縄文土器と漁撈部族 Jomon pottery and fishing tribe

人類が、粘土を焼成した造形物を製作するようになったのは、かなり古い時代であるようだ。これまでに発見されたもっとも古い焼きものは、チェコ南部のドルニ・ヴェストニッツェ遺跡から出土したヴィーナス像である。遺跡は上部旧石器時代の集落跡で、マンモスなどの動物の骨、埋葬された人、塑像、装飾品なども残されていた。高さ43cmの像は、500~800℃で焼成されたもので、製作された年代は、3.1~2.7万年前とされる。ほかにも、マンモス、ライオン、ウマ、クマ、キツネ、フクロウなどの形の焼きものが多数見つかっている。(*1)


Venus of Dolní Věstonice(Author:Petr Novák, Wikipedia)

世界で古い土器が多く見つかるのは、東アジアである。長江中流域の仙人洞遺跡(Xianrendong Cave)からは、最古級の土器片が出土している。土器が出土した地層の動物骨のC14年代測定では、2.0~1.9万前と報告されている(*2)。中国では、広西壮族自治区廟岩遺跡、湖南省玉蟾岩遺跡、江西省吊桶環遺跡などからも、古い土器が見つかっている。

日本列島も、世界でもっとも古い土器が多く見つかる場所だ。日本列島の最古の土器は、青森県蟹田町の大平山元I遺跡から出土している。遺跡からは、掻器、彫器、石刃、石斧、石鏃など多数の石器と、78点の土器片が見つかった。土器片には、煮炊きに使用されたことを示すコゲやススの炭化物が付着しており、炭化物のC14年代は、1.6万年前とされている。


縄文草創期の土器、大平山元I遺跡

ほかにも、帯広市大正3遺跡、富良野市東麓郷2遺跡、茨城県後野遺跡、神奈川県寺尾遺跡、新潟県壬遺跡、長崎県福井洞穴、長崎県泉福寺洞穴、鹿児島県帖地遺跡などから、1万年よりも古い土器が発見されている。


縄文草創期、神奈川県花見山遺跡出土

また、アムール川流域ではガーシャ遺跡、ゴンチャールカ1遺跡、フーミー遺跡、ノヴォペトロフカ遺跡、グロマトゥーハ遺跡、沿海州ではチェルニゴフカ1遺跡、ウスチノフカ3遺跡、シベリア東部では、ウスチ・カレンガ遺跡、ウスチ・キャフタ遺跡などで、1.2万~1万年前の古い土器群が発見されている。(*4)


(谷口, 2005)

一方、もっとも早くから農耕社会に移行した西アジアでは、コムギの栽培や家畜の飼育が始まっても、すぐには土器は出現していない。土器がつくられるようになるのは、9,000年前からであり、コムギやオオムギの栽培(predomestication cultivation)が始まってから、2,000年ほどあとである。

新石器革命論をとなえたチャイルドは、新石器革命の特徴のひとつとして、土器の存在をあげている(2017.12.16ブログ)。しかし、西アジアでは、農耕や家畜飼育よりもかなり遅れて土器が出現しており、狩猟採集段階の日本列島やアムール川流域では古くから土器が使われた。これらのことは、農耕文化の形成に必須の要素として土器がつくられたわけではないことを示している。

サン族やアボリジニは、時代が下っても土器をもたなかった。遊動する狩猟採集民は、手で持ち運べる分の財しかもたないので、土器のような重くて壊れやすい道具は邪魔になる。つまり、土器の製作と密接に関係があるのは、「農耕」ではなくて、「貯蔵」という生業スタイルだ。古代の遺跡から出土する土器片は、その集団が貯蔵という生業スタイルを採用していたことを示してしる。

日本列島の縄文時代早期以降には、定住集落や土器が出現するので、貯蔵社会であったと考えられる。縄文時代の貯蔵食料としてよく知られているのはドングリであり、縄文遺跡からは、ドングリや貯蔵穴がたくさん見つかっている。

ドングリには、タンニンやサポニンなどの渋が多く含まれており、渋抜きしないと食べられない。縄文土器は、ドングリの渋抜きのためにつくられるようになったという説があるが、確証はない。古代にはどのような方法で、ドングリを加工していたのかと思って、『雑穀・そば』(2010年)という本をつくったときに、日本列島に残っている伝統的な渋抜きの方法を調べたことがある。

「しだみは「下味」から由来するとされるが、どんぐりのことで、一般にはなら(楢)類の実で、かしわ(柏)の実も含んでいる。しだみは、大量に採取でき、凶作年でも実ること、量感があって腹もちがよいこと、栄養があること、食味がさほど悪くないこと、貯蔵性にきわめて富み、備蓄できること、加工の技術と手数がさほどでないことなどから、岩手を代表する救荒食であった。備蓄の場合は、殻のまま三十分以上煮て、天日で四、五日乾かし、いろりの上の火棚や天井裏に干して、十年以上も蓄えておく。すぐ食べる場合は、煮るか、または四、五日以上水に漬けて虫を殺し、殻が割れるまで天日乾燥をし、水車、踏みから臼、つちなどで実と殻とを分け、箕で殻をとり去る。つぎに、あく抜きをするが、昔は木灰か青笹の葉を使い、三回以上水をとり替えながら中火で煮た。これをさらに、三、四回水を替えて一昼夜水に浸し、水気を切って天日に干す。その後、生乾きのままで臼で搗き、完全に粉とする。これをふきんで包み、固くしぼる。本来が土をかむような味であるが、きな粉を別に皿に盛り、これをまぶして食べるのが古来のものであろう。また大正年代には、しだみ粉を味噌汁で練って食べたり、麦がゆに混ぜたり、ひえ飯にふりかけたりして食べたとのことである。古老のなかには、そのような体験をもっている人もいる。外観は土色で、食べすぎると便秘をするとか、下痢止めの薬だったともいわれている。とち(栃)の実は、しだみよりも苦みや渋みが強く、いっそうまずいものとされる。やはり水漬にして干すと、十年以上も虫がつかず、変質しないといわれている。しだみと同じように、水漬にしてから干して皮をとり、臼などで打ち砕いて袋でこし、木灰の上澄み液で煮てあく抜きをし、水を替えながら漂白する。粗い粒を袋に入れ、流水中に木枠を組んでこの中に沈めておくあく抜き法が有効だったらしく、この木枠を「とちたな」といっている。」(『聞き書 岩手の食事』)(*6)

「とちの木はふつう、日陰に生えている。一本の木から一石以上の実がひろえるので、食糧源として大切にされている。大正時代ごろまでは「寄り合い栃」といって、とちの実だけは村の共有とされ、三、四本の木からみなでいっせいにひろったものを平等に分配していたほどである。実が落ちはじめて、一五日間くらいのうちにこまめにひろっておかないと、ねずみに食べられて皮だけにされてしまう。(中略)山からひろってきたとちの実は、すぐ水桶に四、五日間つけて虫を殺してから、よく乾燥させ、袋などに入れてあま(天井の網代)の上にのせて保存しておく。食べるのは冬になってからで、まず五升なべに湯をわかして桶に移し、この中に乾燥させておいたとちの実を入れ、八時間ほどそのままにしておく。夜、ゆるり端の夜なべ仕事に、おじいもおばあも若い衆もそろって、この固い皮を口でむく。大変苦いので、干し柿をつくるさいに出た皮を干して保存しておいたものを食べ、その甘さにまぎらかしては皮むきを続ける。むいた実はゆすぎかごに入れ、翌日から一週間ほど沢の淵につけて流水でさらし、持ち帰ってから今度は桶に入れる。とちの実一升に対し木灰を二升の割合で入れ、煮たったお湯をたっぷりかけて実が完全に浸るようにする。この作業のことを「とちの実を灰がえた」という。つける日数は五~七日で、この間に水の色は鮮やかな黄色に変わっている。灰がえるときに灰の量が足りない場合には、ここでいったんきれいに洗ってから、再び桶に入れ、今度はあく汁に七日間ほどつける。なお、この地方では、一般にいうあく抜きのあくのことを「苦味」といい、その苦味を抜くための灰汁のことを「あく」という。このようにして苦味を抜いたとちの実は、あくの効いている状態なら赤みを帯びている。これでようやく食べられるようになるのである。」(『聞き書 静岡の食事』)(*7)


トチノキ(Author:M.S. del., J.N.Fitch lith.1917)

昔のやり方を読むと、ドングリやトチの渋抜きには、土器が必要ではないことがわかる。舟に水を入れて、焼き石を入れれば、大量の湯をわかすことができるからだ。

わたしが縄文人なら、ドングリの渋を抜くために、少しの量しか処理できず、壊れやすい土器は使わない。舟に水を入れて焼き石を入れてわかすほうが、はるかに効率がよい。

縄文人が土器をつくったのは、重要な貯蔵食料であった魚の油脂を採取するためと思われる。北アメリカ北西部海岸の先住民が、ooligan greaseをつくるときように、大量の油脂を製造するのなら、舟と焼き石を利用したほうが効率がよい。しかし、少量の魚や、サケのハラスから油脂を抽出するのであれば、舟と焼き石では効率が悪い。土器に湯をわかして、サケのハラスを入れて、棒でかき混ぜながら煮れば、短時間で油脂を分離できる。油脂の採取がおもな用途であれば、湯がわく程度の温度でよいので、低温で焼成した素焼きの土器でも割れにくいはずだ。


カムチャツカの漁撈部族(Описание земли Камчатки. 1755)

最近の研究では、1.5~1.1万年の縄文土器は、サケなどの魚の煮炊きに使用していたと報告されている。北海道帯広市の大正3遺跡と福井県鳥浜貝塚の土器片の多くから、魚の脂質に由来する脂肪酸が検出されている。残っていた脂肪酸には、海水系と淡水系の成分があるため、川を遡上してきたサケを捕獲して煮ていた可能性があるという。(*8)

文献
*1)春成秀爾 (2012) 旧石器時代の女性像と線刻棒. 国立歴史民俗博物館研究報告第172集
*2)Xiaohong Wu, et al. (2012) Early Pottery at 20,000 Years Ago in Xianrendong Cave, China. Science Vol. 336, Issue 6089, pp. 1696-1700
*3)王小慶 (2010) 東アジアにおける土器の起源について. Tohoku Univ. Museum, No. 9, pp. 41–47
*4)谷口康浩 (2005) 極東における土器出現の年代と初期の用途.名古屋大学加速器質量分析計業績報告書16, 34-53
*5)農文協編 (2010) 農家が教える 雑穀・ソバ 育て方・食べ方. 農山漁村文化協会
*6)古沢典夫ほか (1984) 聞き書 岩手の食事. 農山漁村文化協会
*7)日本の食生活全集静岡編集委員会 (1986) 聞き書 静岡の食事. 農山漁村文化協会
*8)O. E. Craig, et al. (2013) Earliest evidence for the use of pottery. Nature volume 496, pages 351–354

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漁撈部族の貯蔵食料 Stored food of fishing tribe

海岸部の縄文人、アイヌ、北アメリカ北西部海岸の先住民などの漁撈採集民は、平衡テリトリー・貯蔵段階であると述べた。漁撈部族の貯蔵食料は、どのようなものであろうか。

アイヌ、カムチャツカ、アラスカ、北アメリカ北西部海岸など、北太平洋の狩猟漁撈採集民の魚の保存法は多種多様だ。ここでは、長期にかつ大量に貯蔵できる、発酵、乾燥、燻煙乾燥、焼き干し、油脂について見てみる。

発酵

カムチャツカ半島やアラスカの漁撈採集民は、秋に捕獲したサケを地面の穴に入れて、発酵させて保存していた。食料が乏しい冬期に、発酵貯蔵したサケをイヌに与え、人間の食料にもした。アイヌについては、魚を発酵させる保存食があったかどうか、わからない。温度が高いところでは、魚の発酵保存はむずかしいのかもしれない。

乾燥

アイヌやカムチャツカの漁撈部族のもっとも重要な貯蔵食料は、乾燥サケだ。かつて、アイヌは、産卵を終えたシロザケ(ホッチャレ)を開いて干し棚に吊るし、よく乾燥させて貯蔵食料にしていた。シロザケのホチャレは、脂肪分がきわめて少なく、そのまま食べてもおいしくないが、脂肪が少ないために、貯蔵性がきわめてよい。干したサケのことをアイヌ語で「アタッ」という。アタッを食べるときは、叩いて身をほぐし、水でもどして軟らかくして、シカやマスの油をつけて食べた。(*1)


北海道アイヌの家族と倉(鳥居龍蔵)


イタオマチプ(板綴船)(蝦夷嶋図説)

干し棚によるサケの乾燥は、北太平洋沿岸の多くの地域でおこなわれていた。カムチャツカ半島のコリヤークなどの漁撈部族も、乾燥サケをつくって貯蔵する。カムチャツカでは、サケの捕獲期に雨が多いため、高床式の住居や貯蔵庫の下も乾燥場として利用した。


カムチャツカの漁撈部族(Описание земли Камчатки. 1755)

上の絵は、クラシェニンニコフ(1711-1755)が、1755年に著した『カムチャツカ誌』(Описание земли Камчатки)に掲載されている。クラシェニンニコフ(Крашенинников, Степан Петрович)は、ロシアの民族学者、地理学者で、1733~1743年に、ベーリング(1681-1741)のカムチャツカ探検に加わった。(*5)

北アメリカ北西部海岸のクワキウトル族も、脂肪が少ない産卵後のシロザケを乾燥して、貯蔵食料としていた。干したサケを食べるときは、焼いてオイルをつけたり、煮て軟らかくしてオイルをつけたりして食べる。乾燥サケの貯蔵によって、サケが獲れない時期でも、通年でサケを食べることができたという。(*7)


The Kwakiutl of Vancouver Island by Franz Boas, 1905


Kwakiutl performers in ceremonial dance attire, 1914


Showing of masks at Kwakwaka’wakw potlatch


Kwakiutl in canoes, 1914


Kwakiutl man wearing traditional regalia, 1914


サケの乾燥法、クワキウトル族(Boas, 1921)

魚を保存するには、細菌やカビによる腐敗もあるが、それ以上にむずかしいのは、脂質の酸化だ。脂質に含まれるリノール酸などの多価不飽和脂肪酸は、構造的に酸化されやすい。空気中の酸素に触れて酸化がすすむと、種々の脂質酸化生成物が生じる。脂質酸化生成物には、いやな味や刺激臭だけでなく、毒性の強い化合物が含まれる。

魚の生臭いにおいは、おもにアミン化合物によるといわれている。魚の死後に細菌などの微生物が増殖し、体内に存在するトリメチルアミンオキシドが分解されて、トリメチルアミンが生じる。このトリメチルアミンが、生臭いにおいのもととされてきた。しかし、近年の研究では、魚臭は、トリメチルアミンよりも、脂質酸化生成物のカルボニル化合物などが大きく影響していると報告されている。(*8)

燻煙乾燥

一方、ベニザケやカラフトマスは、産卵を終えた老魚であっても脂肪が多く含まれる。このような脂質が多い魚をそのまま乾燥させても、脂質の酸化を防ぐことができない。サハリンアイヌ、アムール流域、アラスカ、北アメリカ北西部海岸の漁撈部族は、脂質を多く含む魚を燻煙乾燥して保存してきた。燻煙は、専用の小屋などを利用しておこなわれる。ただし、燻煙乾燥による保存法がいつごろ始まったのかはよくわからない。

燻煙の作用としては、熱による乾燥促進とともに、燃焼によって生じる煙の化合物の効果がある。煙には、ホルムアルデヒド、フェノール性化合物、酸類など多くの化合物が含まれる。一般には、これらの化合物の抗菌作用によって、食材の保存性が高まるといわれている。また、燻煙によってスモークカラーと呼ばれる、光沢のある褐色の被膜が表面を覆う。これは、煙のアルデヒド類、フェノール類と食品の成分が反応して、樹脂膜を形成するためらしい。樹脂膜は不透水性で、微生物が食品内部への侵入することを防ぐとされる。

しかし、魚の食品としての劣化は、微生物のみならず、脂質の酸化に大きく左右されるのだから、燻煙の樹脂膜で空気中の酸素を遮断し、脂質の酸化を抑制することが、燻煙の保存効果と考えられる。

縄文人や擦文人が、サケをどのように保存していたのかは、よくわからない。ただ、関東や九州の縄文時代の遺構からは、連結土坑あるいは煙道付炉穴と呼ばれる施設が数多く見つかっている。煙道付炉穴は、二つの穴が地下のトンネルでつながった形をしている。土坑内の土からは、シカやイノシシに似た脂肪酸が検出されており、燻煙乾燥がおこなわれていたと考えられている。


煙道付炉穴、掃除山遺跡、縄文時代草創期(鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書)

縄文時代草創期の掃除山遺跡からは、竪穴住居跡2棟、煙道付炉穴、調理用の炉、多数の隆帯文土器、石皿、磨石、石鏃、石斧、石核、楔形石器、剥片石器など2,000点あまりが出土している。この縄文遺跡は、鹿児島市の約11,500年前の厚い薩摩火山灰層の下から発見された。遺構の規模は小さく、本格的な定住集落は形成されていなかったとされる。(*9)

発見されている日本列島最古の定住集落は、1986年に国分市(現・霧島市)で見つかった上野原遺跡だ。上野原遺跡は、9層からなり、最下層の9,500年前の遺跡から、竪穴式住居52棟、石蒸し料理施設の集石39基、煙道付炉穴19基、道の跡2条が確認された。(*10)


連穴土坑(上野原遺跡)


縄文時代早期中葉の土器、貝殻文系(上野原遺跡)


縄文時代早期中葉の土器、押型文系(上野原遺跡)

焼き干し

北海道やサハリンのアイヌは、夏期に捕獲されるカラフトマスなどを乾燥させるときに、火で焼いてから天日干ししていた。温度が高い夏は微生物の活動が活発なので、急速に腐敗がすすみ、ハエがたかる。火であぶれば、微生物やハエを避けながら、急速に乾燥することができる。さらに、焼いたり煮たりすることで、食品から脂質が除かれるので、保存性が高まる。

焼き干しや煮干しの保存法は、北太平洋の漁撈部族に限らず、世界中に存在する。日本では、イワナやイワシの焼き干し、かつお節、鮎の焼き干しなどがある。(*11)

アマゾンの狩猟民は、大型の動物を捕獲したときは、焚火の上で焼きながら乾燥させて保存食にする。アフリカでも焼いた魚を天日で乾燥させ、食べるときはオイルに浸けてもどす。

油脂

干したサケを食べるには、油脂が必要だ。ただ、油脂の製造法や保存法についての資料をほとんど見つけられない。

マルセル・モースの『贈与論』(Essai sur le don)には次のような記述がある。(*12)

In a certain number of cases, it is not even a question of giving and returning gifts, but of destroying, so as not to give the slightest hint of desiring your gift to be reciprocated. Whole boxes of olachen (candlefish) oil or whale oil are burnt, as are houses and thousands of blankets. The most valuable copper objects are broken and thrown into the water, in order to put down and to ‘flatten’ one’s rival.

「いくつかの事例では、贈り物の返礼を期待していると相手に思われないように、贈与や返礼はまったく問題でなく、ただ破壊する。ユーラカン(candlefish)の油や鯨油が入ったすべての樽が、家屋や何千枚もの毛布と一緒に燃やされる。ライバルを下に置いて『打ちのめす』ために、もっとも貴重な銅製の宝物は破壊されて、水中に投げ込まれる。」

olachenというのは、北米西海岸からアラスカに分布するキュウリウオ科の魚のことで、シシャモに似ている。eulachon, oolichan, ooligan, hooligan , candlefishなどと呼ばれる。candlefishというのは、この魚は脂質を多く含んでおり、乾燥させると、ろうそくのようによく燃えるからだ。


Eulachon (Thaleichthys pacificus)

olachen oilは、北米の先住部族にとっては、重要な交易品であった。また。ポトラッチによって贈与したり、消尽したりする重要な財のひとつであった。「財」というのは、価値(価格)が長期に保存されるほど、財として重要になる。金のように、何千年たっても錆びたり変質したりしない物質が、もっとも重要な財として扱われる。魚のオイルが重要な財であったということは、長期に保存できたことを意味している。

olachen oilは、ooligan greaseとも呼ばれ、北アメリカ北西部海岸の先住民が、現在でも利用している。

伝統的なooligan greaseのつくり方は、おおよそ次のようにおこなう。ooliganは、3月下旬に産卵のために川を遡上してくる。網などで捕獲したooliganを、地面に掘った穴やカヌーに入れて、10~14日ほど熟成(自然発酵)させる。発酵によって、魚の組織が破壊される。カヌーあるいは杉の箱に水を入れ、さらに焼き石を入れて、水を沸騰させる。湯の中に発酵した魚を入れて、数時間、かき混ぜながら沸騰させる。静置したあとに油脂をすくいとり、アザラシの内臓の袋などに入れて保存する。(*13)


Eulachon smelt rendering camp at mouth of Nass River(1884)

上記の『カムチャツカ誌』の、サケを解体加工している絵を見ると、舟のなかに焼き石を入れて湯をわかす姿が描かれている。これは、北アメリカ北西部海岸の漁撈部族のooligan greaseの採取の仕方とよく似ている。

採取した油脂を長く貯蔵するには、密閉容器に入れて、空気中の酸素に触れないようにする必要がある。北太平洋の漁撈部族は、油脂を貯蔵する際に、海獣類の内臓を容器として利用していた。

アイヌは、クマやシカの膀胱を水洗いして、風船のように膨らませて乾燥させたものを、水筒として使用していた。かつては、これと同じような容器に、魚の油脂を保存していたのかもしれない。


クヨイ(kuy-oy)、動物の膀胱でつくった水入れ袋(平取町立二風谷アイヌ文化博物館)

文献
*1)更科源蔵 (1942) コタン生物記. 北方出版社
*2)鳥居龍蔵写真目録. 鳥居龍蔵写真資料研究会・東京大学総合研究博物館
*3)渡部裕 (1997) 北東アジアにおけるサケ漁(Ⅱ). 北海道立北方民族博物館研究紀要6
*4)齋藤玲子, 渡部裕. (1998) アイヌ社会とサケ. 国立民族学博物館学術情報リポリトジ
*5)Крашенинников, Степан Петрович (1755) Описание земли Камчатки
*6)岩崎グッドマンまさみ (2007) 「サケの民」カナダ北西海岸先住民族―サケの保存・調理・分配. 先住民による海洋資源の流通と管理. 明石書店
*7)Boas Franz, Hunt George. (1921) Ethnology of the Kwakiutl, Based on Data Collected by George Hunt. Washington, Government Printing Office
*8)高村仁知 (2007) 食品中の脂質の酸化生成物による風味変化. オレオサイエンス7巻6号
*9)鹿児島市教育委員会 (1979) 掃除山遺跡:鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書
*10)森田郁郎ほか (2002) 上野原遺跡. 鹿児島県立埋蔵文化財センター
*11)農文協編 (2010) 農家が教えるわが家の農産加工. 農山漁村文化協会
*12)Marcel Mauss (1925) Essai sur le don
*13)Kuhnlein, H., Chan, A., Thompson, J.N., Nakai, S. (1982) Ooligan grease: A nutritious fat used by native people of coastal British Columbia. Journal of Ethnobiolgy, 2(2), 154-161.
*14)Traditional Animal Foods of Indigenous Peoples of Northern North America
http://traditionalanimalfoods.org/fish/searun-fish/page.aspx?id=6448
*15)動物の膀胱で作った水入れ袋. 平取町立二風谷アイヌ文化博物館

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貯蔵の意味3:イネ科植物の豊凶振動 Meaning of storage 3: Vibration of grain production

草原に棲むウシやシカは、イネ科植物などを食べて生存している。人間は、麦、米、豆などの植物や、牛や豚などの動物を食べて生存している。これらは、捕食-被食関係と見ることができる。捕食-被食関係は、ロトカ・ヴォルテラの方程式による簡潔な数理モデルがある。(Lotka,1910、Volterra,1925)

dx/dt=rx-axy
dy/dt=bxy-cy
x:被食者の個体数、y:捕食者の個体数、他は係数

数式が意味するのは、被食者が増えると、それを食べる捕食者も増え、被食者が食べられて減ると、それを食べる捕食者も減るという現象が、時間的にくり返されるということだ。


Predator-prey population cycles in a Lotka–Volterra model(Author:Ian Alexander)

ロトカ・ヴォルテラの数理モデルでは、捕食者と被食者の個体数が時間的に振動することを示している。このような個体数振動の自然界における例としてよく示されるのが、カワリウサギとオオヤマネコの例である。また、ツンドラに生息するネズミのレミングは、3~4年の周期で大増殖することが知られている。


カワリウサギとオオヤマネコの個体数

しかし、微生物や昆虫を使って、捕食-被食関係の実験をおこなうと、両方とも死滅してしまうか、安定な平衡状態になることが多く、個体数が振動する現象を確認できないという。カワリウサギとオオヤマネコなど、自然界で起きている個体数の振動についても、ウサギが食べる植物の豊凶に起因している可能性があり、ロトカ・ヴォルテラの方程式が示す理由で、振動が起きることは証明されていない。(*1)

なぜ、実験室や自然界でロトカ・ヴォルテラの方程式が確認できないのかは、ロトカ・ヴォルテラの方程式には、空間のパラメータが入っていないためであろう。捕食者と被食者の距離が離れていれば捕獲できないので、距離は重要な変数であり、かつ捕獲可能な距離は時間によって変化する。

コムギ、イネ、トウモロコシ、オオムギなどのイネ科の作物は、人類の生存にもっとも重要な生物種の一つだ。イネ科作物と人間は、「延長された表現型」の関係にあり、イネ科作物の種子拡散者は人間である。いっぽう、野生のイネ科植物の種子拡散者は、ウシ、シカ、ヤギ、スイギュウなどの草食動物、ネズミなど穀物を貯蔵するげっ歯類、イネ科植物の種子を食べる鳥類と考えられる。

イネ科植物と草食動物、げっ歯類、鳥類は、お互いに「延長された表現型」の関係にあるのだから、イネ科植物にも、ドングリの豊凶振動のような仕組みが存在するのであろうか。

イネ科植物の種子はドングリに比べると、粒が小さくて、数がきわめて多い。イネ科植物の種子には野毛があり、ウシの毛にからみついて、遠くまで運ばれる。また、ウシはイネ科の葉茎を食べるが、このときに種子も一緒に食べられる。種子は小さくて硬いので、ウシにかみ砕かれなかった種子が、糞と一緒に地面に落ちる。ウシ科やシカ科の動物は、上あごの門歯(前歯)がなく、舌で草を寄せて、ちぎって食べる。種子ができる前に茎葉を食べられても、株元や根が土に残って枯れることがない。

つまり、ウシの数がどんなに多くても、イネ科の種子がひとつ残らず食べつくされることはない。さらに、ダーウィンは、『種の起源』のなかで、ヒース(荒地)の土地を柵で囲ってウシを入れないようにすると、たちまちスコッチパインの林に変わると指摘している。(2018.7.17ブログ)

これらのことから、イネ科植物が豊凶振動を起こさなくても、イネ植物とウシなどの草食動物は、安定して長期に共存できる関係にあると考えられる。イネ科植物とウシなどの草食動物は、お互いの「延長された表現型」が、高度化した段階にある。

鳥類には、イネ科植物の種子を食べる多くの種が存在する。鳥には歯が無く、イネ科植物の種子を口でかみ砕くことはできない。鳥は小石を飲み込んで、砂嚢で石と種子を混ぜてすりつぶして消化しやすくする。このとき、粉砕を免れた種子が糞と一緒に環境中にばらまかれる。このため、イネ科植物の種子を食べる鳥が大繁殖して、その年に稔実した草原の種子をすべて食べつくしたとしても、イネ科植物が滅亡することはない。ウシと同様に、イネ科の種子を食べる鳥類とイネ科植物は、お互いの「延長された表現型」が、高度化した段階にあると考えられる。

ネズミはイネ科植物の種子を貯蔵するので、種子拡散者ではある。しかし、ウシとは違い、ネズミが大繁殖すると、ネズミはイネ科植物の種子をすべて食べつくす可能性がある。いっぽう、コムギ、オオムギ、イネ、トウモロコシ、豆類などの穀物に発生するカビの中には、毒性の強いマイコトキシン(カビ毒)を生成する種が存在する。マイコトキシンには、アフラトキシン、オクラトキシン、シトリニン、トリコテセンなど多くの種類がある。

ネズミが巣の中にイネ科植物やマメ科植物の種子を貯蔵すると、多湿な環境におかれた種子にカビが生えてマイコトキシンが生成する。ネズミは毒が生成した種子を食べずに残すため、何らかの理由でネズミが大繁殖したばあいでも、すべての種子が食べつくされる可能性が低くなる。ネズミ、イネ科植物、カビは、相互の「延長された表現型」が、高度化した段階にあると思われる。

さらに、草原にウシが存在していれば、イネ科の種子はネズミや鳥に食べつくされることはない。なぜなら、イネ科の種子はウシの糞の中に含まれており、ネズミや鳥は、糞の中の種子を食べないからだ。

日本の昔の焼き畑農法では、ヒエやアワの種を播くときに、人糞尿、馬糞、ぬか、種を練り合わせて畑に振っていた。この播種法は、軽米地方では、「直振(ジギフリ)」、「ボッタ播き」、「ボッタ振り」と呼ばれていた(*2)。ヒエやアワの種子を人糞や馬糞で包み込むのは、施肥のためと一般には考えられている。かつては、肥料には人糞や馬糞しかなかったので、施肥の効果があったのは間違いないであろう。しかし、福岡正信氏が、粘土に種子を混ぜて粘土団子をつくったいちばんの理由は、ネズミや鳥の食害を防ぐためであった(*3)。昔の焼き畑でのジキフリも、ネズミや鳥の食害を防ぐのが、いちばんの目的だったと思われる。

イネ科植物に、ドングリのような豊凶振動をひき起こす仕組みが存在するかどうかは、よくわからない。自然の状態のイネ科植物の子実数の年次変動のデータを見たことはなく、そんなことを研究している人は誰もいないのであろう。そこで、イネ、コムギ、オオムギ、ダイズの日本の作況指数についてのデータを見てみる。(*4)





作況指数:イネ、コムギ、オオムギ、ダイズ(統計局)


日本の年平均気温偏差 細線(黒):各年の平均気温の基準値からの偏差、太線(青):偏差の5年移動平均、直線(赤):長期的な変化傾向。基準値は1981〜2010年の30年平均値(気象庁)

データから読み取れるのは次のことだ。

・イネ科作物には、豊凶振動が存在する
・豊凶振動に明確な周期性は確認できない
・イネ科作物の豊凶は、気象変動など外的要因の影響を強く受ける

水稲は陸稲にくらべて、豊凶の変動が小さいことから、環境管理や栽培管理によって、豊凶が左右されることがわかる。1955年以降に、水稲の作況指数が急に安定している。陸稲のほうは55年以降も変動が大きいので、水稲の作況が安定したのは、気候が安定したからでなく、何らかの技術的な改善があったからと思われる。1955年ごろから全国に普及した技術といえば、保温折衷苗代だ。(*6)

保温折衷苗代は、長野県軽井沢町の農家、荻原豊次氏が考案した育苗方法で、苗床の芽出し種子を播いて、籾がらを炭化したくん炭を厚めにかぶせる。その上から油紙で被覆して保温する。保温折衷苗代で、発芽を早めると、豊凶変動が小さくなるということは、イネの豊凶振動は、外的要因の影響が大きいということだ。

1963年のコムギとオオムギの大凶作は、豪雪の影響によるものだ。終戦の年の1945年のイネの大凶作は、1993年よりもひどい減収であり、終戦直後の食料不足につながった。

イネ科作物の豊凶振動は、人間が除草したり、肥料を与えたり、病害虫を防除したり、さまざまな管理を加えたうえでの結果なので、自然の状態のイネ科植物の豊凶振動は、もっと大きくなることが予想される。

食べものを貯蔵するいちばんの目的は、食料の採集が難しい時期(端境期)を乗り切るためなので、大量にかつ長期に貯蔵できなければ意味がない。貯蔵食料によって、端境期でも十分な食料があれば、飢餓による死亡率が低くなる。テリトリー内の人口が増えるので、ますます大量の貯蔵食料が必要になる。しかも、数年ごとに大凶作が来る可能性があるとすれば、1年分の食料を蓄えるだけでは危険で、それ以上の食料を貯蔵しておかないと、何年かおきに餓死者がでて、人口が減少する。

もし、まったく食料を貯蔵しない生業スタイルであれば、テリトリー内の人口は、大凶作年の端境期の利用資源量によって決まる。繁殖時にどれほど大量のザリガニがはいだしてこようが、どれほどたくさんのモンゴンゴの実が成ろうが、大凶作年の端境期に食料が存在しないかぎり、人口を維持できない。

長期にかつ大量に貯蔵するには、デンプンやタンパク質が長期に変質しない種子でなければならない。イネ科植物の種子は、休眠しているあいだは、ほとんど変質せず、10年以上も、保存が可能だ。西アジアではコムギやオオムギ、インドでは雑穀、中国大陸ではアワやイネ、新大陸ではトウモロコシなど、栽培植物の中心に、イネ科の作物が存在するのは偶然ではない。

草原の生態系では、イネ科植物、マメ科植物、草食動物、げっ歯類、鳥類、昆虫、微生物などが生息している。草原における太陽エネルギーの1次獲得者は植物であり、植物には、気候変動による豊凶振動が存在する。また、草原の生物種同士は、「延長された表現型」によって、草原の生物種の個体数を安定させ、草原の利用資源(エネルギーと有用物質)の流速度は定常化している。(2017.2.2ブログ)

いっぽう、人間は、ネズミと違って、イネ科植物の種子にカビを発生させずに、大量に貯蔵することができる。このため、生存率が高くなって人口が増える。これを草原の生物から見れば、草原の生物種同士の「延長された表現型」によって維持されてきた利用資源の流れが、大きく変わってしまうことを意味する。

テリトリー内の人口が増加すると、草食動物やイネ科植物の種子が過剰に捕獲、採集されて、草原の生物種の個体数は大きく変動するであろう。たとえば、草食動物の減少、ネズミの大増殖、イネ科植物の大凶作などが起きる可能性がある。ネズミが大発生して、ネズミを大量に捕獲できたとしても、ネズミを長期間食料として貯蔵することはできない。太陽から注ぐエネルギー流速度は毎年同じであっても、貯蔵可能なイネ科植物の子実量が大きく変動すれば、増えた人口を維持することはできない。

ナトゥーフィアン期に、非貯蔵から貯蔵段階への転換したことで、人口が増加した。しかし、人口が増加したことで、草原の利用資源の流れが変わり、イネ科植物の豊凶変動が大きくなって、居住地の多くが放棄されたと考えられる。これらのことから、平衡テリトリー貯蔵段階は、一時的には人口が増加するが、長期的には生業スタイルを維持することができなくなってしまうと予想される。

日本列島の縄文時代前期以降は、平衡テリトリー貯蔵段階であったと考えられるが、縄文後期から晩期には、人口が大きく減少した(*7)。平衡テリトリー遊動段階のサン族やアボリジニは、何万年も生業スタイルを維持できたが、平衡テリトリー貯蔵段階の縄文人は、生業スタイルを維持することができなかった。ただし、縄文時代の内陸部の大きな集落が、短い期間で放棄されたのに対して、三内丸山や真脇遺跡など、漁撈に依存する海岸部の集落は、長期に存続していた。


先史時代の人口と人口密度(小山ら, 1984)

アイヌや北米の漁撈採集民が、長期にわたって平衡テリトリー貯蔵段階を維持できたのは、サケ漁など漁撈に従事していたからであろう。平衡テリトリー貯蔵段階の漁撈社会が安定なのは、海での漁や川を遡上するサケ漁においては、草原や樹林にくらべて、利用資源の年次変動が小さいためと考えられる。

文献
*1)巌佐庸 (1990) 数理生物学入門. HBJ出版局
*2)農文協編集 (2011) 農家が教える 雑穀・ソバ. 農文協
*3)本田進一郎 (2016) 自然農法とは何か : ゆらぎとエントロピー
*4)作況調査 (水陸稲、麦類、豆類、かんしょ、飼料作物、工芸農作物) 長期累年. 統計で見る日本
*5)日本の年平均気温偏差. 気象庁
*6)保温折衷苗代の発明. 農研機構
*7)小山修三, 杉藤重信 (1984) 縄文人口シミュレーション. 国立民族学博物館研究報告9巻1号p1-39

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貯蔵の意味2:果実の豊凶振動 Meaning of storage 2: Vibration of nuts production

ドングリ、カキ、カンキツ、リンゴなど、果実を成らす植物には、年によって豊凶が存在することが知られている。近年は、ドングリの凶作年にクマが人里へ出没することから、ドングリの豊凶の仕組みについて、さかんに研究が行われているが、その仕組みは謎である。果実の生産では、結実量の年次変動のことを、「隔年結果」という。隔年結果は、果実生産では経営上の大きな問題であり、古くから研究がおこなわれてきたが、その原因や仕組みについては解明されていない。

ダーウィン進化論から考えれば、ドングリに豊凶があるのは、次のような理由と思われる。

ドングリの種子拡散者は、リス、ネズミ、カケスなどである。これらの動物は、ドングリを林床のあちこちに埋めて貯蔵する習性がある。リスやネズミは、貯蔵したドングリを食料が少ない冬期に食べるが、忘れてしまったり、食べ残したりしたドングリが残る。土の中では水分が適度に保たれるので、春にドングリが発芽しやすくなる。

もし、リスやネズミがドングリを土の中に埋めなければ、地面に落ちたドングリは、昆虫やクマに食べられてしまう。また、ドングリは乾燥に弱いので、地上に落ちたままでは、乾燥して発芽しなくなる。

ドングリとの関係が取りざたされるクマは、種子をかみ砕いてしまうので、種子拡散者ではない。クマは、果実、植物、動物、魚、昆虫などを食べて、糞や尿を森の中にばら撒く。クマの遺体も、最後は土に還元される。ドングリから見ると、クマは、リン、窒素、カリウム、カルシウムなどの無機栄養分を運んで、海と陸との間で有用物質を循環している。ただし、クマはどこで糞をしたり、死んだりするかわからないので、自分の分だけの無機養分を供給するわけではない。

植物、動物、昆虫、微生物など、安定した同一の生態系に存在する異種の生物種は、お互いに「延長された表現型」であって、何百万年間もつづけられてきた遺伝子変異と自然選択の結果として、そこに存在(生存)している。そこでは、現時点での遺伝子情報のレベルにおいて、エネルギー利用の大きな無駄や非効率は存在しない。

ドングリから見ると、リス、ネズミ、カケスの個体数が少なすぎれば、埋められる子実が少なくなって、昆虫に食べられたり乾燥したりして無駄になる。動物の個体数が多すぎれば、ほとんどの子実が食べられてしまうので、やはり無駄になる。種子拡散者の個体数が少なすぎても多すぎても、遺伝子を存続するためのエネルギー効率が悪くなる。エネルギー効率が悪くなれば、同属のライバル種や、同種の異株(遺伝子)との生存闘争に勝ち残ることができない。

ブナ属、コナラ属、クリ属、マテバシイ属、シイ属などのブナ科植物は、自家不和合性で、個体株の配偶子同士が交配することを避ける性質がある。1本だけでは、受精せず、子実を実らせることができない。人間や動物と同じで、1つの個体だけでは自己複製して遺伝子を存続することができず、ある程度の大きさの遺伝子プールが必要である。その遺伝子プールが大きいほど、遺伝子プールの遺伝子の変異速度を大きくできるので、ライバル種との闘いに有利になる。

しかし、1個の個体から見ると、まわりが同種の生物だらけになると、生存闘争のライバルは「自分のコピー」になる。「自分のコピー」は自分と生存能力に差がないので、生存闘争はより熾烈になる。周囲がコピーだらけになれば、生き残れるかどうかは、偶然のみに左右される。同種の遺伝子プールでは、それぞれの個体の、正確にコピーしようとする運動(同一化)と、コピーミスをして新たな変異を獲得しようとする運動(差異化)が、つねに拮抗している。環境飽和力(空間、エネルギー流速度、有用物質)が大きな生態系では、1つだけの種が優占せずに、次々と変種があらわれて、多様な生物種で満たされる。これは、遺伝子プールに、差異化の運動が存在するためである。

ドングリにとってもっとも危険なのは、リスやネズミが極端に増えすぎて、子実がひとつも残らなかったり、逆に1匹もいなくなって、子実がひとつも埋められなくなることだ。ドングリの子実は、大きくてカロリーが高いので、大型動物を誘引(操作)する能力が高いが、逆に、昆虫に食べられたり、乾燥したり、腐ったりしやすい。遺伝情報は、何億年もかけてできあがったものなので、一度でも失われると、再び作ることができず、その時点で終わりとなる。現在の地球上に生存している生物種は、遺伝子が途絶する確率を小さくすることができた生物種だけだ。ブナ科植物は自家不和合性と書いたが、じつは植物の自家不和合は100%ではない。自家不和合が強い植物であっても、花の数%は自家交配する性質がある。

ドングリが、遺伝子途絶の確率を小さくするには、種子拡散者の個体数が極端に変動する確率を小さくしておく必要がある。そのためには、ふだんから、子実の数を年によって増やしたり減らしたりして、種子拡散者の個体数が極端に大きくなったり、ゼロになったりしないようにしておくのが合理的だ。

さらに、リスやカケスの活動範囲はかなり広いので、1本の樹だけが子実の生産量を振動させても効果がない。広い範囲で、個体同士が豊凶の周期を同調させなければならない。

動物を惹きつけて、子実を多く拡散するには、子実を多くつけたほうがよいが、子実生産に養分を多く使うと、樹の成長にまわす分が少なくなる。枝葉や根の成長が遅れるので、ライバルに負けてしまう。また、自分や自分の同種が子実を減らそうとしても、同じ生態系内のライバル種が子実をたくさん成らせば、動物は減らないので、やはり無駄になる。

森の中では、自分、自分の同種、ライバル種の個体、ライバル種、動物、昆虫などの複雑な関係の中で、あたかも人々が、市場で取引をしたり、談合したり、カルテルを結んだり、騙したり、投票で決めたりしながら、財を獲得するのと同じ状態にあると思われる。もちろんドングリがそんなことを考えるわけではなく、長いあいだの変異と自然選択の結果、そうなった。

ドングリがどのような仕組みで子実の豊凶振動を起こし、かつ広い範囲の個体同士が、どのように豊凶周期を同調させているのか、多くの研究者が取り組んでいるが、いまだに謎である。

従来は、豊凶は気候に左右されるといわれてきたが、北海道の釧路地方の調査では、降水量についてはやや関連性が認められるが、気温や日照とは関連が見られない。知床地域の調査では、降水量、気温、日照すべてで、豊凶との関連が確認できない。(*1)


釧路地方のミズナラの豊凶指数の年変化、日照時間(6月中旬―-9月中旬)と豊凶指数


釧路地方のミズナラの受粉後(6月中旬)の気候(降水量・日最高気温・日照時間)と豊凶指数


知床地域の豊凶指数の年変化


知床地域の豊凶指数と気候(souce:どんぐりの豊作は予測できる?)

また、子実の豊凶は、樹体に蓄積された貯蔵養分(炭水化物)に左右されるともいわれてきたが、森林総合研究所の調査では、ブナの結実豊凶の制限要因は、窒素資源であるとしている。安定同位体を用いた調査によって、その年の花の炭水源は貯蔵養分に依存するが、種子生産の炭素源は、貯蔵炭水化物ではなく、その年に作られた光合成産物であることが示されている。豊作年には窒素資源が優先的に種子生産に配分されるため、花芽分化に必要な窒素資源が不足し、翌年は凶作になると報告している。(*2)


種子生産の炭素源(左)、ブナ個体あたりの種子(Fr)と葉(Lf)の窒素量(右)(韓ら, 2015)

貯蔵養分は、樹木が前年に生産した炭水化物(光合成産物)と根から吸収した無機養分(窒素、リン酸、カリウムなど)からなる。太陽から地球にそそぐ光の量は、毎年同じなのであるから、毎年同じ量の炭水化物を生産し、同じ量の無機養分を吸収するのがもっとも効率的であるはずだ。つまり、樹体の貯蔵養分の変動は、豊凶現象の結果であって、要因ではない。

果実の隔年結果の研究でも、結実は貯蔵養分に左右されると長いあいだ考えられてきたが、近年は、植物ホルモンなどの作用に起因すると考えられている。果実の種子では、ジベレリンが生成するが、豊作年に果実がたくさん結実すると、ジベレリンの濃度が高くなる。高濃度のジベレリンが枝に移行して、新梢での花芽分化を抑制すると考えられている。しかし、植物ホルモンは、情報伝達の物質であって、豊凶振動の経路の一部にすぎない。つまり、要因ではない。

いずれにしても、貯蔵養分やジベレリンの作用だけでは、樹木がどのように広い範囲で豊凶周期を同調しているのかの仕組みを説明できない。

北海道大学では、3地区の林地で、28年間、ミズナラ種子の豊凶調査を行っている。ミズナラの種子生産量には大きな年次変動が存在し、その年次変動には明瞭な周期性が見られた。豊作年の翌年は、不作あるいは凶作となる確率が高い。豊凶変動は、同一サイト内の個体間、および近接する3つのサイト間で、変動が同調している。全てのサイトで豊作が同調した年は28年間で7回あり、凶作または不作の同調が13回観測された。豊作よりも不作または凶作が同調する傾向がある。また、バイオマス成長量の年次変動は、種子生産量よりも、より密接にサイト間で同調する。豊凶変動は、外的要因である気象条件よりも、個体の内的要因が豊凶により強く影響していることが示唆される。(*3)


種子生産量(落下種子数のサイトごとの平均値と標準誤差)の経年変化(來住ら, 2015)


樹幹のバイオマス成長量(平均値とSE)の経年変化(來住ら, 2015)

これらの研究から、ドングリの周期的な豊凶振動は、気候などの外的要因よりも、内的要因に強く起因していることがうかがえる。豊凶振動をひき起こし、かつ集団で豊凶周期を同調させる仕組みとはどのようなものであろうか。このような複雑な仕組みを実現する条件として、どのようなことが考えられるであろうか。

・植物の個体は体内時計を有している
・体内時計によっておおよその豊凶周期が決まる
・豊凶周期は、気候など外的要因の影響を受ける
・豊凶周期は、他の個体からの情報の影響を受ける
・伝達される情報には投票行動のような作用があり、豊凶のタイミングについて多数派が形成される
・豊作よりも凶作を発現する情報のほうが強い作用がある(動物が増えすぎるリスクのほうが大きい)

植物には体内時計が存在することや、植物の個体同士で情報伝達をおこなっていることは知られているが、詳細な仕組みはわかっていない。植物の情報伝達の存在がわかっているのは、次のようなことである。

・花粉や胞子による遺伝子の交換
・化学物質による情報伝達
・音波による情報伝達

化学物質による植物間のシグナルとして知られているのは、植物ホルモンのエチレン、サリチル酸、ジャスモン酸である。エチレンは果実の成熟や組織の肥大成長を促進する。ジャスモン酸やサリチル酸は、病害虫に対する抵抗性を誘導する。また、植物ホルモンのストリゴラクトンは、寄生植物のストライガなどの発芽を誘導する。もともと、ストリゴラクトンは、アーバスキュラー菌根菌の菌糸を伸長させて、共生するためのシグナル物資であるが、これをストライガが利用していると考えられている。

テルペン類や香り成分も、害虫への防御反応に関与している。トマトがハスモンヨトウに食害されると、十数種類の香り成分を放出する。その香り成分を別のトマトに曝露して、ハスモンヨトウに食べさせると、幼虫の成育が抑制される。これは、トマトが、無毒な香り化合物(ヘキセニルビシアノシド)を取り込んで、毒性のある化合物に変換しているためであるという。このシステムは他の多くの植物でも見られるらしい(*4)。

音波による植物の情報伝達については、ほとんど研究されていない。日本では、わずかに、2012年に高校生によって実施された研究がある。マカラスムギに2,000Hzの音を連続して聞かせると発芽率が上昇し、500Hzでは、発根率、芽、根の成長が強く促進されることが示された。また、100Hz以下の音は、発芽、発根率を低下させ、芽と根の成長を抑制する効果があるという。(*5)


音楽がマカラスムギの発芽・発根,初期生育に及ぼす影響(佐藤, 2012)


マカラスムギの発芽・発根,初期生育に対する一定周波数音の効(佐藤, 2012)


音がマカラスムギ種子内の糖代謝に及ぼす影響(佐藤, 2012)

ほかには、トマトが発する超音波(アコースティック・エミッション:AE)を測定することで、トマトの健康診断ができるという研究がある。植物は、環境変化などのストレスを受けると、茎から超音波(AE)を発生させ、茎が振動する。この振動を測定することで、植物のストレス耐性が数値化できるという。(*6)


超音波(AE)の測定による野菜(トマト)の健康診断の概要 (蔭山ら, 2009)

cf. 炭と微生物、炭と植物の謎
https://jcmswordp.wordpress.com/2016/02/23/%E7%82%AD%E3%81%A8%E5%BE%AE%E7%94%9F%E7%89%A9%E3%80%81%E7%82%AD%E3%81%A8%E6%A4%8D%E7%89%A9%E3%81%AE%E8%AC%8E/

文献
*1)渡辺展之 (2011) どんぐりの豊作は予測できる?, さっぽろ自然調査館 調査館通信35号
*2)韓慶民ら (2015) 樹木の種子豊凶のカギは窒素, 森林総合研究所平成27年版 研究成果選集
*3)來住牧ら (2015) ミズナラ堅果生産量の長期動態と豊凶仮説の検証, 低温科学73 125-132
*4)杉本貢一ら (2014) 被害を受けた仲間の香りを取り込んで身を守る. 化学69 (11)
*5)佐藤優紀 (2013) 植物における音の影響, 化学と生物 Vol. 51, No. 3.
*6)Kensuke KAGEYAMA, et al.(2009)Estimation for Embolism Risk of Tomato Using Acoustic Emission Response to Increased Drought Stress Environmental Control in Biology. Vol.47, 3, p127-136(植物の発する超音波や振動を測定し、植物の健康診断を行うことができます)
*7)松橋通生ら (1998) 炭素の生物作用一炭素の波動から細胞音波へ. 炭素材料学会1998巻184号 p. 213-218

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貯蔵の意味1:狩猟採集民は豊かだったのか? Meaning of storage 1:Were hunter-gatherers rich?

「貯蔵社会」とか「貯蔵段階」という言葉は、用語として定義されておらず、辞書にも出ていない。ふつうは、「定住」「定住化」「定住社会」という用語を使う。しかし、「定住」というのはあくまでも結果であって、人間が定住するようになったのは、周年で遊動しながら利用資源を獲得する生業スタイルから、獲得した利用資源を特定の場所に貯蔵して、貯蔵した資源で端境期を生存する生業スタイルに転換したからだ。

一般には、狩猟採集段階から農耕段階に移行したと考えられているが、狩猟採集社会は、ひとつの段階として定義できない。少なくとも、次の3つの段階に分けられるであろう。

段階 運動
拡散 拡散遊動
平衡テリトリー・非貯蔵 テリトリー内遊動
平衡テリトリー・貯蔵 定住+テリトリー内遊動

平衡テリトリー・貯蔵段階において、特定の居住地に食料を貯蔵して定住したのは、女性、老人、子供であり、男性はテリトリー内を遊動していたと思われる。

狩猟採集社会を考えるうえで、まったく異なる2つの見方がある。ひとつは、19世紀のハーバート・スペンサー以来の社会進化論的な立場で、「原始人や未開人は遅れており、野蛮で貧しい」という見方だ。

欧米では、20世紀に、フランツ・ボアズ(1858-1942)らの強い批判によって、社会進化論は衰退した。しかし、社会進化は、1960年代に、レスリー・ホワイト(1900-1975)によって、再び注目されるようになった。ホワイトは、コロンビア大学でボアズの講義を受けたが、のちに社会主義労働党(Socialist Labor Party of America)に加わった。

ホワイトは、アメリカの人類学がボアズらの強い影響下にあるなかで、スペンサーやルイス・H・モーガン(1818-1881)を再評価して、ネオ進化論(Neoevolutionism)と呼ばれた。

ホワイトは、社会進化における技術の重要性を説き、技術の進歩によって、1人当たり時間当たりのエネルギー使用量あるいはエネルギー消費量が増大するにつれて、文化が発展すると主張した。そして、技術とエネルギー消費のレベルから、文化の発展の段階を区分した。(*1)

・自分自身のエネルギーを利用する(狩猟採集)
・植物と動物の栽培化(農耕と牧畜)
・化石燃料(石炭、石油)のエネルギーを利用する
・原子力のエネルギーを利用する

ミシガン大学で、ホワイトの下で人類学を学んだマーシャル・サーリンズ(1930-)は、ネオ進化論者とされている(“Evolution and Culture”1960)。サーリンズは、1972年に“Stone Age Economics”(石器時代の経済学)を著して、狩猟採集民の社会は、元来は豊かな社会であったと主張した(Original affluent society)。

サーリンズは、著書のなかで、ホワイトの理論を次のように批判している。

「大きな反響をよんだ『エネルギーと文化進化』という試論のなかで、レスリー・ホワイトは、『農業および遊牧技術をもちいることで、年間一人当り利用し、管理できるエネルギー量が大いに増加した結果・・・、文化発展の一大前進』が、新石器時代におこったとのべている(1949, p372)。ホワイトはさらに、旧石器文化の主要なエネルギー源を人力と特徴づけ、これと新石器文化の馴化された動植物資源とを対立させて、進化論的な対照をきわだたせている。エネルギー源によるこの測定からただちにでてくるのは、狩猟民の熱力学的ポテンシャルにたいする低い評価―というのも、人間の肉体は、一人あたり20分の一馬力の《平均的動力源》の出力しかないのだから(1949, p369)―であって、しかも、新石器時代の文化事業から人間の努力を削除してしまっているので、まるで人々は、労働節約装置(馴化された動植物)のおかげで、すっかり自由になったかのような観を呈することになる。だが、ホワイトの問題のたて方はあきらかにまちがっている。新・旧石器文化が利用していた主要な物理的エネルギーは、ともに人間が供給したもので、いずれのばあいにも、この人間エネルギーは動植物資源から転換されたものであり、ごくわずかの例外(人力以外の動力の偶発的な直接利用)をのぞくと、だから年間一人当りの使用エネルギー量は、新・旧石器時代経済のいずれにおいても同じであった―しかも、産業革命の到来まで、人類史においてはほぼ恒常だったのである」(*2)

サーリンズの批判はもっともであるが、両者とも、人間の1人当たりのエネルギー消費量のみに注目して、エネルギーの消費量と社会(集団)の関係を考慮していない。

狩猟採集民や初期農耕民は、バンドあるいは部族で生活しており、利用資源(エネルギーと有用物質)を獲得できるのは、平時は、部族が占有するテリトリーの中だけである。

人間は、超協力タカ派戦略をとっている。

狩猟採集から農耕の段階に転換することによって、それまでは食料を採集できなかった場所であっても、収穫ができるようになる。1人当たりのエネルギー消費量は狩猟採集民も農耕民も同じであるが、テリトリー全体での食料の収穫量が増えるので、人口と消費可能なエネルギー量が増加する。人口と消費可能エネルギー量が増大すれば、強固な戦闘集団を作ることが可能になるので、その集団は、ライバル集団との闘争に勝って、相手からテリトリーを奪うことができる。

話がややそれたので元にもどす。

サーリンズは、狩猟採集民は、少ない労働時間(エネルギー使用量が小さい)にもかかわらず、1人当たりのエネルギー消費量は大きく、狩猟採集社会は、きわめて豊かな社会であったと論じた。

「ムーランドで、マレー川が例年のように低地を水浸しにしたとき、淡水産のザリガニが地面にぞろぞろはいだしてぐるのを目撃したが・・・、400人もの土着民が何週間もそれにたよって暮せるほどのものすごい数で、しかも腐ったりすてられたままのザリガニで、さらに400人も養えるほどであった・・・。12月のはじめになると、マレー川では、数えきれないほどの量の魚が、またたやすく手に入った・・・。ほんの2、3時間の・・・漁でとれる(魚の)数は、信じられないほどだった・・・。大陸の東部で非常に好まれている別の食品―特定の季節にまた豊富にとれるのだが―は、一種の蛾であって、これを土着民は、いくつかの発生地の洞穴やうつろからとってくる・・・。一種のカラシナの新芽、葉、茎も、出盛期に採集されて・・・、無数の土着民の、お気にいりで無尽蔵の食物源となっている・・・。このほかにも沢山の食品が土着民には知られていて、いま列挙したものと同様に、いずれも豊富で、また栄養価もたかいのである。(Eyre, 1845)」(*2)

「これらの集団のいずれもが、1日に採集する食物量を、どのばあいでももっと増加できたはずである。女にとって、食物探しは、日々まぬがれない仕事ではあるが、まったくよく休むので、食物探しや準備に日中の全時間をついやすことはなかった。男の食物採集はもっと散発的なたちのもので、1日、沢山とれたら、しばしば翌日は休むのだった・・・。おそらく彼らは、採取にふくまれる労力にたいし、いつもより沢山の食物が手にはいれば得をしたと無意識裡に計算しているにちがいなく、これくらいで十分だと判断しているはずで、だから、それだけ採取すると、そこでやめてしまうのである。(McArthur,1960)」(*2)

「食物資源は、『種類も量もたっぷり』あり、とりわけエネルギー値のたかいマンゲッティの実は、『非常に豊富だったので、何百万もが、毎年、拾われることなく、地上で腐っていた。(Lee, 1969, p. 59)」

「1《日労働》は、ほぼ6時間だった。それゆえ、ドーブ族の週労働は、大体15時間、1日平均になおすと2時間9分ということになる。アーネム・ランドの基準よりなおひくいが、この数字はしかし料理や器具の準備をふくんでいない。万事を考えあわせると、ブッシュマンの自立生計労働は、オーストラリア土着民のそれに、おそらくきわめて近いといえるだろう。さらにまた、オーストラリア人と同様に、生活資料のために働かない時間を、ブッシュマンはぶらぶらすごすか、あるいはぶらぶら活動する。ここでもまた、1、2日働いて、1、2目休み、キャンプで漫然とすごすという、旧石器時代特有のリズムがみられるのである。食物採取が、一義的な生産活動ではあるけれども、リーがかいているように、『人々は大部分の時間(週に4日から5日)、キャンプで休息したり、他のキャンプを訪ねたり、といった他の営みですごしている。(1969)」(*2)

「『年間をつうじて、おそらく平均1日2時間以下が、食物獲得についやされる時間』であった(Woodburn,1968)。興味ぶかいことに、ハドザ族は、人類学に教えられたからではなく、生活に教えられて、その余暇をまもるために、新石器革命をはねつけた。農耕民にとりかこまれているのに、ついさいきんまで彼らは農業の採用を拒絶してきたのである。『そうなれば、もっとひどく働かねばならない、というのが主たる根拠』なのであった。この点で、彼らはブッシュマンに似ているといえよう。というのも、後者は、新石器時代的な質問に、別の質問をたてて、こう答えたからである。『世界にモンゴンゴの実がこんなに沢山あるというのに、どうして植えねばならないのか』(Lee, 1968)」(*2)


モンゴンゴの子実、トウダイグサ科でアフリカ南部に分布(Author:NoodleToo)

同様のことは、ジャック・ハーランの実験でも報告されている(2017.12.16ブログ)。ハーランは、トルコ南東部の野生コムギが自生する地域で、石器で作った鎌を使用して収穫実験を行った。野生ヒトツブコムギの1時間当たりの収穫量は、2ポンド(0.9kg)以上であり、狩猟採集民の1家族が、3週間ほど野生コムギを採集すれば、1年間食べていく量が得られると報告した。


Sheaved and stooked wheat(1943)

しかし、サーリンズの主張やハーランの実験には、大きな見落としがある。冒頭で述べた「端境期」という言葉は、1年のなかで食料の収穫ができなくなる時期という意味で使っているが、その端境期には2とおりある。ひとつは豊作年の端境期で、もうひとつは凶作年の端境期である。豊作の年は、食料を十分に貯蔵できるので、端境期であっても飢えることはない。凶作年には、十分な食料を貯蔵できないので、端境期に食料が不足する。バンドや部族の社会では、テリトリー内の動物や植物はすべて共有財産であり、全員が平等に分け合う。このような社会では、凶作がつづいて飢饉がおきると、全員が飢えて、老人や子供など体力のない者から餓死する。

植物の子実は、豊作の年と凶作の年が交互にやってくることが知られており、人間の生死(遺伝子の存続)とテリトリーの人口を左右するのは、凶作年の端境期における1人当たり時間当たりの利用可能資源量である。

サン族への質問は、「どうして作物を植えないのか?」ではなくて「どうしてモンゴンゴの実を1年間たべられるほど貯蔵しないのか?」と聞くべきであった。後者の質問であれば、乾燥したカラハリ砂漠をテリトリーにする彼らが、非貯蔵から貯蔵へ転換しなかった理由があきらかになるかもしれない。

文献
*1)Leslie A. White (1943) Energy and the Evolution of Culture. American Anthropologist New Series, Vol. 45, No. 3, Part 1
*2)Marshall Sahlins (1972) Stone Age Economics. : 石器時代の経済学 (1984) 法政大学出版局

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ナトゥーフィアン=貯蔵社会への転換:Natufian culture=Revolution to storage society

ナトゥーフィアン期は、旧石器時代のなかでは特異な時代とされている。もっとも大きな変化は、人類が何十万年もつづけてきた遊動生活から、長期に定住する生活への転換が始まったことである。定住化が始まった理由は、食料を一定期間貯蔵して、端境期には貯蔵食料を利用して生存する生業スタイルへ転換したからである。

ナトゥーフィアンのおもな遺跡としては、シュベイカ1、ワディ・ハマ27、アイン・マラッハ、エル・ワド洞窟B層、アイン・サラタン、デデリエ洞窟B層、テル・アブ・フレイラなどがよく知られている。

シュベイカ1(Shubayqa 1)は、ヨルダン北東部の14,600~11,600前の遺跡である。ここからは、玄武岩でできた直径1mほどの窯、カヤツリグサ科、アブラナ科、マメ科、ヒトツブコムギ、オオムギ、カラスムギなどが出土している。光沢のあるフリントや石臼も見つかっている。窯のなかに残っていた植物遺体の年代は、14,400~14,200BPで、窯が使用されていたのは、ナトゥーフィアン初期であることがわかっている。24個の焦げた塊状の食物があり、パンと同じ構造をしていた。パンの材料は、コムギ、ライムギ、ミレット(雑穀)、カラスムギ、オオムギである。また、フスマ(皮)と粉の割合から、挽いた粉とフスマをフルイ分けしていた可能性があるという。(*1)


The site of Shubayqa 1 showing Structure 1 and one of the fireplaces (the oldest one) where the bread-like remains were discovered.(source:PNAS, 115, 31, 7925–7930)

ガラリア湖の南にあるワディ・ハマ27遺跡(Wadi Hammeh 27)では、13,500年前のドングリ(Quercus sp.)、タルホコムギ、野生オオムギ、ピスタチオ、レンズマメが出土し、フリントの刃を装着した骨製の鎌が見つかっている。


ワディ・ハマ27出土の骨製の鎌(Phillip Edwards, 2008)

ガラリア湖北方のアイン・マラッハ(Ain Mallaha)では、12,000~10,200年前の遺跡から、複数の円形の小屋、墓、光沢のあるフリント、ガゼル、ダマジカ、イノシシ、アカシカ、ウサギ、カメなど爬虫類、魚類が出土している。多数の人が埋葬されており、高齢の女性と子犬が一緒に埋葬されていた。また、遺体の上には、骨、貝殻、石で作られた精巧な装飾品が置かれていた。

ナトゥーフィアン期に定住化が始まったことは、ネズミの分析からも報告されている。レヴァントのハツカネズミの種類の変化と臼歯の形状の変化から、ネズミが最初に人間の居住地の周辺に住みつきはじめたのは、15,000年前のナトゥーフィアン初期であるという。(*2)


Chronology (Left) and location (Right) of the archaeological contexts providing Mus zooarchaeological samples used in this study. Sizes of Mus M1 samples are given in the last column of the table. The base map was generated from Environmental Systems Research Institute (ESRI) map data using ArcGIS v.9.1; Esri, GEBCO, DeLorme, NaturalVue, United States Geological Survey, NASA, Esri Inc.(PNAS 2017. 114 (16) 4099-4104)

レヴァントのナトゥーフィアン期の遺跡には、光沢のあるフリント、大量の石臼と石杵、複数の住居跡、貯蔵穴、埋葬遺跡など、定住化を示唆する多くの証拠が存在する。また、ナトゥーフィアン期には、人口が増加したと考えられており、その証拠としては、大規模な共同墓地の存在がある。エル・ワド洞窟(El-Wad cave)で60~100人、ナハール・オーレン(Nahal Oren)では50人の遺体が見つかっている。

また、当時の、社会関係を示すものとして、貝製、骨製のビーズ、ネックレス、頭用の飾りなど、多くの装飾品の存在がある。穴のある貝は、海岸部から遠い内陸部でも出土しており、部族間で装飾品などの財が交換されていたことがうかがえる。


Reconstruction of el-Wad H 23(Garrod and Bate 1937)


Natufian boulder mortars in el-Wad Cave (after Anati 1963)

なお、栽培化について論争になっている遺跡として、テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra)がある。テル・アブ・フレイラは、ユーフラテス川中流の南岸に位置し、ナトゥーフィアン期と新石器時代(PPNB中期)の2つの層からなる。

テル・アブ・フレイラのナトゥーフィアン期の人口は、最大で100~200人と見積もられている。ライムギ、コムギ、ヒユ、マメ科、ピスタチオなど100種類の植物遺体、ガゼル、ムフロン、オナガー、オーロックス、ウサギ、キツネなどが出土している。

ナトゥーフィアン期のテル・アブ・フレイラでは、コムギなどの出土量が減ったこと、雑草が増えたこと、9個の粒の大きなライムギが出土したことなどから、ライムギの栽培が行われていたと論じている。この大粒ライムギのC14年代が13,000BPであったことから、ヤンガードリアス期の寒冷化によって、作物の栽培が始まったと主張した。(*3)

その後、テル・アブ・フレイラは放棄され、再び人の居住が始まるのは、9,400年前の新石器時代(PPNB中期)である。このときは、集落の大きさはナトゥーフィアン期に比べてはるかに大きく、8,000年前には、人口が4,000〜6,000人に達したと考えられている。

しかし、13,000前に穀物栽培が始まったという説を立証するには、証拠が少なすぎる。もし、ナトゥーフィアン初期にライムギの栽培が始まったのであれば、その生産システムを発明した人々は、食料獲得に有利なので、人口が増えるはずだ。人口が増えれば、周辺の地域にライムギの栽培文化が広がるのが自然である。ところが、周辺の地域では栽培化の証拠は見つかっておらず、テル・アブ・フレイラでは人口が増えるどころか、逆に居住地が放棄された。この場所が栽培に適する条件にあったことは、新石器時代に人口が急増していることからあきらかなので、ナトゥーフィアン期に居住地を放棄した理由を説明できない。

じつのところ、居住地が放棄されたのは、テル・アブ・フレイラだけではない。ナトゥーフィアンの前期から後期への移行期には多くの居住地が放棄され、後期ナトゥーフィアンの集落は小規模であったことがわかっている。ナトゥーフィアンから新石器時代への移行は連続的ではなかった。

文献
*1)Amaia Arranz-Otaegui, et al. (2018) Archaeobotanical evidence reveals the origins of bread 14,400 years ago in northeastern Jordan. PNAS, 115, 31, 7925–7930.
*2)Lior Weissbrod, et al. (2017) Origins of house mice in ecological niches created by settled hunter-gatherers in the Levant 15,000 y ago. PNAS 114 (16) 4099-4104.
*3)Gordon Hillman, et al. (2001) New evidence of Lateglacial cereal cultivation at Abu Hureyra on the Euphrates. The Holocene 2001 11: 383.
*4)藤井純夫ほか(2013)西アジア考古学講義ノート. 日本西アジア考古学会

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ケバラン:平衡テリトリー段階の管理狩猟採集/Kebaran: Managed hunter-gatherer in the equilibrium territory

旧石器時代と新石器時代の間の時代については、どのように呼ぶのかが、確定していない。イギリスやロシアの学者は、この時代を“Mesolithic”(中石器時代)と呼ぶが、それ以外の国では、“Epipalaeolithic”(終末期旧石器時代)と呼んでいる。

この時期は農耕が始まる直前であり、チャイルドやクラークのみならず、つねに議論の対象になってきた。どのような社会であったのかはっきりしていないが、終末期旧石器時代に建設が始まるギョベクリ・テペ遺跡(Göbekli Tepe)の存在は、すでに高度に組織化された「社会」や長期的な「規範」や「契約」が存在していたことを示している。また、ヒツジやウシの家畜化が始まる前から、キプロス島に、ムフロン、ベゾアール、オーロックス、イノシシ、ダマジカ、アカシカ、キツネなどが運びこまれていたことは、単に野生動物を捕獲するだけでなく、動物を管理していたことはあきらかである。

レヴァントの終末期旧石器時代は、Kebaran(ケバラン)、Geometric Kebaran(幾何学ケバラン)、Natufian(ナトゥーフィアン)に区分されている。これらの文化の概要は、以下のとおりである。

ケバラン:細石器、細石刃が作られたが、それらは非幾何学形である。
幾何学ケバラン:石器技術としては、台形、長方形、三角形、三日月形などの、幾何学形細石器が製作された。
ナトゥーフィアン:細石器、石臼、石杵などの磨製石器、装飾品、石壁の住居、貯蔵施設、埋葬、家ネズミの存在、人口の増加が報告されている。末期には、本格的な穀物の貯蔵と定住が始まった。


Trapeze-rectangle (1-3, 10-13, 15-21) of the Geometric Kebaran component within the late Natufian levels B-A3 at el-Khiam terrace, Judean desert (after Neuville, 1951, fig. 69).

ケバラン

一般に、終末期旧石器時代には、弓矢の使用とイヌの家畜化が広まったと考えられている。また、ケバランの人々の植物利用については、オハロⅡ遺跡で豊富な資料が出土しているが、それ以外では、あまり見つかっていない。

ガリラヤ湖東岸のエン・ゲヴⅢ(Ein Gev Ⅲ)では、15,000年前の礎石がある小型の小屋の跡や、埋葬された若い女性の骨格などが残されていた。また光沢のあるフリントの刃が出土しており、イネ科の植物が採集利用されていた。エン・ゲヴⅠから出土した動物の骨は、ガゼルが43%、アカシカとノロジカが36%、ヒツジまたはヤギが15.5%、ウシ4.5%、イノシシ1%であった。小屋では、このキャンプが数年間のあいだ、定期的に利用されていた形跡があり、同一の集団が季節的にキャンプを遊動しながら狩猟採集を行っていたと考えられている。(*1)

カルメル山の近くのナハル・オレン(Nahal Oren)では、ケバラン層(16,000年前)から出土した動物骨の77.4%をガゼルが占めている。それ以外では、ウシ3.3%、イノシシ2.6%、シカ1.1%、ヤギ0.1%などがあった。若いガゼルの骨の率が高いことから、ガゼルが家畜化されていたという説があるが、支持されていない。ナハル・オレンでは、時代とともに狩猟対象が変化しており、ケバラン初期にはダマジカは30~40%であったが、時代が下るにつれて14.9%まで減少した。一方、ガゼルは、ケバランとナトゥーフィアンの境界層では82.6%に増加した。なお、ナハル・オレンのケバラン層からは、64種の植物種子が出土しており、野生オオムギ、野生コムギ、イチジク、ブドウなどが含まれている。

ナハル・オレンのように、ガゼルの捕獲割合が増える傾向は、終末期旧石器時代のレヴァントのすべての場所でおきていたわけではない。たとえば、ベイルートに近いクサル・アキル(Ksar Akil)の終末期旧石器時代は、ダマジカ53%、ヤギ30%、ノロジカ15%、ウシ1%、ガゼル1%であった。さらに、ヨルダン高原のワディ・マダマグ(Wadi Madamagh)では、ヤギが82.7%を占め、ウシ、ガゼル、ブタ、ロバ、ウサギも捕獲された。

サン族

ここで、カラハリ砂漠の狩猟採集民であるサン族の生業スタイルを見てみる(*2)。サン族は、ひとつの遊動域に200~500人が生活している。サン族のもっとも小さな社会単位は家族であり、家族は夫婦と未婚の子供からなる。平均的な家族の数は5人ほどである。家族がいくつか集合して、キャンプを共にする。キャンプは1家族のときもあるし、20家族からなるキャンプもあるが、10家族ていどのキャンプがもっとも多い。キャンプの構成はきわめて流動的で、離散と融合をくり返す。

1か所のキャンプに留まる期間は、1週間から数週間で、1年間に移動する距離は300kmほどである。キャンプの場所はおおよそ決まっていて、植物性食物が豊富に得られ、薪や小屋の材料となる木が得られる場所である。キャンプへの移動は、毎年きちんと決まっているわけではなく、食物となる植物の生育状態に左右される。キャンプの人数が大きく、食べ物が豊富にあるときは、大規模なダンスや病気の悪霊払いが行われる。

仕事は分業化しており、男性は狩猟と道具の製作、女性は採集と料理を行うが、採集には男性も加わる。キャンプ地には動物が寄り付かないので、狩猟はキャンプから10~15kmの場所で行われる。採集は、キャンプから半径5kmの範囲で行われ、食料が少なくなると、次のキャンプに移動する。次のキャンプに着くと、以前のキャンプ跡の近くの適当な木立に小屋を作る。男性が樹を伐採して小屋の材料を集め、女性が数日かけて小屋を作る。小屋の入り口に近い外で、火を焚く。

狩猟は、おもに、弓矢による大型動物の捕獲と、ワナ猟による小型のカモシカなどの捕獲がある。弓矢による猟は、動物に気づかれないように近づいて、毒を塗った矢を射る。サン族の矢には矢羽根がないので、命中率が低い。矢が命中したら、数人の仲間を呼んで、動物の足跡をたどって追跡する。ワナ猟では、5~6個のワナを仕掛けて、毎日見回る。

採集は植物性の食物が中心だが、カメ、アリ、昆虫、小動物も対象になる。サン族が採集する植物は80種以上になるが、重要なのは11種である(表)。サン族は食料をほとんど貯蔵しないが、一度に背負うことができる量の豆と乾燥肉を貯蔵する。


おもな植物性食物の季節的移り変わり(source:ブッシュマン)

Citrullus lanatus:Watermelon:ツァマ・メロン、スイカ:重さ1kgで外観はスイカと同じだが甘みはない。水源として利用
Citrullus naudinianus:Gemsbok cucumber:アフリカのメロン
Bauhiuia macrantha:マメ科植物で豆は小さいので、はじけて落ちてしまうと収集できない
Bauhiuia esculenta:マメ科で豆は直径1.5cmの球形、はじけて落ちるが大きいので拾って収集できる
Terfezia sp.:desert truffles:シューロ:キノコでジャガイモのような形状、美味
Grewia flava:Brandy bush:2mほどの潅木で果実を食用にする
Grewia retinervis:1~3mの潅木で果実を食用にする
Ochna pulchra:Lekkerbreek:5 mほどの樹木で、腎臓形の漿果がなる
Cucumis kalahariensis:ウリ科植物で根茎を食用にする
Coccinia rehmannii:ウリ科植物で根茎を食用にする
Scilla sp.:シラー属で球根を食用にする

クラークは、サン族の狩猟について次のように書いている。「彼らは一般にお面をかぶり、ときには動物たちの啼き声を真似たりして、めざす犠牲に近づく」、「石はとりわけ掻石器(スクレイパー)やドリル形尖頭器ならびに細石器につくり、それらを樹脂で矢に装着して使った。彼等はなお、弓、槍、投棒および発火用のきねを作るのに木を、また矢柄用に葦と葭(よし)を、弓の糸に腱を、柄の先の方や矢の先端部に骨を、紐に木の皮の片を、衣服や容器に獣皮を、小玉(ビーズ)や容器に駝鳥の卵殻を用いていた」。(*3)

狩猟民が動物の仮面をかぶることは、世界中に痕跡が残っている。ヨークシャーの中石器時代のスター・カー遺跡からは、複数のアカシカの仮面が出土しており、フランスの15,000年前のトロワ・フレール洞窟の壁画には、仮面をつけた人が描かれている。クラークは、「世界の多くの部分における狩猟民の間では、仮面は獲物に忍び寄るためにつけられる。これは繁殖期にはとくに有効な方法で、雄は狩人の行動範囲内に容易にひきつけられる」としている。(*3)


スター・カー出土のアカシカの仮面(Author:Jonathan Cardy)


トロワ・フレール洞窟の壁画


スペイン レミギア洞窟

アボリジニ

アボリジニについても一瞥する。かつてのアボリジニの社会は、576の部族がそれぞれの領域を持ち、大陸を分割していた。一部族の人数は200~600人ほどで、部族人口の平均は500人とされる。部族はさらにいくつかの父系集団に分かれており、ふだんは、数家族を中心とした20~50人のバンドまたはホルドとよばれる集団で、領域内を遊動する。

それぞれの部族間の関係、あるいは、部族内の集団の構造と関係はきわめて複雑である。領域、言語、父系、母系、半族、トーテム、神話などによって集団と個人の関係が定められており、厳格な行動規範、婚姻規則、資源利用についての規範が存在する(*4)。アボリジニ社会の複雑な社会構造や厳格な社会規範の存在は、テリトリーの平衡がきわめて長期にわたって維持されてきたことを物語っている。

アボリジニの社会では、領域の占有者の了解なしに、狩猟や採集を行うことはできない。また、所属する領域の中であっても、以下のような厳格な食物規制が存在していた。(*5)
・自分のトーテムおよびドリーミングの動物を食べない
・異性の兄弟姉妹は忌避関係であり、姉妹は兄弟が捕獲した獲物を食べることは禁止
・クビナガガメなどは雨季には食べず、サメなどは乾季にしか食べないなど猟期の規制
・若者はある特定の動物の狩猟が禁止
・近縁の親族が死亡したとき、特定の動物を一定期間食べない
・女性は、月経、妊娠、授乳期などの時期ごとに、爬虫類、鳥類など特定の動物を食べない
・筌(うけ)猟で得られた最初の獲物を食べられるのは、老人、成人儀礼まえの子供、子供を2人以上もつ女性
・ガンの卵狩りの最初の猟で得た卵を食べられるのは、老人、子供を2人以上もつ女性、幼児
・食物規制がないのは、成人儀礼まえの子供と、すべての儀礼をおえた老人

採集の仕方にも決まりがあった。「彼らはイモのツルをみつけるとその根もとからロート状に掘りすすみ、ヤムイモをとりだす。そのあとツルがついたイモの頂部を切りとり、再びその同じ穴に埋めもどしていた。この場合は、落葉などが堆積して腐葉土ができやすいようにするため、穴を完全に埋めることはしなかった」。(*5)

食料の貯蔵については、生きたまま一時的に貯蔵できる唯一の動物はクビナガガメで、数十匹のカメを穴などにたくわえておく。これは、雨季になり長雨で狩りができないときの食料にする。(*5)

「拡散段階の狩猟採集」と「平衡テリトリー段階の狩猟採集」

人が足を踏み入れたことがない無人の地を進むのであれば、野生の動物や植物を捕獲採集するのはまったく自由であろう。このような生業スタイルを、「拡散段階の狩猟採集」とする。一方、定住せずに領域内を遊動する非貯蔵社会であっても、平衡テリトリーが安定しているばあいは、テリトリー内の資源の採取権、狩猟権、採集権は確立している。これは私的な所有権とは異なるが、集団による所有権と同じ意味を持っている。現代の国家で言えば、私的所有権の上位にある領有権のようなものだ。

草原でガゼルやカンガルーなどの野生動物が自由に草を食んでいるように見えても、その動物には、持ち主が存在している。野生の動物や植物であっても、その領域を占有する集団の了解がなければ、捕獲採集することは許されない。このような生業スタイルを、「平衡テリトリー段階の狩猟採集」と呼ぶことにする。「拡散段階の狩猟採集」と「平衡テリトリー段階の狩猟採集」は、所有権の有無がまったく異なるだけでなく、狩猟や採集の方法が異なる。

平衡テリトリーで行われる狩猟や採集は、「管理狩猟」であり「管理採集」である。じっさいに、管理された狩猟と採集は、古代社会においても現代の社会においても広く見られる。狩猟や漁撈では、産卵期や繁殖期に捕獲しない、必要以上に捕獲しない、幼体は捕獲しない、若いメスを捕獲しないなど、猟期、捕獲量、捕獲対象についてさまざまな制限がある。

植物の採集についても、採集期と採集量の制限、採集対象の保護、採集後の保存などの習慣が広く存在している。
「山には所有者があるが、山菜をとるためにはどこの山でも無断で入ってよい。しかし、山の行儀は正確に守らなければならない。つまり、山菜や野草の命を絶やさないことである。ゆりややまいもを掘ったときは、鱗片の一部を埋め、やまいものむかご三粒を穴に埋めもどす。たらの木の芽をかくときも必ず一芽残し、追芽(後から出る芽)は欠かない。(田沢湖町)」(*7)

また、三内丸山では縄文前期末~中期に、台地斜面から台地縁付近にほぼクリの純林が形成されていたと推定されている(*8)。このことは、縄文時代にクリを栽培していたことの証拠にはならないが、当時の人々がクリを保護していたことは確実である。

なお、このような、植物の栽培化前の段階を「半栽培段階」として、はじめて言及したのは、中尾佐助である。
「自然生態系を人間が撹乱、破壊すると、それに植物の側が反応して、突然変異などの遺伝的変異も含めて、新らしい環境への適応がおこる。そうした植物の中から、人間が利用をはじめると、植物の側から適応力を更に進めていくこともおこり得る。こうしたことが何千年も積みかさなると、狩猟採集の段階でも、人為的環境の中で経済がいとなまれることになる。その段階では人間は意識的に栽培をすることはなくても、農耕の予備段階に入ったと言えよう。それは広義の半栽培の段階とも言えよう。或いはもっと適格に言えば、生態系撹乱段階と言ってもよいだろう。こうして生態系撹乱をして、新らしい環境に適応したものの中から、有用なものを保護したり、残したりするようになると、これはもうはっきりとした半栽培段階と言ってよいだろう。パラゴムやウスリーナシにその例は見られる。この段階に入ると、植物の品種改良が進行し、また意識的に人為伝播がおこってくるとしてよい」(*9)

レヴァントのケバラン期において、場所によって捕獲対象に違いがみられるのは、平衡テリトリー内で部族ごとに管理狩猟が行われていたためであろう。自分たちのテリトリー内でしか捕獲できなければ、テリトリーに固有の動物の捕獲が多くなる。また、ナハル・オレンで若いガゼルの骨が多いのは、狩猟方法によるのかもしれない。ガゼルの仮面をつけて繁殖期の群れに近づけば、なわばりに入り込んだオスと間違えて狩人に近づいてくる若いオスを捕獲する確率が高くなるであろう。草食動物の群れの繁殖数を左右するのは、メスと少数のオスである。若いオスが選択的に捕獲されれば、群れの個体数は減少しないので、長期にわたってガゼルを捕獲することが可能となる。

補足
中尾佐助の業績はもっと評価されるべきと思うが、「自然生態系を人間が撹乱、破壊すると、それに植物の側が反応して、突然変異などの遺伝的変異も含めて、新らしい環境への適応がおこる。そうした植物の中から、人間が利用をはじめると、植物の側から適応力を更に進めていくこともおこり得る」という表現には違和感を覚える。そのように見えるだけである。突然変異は生物が環境に反応しておこるわけではなく、自己複製のたびにランダムに起きる。また、生物が主体的に適応力を進めるわけでななく、自然選択の結果、生き残った遺伝子が生き残る。

文献
*1)James Mellaart. (1976) Neolithic of the Near East. Macmillan Pub Co; First Edition edition
*2)田中二郎.(1971)ブッシュマン. 思索社
*3)G. クラーク, S. ビゴット.(1970)先史時代の社会. 法政大学出版局
*4)門口充徳.(2014)アボリジニ社会から構造主義へ. 成蹊大学文学部紀要第49号
*5)松山利夫.(1994)ユーカリの森に生きる. NHKブックス
*6)小山修三.(1992)狩人の大地. 有山閣出版
*7)藤田秀司ほか.(1986)聞き書 秋田の食事. 農山漁村文化協会
*8)吉川昌伸.(2011)クリ花粉の散布と三内丸山遺跡周辺における縄文時代のクリ林の分布状況. 植生史研究第18巻第2号
*9)中尾佐助.(2004)中尾佐助著作集第Ⅰ巻農耕の起源と栽培植物. 北海道大学図書刊行会

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