり」と。魏畧曰わく,其の國殷富にして,先世より以來,未だ甞て破壞されざりしなり,と。其の印文に「濊王之印」と言う。國に故城有り,濊城と名づく。蓋し本と濊・貊の地にして,夫餘,其の中に王たり。自ら亡人と謂うは,抑も以有るなり。魏略に曰わく,舊志又た言わく,「昔,北方に高離の國なる者有り。其の王者の侍婢,身む有り。王之を殺さんと欲す。婢云わく,氣の雞子の如きもの有り,來たりて我に下り,故に身む有り,と。後ち子を生む。王,之を溷中に捐つるに,猪,喙を以て之を嘘く。徙して馬閑に至らしむるに,馬,氣を以て之を嘘き,死せざらしむ。王疑いて以爲えらく,天子ならんか,と。乃ち其の母に令して收めて畜わしむ。名づけて東明と曰う。常に馬を牧せしむ。東明は善射なり。王,其の國を奪われんことを恐れ,之を殺さんと欲す。東明走りて南のかた施掩水に至り,弓を以て水を撃つ。魚鼈浮かびて橋を爲し,東明度るを得。魚鼈乃ち解散し,追兵渡るを得ず。東明因りて都し,夫餘の地に王たり」と。」(*20)

「高句麗は遼東の東千里に在り。南は朝鮮・濊貊と,東は沃沮と,北は夫餘と接す。丸都の下に都す。方,二千里可り。戸は三萬。大山深谷多く,原澤無し。山谷に隨いて以て居を爲す。澗水を食む。良田無く,佃作に力むると雖も,以て口腹を實たすに足らず。其の俗,食を節す。好んで宮室を治む。居る所の左右に於て大屋を立て,鬼神を祭る。又た靈星・社稷を祠る。其の人,性は凶急にして,寇鈔を喜ぶ。其の國に王有り。其の官に相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台・丞・使者・皁衣・先人有り,尊卑各々等級有り。東夷の舊語以て夫餘の別種と爲す。言語諸事多く夫餘と同じかるも,其の性氣衣服は,異なるもの有り。本と五族有り。涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部有り。本と涓奴部王と爲るも,稍や微弱たりて,今桂婁部之に代わる。漢の時,鼓吹伎人を賜う。常に玄菟郡從り朝服・衣幘を受く。高句麗令,其の名籍を主る。後ち稍や驕恣たりて,復た郡に詣らず。東界に於て小城を築き,朝服・衣幘を其の中に置き,歳時に來たりて之を取らしむ。今,胡猶お此の城を名づけて幘溝漊と爲す。溝漊は,句麗,城を名づくるなり。其の官を置くや,對盧有らば則ち沛者を置かず。沛者有らば則ち對盧を置かず。王の宗族,其の大加皆な古雛加を稱す。涓奴部本と國主たり。今王と爲らざると雖も,適統の大人,古雛加を稱するを得。亦た宗廟を立て,靈星・社稷を祠るを得。絶奴部,世々王と婚す。古雛の號を加う。諸大加も亦た自ら使者・皁衣・先人を置く。名は皆な王に達す。卿大夫の家臣の如し。會同坐起するときは,王家の使者・皁衣・先人と列を同じうするを得ず。其の國中の大家,佃作せず,坐食せる者萬餘口。下戸遠く米糧魚鹽を擔い之を供給す。其の民,歌舞を喜び,國中の邑落,暮夜に男女群聚し,相歌戲に就く。大倉庫無く,家家に自ら小倉有り。之を名づけて桴京と爲す。其の人絜清にして自ら喜ぶ。善く藏釀す。跪拜には一脚を申ばす。夫餘と異なる。行歩は皆な走る。十月を以て天を祭り,國中大いに會す。名づけて東盟と曰う。其れ公會の衣服,皆な錦繍金銀もて以て自ら飾る。大加・主簿は,頭に幘を著く。幘の如くなれども餘無し。其れ小加は,折風を著く。形は弁の如し。其の國の東に大穴有り,隧穴と名づく。十月に國中大いに會し,隧神を迎え國の東上に還り之を祭る。木隧を神坐に置く。牢獄無く,罪有らば諸加評議し,便ち之を殺し,妻子を沒入して奴婢と爲す。其の俗,婚姻を作すに,言語已に定れば,女家,小屋を大屋の後ろに作る。婿屋と名づく。婿,暮れに女家の戸外に至り,自ら名のりて跪拜し,女宿に就るを得んことを乞う。是くの如くすること再三なれば,女の父母,乃ち聽し,小屋の中に就りて宿らしむ。傍らに錢帛を頓す。子を生むに至り已に長大なれば乃ち婦を將いて家に歸る。其の俗淫なり。男女已に嫁娶すれば便ち稍々送終の衣を作る。厚葬にして,金銀財幣,送死に盡くす。石を積みて封と爲し,松栢を列種す。其の馬皆な小さくて山に登るに便あり。國人,氣力有り,戰鬪を習う。沃沮・東濊,皆な屬す。又た小水貊有り。句麗,國を作るに,大水に依りて居る。西安平縣の北に小水有り,南流して海に入る。句麗の別種,小水に依りて國を作る。因りて之を名づけて小水貊と爲す。好弓を出だす。所謂る貊弓是れなり。王莽の初め,高句麗兵を發して以て胡を伐たしむるも,行かざらんと欲す。彊迫して之を遣るに,皆な亡げ塞を出でて寇盗を爲す。遼西の大尹田譚,之を追撃し,殺す所と爲る。州郡縣,咎を句麗侯騊に歸す。嚴尤奏言すらく,「貊人法を犯すも,罪は騊より起こらず。且く宜しく安慰すべし。今猥りに之に大罪を被さば,恐るらくは其れ遂に反かん」と。莽聽かず,尤に詔して之を撃たしむ。尤,誘いて句麗侯騊の至るを期ちて之を斬り,其の首を伝送して長安に詣らしむ。莽,大いに悦び,天下に布告し,高句麗を更名して下句麗と爲す。此の時に當りて侯國と爲る。漢の光武帝八年,高句麗王,使を遣わし朝貢せしむ。始めて王と稱せらる。殤安の間に至るや,句麗王宮,數々遼東に寇す。更めて玄菟に屬せしむ。遼東太守蔡風・玄菟太守姚光,宮の二郡に害を爲せるを以て,師を興して之を伐たんとす。宮詐りて降り,和を請う。二郡進まず。宮,密かに軍を遣わし玄菟を攻めしめ,候城を焚燒し,遼隧に入り,吏民を殺す。後ち宮復た遼東を犯す。蔡風,輕く吏士を將いて之を追討するも,軍敗沒す。宮死し,子の伯固立つ。順・桓の間,復た遼東を犯す。新安居郷に寇し,又た西安平を攻め,道上に於て帶方令を殺し,樂浪太守の妻子を略得す。靈帝建寧二年(一六九),玄菟太守耿臨,之を討ち,斬首し虜とすること數百級。伯固降り,遼東に屬す。嘉(熹)平中(一七二~一七八),伯固,玄菟に屬せんことを乞う。公孫度の海東に雄たるや,伯固,大加優居・主簿然人等を遣わし度を助けて富山の賊を撃たしめ,之を破る。伯固死するや,二子有り。長子抜奇,小子伊夷模。抜奇不肖にして,國人便ち共に伊夷模を立てて王と爲す。伯固の時より,數々遼東に寇す。又た亡胡五百餘家を受く。建安中,公孫康,軍を出だして之を撃ち,其の國を破り,邑落を焚燒す。抜奇,兄として立つるを得ざるを怨み,涓奴加と與に各々下戸三萬餘口を將いて康に詣りて降り,還りて沸流水に住む。降胡も亦た伊夷模に叛く。伊夷模,更めて新國を作る。今日の在る所是れなり。抜奇,遂に遼東に往き,子有り句麗國に留む。今の古雛加駮位居,是れなり。其の後ち復た玄菟を撃つ。玄菟,遼東と與に合撃し,大いに之を破る。伊夷模,子無し。潅奴部と淫し,子を生み位宮と名づく。伊夷模死し,立てて以て王と爲す。今の句麗王宮,是れなり。其の曾祖,宮と名づく。生まれながらにして能く目を開きて視ゆ。其の國人之を惡む。長大たるに及ぶや,果たして凶虐たり。數々寇鈔し,國殘破せらる。今,王生まれて地に墮つるや,亦た能く目を開きて人を視ゆ。句麗,相似たるを呼びて位と爲す。其の祖に似たるの故に之を名づけて位宮と爲す。位宮力勇有り,鞍馬に便あり,獵射を善くす。景初二年,太尉司馬宣王,衆を率いて公孫淵を討つ。宮,主簿大加を遣わし數千人を將いて軍を助けしむ。正始三年,宮,西安平に寇す。其の五年,幽州刺史毋丘儉の破る所と爲る。語は儉の伝に在り。」(*20)

「東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り。大海に濱して居る。其の地形,東北に狹く西南に長し。千里可り。北は挹婁・夫餘と,南は濊・貊と接す。戸は五千。大君王無し。世世,邑落各々長帥有り。其の言語,句麗と大同にして時時小異あり。漢初,燕の亡人衞滿,朝鮮に王たりし時,沃沮皆な焉に屬す。漢武元封二年,朝鮮を伐ち滿の孫右渠を殺し,其の地を分かちて四郡と爲し,沃沮城を以て玄菟郡と爲す。後ち夷貊の侵す所と爲り,郡を句麗の西北に徙す。今の所謂る玄菟の故府,是れなり。沃沮,還た樂浪に屬す。漢,土地の廣遠なるを以て單單大領の東に在りては東部都尉を分置し,不耐城に治して,別に領東の七縣を主らしむ。時に沃沮も亦た皆な縣と爲る。漢の光武六年,邊郡の都尉を省く。此れに由りて罷む。其の後ち其の縣中の渠帥を以て縣侯と爲す。不耐・華麗・沃沮の諸縣,皆な侯國と爲る。夷狄,更々相攻伐す。唯だ不耐濊侯のみ今に至るも猶お功曹・主簿・諸曹を置き,皆な濊の民もて之を作す。沃沮の諸邑落の渠帥,皆な自ら三老と稱す。則ち故の縣國の制なり。國小さく大國の間に迫られ,遂に句麗に臣屬す。句麗復た其の中の大人を置きて使者と爲し,相主領せしむ。又た大加をして其の租税を統責し,貊布・魚鹽・海中の食物を,千里擔負して之に致さしむ。又た其の美女を送り以て婢妾と爲し,之を遇すること奴僕の如くす。其の土地,肥美にして,山を背にし海に向かう。五穀に宜しく,善く田種す。人の性,質直にして彊勇なり。牛馬少なく,矛を持ち歩戰するに便あり。食飲・居處・衣服・禮節,句麗に似たる有り。魏畧に曰わく,「其の嫁娶の法は,女年十歳にして已に相設許すれば,婿家之を迎え長養して以て婦と爲す。成人するに至るや更めて女家に還す。女家錢を責め,錢畢れば乃ち復た婿に還す」と。其の葬むるや,大なる木槨を作る。長さ十餘丈。一頭を開きて戸と作す。新たに死せる者,皆な假りに之を埋む。才かに形を覆わしめ,皮肉盡きれば乃ち骨を取りて槨中に置く。家を擧げて皆な共に一槨なり。木を刻みて生ける形の如くし,死者に隨いて數と爲す。又た瓦有り,米を其の中に置き,編みて之を槨戸の邊りに縣く。毋丘儉,句麗を討つ。句麗王宮,沃沮に奔る。遂に師を進めて之を撃つ。沃沮の邑落,皆な之を破り,首虜を斬獲すること三千餘級。宮,北沃沮に奔る。北沃沮,一に置溝婁と名づく。南沃沮を去ること八百餘里。其の俗,南北皆な同じ。挹婁と接す。挹婁,船に乘りて寇鈔するを喜ぶ。北沃沮,之を畏る。夏月には恒に山巖深穴中に在りて守備を爲す。冬月には冰凍し船道通ぜず。乃ち下りて村落に居る。王頎,別に遣わされ宮を追討し,其の東界を盡くす。其の耆老に問う,「海東に復た人有るや不や」と。耆老言わく,「國人甞て船に乘りて魚を捕えんとし,風に遭いて吹かれること數十日,東に一㠀を得たり。上に人有り。言語相曉かならず。其の俗,常に七月を以て童女を取り海に沈む」と。又た言わく,「一國有り亦た海中に在り,純て女にして男無し」と。又た説く,「一布衣を得たり。海中より浮かび出づ。其の身,中國人の衣の如くなるも,其の兩袖の長三丈なり。又た一破船を得たり。波に隨いて出でて海岸邊に在り。一人有りて,項中に復た面有り。之を生得す。與に語るも相通ぜず。食らわずして死す」と。其の域,皆な沃沮の東の大海中に在り。」(*20)

「挹婁は,夫餘の東北千餘里に在り。大海に濱し,南は北沃沮と接す。未だ其の北の極まる所を知らず。其の土地,山險多し。其の人の形夫餘に似たれども言語は夫餘・句麗と同じからず。五穀・牛・馬・麻布有り。人,勇力多し。大君長無く,邑落に各々大人有り。山林の間に處り,常に穴居す。大家は深さ九梯。多きを以て好しと爲す。土氣寒きこと夫餘より劇し。其の俗,猪を養うを好み,其の肉を食し,其の皮を衣る。冬には猪膏を以て身に塗ること厚さ數分。以て風寒を御ぐ。夏には則ち裸袒し,尺布を以て其の前後を隱し,以て形體を蔽う。其の人不潔なり。溷を作りて中央に在り。人,其の表を圍みて居る。其の弓,長四尺。力は弩の如し。矢には楛を用う。長尺八寸。青石を鏃と爲す。古えの肅愼氏の國なり。善射にして人を射れば皆な入る。矢の毒を施すに因りて,人中れば皆な死す。赤玉好貂を出だす。今の所謂る挹婁貂是れなり。漢より已來,夫餘に臣屬す。夫餘,其の租賦を責むること重し。黄初中を以て之に叛く。夫餘數々之を伐つ。其の人衆少しと雖も,在る所の山は險しく,鄰國の人,其の弓矢を畏れ,卒に服するあたわざるなり。其の國,船に乘りて寇盗するに便あり。鄰國,之を患う。東夷,飲食の類,皆な爼豆を用うるも,唯だ挹婁のみしからず。法俗は最も綱紀無きなり。」(*20)

「濊は,南は辰韓と,北は高句麗・沃沮と接し,東は大海に窮まる。今の朝鮮の東,皆な其の地なり。戸は二萬。昔,箕子既に朝鮮に適き,八條の教を作り,以て之を教う。門戸の閉無けれども民は盗を爲さず。其の後四十餘世にして朝鮮侯淮(準),僭號して王を稱す。陳勝等起ち,天下秦に叛くや,燕・齊・趙の民,地を朝鮮に避くるもの數萬口。燕人衞蒲(滿)魋結し夷服して,復た來たりて之に王たり。漢の武帝伐ちて朝鮮を滅ぼし,其の地を分かちて四郡と爲す。是れよりの後ち,胡・漢稍や別る。大君長無し。漢より已來,其の官に侯・邑君・三老有り,下戸を統主す。其の耆老,舊と自ら謂う,「句麗と同種なり」と。其の人,性は愿愨にして,嗜慾少なく廉恥有り,句麗に請わず。言語・法俗は大抵句麗と同じく,衣服は異なる有り。男女の衣,皆な曲領を著け,男子,銀花を繋く。廣さ數寸,以て飾りと爲す。單單大山領より以西,樂浪に屬す。領より以東の七縣,都尉之を主る。皆な濊を以て民と爲す。後ち都尉を省き,其の渠帥を封じて侯と爲す。今の不耐濊,皆な其の種なり。漢の末に更めて句麗に屬す。其の俗,山川を重んず。山川に各々部分有り,妄りに相渉り入るを得ず。同姓婚せず。忌諱多し。疾病もて死亡すれば,輒ち舊宅を捐棄し,更めて新居を作る。麻布・蠶桑有り,緜を作る。星宿を候うに曉く,豫め年歳の豐約を知る。珠玉を以て寳と爲さず。常に十月節を用て天を祭る。晝夜,飲酒歌舞し,之を名づけて舞天と爲す。又た虎を祭りて以て神と爲す。其の邑落,相侵犯すれば,輒ち相罰すること生口・牛馬を責む。之を名づけて責禍と爲す。人を殺せる者は死を償う。寇盗少なし。矛を作ること長三丈。或いは數人,共に之を持つ。能く歩戰す。樂浪の檀弓,其の地に出づ。其の海,班魚の皮を出だす。土地には文豹饒く,又た果下馬を出だす。漢桓の時,之を獻ず。臣松之案ずるに,果下馬は高さ三尺,之に乘れば果樹の下を行くべし。故に之を果下と謂えり。博物志・魏都賦に見ゆ。正始六年(二四五),樂浪太守劉茂・帶方太守弓遵,領東の濊の句麗に屬せるを以て,師を興して之を伐つ。不耐侯等 邑を擧げて降る。其の八年(二四七),闕に詣り朝貢す。詔して更めて不耐濊王に拜す。居處雜わりて民間に在り。四時郡に詣り朝謁す。二郡に軍征・賦調有れば,供給・役使には,之を遇すること民の如くす。」(*20)

「韓は帯方の南に在り,東西は海を以って限りとなし,南は倭の興ると接し,方は四千里ばかり。三種有り,一は馬韓と曰ひ,二は辰韓と曰ひ,三は弁韓と曰ふ。辰韓は古の辰国なり。馬韓は西に在り。其の民は土著し,種を植へ,蚕桑を知り,綿布を作る。各長帥有り,大の者は自ら名を臣智と為し,其の次は邑借と為し,散りて山海の間に在り,城郭無し。爰襄國,牟水國,桑外國,小石索國,大石索國,優休牟涿國,臣濆沽國,伯濟國,速盧不斯國,日華國,古誕者國,古離國,怒藍國,月支國,咨離牟盧國,素謂乾國,古爰國,莫盧國,卑離國,占離卑國,臣釁國,支侵國,狗盧國,卑彌國,監奚卑離國,古蒲國,致利鞠國,冉路國,兒林國,駟盧國,內卑離國,感奚國,萬盧國,辟卑離國,臼斯烏旦國,一離國,不彌國,支半國,狗素國,捷盧國,牟盧卑離國,臣蘇塗國,莫盧國,古臘國,臨素半國,臣雲新國,如來卑離國,楚山塗卑離國,一難國,狗奚國,不雲國,不斯濆邪國,爰池國,乾馬國,楚離國有り,凡そ五十餘國なり。大国は万余家,小国は数千家,總十余万戸。辰王は月支国を治す。臣智,或いは優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例狗邪秦支廉の號を加える。其の官は魏の率善,邑君,歸義侯,中郎將,都尉,伯長有り。侯准,既に僭號し王を稱す,燕の亡人衛満の攻め奪う所となる。将に其の左右の宮人走りて海に入り,韓の地に居し,自ら韓王を号す。其の後絶滅し,今,韓人に猶,其の祭祀を奉る者有り。漢の時は楽浪郡に属し,四時朝謁す。桓霊の末,韓と濊は強盛にして,郡県よく制する能はず,民は韓国に流入すること多し。建安中,公孫康は屯有県以南の荒地を分かち帯方郡と為す。公孫模,張敞等を遣はし遺民を収集し,兵を興し韓濊を伐ち,旧民は稍出す。是の後,倭と韓は遂に帯方に属す。景初中,明帝は密かに帯方太守劉昕,楽浪太守鮮于嗣を遣はし,海を越え,二郡を定む。諸韓国の臣智は邑君の印綬を加賜され,其の次に邑長を與ふ。其の俗は衣幘を好み,下戸は郡に詣り朝謁し,皆衣幘を仮し,自ら印綬衣幘を服するは千有余人。部従事呉林は楽浪を以って韓国を本統し,辰韓八国を分割し楽浪に與へるを以って吏訳を転ずるに異同あり,臣智は忿して韓を激し,帯方郡の崎離営を攻む。時に太守弓遵,楽浪太守劉茂は兵を興し之を伐ち,遵は戦死すも,二郡は遂に韓を滅ぼす。其の俗は綱紀少なく,国邑には主帥有りといへども,邑落は雑居し,善く相い制御する能はず。跪拝の礼無し。居する處は草屋土室を作り,形は塚の如く,其の戸は上に在り,家を挙げて共に中に在り,長幼男女の別無し。其の葬は棺ありて槨無し,牛馬に乗るを知らず,牛馬は送死に尽くす。瓔珠を以って財宝と為し,或いは綴衣を以って飾と為し,或いは頸に縣け耳に垂らす,金銀錦繍を以って珍と為さず。其の人,姓は強勇にして,魁頭露紒し,炅兵の如し,布袍を衣し,足は革の蹻蹋を履く。其の国中為す所及び官家の城郭を築かしめる有るは,諸の年少の勇健者は,皆脊皮を鑿ち,大縄を以って之を貫き,又,丈ばかりの木を以ってこれを鍤き,通日嚾呼して力を作し,以って痛と為さず,既に作を勤むるを以って,且つ以って健と為す。常に五月を以って下種を訖み,鬼神を祭り,群衆は歌舞し,飲酒し昼夜休み無し。其の舞いは数十人が倶起ち相随い,地を踏み低昂し,手足相応じ,節奏は鐸舞に似る有り。十月に農功を畢え,亦復之の如し。鬼神を信じ,国邑ごとに一人を立て天神を祭るを主どり,之を天君と名づく。又,諸国は各別邑有り,之を名づけて蘇塗と為す。大木を立て,鈴鼓を縣け,鬼神に事へる。諸の亡逃が其の中に至れば皆之を還さず,賊を作すを好む。其の蘇塗を立てる義は,浮屠に似る有りて,その善悪の行う所は異有り。其の北方は郡諸国に近くはやや礼俗を暁れど,其の遠所は直囚徒奴卑の如く相集まるのみ。他に珍宝無し。禽獣草木はほぼ中国と同じ。大栗を出し,大は梨の如し。又,細尾雞を出し,其の尾は皆長さ五尺余り。其の男子は時々文身有り。又,州胡馬韓の西海中の大島上に有り,其の人はやや短小,言語は韓と同じからず,皆髠頭で鮮卑の如く,但し韋を衣し,好く牛及び猪を養ふ。其の衣は上有りて下無し,ほぼ裸勢の如し。船に乗りて往来し,韓の中で市買す。辰韓は馬韓の東に在り,其の耆老は世を伝へ,自らを言ふ。古の亡人にして秦の役を避け韓国に来適し,馬韓其の東界の地を割きこれに與ふと。城柵あり。其の言語は馬韓と同じからず。国を名づけて邦と為し,弓を弧と為し,賊を寇と為し,行酒を行觴と為す。相呼びて皆を徒と為し,秦人に似る有り,ただ燕,斉の物に名づけるに非ず。楽浪人を名づけて阿残と為し,東方人は我を名づけて阿と為し,楽浪人は,本其の残余の人と謂ふ。今,之を名づけて秦韓と為す者有り。始め六国あり,稍に分かれて十二国を為す。弁辰又十二国,又諸の小の別邑あり,各渠帥有り,大の者は臣智と名づけ,其の次に險側有り,次に樊濊有り,次に殺奚有り,次に邑借有り。巳柢國,不斯國,弁辰彌離彌凍國,弁辰接塗國,勤耆國,難彌離弥凍國,弁辰古資彌弥凍國,弁辰古淳是國,冉奚國,弁辰半路國,弁楽奴國,軍彌國,弁軍彌國,弁辰彌烏邪馬國,如湛國,弁辰甘路國,戸路國,州鮮國,馬延國,弁辰狗邪國,弁辰走漕馬國,弁辰安邪國,馬延國,弁辰瀆盧國,斯盧國,優由國有り。弁辰韓合わせて二十四国,大国は四,五千家,小国は六,七百家,總て四,五万戸。其の十二国は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いて之を作し,世世を相継ぐ。辰王は自ら立ちて王と為すを得ず。土地は肥美にして,五穀及び稲を種まくに宜しく,蚕桑を暁り,縑布を作り,牛馬に乗駕す。嫁娶の礼俗は男女の別有り。大鳥の羽を以って死を送り,其の意は死者を飛揚せしむを欲す。国は鉄を出し,韓,濊,倭はみな従って之を取る。諸の市買は皆鉄を用ひ,中国が銭を用ひるが如し。又以って二郡に供給す。俗は歌舞飲酒を喜ぶ。瑟有り,其の形は筑に似て,之を弾くに亦音曲有り。兒が生まれるや,便ち石を以って其の頭を厭へ,其の褊を欲す。今,辰韓人は皆褊頭なり。男女は倭に近く亦文身す。便ち歩戦し,兵仗は馬韓と同じ。其の俗,行く者は相逢て,皆住り路を譲る。弁辰と辰韓は雑居し,亦城郭有り。衣服,居する處は辰韓と同じ。言語法俗は相似て,祠祭鬼神に異有り,竈を施すに皆戸の西に在り。其の瀆盧国は倭と界を接す。十二国は亦王あり,其の人形皆大なり。衣服は絜清にして長髪なり。亦広幅の細布を作る。法俗は特に厳峻なり。」

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朝鮮半島では,旧石器時代から人間の痕跡が残されているが,年代をめぐっては様々な議論があり未解決である。新石器時代が始まるのはBCE8000年紀とされており,磨製石器や櫛目文土器が使用され,BCE5000年紀にアワ,キビの栽培が始まった。BCE1500年頃から,遼東の土器様式が半島の北から南方に拡がり,無紋土器文化に移行した。BCE15世紀に青銅器時代が始まったが,朝鮮半島では銅鉱山の開発,製錬,合金,鋳造などに関わる証拠がほとんど無く,青銅器時代の開始と同時に起きる物質的変化は,新たな形態の定着農耕集落の登場であるという(*22)。朝鮮半島南部で水田稲作が始まるのは,BC11世紀頃である。


Fig. 2: Spatiotemporal distribution and clustering of sites included in the archaeological database. a, Geographical distribution of 255 sites from the Neolithic (red) and the Bronze Age (green). b, Coloured dots cluster the investigated sites according to cultural similarity in line with Bayesian analysis in Supplementary Data 25, with indication of the spread of millet and rice in time and space. The distribution of archaeological sites in Fig. 2 is smaller than that of contemporary languages in Fig. 1 because we focus on the early dispersal of the linguistic subgroups in the Neolithic and the Bronze Age and on the links between the eastward spread of farming and language dispersal.(*26)


Fig. 4: Integration of linguistic, agricultural and genetic expansions in Northeast Asia. Amur ancestry is marked in red, Yellow River ancestry in green and Jomon ancestry in blue. The red arrows show the eastward migrations of millet farmers in the Neolithic, bringing Koreanic and Tungusic languages to the indicated regions. The green arrows mark the integration of rice agriculture in the Late Neolithic and the Bronze Age, bringing the Japonic language over Korea to Japan.(*26)

粘土帯土器は,遼寧省,朝鮮半島,日本列島に存在し,円形粘土帯土器はBCE6世紀~BCE2世紀,三角形粘土帯土器はBCE2世紀~紀元前後まで使われた。墓制などの研究から,青銅器時代の朝鮮半島は概ねリネージ間の競合といった状況にとどまるのに対し,粘土帯土器文化段階では明確な階層構造をもつようになったという。粘土帯土器文化は階層構造を有する文化であり,遼東地域から南下し,朝鮮半島の社会を階層化させた。粘土帯土器文化は,遼西地域の夏家店上層文化の北方青銅器や階層構造を継承しており,朝鮮半島中西部在来の青銅器時代文化(松菊里文化)に影響を与え,最終的には,粘土帯土器文化のみが展開し,原三国時代につながる。朝鮮半島では,国家形成に連続する社会構造は,粘土帯土器文化を基盤としていたという。(*29)

朝鮮半島で鉄器が出現するのはBCE4世紀で,朝鮮半島南部と日本列島との鉄器の出現時期に大きな差はないものと考えられている。初期の鉄器は鋳造鉄斧で,遼東地域,朝鮮半島,日本列島に至る広い範囲に分布する。朝鮮半島の墳墓では,円形粘土帯土器段階には青銅器が,三角形粘土帯土器段階には鉄器が主に副葬されている。円形粘土帯土器は在地系ではなく,外来系の土器である。円形粘土帯土器人は,外から朝鮮半島へ入ってはいって初期鉄器時代を担い,さらに日本列島へ移入して鉄器をもたらし,弥生社会に同化吸収されたという説が唱えられている(*30)。


大坪遺跡出土の中期無文土器(慶尚南道晋州市)


粘土帯土器,文化體育觀光部國立中央博物館(韓国)


(*31)

Reference,Citation
*1) Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
*2) 司馬遷, 野口定男訳. 史記. 平凡社, 1968.
*3) 宮本一夫. 2005. 神話から歴史へ, 中国の歴史1. 講談社.
*4) SHINICHIRO HONDA. 2022. 私的所有2,ヤムナヤ,ガリア,ゲルマニア,ブリタンニア.
*5) 平㔟隆郎. 1998. 殷周時代の王と諸侯. 岩波講座世界歴史3.
*6) 平㔟隆郎. 2005. 都市国家から中華へ, 中国の歴史2. 講談社.
*7) 鶴間和幸. 2004. ファーストエンペラーの遺産, 中国の歴史3. 講談社.
*8) 飯尾秀幸. 1998. 中国古代の法と社会. 岩波講座世界歴史5.
*9) 重近啓樹. 1998. 秦漢帝国と豪族. 岩波講座世界歴史5.
*10) 司馬遷. 貨殖列伝. 小竹文夫, 小竹武夫訳, 史記列伝, ちくま学術文庫.
*11) Zhao H, Gao X, Jiang Y, et al. Radiocarbon-dating an early minting site: the emergence of standardised coinage in China. Antiquity. 2021;95(383):1161-1178. doi:10.15184/aqy.2021.94.
*12) 永田英正. 1960. 漢代人頭税の崩壞過程.東洋史研究18-4, 546-568.
*13) 岡村秀典. 2008. 中国文明農業と礼制の考古学. 京都大学学術出版会.
*14) 林 巳奈夫. 2009. 中国古代の生活史. 吉川弘文館.
*15) SHINICHIRO HONDA. 2020. 戈,我,平,白,用.
*16) 関清. 2008. 中国における製鉄遺跡研究の現状と課題. 古代東アジア交流の総合的研究. 国際日本文化研究センター.
*17) Düx, Ariane et al. “The history of measles: from a 1912 genome to an antique origin.” bioRxiv (2019): n. pag.
*18) 邵沛. 1999.「中日両国疫病史対照年表」作成にあたって. 日本医史学雑誌第45巻第2号.
*19) 司馬遷. 史記列伝 四. 小川環樹, 今鷹 真, 福島吉彦訳. 岩波書店 (1975).
*20) 田中俊明. 2009.『魏志』東夷伝訳註初稿(1). 国立歴史民俗博物館研究報告第151集.
*21) 金姓旭. 2006. 韓半島新石器時代の初期農耕の検討. 熊本大学社会文化研究4.
*22) 宮本一夫. 2009. 農耕の起源を探る:イネの来た道. 吉川弘文館.
*23) 小畑弘己, 真邉 彩. 2014. 韓国櫛文土器文化の土器圧痕と初期農耕. 国立歴史民俗博物館研究報告第187集.
*24) 宮本一夫. 2019. 東北アジア初期農耕化4段階説と稲作農耕の諸問題, 東北アジア農耕伝播過程の植物考古学分析による実証的研究. 九州大学.
*25) Robbeets, M., Bouckaert, R., Conte, M. et al. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599, 616–621 (2021).
*26) Miyamoto K. The emergence of ‘Transeurasian’ language families in Northeast Asia as viewed from archaeological evidence. Evolutionary Human Sciences. 2022;4:e3. doi:10.1017/ehs.2021.49
*27) 宮本一夫. 2021. 近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散. 九州大学.
*28) 李盛周, 平郡達哉訳. 2008. 韓半島青銅器時代の性格に対する諸論議. 社会文化論集10号.
*29) 中村大介. 2012. 粘土帯土器文化を中心とした先史・古代の朝鮮半島における社会複雑化の研究. KAKEN.
*30) 李昌煕. 2014. 韓半島における初期鉄器の年代と特質. 国立歴史民俗博物館研究報告185集.
*31) 小林青樹. 2014. ユーラシア東部における青銅器文化. 国立歴史民俗博物館研究報告 第185集.
*32) SHINICHIRO HONDA. 2023. ユーラシア東方の青銅器時代,由,亜,吉.

文化,選択,進化 Culture, Selection, Evolution

SHINICHIRO HONDA

ニホンザルの行動について,以下の報告(2019年)がある。

一般に,ニホンザルは,群れの中における序列関係が非常に厳しい種とされている。例えば,餌付けされた集団では,序列高位の個体は,序列が低い個体を追い払って,食べ物を独占する行動が見られる。淡路島ニホンザル集団は,1967年から餌付けが行われており,380頭ほどの集団である。この集団では,他のニホンザル集団に比べて,食べ物をめぐる争いが起こりにくく,順位の離れた個体同士が並んで一緒に採食する様子が見られる。2頭のサルが,協力して2本の紐を同時に引いたときにだけ餌が得られる実験を行ったところ,淡路島ニホンザル集団の成功率は約60%(1,488試行で874成功)であった。一方,勝山ニホンザル集団では,成功率が1%(198試行で2成功)であった。(*1)


Fig. 1 Apparatus used for the experiment on the Awajishima group. The rope was threaded through the pulleys and both ends of the rope were extended out of the hut through the wire mesh(*1)


Fig. 3 Success rate of the task in each group. Results of the first 198 trials in the Awajishima group are shown for group comparison(*1)

淡路島ニホンザル集団では,装置に餌が置かれていても喧嘩が起こりにくく,さまざまな組み合わせのペアで協力が起きた。さらに,協力するパートナーが近くにいないときには,パートナーが来るまで紐を引かずに待つ個体も現れた。協力するパートナーを待つ行動は,チンパンジー,ゾウ,イルカなど,一部の動物でしか確認されていない。

勝山ニホンザル集団では,餌が置かれた装置を順位の高い個体が独占し,順位の低い個体はなかなか装置に近づくことができなかった。また,勝山集団では,サル同士が互いを避けあい,実験装置の前に2頭が並ぶという状況自体がほとんど起きなかった。

個体間の協力行動が生じるためには,「寛容性」が大きな鍵を握っており,高い寛容性は,個体間の協力行動を促進すると考えられるという。ヒトの協力社会の進化においても,寛容性が重要であったことを示唆しているという。

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2016年には,次のような報告がある。

マカカ属の種では,雌間の厳格な直線的順位序列や闘争時に近親者を援助する血縁びいきが認められる「専制型」と,おおむね直線的順位序列は認められるものの,優位者が劣位者に寛容で,血縁びいきも認められない「寛容型」が存在する。ニホンザルを含むカニクイザル種群は専制型で,それ以外のマカカ属の種は寛容型とされる。ニホンザルは専制型と分類されてきたが,野生群については乳母行動から,餌付け群については給餌実験時の攻撃性から評価したところ,勝山集団と小豆島集団は専制型であり,屋久島集団と淡路島集団は寛容型および個体群間変異が存在するという結果であった。他方,モノアミン酸化酵素A遺伝子およびアンドロゲン受容体遺伝子の頻度に個体群間変異があり,屋久島では前者の短いアリル(対立遺伝子),淡路島では後者の長いアリルが高頻度で見られた。これはアカゲザルやヒトの攻撃性と遺伝子型の関連と一致する傾向であった。また,mtDNAによる分子系統関係も,屋久島と淡路島は比較的近縁であることを示し,社会様式の違いに遺伝的背景があることを示唆する結果となった。(*3)


(*4)

別の報告では,寛容性と集団内の遺伝的偏差について検討している。

専制型に属するニホンザルでは,小豆島,淡路島,屋久島の個体群の寛容性が高いことが報告されている。寛容性の高い淡路島,屋久島に加え,寛容性の低い嵐山,勝山,金華山の各集団の1群から計298個体分の糞試料を収集し,マイクロサテライト16領域を用いて遺伝的多様性を集団間で比較した。その結果,離島に生息する,淡路島,屋久島,金華山の個体群の遺伝的多様性が,本土個体群である嵐山,勝山に比べて,低いことが明らかになった。淡路島,屋久島,金華山の個体群は,創始者効果もしくはボトルネックの影響で,遺伝的多様性が本土個体群に比べ低くなっていることが考えられる。寛容性の高い淡路島,屋久島では,遺伝的多様性の低下とともに寛容性に関わる遺伝子が固定した,または,集団サイズが小さく血縁者が多かった時期に寛容性が高くなった,という可能性が考えられる。また,いずれの可能性も,遺伝的多様性が低い金華山で寛容性が低いこととは矛盾しない。本データで結論付けることは難しいが,過去に個体群サイズが小さくなったことを経験した集団の一部で寛容性が高くなったのではないかと考えられる。(*5)

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「寛容性」と遊動域については,以下の報告がある。

給餌時であっても攻撃交渉が起こりにくい寛容な社会構造を持つ淡路島ニホンザル餌付け集団(兵庫県洲本市)と専制的な社会構造を持つ勝山ニホンザル集団(岡山県)を対象に,個体間距離と遊動域の季節変化を検討した。勝山集団の遊動域は,平均698ha,最大が1335ha(9月),最小が16ha(2月)であった。淡路島集団の遊動域は,平均458ha,最大が1275ha(10月),最小が71ha(1月)であった。個体間距離の中央値は,勝山集団で44m,淡路島集団で112mであった。最大値は,勝山集団が372m,淡路島集団が3462mであった。個体間距離が200m以上離れた測位の割合は,勝山集団で3%,淡路島集団で42%であった。両集団の遊動域は,秋に広がり,餌場への依存が強まる冬に狭くなることが共通して確認できた。秋に遊動域が広がると,淡路島集団では個体間距離も広がる一方で,勝山集団の個体間距離は広がりにくかった。先行研究では200mを超えるとクーコールがほとんど聞こえなくなると考えられていることから,秋の淡路島集団では頻繁にサブグルーピングが生じていると考えられた。(*6)

淡路島集団のグルーピングについては,以下の報告がある。

淡路島集団において,2022年11月に,集団内の複数個体が参加する激しい闘争が観察された。これ以降,本集団では互いに敵対的な2つの小集団が観察されるようになった。2022年12月(25日間),2023年1月(16日間)および3月(15日間)に,小集団の構成,および小集団同士の出会い場面での交渉を記録した。社会ネットワーク分析の結果,餌場での共在ネットワーク内に2つのコミュニティ(密接に関わる個体のクラスター)が検出された。一方,ネットワーク全体は2つに分断されておらず,個体間の間接的な繋がりは維持されていた。個体レベルでの分析から,どちらの小集団とも親和的な関係を持つ中立的な個体が多く存在し,それらの個体によって集団全体のまとまりが維持されていることが示唆された。小集団同士の出会い場面では,敵対的な小集団間では集団間闘争が観察されたのに対し,中立的な個体との出会いの際にはcoo callを含む親和的交渉が観察された。さらに共在ネットワークの構造は1月から3月にかけて高い類似度を示し,上記の状態が長期間にわたり安定的に維持されていることが示唆された。これらのことから,淡路島集団は,完全な集団分裂ではなく,集団内部分裂と呼べるような状態にあるのかもしれない。(*7)

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個体間の協力行動の由来を,「寛容性」だけで説明するのは困難である。なぜなら,極めて寛容性が高いとされるチンパンジーやヒトは,ライバル集団のオスを皆殺しにするほど「非寛容」であるからだ。超協力タカ派戦略では,自分が属する集団(所属集団)の他者ならば非攻撃的かつ協力であるが,自分が属しない他の集団(非所属集団)の他者ならば攻撃かつ非協力である。

超協力タカ派:(所属集団→非攻撃∧協力)∧(非所属集団→攻撃∧非協力)

生物の世界は,タカ派の状態(生存闘争,ダーウィン)が基本の状態である。タカ派が優占する世界の中で,何らかの方法で本来はライバルである他者を協力者とし,共同で別のライバルと闘争する形質(協力タカ派)が登場した。異性や遺伝的近親者に対して攻撃せずに協力する形質は,多くの生物に見られ,何らかの遺伝的形質(フェロモンなど)が,非攻撃や協力という形質に関与していると考えられる。

一方,大きな集団を作るニホンザルでは,遺伝的な近親者ではない他者に対しても非攻撃で協力するという何らかの形質を獲得しなければ,超協力タカ派戦略を実現できない。ニホンザルでは,人間に飼育されている個体であっても,序列を形成し,序列上位者に対して攻撃せずに従うという行動が見られることから,序列化や非攻撃に関与する遺伝的形質が存在していると思われる。

なお,共闘する集団を血縁者で形成すれば,その遺伝子が存続する確率は高くなるが,血縁集団が伝染病や闘争で全滅してしまうと,遺伝子が絶滅してしまうリスクが高くなる。チンパンジーではメスが他の集団に移り,ニホンザルではオスが他の集団に移る行動をとることで,個の遺伝子から見ると個の遺伝子が絶滅するリスクを小さくし,種の遺伝子から見ると種内の遺伝情報が差異化することで,種の遺伝子が絶滅するリスクを小さくしている。

一般には,母集団が占有する中心地に留まるのはタカ派であり,中心から周辺に拡散するのはハト派である。タカ派とハト派が,異性や資源をめぐって闘争すれば,集団から追い出されるのはハト派だからである。しかし,母集団から外部に出る行動を左右するのは,攻撃性だけではない。例えば,差異化や不確実性の強い性向を有する個体(形質)は,タカ派であっても,中央に留まろうとしないであろう。ニホンザルでは,序列1位の個体が,元気であるにもかかわらず,他の集団に移る例が見られる。母集団からの分岐の運動は,複数の形質に左右されると思われる。

遺伝子から見ると,屋久島,淡路島に最初に侵入したニホンザルは,少数からなるグループで,それらはハト派であった可能性がある。ハト派の遺伝子が優占した結果,「寛容型」の集団が形成された。金華山については,最初に侵入した少数の中に,タカ派が存在しており,次第にタカ派が優占したのかもしれない。あるいは,最初の集団はハト派であったが,環境飽和力が小さい金華山では強い選択が働き,タカ派の形質が優占した可能性もある。

もうひとつの点は,チンパンジーやニホンザルは,「文化」を有することである。

ニホンザルでは,オトナメス同士が向き合って行う抱擁行動に,地域差が存在する。金華山では対面での抱擁だけであるが,屋久島では対面に加え,片方が他方の側面や背中側から抱きつく行動が見られる。さらに,金華山では抱き合った体を前後に大きく揺するのに対し,屋久島では体を揺する代わりに相手の体を掴んでいる掌を開いたり閉じたりする。このような地域差は,環境の違いや遺伝的な違いによっては説明できそうにないことから,たまたま特定の地域で特定の仕方の抱擁行動が始まり,それが社会的に伝達していった文化であろうとしている。(*10)

屋久島では,ニホンザルのオス間で,未報告の社会行動である「尻つけ」が観察されている。霊長類の尻つけは,ボノボやチンパンジーで知られており,相互に後ろ向きになって尻を押し付け合う行動とされる。尻つけの観察事例が多いボノボでは,基本的にオス間で行われ,個体間の緊張緩和やあいさつ,宥和行動として用いられている。しかし,このような尻つけは,ニホンザルはもとより他のマカク属のサルを含めてもこれまでに報告がないという。(*11)

チンパンジーでは,道具の使用,毛づくろい,求愛行動など39の行動パターンが,一部の地域集団では習慣的であるが,他の地域集団には存在しないという。道具の使用では,オオアリ釣り,ナッツ割,シロアリ釣り,棒によるシロアリ塚堀り,水藻すくい,求愛や威嚇のためのディスプレーに葉や石を使うなどが知られている。各チンパンジーの地域集団におけるこれらの行動パターンの組み合わせレパートリーは,それ自体非常に特徴的であり,ヒトの文化に特徴的な現象である14が,ヒト以外の種で認められた。(*12)

チンパンジーの文化行動の獲得に関しての知見は,道具使用に関するものが多い。チンパンジーの道具使用の獲得においては,モデルとなる個体(多くの場合母親)が積極的に「教示」することはなく,むしろ学習者(子)がモデルのしていることに興味を持ち,積極的に「見て学ぶ」。ただし,モデルの行動を厳密に「コピー」するわけではない。学習者がまとわりつくことも多いため,モデル個体の道具使用の効率は落ちると思われるが,モデル個体はそうした「邪魔」に対して非常に寛容である。一方で,道具使用ではない文化行動である「対角毛づくろい」に関しては,幼少個体が積極的であることはあまりない。オトナ同士のやっている対角毛づくろいを見て,コドモ同士で不完全な対角毛づくろいをやってみるといったことはまず生じない。最初の対角毛づくろいは,ほぼ常に母子間で確認され,それも母親の側がより積極的に「形作り」をしている可能性があるという。(*13)

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ヒト・チンパンジーの共通祖先とゴリラの祖先が分岐したのは,おおよそ700万年前と言われている。ゴリラは,大型で力が強いことから,タカ派の方向に進化したと考えられる。

ヒトの祖先は,ゴリラやチンパンジーに比べて,大きな犬歯を持たず,華奢な身体であったことから,ヒトは,チンパンジー・ヒトの共通祖先(遺伝子プール)から,ハト派遺伝子が分岐したと考えられる。ハト派遺伝子は,タカ派遺伝子との闘争に負けるので,同一の遺伝子プール内で存続することができない。もともとハト派であったヒトの祖先は,武器を手で持ち,二本足で地上を走る形質を獲得することで,生き延びることができた。

「武器を手で持つ」と「二本足で走る」という二つの形質は,前者の形質が先であったと思われる。ボノボは,チンパンジー・ボノボの遺伝子プールから,ハト派が分岐して成立したと考えられるが,ボノボのオスが相手を攻撃するときは,「2メートルほどの枝を折ってこれをうしろにひきずりながら走る」(枝ひきずり)行動が見られる。ボノボでは,闘争の際に,武器(枝)を手で持つという行動が先であり,武器を手で持った結果として,二本足で立つという関係になっている。

ボノボの「枝ひきずり」行動が,遺伝子の変異によって獲得された形質とは考えにくい。このような行動は,ある個体によって偶然に引き起こされ,その行動が集団の中に拡がった「文化」であると思われる。ボノボは,オスが出自集団に残り,メスは他の集団に移るので,「枝ひきずり」の闘争行動は,闘争の中心的役割を担うオスたちによって世襲されたのであろう。

ハト派であったヒトの祖先が,ライバルを追い払って生き残るためには,常に武器を携帯する必要があった。常に武器を手に持つ「文化」が生存につながり,武器を常に手に持つのに有利な二本足歩行の形質が選択された。つまり,ヒトの成立には,文化が遺伝子の選択(進化)に関与していたと考えられる。

文化によって,ヒトの遺伝的形質の選択が左右される例として,ラクターゼ持続性が知られている。ラクターゼは,乳糖を消化する酵素で,古代人が動物の乳を消費したことは,成人におけるラクターゼ活性の持続性の進化に重要な役割を果たしたと考えられている。ヨーロッパでは新石器時代(BC7000年頃~)以降に動物の乳の利用が広まったが,地域や時代によって差があったことを示唆する証拠が得られた。また,ラクターゼ活性の持続性は,BC4700~4600年に初めて検出されてから,約4000年後のBC1000年頃まで一般的でなかった。先史時代のヨーロッパで,大部分の人々が乳糖不耐症であった頃に動物の乳が広く使用されていたことから,動物の乳の消費がラクターゼ活性持続性獲得に直接的な効果をもたらしたわけではないという。ラクターゼ非持続性の個体は,牛乳が入手可能になるとそれを消費したが,飢饉や病原体への曝露が増加する条件下では,ラクターゼ非持続性が不利になり,有史以前のヨーロッパでラクターゼ持続性の選択を推進したという。(*12)

ヒトは,文化(情報の変異と世襲)によって,ヒトに進化(遺伝子の変異と選択)した。そのために,ヒトの脳は,他の生物に比べて,急激に進化することが可能であった。

Reference,Citation
*1) Kaigaishi, Y., Nakamichi, M. & Yamada, K. High but not low tolerance populations of Japanese macaques solve a novel cooperative task. Primates 60, 421–430 (2019).
*2) 貝ヶ石 優, 山田一憲, 中道正之. 2020. 淡路島のニホンザルから考える寛容性と協力社会の進化. academist Journal. https://academist-cf.com/journal/?p=12320 .
*3) 中川尚史, 川本 芳, 村山美穂, 中道正之, 半谷吾郎, 山田一憲, 松村秀一. 2016. ニホンザルの社会構造の個体群間差異:その遺伝的背景を探る. 科学研究費助成事業.
*4) 川本 芳. ニホンザルの成立に関する集団遺伝学的研究. Asian paleoprimatology 2002, 2: 55-73. 2.
*5) 井上英治, 山田一憲, 大西賢治, 中川尚史, 横山 慧, 西川真理, 村山美穂. 2016. なぜニホンザルの寛容性に地域差がみられるのか?―遺伝的多様性が示唆するもの. 第32回日本霊長類学会大会.
*6) 山田一憲, 後藤遼佑, 貝ヶ石 優, 森光由樹. 勝山ニホンザル集団と淡路島ニホンザル集団における個体間距離と遊動域の季節変化. 霊長類研究 Supplement 34 (0), 58-59, 2018-07-01.
*7) 貝ヶ石 優, 延原利和, 延原久美, 山田一憲. 淡路島ニホンザル集団における集団の内部分裂に関する報告. 2023. 第39回日本霊長類学会大会 p. 33-34.
*8) 加藤英子. 勝山ニホンザル集団における周辺オスの発見率と離脱の関係. 2001. 霊長類研究17-2, p. 39-50.
*9) 兵庫県. 2023. 第3期ニホンザル管理計画 令和5年度事業実施計画.
*10) Nakagawa, Naofumi and Matsubara, Miki and Shimooka, Yukiko and Nishikawa, Mari. Embracing in a Wild Group of Yakushima Macaques (Macaca fuscata yakui) as an Example of Social Customs. Current Anthropology 56 (1), 104-120, 2015-02.
*11) 半沢真帆. 屋久島の野生ニホンザルで観察されたオス間の尻つけ行動の初記載. 2020. 霊長類研究 Primate Res. 36:33 – 39.
*12) Whiten, A., Goodall, J., McGrew, W. et al. Cultures in chimpanzees. Nature 399, 682–685 (1999).
*13) 中村美知夫. 2022. 野生チンパンジーにおける文化行動の獲得過程. 霊長類研究.
*14) Evershed, R.P., Davey Smith, G., Roffet-Salque, M. et al. Dairying, diseases and the evolution of lactase persistence in Europe. Nature 608, 336–345 (2022).
*15) SHINICHIRO HONDA. 社会脳による共倒れ抑止:Deterrence of internecine by social brains
*16) SHINICHIRO HONDA. ホモ属の超協力超タカ派戦略:Super-cooperative super-hawk strategy of Homo
*17) SHINICHIRO HONDA. 差異性向,不確実性性向:Preference of difference, preference of uncertainty
*18) SHINICHIRO HONDA. パン属,ホモ属,ヒトの進化的な安定:Evolutionary stability of Pan, Homo, H. sapiens
*19) SHINICHIRO HONDA. オーカー,ヒトの成立,アトピー:Ocher, Human establishment, Atopic dermatitis
*20) SHINICHIRO HONDA. ダーウィンの「創造の一つの中心」:Single centres of creation
*21) SHINICHIRO HONDA. 血縁選択,延長された表現型 Kin selection, Extended phenotype
*22) SHINICHIRO HONDA. 利他的行動,機能の表現型の差異 Altruism, Difference by functional phenotype
*23) SHINICHIRO HONDA. ハト派遺伝子の有利性 Favorable of Dove genes
*24) SHINICHIRO HONDA.情報(知識)の変異速度:Mutation speed of information / knowledge

有りふれたもの,無くてはならないもの Things that exist in abundance, Essential things

SHINICHIRO HONDA

以前に,次のような文章を書いた。

日本のように工業化がすすみ人口増が止まった国では,農地の価格がきわめて低くなっています。中世の頃の土地をめぐる戦争のことを想像することが難しいですが,農地の「価値」が無くなっているわけではなく,「何か」に転換しています。蓑が無いミノムシの集団で,蓑があるミノムシが出現したとします。蓑があるミノムシは生存に有利なので,食べ物を多く得て,集団のなかに増えていきます。集団のすべてが,蓑があるミノムシになると,もはや蓑の有利性はなくなって,利益(余剰)が無くなります。では,蓑は必要ないかというと,そうではなく,蓑がなければ,すぐに天敵に食べられて,死んでしまいます。蓑は利益(余剰)を生みませんが,生存に不可欠なものです。自然界でも経済学でも,蓑の価格を計算する方法が無く,「歴史性」(タダの情報の蓄積)に転換してしまいます。著作権が切れて,ネットでタダで読めるのに,それを読まないと死んでしまう小説のようなものです。

これについて,以下の文章で,さらに考察した。

遺伝子の歴史 Gene history

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「有りふれたもの」は,経済学では自由財と呼ばれる。自由財とは,人間の需要量に比べて,はるかに豊富に存在し,稀少性が無い財のことである。代表的な自由財としては,空気や海水などがある。自由財の価格はゼロであり,市場では取引されない。

一方,「無くてはならないもの」は,必需財と呼ばれる。必需財は,所得の変化率に対して消費量の変化率が下回っており,需要の所得弾力性は1より小さい。奢侈品ではない基本の食料品やトイレットペーパーなどがある。

また,「無くてはならないもの」かつ「価格がゼロ」のものは,公共財と呼ばれる。空気,軍隊,消防,警察,公園などは,公共財である。

一般に,財産権や所有権の概念は,歴史的に獲得されてきた法的概念と考えられている。それは,ホッブズのリヴァイアサン(1651),ロックの統治二論(1689),ルソーの社会契約論(1762),ヘーゲルの弁証法(精神現象学,1807),マルクスの唯物史観(経済学批判,1859)などを紐解くまでもなく,人々の普通の認識であろう。

マルクスは,資本制社会の後の社会について,次のように予測している。

Sind im Laufe der Entwicklung die Klassenunterschiede verschwunden und ist alle Produktion in den Händen der assoziierten Individuen konzentriert, so verliert die öffentliche Gewalt den politischen Charakter. Die politische Gewalt im eigentlichen Sinne ist die organisierte Gewalt einer Klasse zur Unterdrückung einer andern. Wenn das Proletariat im Kampfe gegen die Bourgeoisie sich notwendig zur Klasse vereint, durch eine Revolution sich zur herrschenden Klasse macht und als herrschende Klasse gewaltsam die alten Produktionsverhältnisse aufhebt, so hebt es mit diesen Produktionsverhältnissen die Existenzbedingungen des Klassengegensatzes, die Klassen überhaupt, und damit seine eigene Herrschaft als Klasse auf. An die Stelle der alten bürgerlichen Gesellschaft mit ihren Klassen und Klassengegensätzen tritt eine Assoziation, worin die freie Entwicklung eines jeden die Bedingung für freie Entwicklung aller ist. (*1)

「発展の過程で階級の区別が無くなり,全ての生産が関連する諸個人の手に集中すれば,公権力は政治的性格を失う。真の意味での政治権力とは,ある階級が他の階級を抑圧するための組織的暴力である。プロレタリアートが,ブルジョアジーとの闘いの中で,必然的に階級に団結し,革命によって自らを支配階級とし,支配階級として,古い生産関係を暴力的に廃止するならば,それは,これらの生産関係とともに,階級対立の存在条件,階級一般を廃止し,したがって,階級としての自らの支配を廃止する。階級と階級対立をもつ古いブルジョア社会は,各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となる連合に取って代わられる。」

革命後のソ連や中国では,多くの農地や工場が国有化あるいは公有化され,「全ての生産が関連する諸個人の手に集中」したにも関わらず,「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となる連合」は実現しなかった。「各人の自由な発展」は大きく制限されていたし,「万人」の間では激しい闘争が続けられた。

土地や工場や鉱山が公共の財産となっても,人々は序列を作ることを止めず,学校でも,企業でも,政党でも序列が付けられる。「各人の自由な発展」には,人と人との闘争が避けられず,序列を作ることで,闘争が常態になることを抑制している。

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星雲に存在するガスの多くは水素Hであり,ヘリウムHe,水H2O,メタンCH4, アンモニアNH3なども存在する。このことから,地球の原始大気は,星雲ガスと同様の成分であったと考えられている。HやHeなどの軽い元素は,太陽風によって宇宙空間へ吹き飛ばされ,その後の火山活動や小惑星の衝突によって,窒素N2や二酸化炭素CO2が大気中に放出された。また,CO2の大部分は水に溶解し,炭酸塩の堆積物が蓄積した。

38~35億年前に,生物の共通祖先が現れたと考えられているが,最初の生物は,嫌気性および好熱性の化学合成独立栄養生物であったようだ。35億年前に光合成を行うシアノバクテリアが現れて繁殖すると,24~21億年前に酸素濃度が急上昇した。嫌気性生物にとって高反応性遊離酸素は有害であるので,このときに多くの生物が絶滅したと考えられている。緑藻植物や陸上植物(4.5億年前)の登場によって,酸素濃度はさらに上昇し続け,石炭紀(3.589~2.989億年前)には大気の35%に達した。

2.85億年前のペルム紀後期に,急激に酸素濃度が減少し,海洋の無酸素状態が2000万年も続いたことから,ペルム紀末の大絶滅が起きた。これは,白色腐朽菌の大繁殖による酸素吸収とリグノセルロース分解によるCO2放出,火山活動などによる影響と考えられる。

リグニン,白色腐朽菌,ペルオキシダーゼ,キチン,キチナーゼ,放線菌,籾殻
ペルム紀末の大絶滅の理由―ペルオキシダーゼ遺伝子による有機炭素の崩壊


過去10億年の大気中の酸素濃度の変化

生物にとって,酸素は,あるときは毒であり,あるときは排出物であり,あるときは「無くてはならないもの」である。また,年代によって,「有りふれたもの」であったり,「希少なもの」であったりする。生物の酸素との関係は,相対的であり,時間的に変化する。

人間にとって,空気は,人間が登場したときから「有りふれたもの」であった。1960年代に酸性雨による水質汚染や森林破壊が世界中で問題となり,1990年代のアメリカで硫黄酸化物(SOX)の排出証取引が行われるようになった。酸性雨の原因となるSOXの排出限度が定められ,排出限度を上回った者は,排出限度を下回った者から証券を購入しなければならない。この排出権取引は,温室効果ガスの排出量削減にも導入されている。

SOXの排出枠を買うことは,「きれいな空気」を買うのと同じことである。すなわち,先史時代から自由財であった「空気」が,現代では,市場で取引されるようになったことを意味している。

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日本の人口は2008年をピークに減少し続けており,中国の人口も2022年に減少に転じた。21世紀後半には,世界人口が減少に転ずると予測されている。日本の人口が今の半分になったり,世界の人口がピーク時の半分になったりしたら,土地の需要は急速に減少するであろう。土地の需要が小さくなれば,土地は「有りふれたもの」になり,価格はゼロに近づくはずだ。

過疎の山村である私の郷里では,集落にほとんど住人がいなくなった。田んぼは原野に変わり,植林された山の手入れをする人が誰もいなくなった。杉や檜を売ろうとしても,木材価格より伐採の手数料のほうが高いので,伐採すると損になる。固定資産税など山林の維持にはお金がかかるので,山林を所有するメリットが何もない。高齢の親が死んでしまったあとは,山林を手放したい人が多くいるが,買う人はおらず,国土を外国に売るわけにもいかない。人が居なくなった山村では,土地は,空気のような存在(有りふれたもの,無くてはならないもの)になりつつある。

Reference,Citation
*1) Karl Marx. 1848. Manifest der Kommunistischen Partei.

創造神話,冶金,アマテラス,黄 Creation myth, Metallurgy, Amaterasu, Yellow

SHINICHIRO HONDA

ユーラシアやアフリカでは,最初の神は天空神であるとする神話が多く,天空神は次の神々を生む創造神でもある。さらに,天空神の後に別の創造神が現れて,世界や万物を創造したとする構造になっている。例えば,日本神話では,古事記の序文に「乾坤(天地)が初めて分れて,參神が造化(創造)の首(はじめ)となり,陰と陽が開けて,二靈が群品(万物)の祖となった」と書かれている。參神とは,アメノミナカヌシ,タカミムスビ,カムムスビのことであり,二靈はイザナギ,イザナミのことである。

夫,混元既凝,氣象未效,無名無爲,誰知其形。然,乾坤初分,參神作造化之首,陰陽斯開,二靈爲群品之祖。所以,出入幽顯,日月彰於洗目,浮沈海水,神祇呈於滌身。
(それ混元既に凝りしかども,氣象いまだあつからざりしとき,名も無くわざも無く,誰かその形を知らむ。しかありて乾と坤と初めて分れて,參神造化のはじめり,陰と陽とここに開けて,二靈群品の祖となりたまひき。所以このゆゑに幽と顯とに出で入りて,日と月と目を洗ふにあらはれたまひ,海水うしほに浮き沈みて,神と祇と身を滌ぐにあらはれたまひき。)

天地初發之時,於高天原成神名,天之御中主神訓高下天,云阿麻。下效此,次高御產巢日神,次神產巢日神。此三柱神者,並獨神成坐而,隱身也。次,國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音,如葦牙,因萌騰之物而成神名,宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音,次天之常立神。訓常云登許,訓立云多知。此二柱神亦,獨神成坐而,隱身也。上件五柱神者,別天神。次成神名,國之常立神訓常立亦如上,次豐雲上野神。此二柱神亦,獨神成坐而,隱身也。次成神名,宇比地邇上神,次妹須比智邇去神此二神名以音,次角杙神,次妹活杙神二柱,次意富斗能地神,次妹大斗乃辨神此二神名亦以音,次於母陀流神,次妹阿夜上訶志古泥神此二神名皆以音,次伊邪那岐神,次妹伊邪那美神。此二神名亦以音如上。上件,自國之常立神以下伊邪那美神以前,幷稱神世七代。上二柱獨神,各云一代。次雙十神,各合二神云一代也。於是天神,諸命以,詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。故,二柱神,立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以畫者,鹽許々袁々呂々邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而引上時,自其矛末垂落之鹽累積,成嶋,是淤能碁呂嶋。
天地あめつち初發はじめの時,高天たかまはらに成りませる神のみなは,あめ御中主みなかぬしの神。次に高御産巣日たかみむすびの神。次に神産巣日かむむすびの神。この三柱みはしらの神は,みな獨神ひとりがみに成りまして,みみを隱したまひき。次に國わかく,かべるあぶらの如くして水母くらげなすただよへる時に,葦牙あしかびのごとあがる物に因りて成りませる神の名は,宇摩志阿斯訶備比古遲うましあしかびひこぢの神。次にあめ常立とこたちの神。この二柱ふたはしらの神もみな獨神ひとりがみに成りまして,みみを隱したまひき。上のくだり,五柱の神はことあまかみ。次に成りませる神の名は,國の常立とこたちの神。次に豐雲野とよくものの神。この二柱の神も,獨神に成りまして,身を隱したまひき。次に成りませる神の名は,宇比地邇うひぢにの神。次に妹須比智邇いもすひぢにの神。次に角杙つのぐひの神。次に妹活杙いもいくぐひの神二柱。次に意富斗能地おほとのぢの神。次に妹大斗乃辨いもおほとのべの神。次に於母陀琉おもだるの神。次にいも阿夜訶志古泥あやかしこねの神。次に伊耶那岐いざなぎの神。次にいも伊耶那美いざなみの神。上の件,國の常立の神よりしも伊耶那美いざなみの神よりさきを,并はせて神世かみよ七代ななよとまをす。(上の二柱は,獨神おのもおのも一代とまをす。次に雙びます十神はおのもおのも二神を合はせて一代とまをす。)ここに天つ神もろもろみことちて,伊耶那岐いざなぎの命伊耶那美いざなみの命の二柱の神にりたまひて,この漂へる國を修理をさめ固め成せと,あめ沼矛ぬぼこを賜ひて,言依ことよさしたまひき。かれ二柱の神,あめ浮橋うきはしに立たして,その沼矛ぬぼこおろして畫きたまひ,鹽こをろこをろに畫きして,引き上げたまひし時に,その矛のさきよりしたたる鹽の積りて成れる島は,淤能碁呂おのごろ島なり。)(*1)


真福寺収蔵の『古事記』(国宝。信瑜の弟子の賢瑜による写本)

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中国神話では,『三皇本紀』に二つの神話が登場する。初めに登場する三神は,伏犠,女媧,神農であり,別の説として併記されている三神は,天皇,地皇,人皇である。

太皞,庖犧氏,風姓,代燧人氏,繼天而王。母曰華胥,履大人跡於雷澤,而生庖犧於成紀。虵身人首,有聖德。仰則觀象於天,俯則觀法於地,旁觀鳥獸之文與地之宜。近取諸身,遠取諸物,始畫八卦,以通神明之德,以類萬物之情。造書契,以代結繩之政。於是始制嫁娶,以儷皮為禮。結網罟,以教佃漁,故曰宓羲氏。養犧牲以庖犧,故曰庖犧。有龍瑞,以龍紀官,號曰龍師。作二十五絃之瑟。木德王,注春令。故易稱帝出于震,月令孟春:「其帝太皞」是也。都於陳,東封太山。立一百一十一年崩。其後裔當春秋時有任,宿,須句,顓臾,皆風姓之胤也。女媧氏亦風姓,虵身人首,有神聖之德。代宓犧立,號曰女希氏。無革造,惟作笙簧。故易不載,不承五運。一曰女媧亦木德王。葢宓犧之後,已經數世。金木輪環,週而復始,特舉女媧,以其功高而三皇,故類木王也。當其末年也,諸侯有共工氏,任智刑以強霸而不王,以水乘木,乃與祝融戰,不勝而怒。乃頭觸不周山崩,天柱折,地維𡙇。女媧乃鍊五色石以補天,斷鼇足以立四極,聚蘆灰以止滔水,以濟冀州。於是地平天成,不改舊物。女媧氏沒,神農氏作。炎帝,神農氏,姜姓。母曰女登,有蟜氏之女,為少典妃感神龍而生。炎帝人身牛首,長於姜水,因以為姓。火德王,故曰炎帝,以火名官,斲木為耜,揉木為耒,耒耨之用,以教萬人。始教耕,故號神農氏。於是作蜡祭,以赭鞭鞭草木,始嘗百草,始有毉藥。又作五絃之瑟,教人日中為市,交易而退,各得其所。遂重八卦,為六十四爻。初都陳,後居曲阜。立一百二十年崩,葬長沙。神農本起烈山,故左氏稱烈山氏之子曰柱,亦曰厲山氏。禮曰:「厲山氏之有天下」是也。神農納奔水氏之女,曰聽訞為妃,生帝魋。魋生帝承,承生帝明,明生帝直,直生帝氂,氂生帝哀,哀生帝克,克生帝榆。凡八代,五百三十年而軒轅氏興焉。其後有州,甫,甘,許,戲,露,齊,紀,怡,向,申,吕,皆姜姓之後胤。竝為諸侯,或分掌四岳。當周室,甫侯,申伯為王,賢相,齊,許列為諸侯,霸於中國。葢聖人德澤廣大,故其祚胤繁昌久長云。
一說三皇,天皇,地皇,人皇為三皇。既是開闢之初,君臣之始,圖緯所載,不可全棄,故兼序之。天地初立,有天皇氏,十二頭。澹泊無所施為,而民俗自化。木德王,歲起攝提。兄弟十二人,立各一萬八千歲。地皇十一頭,火德王,姓十一人。興於熊耳,龍門等山,亦合萬八千歲。人皇九頭,乘雲車駕六羽,出吞口。兄弟九人,分長九州,各立城邑,凡一百五十世,合四萬五千六百年。自人皇已後,有五龍氏,燧人氏,大庭氏,柏皇氏,中央氏,卷須氏,栗陸氏,驪連氏,赫胥氏,尊盧氏,渾沌氏,昊英氏,有巢氏,朱襄氏,葛天氏,陰康氏,無懷氏。斯葢三皇以來,有天地者之號,但載籍不紀,莫知姓,王,年代,所都之處。而韓詩以為自古封太山,禪梁甫者,萬有餘家,仲尼觀之不能盡識。管子亦曰:「古封太山七十二家,夷吾所識十有五焉。」首有無懷氏,然則無懷之前天皇已後,年紀悠邈,皇王何升而告但古書亡矣,不可備,豈得謂無帝王耶故春秋緯稱,自開闢,至於獲麟,凡三百二十七萬六千歲,分為十紀,凡世七萬六百年。一曰九頭紀,二曰五龍紀,三曰懾提紀,四曰合雒紀,五曰連通紀,六曰序命紀,七曰循飛紀,八曰因提紀,九曰禪通紀,十曰疏迄紀。當黃帝時,制九紀之間,是以錄於此補紀之也。
(太皥庖犠氏は風姓である。燧人氏に代わって,天位をついで王になった。母を華胥といった。華胥は神人の足あとを雷澤でふんで,庖犠を成紀で生んだ。庖犠は蛇身人首で,聖徳があった。仰いでは天象を観察し,俯しては地法を観察し,あまねく鳥獣の模様と地の形勢を見きわめ,近くは自身を参考にし,遠くは事物を参考にして,はじめて八卦を画し,かくして神明の徳に通じ,万物をその本質に適合しておさめた。書契をつくって結縄の政にかえた。はじめて婚姻の制度をたて,一対の皮をたがいに交換するならわしをさだめた。(中略)女媧氏もまた風姓であった。虵身人首で,神聖の徳があり,宓犧氏に代わって王位についた。(中略)その末年にあたって,諸侯に共工氏なるものがあり,智謀にすぐれて,よく刑罰を用いたので強大になり,霸者にはなったが王者にはなれなかった。みずから水徳だといい,木徳の女媧氏の天下を奪おうとして,洪水をおこして木をおし流そうとした。そして,火徳の祝融と戦ってやぶれ,怒って頭を不周山(天をささえる柱の山)にぶつけた。そのために不周山はくずれ,天を支える柱が折れ,地をつなぐ維がきれて天地が傾いた。女媧氏は五色の石を練って天をおぎない,鼇(おおがめ)の足を切って地の四方をつなぐ柱を立て,蘆の灰を集めて大洪水をとどめ,冀州を救済した。かくて,地は平らになり天はおさまって,もとのままの状態になった。女媧氏が没して神農氏がおこった。炎帝神農氏は姜姓である。母は女登といい,有媧氏の女で,少典の妃であった。神竜の徳に感応して炎帝を生んだ。炎帝は人身牛首で,姜水のほとりで成長したので,それにちなんで姜を姓とした。火徳の王であったので炎帝という。火の字をつかって官名をつけた。木を切って耜をつくり,木をたわめて耒をつくり,耒耨の使用法を万人にしめして,はじめて耕作を教えた。それ故に号を神農氏という。その後,蜡祭をさだめた。赤色の鞭で草木をむち打ち,百草をなめて,医薬を発見した。また五弦の瑟をつくった。人々に,日中に市をひらき,物々交換して夕方帰ることを教えた。(中略)
一説には,天皇,地皇,人皇を三皇というのだとする。天地開闢のはじめは,すでに君臣のはじめであり,圖緯の記載だから信用できないとして一概に棄てさるべきではない。そこで,これも併記することにする。天地がはじめて成立したとき,天皇氏があって,王位についたのは十二人である。みな無欲恬淡でなんら作為するところはなかったが,その徳のために民俗はおのずから化せられた。木徳の王であり,木星が寅の方位にある歳を紀元とした。兄弟十二人で,在位はおのおの一万八千年であった。地皇は十一人が王位についた。火徳の王であった。兄弟は十一人で,熊耳,龍門などの山から興った。在位はおなじくおのおの一万八千年であった。人皇は九人が王位についた。雲車にのり,太陽に住む六羽の鳥に駕して谷口からでてきた。兄弟九人が中国を九州にわけて,おのおのその長となった。それぞれが都の城邑をたてた。およそ百五十世,在位は合わせて四万五千六百年であった。)(*2)

『三皇本紀』や『五帝本紀』には,天地ができた後のことしか書かれていないが,他の書では,いくつかの天地創造の話が伝えられている。

「この世界ができる以前は,像だけあって形はなく,ただただ深く暗く混沌としてつかみどころがなく,どのようになるのか,どのようにしたらよいのか,まったくわからなかった。そこに二柱の神が自然に出現して,天地を創る事業をはじめたが,天地はあまりにも広大で,それはいつできあがるとも,いつ終わるともなく続いた。そうこうして,やがて混沌とした中から陰気と陽気が分離し,四方と八方とが分かれ,また剛いものと柔らかいものとが生じて,そこから万物が形づくられた。」(前漢『淮南子』)(*3)

「はじめ天と地はまるで鶏の卵の中味のように混沌としていた。やがてその中に盤古が生じた。一万八千年たつと,天地がようやく分かれはじめ,清く陽るいものが天となり,濁って陰いものが地となった。盤古はその中にあって一日に九度形を変えたが,それは天よりも地よりも神秘で聖くすぐれていた。天は一日に一丈ずつ高くなり,地は一日に一丈ずつ厚くなり,盤古も一日に一丈ずつ成長し,こうして一万八千年が過ぎたのである。天と地が現在のように遠く離れているのは,まったくこのためである。」(三国呉,『三五歴記』)(*3)

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ユーラシア大陸の最東端に住むチュクチ族の神話では,太陽が最も至高の存在であり,創造神,日の出,天頂,南中,北極星も特別な存在とされている。太陽は,銅や金の輝く服を着て,犬ぞりに乗り,トナカイの群れを連れて,天空を旅する男神として描かれている。トナカイは金や銅の角を持っている。神(太陽)は,光線の1本を地上に伸ばし,地上で生まれた若い女性と結婚する。神は,その光線で,彼女を天空に引き上げる。神は,毎晩,妻のもとに戻ってくる。妻は「巡回する女」と呼ばれている。神とその妻は,移動可能なテントに暮らす遊牧民と呼ばれている。神は,白いトナカイの群れを持ち,その一部を人間に与えた。一方,斑点のある灰色や茶色のトナカイは,地面の下の「毛皮を届ける土地」から生まれる。この土地は天と地が出会う場所にある。そこには,地面に大きな穴があり,そこからオオカミから逃げるトナカイが飛び出してくるという。(*4)


(*4)


Representation of a Chukchi family by Louis Choris (1816)


The approximate distribution of Chukchi clans at the end of the 19th century(Author:Noahedits)

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エジプトには,ヘリオポリス,メンフィス,ヘルモポリス,テーベなどの神話が存在するが,最も古いヘリオポリスの創造神話では,以下のように伝えられている。

世界は原初の水ヌンに包まれていたが,ヌンの中にベンベンが出現した。ベンベンの上にラー/アトゥムが現れた,あるいは,ベンベンそのものがラー/アトゥムとされている。ヌンは,原初の水,地下の深淵,混沌などを意味し,ベンベンは,原初のマウンドのことである。ラーは太陽神でありアトゥムは創造神とされるが,両者は一体であり,両者とも太陽神および創造神である。


Benben stone from the Pyramid of Amenemhat III, Twelfth Dynasty. Egyptian Museum, Cairo.

アトゥムは,シュウとテフヌトを口から吐き出して創造した。シュウは大気や風の神であり,テフヌトは湿気や雨の神である。シュウとテフヌトは,ヌト(大地の神)とゲブ(天空の神)を生んだ。ヌトとゲブは,オシリス(冥界の神),イシス(豊穣の女神),セト(戦争の神),ネフティス(葬祭の女神)を生んだ。ヌトとゲブが抱き合っているところをシューによって引き離され,天と地が分かれた。ヌト(天空)の手の先と足の先は,北,南,東,西の点でゲフ(大地)に触れており,その身体はシュー(大気,風)によって支えられている。弓なりになったヌトの身体には星が輝き,太陽や月などの天体が彼女の体を横切っていった。


Nut, goddess of sky supported by Shu the god of air, and the ram-headed Heh deities, while the earth god Geb reclines beneath. 950 BCE(Photographed by the British Museum)

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『エヌマ・エリシュ』は,BC12世紀頃にバビロニアで編纂された創世神話である。古バビロニアは,沙漠の遊牧民であるアムル人がメソポタミアを征服して建設した国家である。『エヌマ・エリシュ』は,バビロンの都市神であるマルドゥクが,エンリルに代わって神々の王となったことを宣言する物語である。

「上にある天には名前がつけられておらず,下にある地にも名前がなかったとき,始めにアプスーがあり,すべてが生まれ出た。混沌であるティアマトも,すべてを生み出す母であった。彼らの水はたがいに混じり合っており,地面は形が無く,湿地も見られなかった。そのとき,神々は,誰一人として生まれておらず,名前も無く,運命も定められていなかった。天の真ん中に,神々が生まれた。ラハムとラフムが生まれた・・・長い歳月が流れた・・・アンシャルとキシャルが生まれ,他の神々も生まれた・・・長い日々が流れた後,彼らが生まれた・・・アヌ,彼らの息子・・・アンシャルとアヌ・・・そしてアヌ神・・・ヌディムド,彼の父親たち,彼の生みの親たち・・・あらゆる知恵に満ち溢れている・・・彼はきわめて強大であった・・・彼にはライバルがいなかった。こうして,偉大な神々が創造された。・・・」(*5)

バビロニア神話では,アプスーは淡水,ティアマトは塩水(海水)のことを意味している。生まれた若い神々があまりに騒々しかったので,アプスーとティアマトは彼らを殺そうとするが,アプスーはエアに殺害されてしまう。エアは,アプスーの上に建てた神殿で,ダムキナとの間にマルドゥクをもうけた。ティアマトは,11の合成獣を創り復讐しようとするが,マルドゥクに殺されてしまう。マルドゥクは,ティアマトの死体から,天地を創造した。また,マルドゥクは,キングゥから「天命の粘土板」を奪い,キングゥの血から人間を創った。マルドゥクは,神々の王となった。


9th century BC depiction of the Statue of Marduk, with his servant dragon Mušḫuššu. This was Marduk’s main cult image in Babylon.

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記録された最も古い神話は,シュメールの神話である。ただし,シュメールの創造神話はあまり残されていない。

『エンキとニンマフ』では,次のようにある。
「天と地が作られたとき,それらの夜,天と地が作られた夜,それらの年,運命が決定された年,アヌナの神々が生まれたとき,女神たちが結婚したとき,女神たちが天と地に分配されたとき,女神たちが・・・妊娠して出産したとき,神々が義務付けられた(?)とき・・・彼らの食事・・・彼らの食事のために,上級の神々がその仕事を監督し,一方,下級の神々が苦労していた。神々が運河を掘り,ハラリの泥を積み上げていた。神々は泥を浚渫し,この生活に不平を言い始めた。そのとき,すべての古い神々の創造者,偉大な知恵の一つであるエンキは眠りから覚めることなく,他の神々が知らない場所,深い地底の淡水の源,流れる水の中で,床に横になっていた。神々は泣きながら言った。「彼は嘆きの原因だ!」古い神々を生んだ原初の母ナンムは,神々の涙を,床で目覚めず,眠っている彼女の息子に持って行った。「貴方は本当に眠っているのか,・・・起きていないのか?神々,貴方の創造物は彼らを破壊している。・・息子よ,床から目覚めなさい!貴方の知恵から生まれた技術を使って,神々の代わり(?)を創造し,彼らが苦労から解放されるようにしなさい!」母のナンムの言葉を聞いて,エンキは床から起き上がった。熟考のための部屋ハルアンクグで,彼はイライラして太ももを叩いた。・・・・創造者エンキは,問題について考えた後,母親のナンムに言った。「母上,貴方が計画した創造物は,本当に存在するでしょう。かごを運ぶ労働を彼らに課しなさい。貴方は,アブズの上部の粘土をこねる必要があります。誕生の女神たちが粘土を切り取り,貴方が形を作ります。ニンマフを貴方の助手として活動させましょう。ニニンマ,クジアナ,ニンマダ,ニンバラグ,ニンマグ,・・・そしてニングナが,貴方が誕生を与えるのを待っている。母上が彼の運命を布告した後,ニンマフにかごを運ぶ仕事を彼に課させましょう。」・・・エンキは,・・・彼らの心に喜びをもたらした。彼は母親のナンムとニンマのためにごちそうを用意した。・・・すべての古い神々は彼を讃えた。・・」(*6)

この話では,天と地が作られる前のことは書かれていないが,「古い神々を生んだ原初の母ナンム」とある。また,シュメールの神々のリストでは,女神ナンムは「海」を表す文字で書かれ,「天と地を生んだ母」と記されている。即ち,シュメールでは,天と地は,原始の海ナンムから生まれたとされていたようだ。なお,天と地というのは,神概念(アンとエンキ)のことを意味している。

一方,ウルクとウルの王ルガル・キサルシ(BC25世紀)の碑文には,「ウルクの王,ウルの王であるアンの妻であるナンムのために,ナンムの神殿を建てた。」と記されている。ここでは,ナンムは,アン(天空神)の妻とされている。

シュメールでは,宇宙のことをアンキと言い,アンは「天」,キは「地」の意味がある。アンは,神々のリストの最上位に置かれており,最古の神々の主とされていた。アンは最高の権威を持つが,暴力を持たず,「暇な神」である。(*7)(*8)

エンキは,創造,創世,知識,知恵,魔法,呪文,錬金術と関係があり,芸術,工芸,技術,文明の守護者であった。エンは「主人」,キは「地」,「マウンド」,「盛り土」,「塚」の意味である。エンキは,アプスーに住んでおり,アプスーは,淡水が流れる地底の深淵を意味している。(*7)

エンリルは,風の神であり,シュメール語でエンは「主」,リルは「風」を意味する。パンテオンの主神であり,ニップルのエルクに住んでいた。エルクは,「山の家」を意味する。初期王朝時代の詩には,エンリルは,ツルハシ,鋤,斧の発明者であり,農業の守護者であると詠われている。
「エンリル,大地の種を大地から育む者,地から天を遠ざける者,天から地を遠ざける者。生れ出た創造物を育てるために,「天と地の絆」(ニップル)において,彼は・・・を延ばした。彼はツルハシを生み出し,「日」を出現させた,彼は労働を導き,運命を定めた,ツルハシと籠に「力」を与えた。エンリルは,彼のツルハシを高貴なものにした,彼のツルハシは黄金で,そのヘッドはラピスラズリである,彼の家のツルハシは,・・・銀と金である,そのツルハシは,・・・ラピスラズリである,その歯は大壁を登る一本角の牛である。主はツルハシを呼び出し,その運命を決定した,彼は聖なる冠キンドゥをその頭に置いた,彼は人間の頭を鋳型に入れた,エンリルの前に,彼(人間?)はその地を覆っている,その黒い頭の民をじっと見ていた。彼の周りに立っていたアヌンナキ,彼はそれ(ツルハシ?)を贈り物として彼らの手に置いた,彼らは祈りでエンリルをなだめ,彼らはツルハシを黒い頭の民に持たせた。ツルハシと籠は都市を築き,ツルハシが建てる堅固な家,ツルハシが築く堅固な家,堅固な家は,繁栄をもたらす。王に反逆する家,王に従わない家,ツルハシはそれらを王に従わせる。」(*9)


のこぎり,つるはし,スペード(踏鋤)を運ぶ建設作業員。ニネヴェのセンナケリブの宮殿建設を描いた浮き彫りの一部(*10)

イナンナ(アッカドではイシュタル)は,シュメール神話における豊穣,性愛,戦争,金星の女神である。他のどの神々よりも多く神話に登場し,非常に多くの像や象徴が残されている。イナンナのシンボルとして葦束,ロゼット,および金星がある。(*7)

エレシュキガルは,冥界の女神であり,その名前は「偉大なる大地の女王」,「冥界の女王」を意味する。神話では,エレシュキガルはイナンナの姉であり,エレシュキガルの夫はネルガル(死や疫病もたらす神,冥界を司る神)である。

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ユーラシアに共通の神概念は,西アジアを起源とする。それは,農耕,牧畜,冶金の発祥中心が,西アジアに存在したからである。神の概念は,人間の集団が作り上げた概念であり,人間の集団や集団と集団の運動を有機的に機能させるための情報を信号化したものである。

生物進化から見れば,人間は超協力タカ派戦略であり,同一の集団内では協力(利他的)し,他の集団とは利用資源をめぐって闘争(利己的)する。アフリカを出てユーラシアに進出した人間の集団は,大型の哺乳動物を追って拡散していったが,ユーラシア全域に拡がると,それぞれの集団はテリトリーを形成してテリトリー内遊動,テリトリー平衡へと移行した。

テリトリー内遊動段階では,テリトリー内の資源の利用権(所有権)は,集団の軍事力によって担保されている。テリトリー内においては,占有集団による資源の所有権が確立しているので,資源を無秩序に乱獲せずに,管理採集,管理狩猟が行われる。この「繰り返し採集」,「繰り返し狩猟」によって,人間と採集植物,人間と狩猟動物は,「延長された表現型」の関係へと移行した。人間による「繰り返し」によって無意識の選択が働くので,これらの動植物の遺伝子プールには,「延長された表現型」の関係による変異が拡がっていく(humanization)。

言語によって人間の情報プールが増大し,人間の集団が食料を大量に貯蔵できるようになると,端境期であっても安定的に資源を獲得できるようになった。他集団との全面戦争は不確実性が大きいので,利用資源が十分に存在するときは,資源をめぐって他集団と戦争するよりも,戦争を避けたほうが生存に有利である。このため,貯蔵段階では他集団とのポトラッチが成立しやすく,農耕牧畜段階ではさらに重要になった。

農耕牧畜の社会が成立する条件の一つは,自分たちが育てた作物や家畜の所有権が確定し,収穫が保障されていることである。手をかけて育てた生産物を他集団に奪われる確率が高ければ,誰も農耕など行わない。農耕牧畜社会では,自分たちが生産した生産物の所有権を他集団に認めさせ,生産物を奪わないことを約束させることが必要で,その同意形成の場がポトラッチである。

集団同士はテリトリー平衡にあるので,個々の集団は,独立かつ平等である。そのため,集団間の合意(約束)が守られることを保障するには,個々の集団を超越した権威を有する保証人が必要である。集団同士の約束の保証人(形而上,信号)が天空神であり,その存在は,至高(天)の権威を有するが,中心が存在せず(空),暴力を持たない「暇な神」である。

農耕牧畜の発祥中心は北レヴェントであり,灌漑農耕の発祥中心がメソポタミアであることから,太陽神の神概念(暦の知と技術)が生じたのも,それらの地域と考えられる。メソポタミアの神話では,天空神と太陽神は別々の神とされていたが,アフリカやユーラシアの東方では,天空神と太陽神ははっきりとした区別が無く,一体の神概念として捉えられている。

新石器時代の西アジアで孔雀石や自然銅の利用が始まると,「銅鉱石の知と技術」が新たな神概念として現れた。孔雀石や自然銅は,集団内での序列優位の信号,あるいは集団間での序列優位の信号として機能したのであろう。金属銅はチャートなどの石器鉱物とは特性が大きく異なるし,孔雀石を焼鉱すると金属銅に変化することは,当時の人々にとってはきわめて神秘的な現象であったに違いない。「銅鉱石の知と技術」は,大きな序列優位の信号であり,「地の神」として大きな力を持つようになった。「地の神」が,天空神(太陽神)と並ぶ権威を持ったことで,「天と地が分かれた」という神話が生じたと思われる。天地概念は,農耕,牧畜,暦の技術とともに,ユーラシアやアフリカに拡がったと考えられる。

西アジアの青銅器時代の遺跡からは,2体1対の山羊のシンボルが数多く出土している。シュメールの神話では,エンリルは「風」,エンキは「マウンド」の意味である。2頭の山羊の間には「マウンド」があり,マウンドからは炎が立ち上っている。1頭の山羊は,口から風を吹いている。そして,炎と風の先端に,ロゼットが描かれている。(*11)


Inlay with two standing goats, Ur, Tomb PG 800


Shell inlay from tomb PG 779


Ram in a Thicket as displayed in the British Museum, 2600-2400 BC, Ur


late Uruk-Jamdat-Nasr period, 3200-3000 BC.


Fig 14 3: Copper artefacts from the Nahal Mishmar hoard. 1. Macehead (Bar-Adon 1980, 120, no. 184); 2. Macehead (ibid., 118, no. 180); 3. Standard (ibid., 85, no. 110); 4. Standard (ibid., 49, no. 21); 5. Standard (ibid., 101, no. 153); 6. Standard (ibid., 48, no. 20); 7. Standard (ibid., 103, no. 154); 8. Standard (ibid., 98, no. 148); 9. Standard (ibid., 93, no. 129); 10. Standard (ibid., 45, no. 17). Courtesy of the Israel Exploration Society.(Milena Gosic. 2015. Casting the sacred: Chalcolithic metallurgy and ritual in the southern Levant.)

マウンド(エンキ)は銅鉱石と木炭であり,2頭の山羊は山羊の皮で作った吹子(エンリル)であり,ロゼット(イナンナ)は銅インゴットである。即ち,2体1対の山羊のシンボルは,銅冶金のメタファーである。


古代エジプト第18王朝の貴族(Rekhmire)の墓の壁画,1400 BCE


18世紀のアイヌの冶金術,北夷分界余話(国立公文書館デジタルアーカイブ)

2頭の山羊の図は,アンズーと2頭の鹿,2頭のグリフォン,2頭のドラゴン,2頭の獅子としても描かれている。アンズーは,神話のなかでは,暴風を起す鷲で,エンリルの随獣として登場する。


Alabaster votive relief of Ur-Nanshe, king of Lagash, showing Anzû as a lion-headed eagle, ca. 2550–2500 BC; found at Tell Telloh the ancient city of Girsu, (Louvre)


Frieze of Imdugud (Anzu) grasping a pair of deer, from Tell Al-Ubaid. From southern Mesopotamia (Iraq), early dynastic period, circa 2500 BCE.


Uruk Period, 4100 BC–3000 BC


Both sides of the Narmer Palette (3200–3000BC)


Bronze griffins from ancient Luristan, Iran, 1st millennium BC. (Author:Wolfgang Sauber)

また,バビロニア神話では,エア(エンキ)は,山羊の頭の曲がった笏(セプター),山羊の頭と魚の体を持つ生き物(goat-fish)で表されていた。イシュタル(イナンナ)が持つ2頭の山羊のセプターは,2機の吹子のメタファーになっている。中国新疆ウイグル自治区のアスターナ古墓群から出土した伏羲女媧の図は,バビロニアの2頭の山羊のセプターとよく似ており,天上にはロゼット(銅インゴット)が描かれている。アジアの狛犬の「阿吽」は,交互に風を吹く吹子の意味であり,交互に黒い羽根を打つ羽子板は,蹈鞴のメタファーである。


Babylonian terracotta relief of Ishtar from Eshnunna (early second millennium BC)


伏羲女媧,1967年出土在新疆吐鲁番阿斯塔那古墓

メソポタミアでは,冶金に関する神話が多く残されている。『イナンナの冥界下り』では,イナンナは,エンキから得た神の力で冥界に下るが,イナンナの姉で冥界の神エレシュキガルは,冥界の七つの門を閉め,門を一つ開けるごとにイナンナが身に着けた物を取り去り裸にしてしまう。イナンナは,冥界で死の宣告を受け,その死体はフックに掛けられた。イナンナの従神ニンシュブルは,エンリル,ナンナ,エンキに,イナンナを生き返らせるよう頼むが,このとき,「貴重な金属を冥界の塵と合金化させないでください」という言葉を何度も繰り返し,エンキの力で冥界から戻った。

「冥界」は製錬炉のメタファーであり,製錬炉はその形から子宮にたとえられている。炉(子宮)に開けた穴から先に出る(生まれる)のはスラグで,スラグは姉のエレシュキガルである。炉(竈)の灰の中に残るのは銅インゴットで,銅インゴット(ロゼット)は妹のイナンナである。姉が冥界の神,妹が豊穣と性愛の神,姉妹の確執,冥界(竈)の塵の中から貴重な金属が生まれるなどの内容から,『イナンナの冥界下り』は,最古の灰かぶり(シンデレラ)の話であることがわかる。シンデレラの話は,ヨーロッパ,エジプト,中国など数十の民族に存在しており,銅冶金とともに西アジアから伝播したと考えられる。(*12)

『エンリルとニンリル』では,ニンリルが川の土手を歩いていると,エンリルが性交したいと言った。ニンリルは,始めは拒否したが,エンリルは,スエンの種をニンリルの子宮に注いだ。エンリルは,50人の偉大な神々と7人の神に逮捕された。エンリルは町を去り,ニンリルもあとを追って町を去った。次にエンリルは,ネルガルの種をニンリルの子宮に注ぎ,さらにニンアズの種,エンビルルの種をニンリルの子宮に注いだ。ネルガルは,ペストと疫病の神,悪魔と悪の勢力とされ,冥界の神エレシュキガルと結婚して,共同で冥界を統治した。ニンアズは,冥界の神の一人であり,エレシュキガルの息子である。

この神話では,ナンナ(スエン)は銀であり,ニンリルの子宮はキュペルであり,ネルガル,ニンアズ,エンビルルは鉛およびスラグである。ニンリルは,「輝く種,スエンの種は私の子宮の中にあります。私の主人の種は天に上ることができます。私の種を下に行かせてください。主人の種の代わりに,私の種を下に行かせてください。」と言う。銀(スエン)はキュペルの上面に残り,鉛(ネルガル,ニンアズ,エンビルル)はキュペルの下方に浸透する。『エンリルとニンリル』は,銀のキュペレーションのメタファーと考えられる。(*13)

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日本神話では,「乾坤(天地)が分れて,參神が造化の首となり,陰と陽が開けて,二靈が群品(万物)の祖となった」と書かれている。中国神話では,混沌から天地が分かれるが,その後,天地が傾き,女媧氏が石を練ったり蘆の灰を集めて天地を補修した。エジプト神話では,原初の水ヌンからベンベン(ラー/アトゥム)が現れ,ヌト(天空)とゲブ(大地)と抱き合っているところをシュー(風)によって引き離され,天と地が分かれた。これらの神話では,世界の創造が大きく2段階で語られている。

発祥中心であるメソポタミアの神話では,最初の超越神はアン(天空神)であったが,エンキ(地,銅鉱石の知と技術)の力が大きくなり,天と地が分かれた。アンとエンキはパートナーとなり,部族を超越したメソポタミア世界の価値と法を象徴していた。エンリルは「冶金の知と技術」の神概念であり,その力が大きくなると,エンリルはアンを天上に追いやり,エンキから引き離した。そして,エンリルとエンキがパートナーになることで,メソポタミア世界の価値と法の中心に位置するようになったのであろう。S. N. クレーマーは,メソポタミアでは,アン,エンリル,マルドゥクへと,主神が変わったと指摘している。

先述のエンリルの詩では「エンリル,大地の種を大地から育む者,地から天を遠ざける者,天から地を遠ざける者」とあり,古バビロニア時代に書かれた『ビルガメシュ,エンキドゥと冥界』の書き出しは,次のようである。「天が地から分けられた後,地が天から分けられた後,人間の名前が定められた後,アンが天を運び去った後,エンリルが地を運び去った後,エレシュキガルが贈物として冥界に連れ去られた後」(*6)

古代のユーラシア世界において,「冶金の知と技術」が大きな力を有していたことは,遊牧民の神話でより鮮明である。モンゴル帝国期のイランで編纂された『集史』(1307-1310)には,次のように書かれている。
「テュルクには書物も文字もなく,彼らは四~五千年の年代記を書き記すことができなかった。(それゆえ),確立された信頼のおける古より伝わる年代記を持っておらず,今日に(最も)近接して(生じた)幾つかの説話以外は,口伝によって彼らまで受け継がれて,彼らが彼ら(自身)の子供たちに教えている。(中略)
今(の時代)を遡ることおよそ二千年,古代にモンゴルと呼ばれていた部族の許で他のテュルク諸部族との間にいさかいが生じ,最終的に会戦,戦争となった。信用するに値する尊敬すべき人物の(言によって伝えられる)物語があり,それによると,モンゴルの優位に立った他の諸部族は彼ら(に),二人の男と二人の女以外(生き)残らなかったくらいの大虐殺を行った,という。この二家族は敵の脅威に直面して,周囲にはただ山々と森だけがあり,通過するには大きな労苦と困難をともなう一本の隘路以外にはどの方向からもそこへ向かう道がない,近づきがたい土地に走った。それらの山中には,草が豊かで(気候が)良好な草原があった。この場所の名はエルグネ=クン。クンという語の意味は山の中腹,エルグネは急な,であり,別の言い方をすれば「険しい山腹」である。これら二組の人々の名が,ヌクズとキヤンであった。彼らと彼らの子孫は長年この場所に留まり増えた。彼らの各枝族は一定の名や綽名で知られるようになり,独立したオボグになったのだが,オボグ(という術語)によって(想定されているのは),一定の骨(かばね),後裔に属しているということである。これらのオボグはもう一度分岐した。今日,モンゴル諸部族のもとでは,これらの枝族から出た者が何よりも親密な親戚であると定められており,モンゴル=ドロルキンが彼らなのである。モンゴルという語は,最初はムング・ウル,すなわち「無力な」,「純粋な」と聞こえた(文字通りには,だった)。モンゴル語でキヤンは,山から低地へ嵐のように速く,力強く流れる「大きな奔流」を意味している。キヤンは剛毅で勇敢,極めて雄々しかったので,この語が彼らの名とされた。キヤトはキヤンの複数形である。この後裔のうち,その起源により近い者たちを古い時代にキヤトと呼んだのである。その山々と森の中でこの人々が増え,(彼らによって占められている)土地の空きが狭く不十分になると,彼らはこの峻厳な渓谷と山間の隘路から出て行くために彼らにとってより良い手段,(実行するのに)困難でない方途はどういったものかをお互いに相談した。そして(いよいよ)彼らは鉄鉱石の鉱床だったある場所を見いだしたが,そこは常日頃鉄を溶かしていた場所だった。皆が一緒に集まって,彼らは森にたくさんの薪とたっぷり数ハルヴァールの炭を用意して,70頭の牡牛と馬を殺し,それから丸ごと皮を剥いで(その皮から)鍛冶のふいごを作った。(それから)薪と炭をその斜面の麓に積み上げ,その(山の)斜面が熔解するまで,一気にこれら70のふいごで(火を)燃え上がらせるようその場所に据え付けた。(結果として)そこから,計り知れない(量の)鉄が得られ,(それとともに)通路も開けた。彼らは皆一緒に移動し,その隘路から草原の広々とした空間に出た。ふいごを吹いて火を燃え立たせたのは,キヤンに源を持つ(部族の)主な枝族であったという。ちょうど同じように(ふいごを)吹いて燃え上がらせたが,ヌクズの名で知られる部族とその枝族に属するウリャンカト部族だったのだという。(中略)
アラン=ゴアの夫であったドブン=バヤンはキヤンの後裔から出,アラン=ゴアはコルラス部族の出身であるから,チンギス=ハンの系譜は(上に)述べられた通り彼らを源に持つ。このため,(人々は)その山,鉄の熔解と鍛冶の仕事を忘れずに,チンギス=ハンの一族では,新年の始まりの夜,鍛冶のふいご,炉,炭を用意するならわし・決めごとがある。(自分たちの解放に)感謝して,彼らは少量の鉄を熱して,(それを)鉄敷の上に置き,鎚で叩いて(帯状に)延ばすのである。」(*14)

モンゴルの祖先神話は,竪型炉からスラグ(鉱滓,鍰,ノロ,金屎)と銅を流し出す冶金のメタファーであり,「ヌクズ」がスラグで,「キヤン」が銅である。

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日本神話の天の岩戸神話では,スサノオの乱暴に怒ったアマテラスが天岩戸に引き篭ったため,世界は暗闇となった。八百万の神々が集まり,鶏を鳴かせたり,八咫鏡や珠を作らせたりした。アメノウズメが岩戸の前で胸や陰部を出して踊ると,八百万の神が一斉に笑った。アマテラスが訝しんで天岩戸を少し開けたときに,鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をよく見ようとアマテラスが岩戸をさらに開けると,アメノタヂカラオがその手を取って外へ引きずり出した。

爾速須佐之男命,白于天照大御神「我心淸明,故,我所生子,得手弱女。因此言者,自我勝。」云而,於勝佐備此二字以音,離天照大御神之營田之阿此阿字以音,埋其溝,亦其於聞看大嘗之殿,屎麻理此二字以音散。故,雖然爲,天照大御神者,登賀米受而告「如屎,醉而吐散登許曾此三字以音,我那勢之命爲如此。又離田之阿・埋溝者,地矣阿多良斯登許曾自阿以下七字以音,我那勢之命爲如此。」登此一字以音詔雖直,猶其惡態不止而轉。天照大御神,坐忌服屋而,令織神御衣之時,穿其服屋之頂,逆剥天斑馬剥而,所墮入時,天服織女見驚而,於梭衝陰上而死。訓陰上云富登。故於是,天照大御神見畏,開天石屋戸而,刺許母理此三字以音坐也。爾高天原皆暗,葦原中國悉闇,因此而常夜往。於是萬神之聲者,狹蠅那須此二字以音滿,萬妖悉發。是以八百萬神,於天安之河原,神集集而訓集云都度比,高御產巢日神之子・思金神令思訓金云加尼而,集常世長鳴鳥,令鳴而,取天安河之河上之天堅石,取天金山之鐵而,求鍛人天津麻羅而麻羅二字以音,科伊斯許理度賣命自伊下六字以音,令作鏡,科玉祖命,令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而,召天兒屋命・布刀玉命布刀二字以音,下效此而,內拔天香山之眞男鹿之肩拔而,取天香山之天之波波迦此三字以音,木名而,令占合麻迦那波而自麻下四字以音,天香山之五百津眞賢木矣,根許士爾許士而自許下五字以音, 於上枝,取著八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉,於中枝,取繋八尺鏡訓八尺云八阿多,於下枝,取垂白丹寸手・青丹寸手而訓垂云志殿,此種種物者,布刀玉命・布刀御幣登取持而,天兒屋命,布刀詔戸言禱白而,天手力男神,隱立戸掖而,天宇受賣命,手次繋天香山之天之日影而,爲𦆅天之眞拆而,手草結天香山之小竹葉而訓小竹云佐佐,於天之石屋戸伏汙氣此二字以音蹈登杼呂許志此五字以音,爲神懸而,掛出胸乳,裳緖忍垂於番登也。爾高天原動而,八百萬神共咲。於是天照大御神,以爲怪,細開天石屋戸而,內告者「因吾隱坐而,以爲天原自闇亦葦原中國皆闇矣,何由以,天宇受賣者爲樂,亦八百萬神諸咲。」爾天宇受賣白言「益汝命而貴神坐。故,歡喜咲樂。」如此言之間,天兒屋命・布刀玉命,指出其鏡,示奉天照大御神之時,天照大御神逾思奇而,稍自戸出而臨坐之時,其所隱立之天手力男神,取其御手引出,卽布刀玉命,以尻久米此二字以音繩,控度其御後方白言「從此以內,不得還入。」故,天照大御神出坐之時,高天原及葦原中國,自得照明。於是八百萬神共議而,於速須佐之男命,負千位置戸,亦切鬚及手足爪令拔而,神夜良比夜良比岐。
(ここに速須佐の男の命,天照らす大御神に白したまひしく,「我が心清明あかければ我が生める子手弱女たわやめを得つ。これに因りて言はば,おのづから我勝ちぬ」といひて,勝さびに天照らす大御神の營田みつくた離ち,その溝み,またその大にへ聞しめす殿にくそまり散らしき。かれ然すれども,天照らす大御神は咎めずて告りたまはく,「くそなすはひて吐き散らすとこそ我が汝兄なせの命かくしつれ。また田の離ち溝むは,ところあたらしとこそ我が汝兄なせの命かくしつれ」と詔り直したまへども,なほそのあらぶるわざ止まずてうたてあり。天照らす大御神の忌服屋いみはたやにましまして神御衣かむみそ織らしめたまふ時に,その服屋はたやむねを穿ちて,天の斑馬むちこま逆剥さかはぎに剥ぎて墮し入るる時に,天の衣織女みそおりめ見驚きて陰上ほとを衝きて死にき。かれここに天照らす大御神かしこみて,天の石屋戸いはやどを開きてさしこもりましき。ここに高天たかまの原皆暗く,葦原あしはらの中つ國悉に闇し。これに因りて,常夜とこよ往く。ここによろづの神のおとなひは,さばへなす滿ち,萬のわざはひ悉におこりき。ここを以ちて八百萬の神,天の安の河原に神集かむつどつどひて,高御産巣日たかみむすびの神の子思金おもひがねの神に思はしめて,常世とこよ長鳴ながなき鳥をつどへて鳴かしめて,天の安の河の河上の天の堅石かたしはを取り,天の金山かなやままがねを取りて,鍛人かぬち天津麻羅あまつまらぎて,伊斯許理度賣いしこりどめの命におほせて,鏡を作らしめ,玉のおやの命に科せて八尺の勾璁の五百津いほつ御統みすまるの珠を作らしめて天の兒屋こやねの命布刀玉ふとだまの命をびて,天の香山かぐやま眞男鹿さをしかの肩を内拔うつぬきに拔きて,天の香山の天の波波迦ははかを取りて,占合うらへまかなはしめて,天の香山の五百津の眞賢木まさかき根掘ねこじにこじて,上枝ほつえに八尺の勾璁の五百津の御統の玉を取りけ,中つ枝に八尺やたの鏡を取りけ,下枝しづえ白和幣しろにぎて青和幣あをにぎてを取りでて,この種種くさぐさの物は,布刀玉の命太御幣ふとみてぐらと取り持ちて,天の兒屋の命太祝詞ふとのりと言祷ことほぎ白して,天の手力男たぢからをの神,戸のわきに隱り立ちて,天の宇受賣うずめの命,天の香山の天の日影ひかげ手次たすきけて,天の眞拆まさきかづらとして,天の香山の小竹葉ささば手草たぐさに結ひて,天の石屋戸いはやど覆槽うけ伏せて蹈みとどろこし,神懸かむがかりして,胸乳を掛き出で,ひもほとに押し垂りき。ここに高天の原とよみて八百萬の神共にわらひき。
ここに天照らす大御神あやしとおもほして,天の石屋戸をほそめに開きて内よりりたまはく,「こもりますに因りて,天の原おのづからくらく,葦原の中つ國も皆闇けむと思ふを,なにとかも天の宇受賣うずめあそびし,また八百萬の神もろもろわらふ」とのりたまひき。ここに天の宇受賣白さく,「汝命いましみことまさりてたふとき神いますが故に,歡喜よろこわらあそぶ」と白しき。かく言ふ間に,天の兒屋の命,布刀玉の命,その鏡をさし出でて,天照らす大御神に見せまつる時に,天照らす大御神いよよあやしと思ほして,やや戸より出でて臨みます時に,そのかくり立てる手力男の神,その御手を取りて引き出だしまつりき。すなはち布刀玉の命,尻久米しりくめ繩をその御後方みしりへき度して白さく,「ここより内にな還り入りたまひそ」とまをしき。かれ天照らす大御神の出でます時に,高天の原と葦原の中つ國とおのづから照り明りき。ここに八百萬の神共にはかりて,速須佐の男の命に千座ちくら置戸おきどを負せ,またひげと手足の爪とを切り,祓へしめて,神逐かむやらひ逐ひき。)(*1)

天の岩戸神話の元の話は,『イナンナの冥界下り』であり,太陽神とイナンナ(銅冶金)の神概念が一体となった話と見ることができる。太陽神は一般には男神であるが,太陽神のアマテラスが女神であるのは,そのためである。

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(*15)(*16)

「黄」の文字は,説文には地の色なりとあるが,加藤常賢先生は,次のように述べる。風俗通の黄覇篇に「黄は光なり」と言い,釈名の釈采帛に「黄は晃なり」と言うが,「光」(晃)だけでは字形が判明しない。周易の解卦に「黄矢」とある。また周礼の夏官の司弓矢に「枉矢は火射によろしく,之を守城車戦に用ふ」とある黄矢・枉矢の形象である。即ち火矢の象形であるという。

藤堂明保先生は,油をしみこませ火をつけて飛ばす火矢の形とする。白川静先生は,火矢の形で,その火の光から「き,きいろ」の意味となるのであろうとしている。五行説では黄色は中央の色であるから,天子(君主)の位にたとえ,黄門(宮門)のようにいう。

周礼にある「枉矢」が火矢のことであるなら,「黄矢」は別の意味のはずである。「黄」は契文や金文では,矢と日の組み合わせであり,光輝く矢のことと思われるが,「火」ではなく「日」のように光ることを表している。即ち,「黄」は,光輝く銅の矢の象形である。

「黄」の文字には,鑛,磺など,鉱物の意味があるが,黄を「コウ」と読ませるのは,「硬い」という意味から来ている。「キ」の音には,多くの意味があるが,「光輝く」や「銅」の意味のキ音の文字には,黄,金,器,輝,貴,喜,吉,簋(銅製の器),釿,斤,切る,斬る,伐るなどがある。

なお,銅は,英語ではcopper,ラテン語ではcuprum,ドイツ語ではKupferであり,これらの言葉は銅の産地であったキプロスに由来するとされている。ただし,銅冶金の起源はアナトリアであることから,もともと「K,キ」の音が銅のことであり,キプロスの名前は銅(K,キ)に由来すると考えるのが自然である。古英語でも,Kの音には,knife,kill,keen,kettle,knight,key,kingなど,銅や金属に関連する言葉が多くある。


銅鏃,奈良県天理市檪本町東大寺山北高塚 東大寺山古墳出土,古墳時代・4世紀,銅製,長3.4~9.1,国宝,261点もの多量の銅鏃が出土しています。鏃身部が柳の葉のような形をしていて,鎬(しのぎ)の左右に溝があるものもあります。5束に分かれて,全て先端を南に向けて副葬されていました。矢柄・矢羽根の痕跡と各束の距離から矢の全長は70cmほどと考えられます。(東京国立博物館)(*18)

Reference,Citation
*1) 古事記. 稗田阿礼, 太安万侶, 武田祐吉注釈校訂. 角川書店, 1956.
*2) 司馬遷, 野口定男訳. 史記. 平凡社, 1968.
*3) 伊藤清司. 1996. 中国の神話・伝説. 東方書店.
*4) Siimets, Ülo (2006). The Sun, the Moon and Firmament in Chukchi Mythology and on the Relations of Celestial Bodies and Sacrifices. Electronic Journal of Folklore. Estonian Folklore. 32: 129–156.
*5) ENUMA ELISH. L.W. King Translator. The Seven Tablets of Creation, London 1902.
*6) Black, J.A., Cunningham, G., Fluckiger-Hawker, E, Robson, E., and Zólyomi, G., The Electronic Text Corpus of Sumerian Literature (http://www-etcsl.orient.ox.ac.uk/), Oxford 1998-.
*7) 神概念2 Conceptions of God
*8) 神概念3 Conceptions of God
*9) Samuel Noah Kramer. 1944, 1961. Sumerian Mythology.
*10) ピョートル・ビエンコウスキ, アラン・ミラード. 2004. 古代オリエント事典. 東洋書林.
*11) 神概念4,ラ,𠂤,巴,労 Conceptions of God
*12) 銅製錬,イナンナの冥界下り,灰かぶり(シンデレラ) Copper smelting, Inana’s descent to the nether world, Cinderella
*13) 銀,キュペレーション,月神ナンナ Silver, Cuperation, Nanna
*14) 赤坂恒明監訳, 金山あゆみ訳注. 2022. ラシード=アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇 訳注. 風間書房.
*15) 加藤常賢. 1970. 漢字の起源. 二松学舎大学東洋学研究所別刊第一, 角川書店.
*16) 白川 静. 2003. 常用字解. 平凡社.
*17) 藤堂明保, 加納善光. (1980). 現代標準漢和辞典. 学研.
*18) 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/
*19) 神話 Myth