新石器革命論、伝播主義、生態学的アプローチ

ゴードン・チャイルドの新石器革命論

ゴードン・チャイルド(1892-1957)は、オーストラリアのシドニーに生まれ、シドニー大学とオックスフォード大学で考古学を学んだ。在学中に熱心な社会主義者になり、卒業後に労働党出身の州長官の秘書として活動していた。1921年にロンドンに移り、王室考古学研究所の図書館員になった。1925年に、“The Dawn of European Civilisation”(ヨーロッパ文明の夜明け)を出版し、1927年にはエジンバラ大学に移って、オークニー諸島のスカラ・ブレイ遺跡を発掘して大きな業績を残した。


House 1 of Skara Brae(Author:Wknight94)

1936年に、“Man makes himself”(文明の起源)を発表し、1940年にロンドン大学先史ヨーロッパ考古学教授に就任、1942年には“What Happened in History”(歴史のあけぼの)を出版した。チャイルドが提唱した新石器革命論は、世界の考古学、歴史学に大きな影響を与えた。1956年にロンドン大学を辞し、シドニーで引退生活を送っていたが、1957年にブルー山脈中の崖から身を投げて自死した。

チャイルドは、文化史(先史考古学)に、マルクスの唯物史観を導入したことで知られている。

「考古学は、人間の経済や社会的生産制度における急激な変革を追及できるし、また追及するものである」、「考古学は、経済制度の変化や生産手段の改良を観察し、これを年代順に示すことができる。考古学者は先史時代を石器時代、青銅器時代および鉄器時代に三分しているが、・・かれらは、物のきる道具、とくに斧(そしてこの道具はもっとも重要な生産道具の一つである)につかった材料にもとづいている。唯物史観は、社会制度や経済組織の形式を組たて、これを決定するにあたって、生産道具の重要性を主張する」(文献1)

チャイルドが立脚したもうひとつの原理は、進化論である。

「歴史家のいう『進歩』とは、動物学者のいう進化と同種のものである、といっていい。ここで、のぞましいことは、動物学の規則に適用できる標準は、動物学者とか、そのほかの自然科学者の特徴とする公平さや客観的判断を歴史家にもたせるかもしれないことである。さて、生物学者にとって、進歩は(もしこの言葉をつかうとすれば)生存競争における成功を意味することになっている」(文献1)

また、イギリスの産業革命を例にして、旧石器時代から新石器時代への変遷を『革命』と位置づけた。

「歴史上の変革は、それが、われわれ人類の存続と繁殖に役だった度合いによって、判定できる。これは人口表に、あらわすことのできる数字上の標準である。歴史上、われわれは、この数字の標準を直接に応用できる事件にであっている。そのもっとも、いちじるしい例はイギリスの『産業革命』である」


イギリス本国の人口概算表(1500-1800年)(参考:『文明の起源』)

「この数字と曲線の教訓に注意すれば、人類最古の時代にも別種の『革命』があったことを、看破することができるであろう。この『革命』は『産業革命』と同じ工合いに、すなわち人口曲線の上昇のような形であらわれているが、これも、おなじ標準から判定されなくてはならない。本書のおもな目的は、この角度から先史学と古代史を考察することである」(文献1)

そして、「新石器革命」を次のように定義する。

「人類の経済を変えた第一の革命(新石器革命)によって、人類は自分の食料供給を支配するようになった。人類は栽培と耕作をおこない、また食用の雑草、根茎および木をえらびだして、改良をはじめた。また、できるかぎり、ある種の動物に飼料をやり、保護をくわえ、めんどうをみてやった結果、その動物をならして、密接に、自分にむすびつけることに成功した」

新石器革命の特徴として以下の点を列挙している。

磨製石斧:食料生産者の最古の居住地に発見されるが、農耕の無かった時期のバルチック沿岸でも見つかるし、逆に穀物を生産していたナトゥーフ期人は斧を持っていないため、確実な指標ではない。

土器:新石器時代の共同体の一般的な特徴は壷の製作。ただし、ナトゥーフ期人はこれをつかわなかった。

織物:エジプトや西南アジアの新石器時代の遺跡では、亜麻などを材料にした織物の痕跡が見つかる。

村落:新石器時代の村の住居はバラバラでなく、キチンとした秩序で配置されている。共同体の活動を調整するための社会機関があったことを意味する。

なお、チャイルドはマルクス主義者らしく、「われわれは『新石器時代の体制』や『新石器時代の宗教』についての記述はこころみない。こうしたものが存在したことは本当にありそうもない」、「根強くしみこんだ習慣や、熱狂的に信じられた迷信は、社会の変革や、これを必要とする科学的進歩にたいして、あきらかに有害である」と論じている。

今日から見れば、チャイルドのマルクス主義の唯物史観、すなわち労働価値説および余剰価値説によって、古代の社会の構造や変化を説明することは、かなり無理がある。

チャイルドは、当時の「文化移動論者」(太陽巨石文化説)や「ドイツ歴史学派」(ウィーン学派、文化圏説)などの伝播主義を、非科学的であると批判した。さらに、「ヒットラー氏と御用学者たちが公然と説明するファシスト哲学は―しかし、これはときどき、イギリスやアメリカでは優生学というマスクをかぶっているが―進歩というものを、神秘的に表現された生物学上の進化と、まったくおなじもの、とみている」と、優生思想を厳しく批判している。

伝播主義

伝播主義は、19世紀末~20世紀前半に、ドイツ、オーストリア、イギリス、アメリカなどで盛んになった人類学の立場である。伝播主義では、異なる文化の間の共通性や類似を、人の移動、あるいは文化の伝播の結果と考える。

代表的な理論の一つに、ウィーン学派の「文化圏説」がある。文化圏説は、ドイツのフロベニウスによって民族学の理論として導入された。つづいて、歴史家のフリッツ・グレープナーは、『民族学方法論』(1911)を著して、様々な民族が、共通の起源から発生したとする進化論(単一起源説)に反論した。その後、文化圏説はドイツ、オーストリアで発展し、ウィーン学派のヴィルヘルム・シュミット(1868-1954)が、『神の思想の起源』(1912-1955)を著した。

シュミットはローマ・カトリック教会の司祭で、ベルリンとウィーンで言語学を学んだ。東南アジア、オーストラリア、オセアニアの言語を研究するなかで、すべての部族には、創造神である原始一神教が存在し、それぞれの文化圏が発展する過程で、多神教が発生した主張した。

一方、イギリスでは、マンチェスター大学の解剖学者のエリオット・スミスとペリーが、世界の文明の起源は古代エジプトであり、世界中の巨石文化などの遺物は、太陽崇拝のエジプトの巨石文化民族が移動して成立したと主張した。これは、「太陽巨石文化説」と呼ばれて大衆には人気があったが、人類学者からは実証に基づかない空論と批判された。

アメリカでは、ボアズと弟子のクローバー、ウィスラーらが、限られた地域内での緻密な分布研究を基に、人の移動や文化の伝播が、文化の成立に果たした役割を実証的に示した。しかし、その後、人類学における伝播主義の影響力は小さくなっていった。

グレイアム・クラークの生態学的アプローチ

チャイルドの新石器革命論に対し、同じ考古学者として批判したのは、グレイアム・クラーク(1907-1995)である。クラークはケンブリッジ大学ピーターハウス・コレッジで学び、同大学のディズニー教授、ピーターハウスのフェロー、学長の要職を長く務めた。クラークは、ヨークシャーのスター・カーの発掘調査(1949-1951)で大きな業績をあげた。

スター・カーは、ヨークシャーの中石器時代の遺跡である。数家族の狩猟民のキャンプ地跡で、最終氷期の氷床が解けて浸水したため、湖底に大量の遺物が残されていた。骨角製遺物をはじめ、多くの有機物が保存されており、気候、植生、動物相などの多岐にわたる情報が得られ、当時の生態環境の復元が可能となった。クラークらは、環境学的、生態学的な手法で総合的な調査を実施し、その後の考古学研究に大きな影響を与えた。


Star Carr collection at Yorkshire museum – mesolithic spear tips from the earliest known post glacial settlement in England(Author:Jonathan Cardy)

クラークは、チャイルドの新石器革命論=「経済や社会的生産制度における急激な変革」に対し、次のように述べる。

「先史時代の人間がコムギ、オオムギあるいはコメ、トウモロコシ、マニオク、カボチャ、マメなどを管理可能な栽培植物として育て始めたまさにその時、突如として新しい次元が開け文明化が可能となったと考えるのは誤りであろう」(文献3)

「インド、中国あるいは西南アジアの最古の農耕社会を理解するためには、先行する先史社会を充分に解き明かす必要がある。世界のあらゆる場所で高文明を支える基礎を敷いた先史時代―中石器時代ないし中間期―を、今や徹底的に調査する必要が生じている」(文献3)

チャイルドの新石器革命論以後、多くの考古学者や人類学者の調査により、新石器革命の理論と一致しない例が数多く存在することが明らかになってきた。たとえば、農耕を行わず、狩猟と採集を生業としていたにもかかわらず、きわめて精巧な土器を製作したり、大きな定住集落が存在した日本の縄文文化は、新石器革命論では説明がつかない。

さらに、農学者のジャック・ハーラン(1917-1998)の実験がある。ハーランは、トルコ南東部の野生コムギが自生する地域で、石器で作った鎌を使用して収穫実験を行った。結果は、野生ヒトツブコムギの1時間当たりの収穫量は、2ポンド(0.9kg)以上であった。これは、狩猟採集民の一家族が、3週間ほど野生コムギの採集をすれば、1年間食べていくのに十分な量である。(文献4)

労働価値説および余剰価値説に基づく唯物史観では、生産力の発展に応じて生産関係が発展するはずである。つまり、狩猟採集民が、狩猟採集社会の状態にあるのは、生産力が小さいためと説明される。ところが、中東の狩猟採集民は、十分な余剰価値を生み出すほど生産力が大きかったにもかかわらず、新たな生産関係に発展しなかったことを意味している(これについては後述)。

文献
1)ゴードン・チャイルド、1936、文明の起源、岩波書店、1951
2)アラン・バーナード、人類学の歴史と理論、明石書店、2005
3)グレイアム・クラーク、中石器時代、雄山閣出版、1989
4)Harlan, J.R., A wild wheat harvest in Turkey, 1967

堆肥と土壌の作り方: 身近な有機物を利用する
電子園芸BOOK社 (2016-09-19)
売り上げランキング: 48,473

 

 

広告

文化相対主義、機能主義:Cultural relativism, Structural functionalism

フランツ・ボアズ

19世紀の進化主義の隆盛に対して、文化相対主義を提唱したのは、フランツ・ボアズ(1858-1942)である。ボアズは、ドイツの自由主義的なユダヤ人夫婦のもとに生まれ、両親は、ボアズの自由主義、平等主義的な思想形成に影響を与えた。長じてボン大学やキール大学で物理学、数学、地理学を学んだ。大学生のときに、反ユダヤ主義者と決闘して傷を負い、人類の単一起源説を強く支持していた。

大学院の1883年に、イヌイットの調査を行うために、カナダ北東部のバフィン島を訪れたが、調査の過程で、食料、住居、病気などの困難をすべてイヌイットに頼らざるを得なかった。バフィン島での経験から、非西洋文化の研究に強い関心を持つようになった。

1885年にアメリカに移住し、博物館勤務、サイエンスジャーナルの副編集長、大学勤務などを経て、1896年にコロンビア大学で人類学の講師のポストを得た。1899年には、人類学の教授に昇進した。当時のアメリカの人類学は、モルガン以来の文化進化論が主流であり、ボアズはこれらの進化主義、人種主義を厳しく批判した。

1911年に” The Mind of Primitive Man “(未開人の心)の発表し、未開人も文明人もその心や知性は同等であり、その文化は平等であると唱え、台頭しつつあった人種差別主義と優生思想に対抗した。なお、ボアズはダーウィン進化論の支持者であったとされている。

ボアズはコロンビア大学で、ロバート・ローウィ、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミードなど、多くの弟子たちを指導した。ベネディクトの” The Chrysanthemum and the Sword”(菊と刀、1946)は、日本でもよく知られている。


The Chrysanthemum and the Sword

ボアズとその弟子たちは、20世紀のアメリカの人類学研究の中心的存在となり、長きにわたって大きな影響をおよぼした。

機能主義

機能主義では、社会は体系的に構造化されており、その機能体系は生物学的有機体に類似していると論じる。ユダヤ系フランス人で社会学者のデュルケム(1858-1917)は、機能主義的かつ進化論的立場をとっており、社会はさまざまな機能を有する部品からなり、それぞれの部品が進化して多様性を増すと考えていた。その後、ラドクリフ=ブラウンとマリノフスキは、進化論的立場をはなれ、同時代的な機能主義に純化していった。

ラドクリフ=ブラウン(1881-1955)はケンブリッジ大学で学び、アマンダン諸島とオーストラリアでフィールドワークを行ったのち、『アマンダン島人』(1922)として発表した。彼は、親族関係、宗教、政治などの社会制度は、個々の身体の器官のようであり、全体として健康な身体のように、社会体系の中で機能すると主張した(構造機能主義)。ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は、レヴィ=ストロースの構造主義人類学にも大きな影響を与えている。

なお、ラドクリフ=ブラウン自身は、自分が機能主義者であることを否定し、マリノフスキの機能概念と自分の機能概念を区別していたという。


Andamanese,1875

ブロニスワフ・マリノフスキ(1884-1942)は、ポーランド生まれで、父は貴族でスラブ語の教授であった(幼いうちに死んでいる)。大学で物理学と数学を学んだが、フレーザーの『金枝篇』を読んで影響を受け、民族学を志した。1910年からロンドンで学び、1914年にオーストラリアへ野外調査に出かけた。第一次世界大戦が始まったため、結果として6年間にわたってオーストラリアに滞在し、長期のフィールドワークを行った。1922年にトロブリアンド諸島の調査をまとめた『西太平洋の遠洋航海者』を発表すると、大きな反響を呼んだ。マリノフスキは、現地の言葉を用いて「参与観察」による長期のフィールドワークを始めて実施し、その後の人類学に大きな影響を与えた。


Picture of Bronislaw Malinowski with natives on Trobriand Islands(Author:likely Billy Hancock)

堆肥と土壌の作り方: 身近な有機物を利用する
電子園芸BOOK社 (2016-09-19)
売り上げランキング: 22,626

農耕の起源と進歩主義・進化主義:Origin of agriculture and progressivism・evolutionism

農耕の起源をめぐる論争

農耕の起源をめぐっては、昔から激しい論争が交わされてきたし、現在も続いている。洋の東西を問わず、人間の社会は「野蛮」「未開」から「文明」に向かって「進歩」「発展」するという価値観と、それと反対の意見が存在する。人類学の分野でも、実証的な議論だけでは話が済まず、「人種」、「民族」、「宗教」、「文化」、「倫理」など、人によって立場や見解が異なる価値観が入り込む。

農耕の起源をめぐって、もっとも重要な学説の一つに、ゴードン・チャイルド(1892-1957)の「新石器革命」がある(文献1)。チャイルドの新石器革命論は、考古学、歴史学、言語学などの人類学に大きな影響を与えた一方で、強い反対意見がある。たとえば、ベストセラーになった、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(1997)では、農耕の起源について長々と書いているにもかかわらず、チャイルドの名前も新石器革命という言葉もまったく出てこない。(文献2)

オーストラリアの考古学者のピーター・ベルウッドは、『農耕起源の人類史』(2005)の序文で、そのあたりの事情を率直に吐露している。

「人類先史における農耕民の拡散の重要性を真剣に考え始めたのは1980年代のことである。その頃、ゴードン・チャイルドの『新石器革命』に反発する考古学者たちは、初期農耕は非常に時間がかかり、遅々として進まないものとみなしていた。世界中のすべての人々はそのはじまりからほとんど定住生活にちかい状態にあり、その文化的特徴は本質的に、それぞれが独立した起源地に生じ、その後ももっぱらその起源地周辺での発達によって変化をとげるという考えが、考古学徒たちのあいだでは支配的であった。西洋の学問において、とりわけ帝国主義時代に犯した罪への告発が強まった時代には、文化は本来進化し競いあうものであったが、差別への反省からか、さまざまな文化を鏡の表面のように均質なものにしてしまった・・」(文献3、翻訳の語順がややおかしいが・・)

ベルウッドの本の原題は、『First Farmers: The Origins of Agricultural Societies(最初の農民―農耕社会の起源)』である。しかし、「・・そうした農耕の中心地を列挙しようがしまいが、食料生産への依存度が増すに連れ人口集中を生み出す傾向にあり、最終的に人口拡散にいたると私は推測している。本書は農業起源それ自体よりも、農業がおこった結果についてあつかっている」と、タイトルにしている「農耕の起源」というよりも、「農耕の拡散」についての本であると述べている。さらに、「それでも私は確固たる意志をもてずにいた」と書き添えている。

これほどベルウッドが慎重に言葉を選んで、自説の発表をためらうのは、「同僚」の人類学者たちの、「進化主義」、「伝播主義」に対する根強い反発のためである。なお、ベルウッドがケンブリッジ大学で考古学を学んでいたときの学科長は、旧石器・中石器時代の考古学者として高名なグレイアム・クラーク(1907-1995)である。(後述)

日本人は、欧米の人類学者たちの厳しい論争の外にいるために、ベルウッドの逡巡を理解しにくい。『農耕起源の人類史』の監訳者の1人の佐藤洋一郎氏は、解題で次のように書いている。「農業を発明した人びとが、先住民と交流を繰り返しながら結果としてさまざまな言語を世界にひろめていった―これが本書の大きな仮説の一つである。・・しかしこの仮説には、『仮説』と大上段に構えるほどのインパクトがあるのだろうか。・・日本人であるわれわれにはこのことはさほど不思議なこととは思われない。というのも、日本人の多くは、弥生時代のはじめに大きな人の集団が水田稲作の技術と水稲をたずさえて渡来した、と考えてきたからである」(文献3)

進歩主義、進化主義

ヨーロッパで人間社会の進歩や発展についての思想が鮮明になるのは、ホッブズ、ロック、モンテスキュー、ルソーらをはじめとする17~18世紀の啓蒙思想である。なお、ホッブズ(1588-1679)の同時代には、デカルト(1596-1650)がおり、やや遅れてスピノザ(1632-1677)がいる。彼らは真理の源泉を神ではなく自然、理性、思考に求めた。そして、それ以前には、ガリレオ(1564-1642)やコペルニクス(1473-1543)がいる。

ホッブズは、人間の自然状態は闘争状態であり、自己保存のための暴力的な行動は自然権であるとした(『リヴァイアサン』1651)。

To this war of every man against every man, this also is consequent; that nothing can be unjust. The notions of right and wrong, justice and injustice, have there no place. Where there is no common power, there is no law; where no law, no injustice.
「すべての人に対する、すべての人の闘争は、これもまた必然である。それは不条理ではない。正しいと正しくない、正義と不正義の概念は、そこには存在しない。権力が存在しないところでは、法は存在しない。法が存在しないところでは、不正も存在しない」(文献4)

個々人が自然権を行使することの帰結は果てしない戦闘しかないので、理性によって個々の自然権を制限する自然法が導かれる。自然法に従って、人々は、各々が保持する自然権を一人の主権者に委ねることを契約すると説いた。


The frontispiece of the book Leviathan by Thomas Hobbes

一方、ルソー(1712-1778)は、自然状態の人間(野生人)は、子供のように無知で進歩しなかったが、理性を獲得すると農業や法律が発達し、不平等が生じたと論じた。(『人間不平等起源論』1755)

Let us conclude then that man in a state of nature, wandering up and down the forests, without industry, without speech, and without home, an equal stranger to war and to all ties, neither standing in need of his fellow−creatures nor having any desire to hurt them, and perhaps even not distinguishing them one from another・・・
「自然の状態の人間は、森の中をさまよい、勤勉さはなく、話さず、そして家庭もない。見知らぬ人と戦闘することも、結束することもない。仲間を必要とせず、誰かを傷つける欲求もなく、そして、おそらく互いを区別しないことさえある」(文献5)


Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité parmi les hommes

19世紀にはいると、フランスでは、サン・シモン(1760-1825)が社会主義を構想し(『産業階級の教理問答』1823)、その弟子のオーギュスト・コント(1798-1857)は社会構造の発展を理論化した(『実証哲学講義』1830)。コントの理論は、スペンサーやマルクスに強い影響を与えた。

同じころ、デンマークのクリスチャン・トムセン(1788-1865)は、石器時代→青銅器時代→鉄器時代の3時代区分を初めて提唱している(『北方古代文化入門』1836)。

イギリスでは、ハーバート・スペンサー(1820-1903)が『発達仮説』(1852)をはじめとする多くの論考を発表し、社会進化論を創始した。スペンサーは生物進化の理論を社会学に応用しようとした。

一方、牧師になるためにケンブリッジ大学で学んだダーウィン(1809-1882)は、1831年から1836年にかけてビーグル号の航海に参加した。ダーウィンは、それまでは、神による天地創造を信じていたが、航海中にチャールズ・ライエルの『地質学原理』を読み、地層や地形は長い時間をかけて変化することを知った。そして、神による生き物の創造説に疑念を持つようになり、動物や植物も時間をかけてわずかな変化が蓄積するのでないかと考えるようになった。1838年にはマルサスの『人口論』(1798-1826)を読み、また、スイスの植物学者のカンドールが提唱した「自然の戦争」の概念などから、自然選択の理論を得た。

Hence, as more individuals are produced than can possibly survive, there must in every case be a struggle for existence, either one individual with another of the same species, or with the individuals of distinct species, or with the physical conditions of life. It is the doctrine of Malthus applied with manifold force to the whole animal and vegetable kingdoms;
「したがって、生存可能な個体数より多くの個体が生産されるにつれて、同じ種の別の個体、または異なる種の個体、または生命の物理的状態と、生存のための闘争が存在しなければならない。これは、マルサスの理論であり、すべての動物界と植物界の多方面に、その理論を適用している」(文献6)

ダーウィンは、1859年に『種の起源』を発表したが、はじめは「進化」(evolution)という用語を用いておらず、「変異した系統」(descent with modification)という言い方をしていた。「evolution」は巻物を転がして広げるという意味だが、これを「進化」という意味で最初に使ったのはスペンサーである。「進化」(evolution)が、『種の起源』に登場するのは第6版からである。さらに、「適者生存」(survival of the fittest)もスペンサーが使用した用語であり、『種の起源』に登場するのは第5版からである。


Charles Darwin’s 1837 sketch, his first diagram of an evolutionary tree from his First Notebook on Transmutation of Species (1837). “I think case must be that one generation should have as many living as now. To do this and to have as many species in same genus (as is) requires extinction . Thus between A + B the immense gap of relation. C + B the finest gradation. B+D rather greater distinction. Thus genera would be formed. Bearing relation” (next page begins) “to ancient types with several extinct forms”

また、ドイツでは、ヘーゲル(1770-1831)が観念論哲学、弁証法的論理学、政治哲学を体系化した。ヘーゲル弁証法とフォイエルバッハの唯物論を継承したマルクス(1818-1883)は、『経済学批判』(1859)、『資本論』(1867)を発表して弁証法的唯物論を唱えた。

マルクスはダーウィンの『種の起源』を高く評価していたが、ダーウィンの進化論は、マルクスが毛嫌いした保守派のマルサスの『人口論』から生まれたことは皮肉である。

マルサス(1766-1834)は、プロテスタントの牧師であり、保守派の経済学者だったが、マルサスの父親は弁護士で植物学者のダニエル・マルサスで、ルソーとも親交があった啓蒙主義者であった。マルサスが『人口論』を書いたのは、自分の父親やニコラ・ド・コンドルセやウィリアム・ゴドウィンなど、啓蒙主義者や社会革命推進派への反論のためであった。コンドルセ(1743-1794)は、1789年のフランス革命ではパリ・コミューンに参加し、啓蒙主義者、共和主義者として当時を代表する思想家である。1795年に『人間精神進歩の歴史』を書いて、コントをはじめ19世紀の社会主義者に大きな影響を与えた。

このため、マルサスの『人口論』をもっとも激しく攻撃したのは、マルクスやプルードンをはじめとする社会主義者であった。とくにマルクスは『資本論』のなかで、マルサスを口汚く罵倒している。(文献7)

ダーウィンの『種の起源』は、生物学のみならず、社会学、考古学、民族学、人類学などに多大な影響を及ぼした。「新石器」という言葉を最初に使ったのは、ダーウィンと親交が深かった考古学者のジョン・ラボック(1834-1913)である。ラボックの生家の隣には、ダーウィンの住まいがあり、頻繁に行き来していた。ラボックは、ダーウィン進化論を人類の進化にも導入して、人間集団は、自然淘汰の結果、その文化のみならず、生物的な能力も変化すると主張した。そして、ヨーロッパの先史時代の石器の年代や製作技術の面から、「旧石器」、「新石器」という二つの段階を規定した(『先史時代』1865)。

なお、同じころにフランスのG・ド・モルティエ(1821-1898)も、ヨーロッパの先史時代には一つの文化的断絶があることを主張し、その相違を15項目にわたって列挙した。この主張は当時の学会に強烈な影響を与え、その後の多くの考古学者が、ヨーロッパの先史時代には、明確な断絶が存在すると考えるようになった。

人類学の草分けであるエドワード・バーネット・タイラー(1832-1917)は、ダーウィン進化論から敷衍して文化や宗教の進化(進歩)を想定した。タイラーは、宗教は最も原始的な自然崇拝から始まり、死者や呪物崇拝を経て多神教が成立し、最後に一神教へ進化したと論じた(『原始文化』1871)。

タイラーに影響を受けて人類学、民族学の道に進んだジェームズ・フレイザー(1854-1941)は、おびただしい数の未開社会の呪術、神話、信仰、風習、宗教を収集し、『金枝篇』(1890-1936)を著した。

アメリカではルイス・ヘンリー・モーガン(1818-1881)が、インディアンの民族学的な調査をもとに、『古代社会』(1877)を著した。モルガンは、人類の社会発展は、野蛮―未開―文明の三段階に分けられると主張し、アメリカの人種差別政策を正当化した。

エンゲルスは、『空想より科学へ』(1880)のなかで、「ダーウィンは、今日の一切の有機的自然、植物も動物もしたがってまた人間も、幾百万年にわたる絶え間ない進化の過程の産物であることを証明し、それによって自然についての形而上学的な見方に強烈な打撃を与えた」と書いている(文献8)。また、マルクスとエンゲルスは、モーガンの『古代社会』に大きな影響を受け、エンゲルスは、これをもとにして、『家族・私有財産・国家の起源』(1884)を書いた。

こうした、社会の進歩主義、進化主義の思想は、列強諸国の帝国主義政策、植民地支配、教化政策、イデオロギーの正当性を学問的に支えるものとなった。

さらに、ダーウィン進化論を、人間の改良にまで拡大解釈したのが優生学である。優生学という用語を初めて使ったのは、ダーウィンの従兄で、遺伝学、統計学者であったフランシス・ゴルトン(1822-1911)である。ゴルトンは、進化論をもとに、「遺伝的に優良」な人間の子孫を増やし、「劣悪」な人間は子孫を残さないようにすれば、より良い社会が実現できると主張した(『遺伝的天才』1869)。

その後、優生運動はアメリカ、イギリスで盛んになり、アメリカでは1907年に断種法が制定され、梅毒患者、性犯罪者、知的障害者らに対する断種が行われた。1930年代には、ナチスドイツの優生政策、人種政策に利用され、人類の尊厳と生存に甚大な被害を与えた。

文献
1)ゴードン・チャイルド、1936、文明の起源、岩波新書、1951
2)ジャレド・ダイアモンド、1997、銃・病原菌・鉄、草思社、2000
3)ピーター・ベルウッド、2004、農耕起源の人類史、京都大学学術出版会、2008
4)Thomas Hobbes, Leviathan, 1651(リヴァイアサン)
5)Jean-Jacques Rousseau, Discourse on Inequality, 1755(人間不平等起源論)
6)Charles Darwin, The Origin of Species, The sixth edition, 1872
7)Karl Marx, Capital, 1867
8)フリードリヒ・エンゲルス、1880、空想より科学へ、岩波文庫、1966

有機農業と未来: アメリカの有機農業から何が見えるか
本田進一郎 (2016-02-13)
売り上げランキング: 26,575

栽培植物の起源神話:Myths about the origin of cultivated plants

世界に存在する栽培植物の数は、花卉類を除いて1500種以上と言われている。イネ、コムギ、オオムギなど、栽培の歴史が長い作物では、品種の数が1万以上あり、栽培植物の品種の総数は、数十万におよぶ。また、植物だけでなく、イヌ、ウシ、ブタ、ヒツジ、ヤギ、ウマ、ニワトリなどの家畜やミツバチ、カイコなどの飼育昆虫も存在する。

野生の植物から、栽培種を作り出すのは、簡単なことではない。もっとも基本的な育種の方法は、植物の中から、目的にあった性質の個体を選択し、その種を播いて選択を繰り返す方法である。目的の性質とは、食用の栽培植物の場合では、食用部位が大きい、美味、子実が脱落しない(非脱粒性)、毒性がないなど、多岐にわたる。偶然に起きるこれらの突然変異を長期間にわたって積み重ねることで、栽培種が成立する。野生のムギやイネが、栽培種に置き換わるには、数千年もの時間がかかったことがわかっている。

ハイヌヴォレ型神話

作物などの栽培植物は、人類の生存に不可欠な存在であり、古来より重要視されてきた。世界中の神話のなかに、多くの作物の起源神話が残されている。

『古事記』では、五穀の起源として以下のように書かれている。

また食物 (をしもの) 大氣津比賣 (おおげつひめの)神に乞いき。ここに大氣都比賣、鼻口また尻より、種種 (くさぐさ)味物(ためつもの)を取り出して、種種作り(そな)へて(たてまつ)る時に、速須佐之男命(すさのおのみこと)、その(しわざ)を立ち伺ひて、穢汚(けが)して奉進(たてまつ)るとおもひて、すなわちその大宜津比賣神を殺しき。(かれ)、殺さえし神の身に()れる物は、頭に(かひこ)()り、二つの目に稻種(いなだね)()り、二つの耳に(あわ)()り、鼻に小豆(あずき)()り、(ほと)(むぎ)()り、尻に大豆(まめ)()りき。(かれ)ここに神產巢日(かみむすひ)御祖(みおやの)命、これを取らしめて、(たね)()しき。(文献1)

これとよく似た神話は、東南アジア、ポリネシア、メラネシア、アメリカ大陸まで、広く存在することが知られており、ドイツの民俗学者のアードルフ・イェンゼン(1899-1965)は、これらを「ハイヌヴォレ型」神話と名づけた。「ハイヌヴォレ」は、インドネシアのセラム島のヴェマーレ族に伝わる神話に登場する女性の名前である。

アメタという男が、狩りの最中に、イノシシの牙の間にある珍しいヤシの実を見つけた。アメタは、バナナから現われた西セラムの9つの部族の一人であった。彼は、ヤシの実を家に持ち帰った。その夜、夢の中に何者かが現れ、彼にヤシの実を植えるように言った。アメタがヤシを植えると、数日後には大木に生長して花を咲かせた。アメタは、花の蜜を採るために樹に登ったが、そのとき指を傷つけて血が花に落ちた。9日後、アメタはその花の場所でハイヌヴォレという名前の女の子を見つけた。彼は衣で彼女を包んで家に連れて帰った。彼女はまたたくに成長した。ハイヌヴォレはすばらしい才能を持っており、彼女が排便すると宝物を排泄した。おかげで、アメタは裕福になった。
ハイヌヴォレは、9日間続けられる踊りに参加した。この踊りでは、女性がアレカナッツを男性に配ることが伝統であった。男たちがハイヌヴォレにナッツを頼むと、彼女はナッツの代わりに排泄した宝物を与えた。彼女は毎日、金のイヤリング、サンゴ、磁器の皿、ブッシュナイフ、銅の箱、銅鑼など、高価なものを与えた。男たちは、最初は喜んでいたが、徐々に彼らはハイヌヴォレに対して驚いて怪しみ、次には嫉妬に駆られて、9日目の夜に彼女を殺すことに決めた。
9日目の夜に、男たちは踊り場の真ん中に穴を掘り、ハイヌヴォレを穴の中に押し込んだ。男たちは、彼女の叫びを彼らの歌でかき消し、穴の上に土を盛り上げた。ハイヌヴォレは生き埋めにされ、男たちは、「穢れ」を踏みつけながら踊った。アメタは、ハイヌヴォレを探しに行った。彼は何が起こったのかを知り、ハイヌヴォレの遺体を掘り出して、それを細かく切断して村の周囲に埋めた。すると、その断片から、芋などの様々な種類の作物の品種が生まれた。(文献2)

北アメリカのミシシッピ下流域のナチェズ族の神話は、次のように伝える。

一人の女が、二人の少女と暮らしていた。食物がなくなると彼女は、両手に一つずつ籠を持って、ある建物のなかへ入り、じきに籠を両方ともいっぱいにして出て来た。そしてその中身でおいしい料理を作って少女たちに食べさせていた。ところがあるとき少女たちが建物のなかを見てみると、からっぽで食物などどこにもなかった。少女たちは相談して、次に女が籠を持って建物のなかに入ったとき、なかで何をするか覗き見した。すると彼女は、まず籠の一つを床に置き、その上に股を開いて立って、体を擦ったり震わせた。たちまちがさごそと何かが落ちる音がして、籠はトウモロコシでいっぱいになった。次にもう一つの籠の上で同じことをすると、同じようにしてその籠が豆でいっぱいになった。
少女たちは顔を見合わせて、「彼女は大便をして、それを私たちに食べさせていたのだから、あんな汚いものを食べるのはよしましょう」と言い合った。料理を与えても、少女たちが食べないので、覗き見されたことを知った女の人は、こう言った。
「これが汚く思えて食べられないのなら、私を殺して死体を燃やしなさい。そうすると夏にその場所からいろいろなものが生えてくるから、それを畑に植えなさい。実が熟すと美味しい食物になって、おまえたちはこれからは、私がこれまで与えてきた食物の代わりに、それを食べて生きていけるでしょう」。
言われたとおりにすると、女の死体を焼いた場所から、夏にトウモロコシと豆とカボチャが生えた。(文献3)

プロメテウス型神話

イェゼンが、「プロメテウス型」と名づけたもうひとつの神話群がある。プロメテウスは、ギリシャ神話に登場するティーターンの一族である。ティーターンは、ウーラノス(天)とガイアから生まれ、オリュンポス神に先行する古い神々とされている。

プロメテウスは大地の土を取って、それを水で練りかためて、神々と同じ形に人間を造り上げました。プロメテウスは人間に直立の姿勢をあたえましたから、他の動物はみな顔を伏せて地上を見ているのに、人間だけは初めから天を仰ぎ、星を眺めました。
プロメテウスは、人間創造以前からこの地上に住んでいた巨神族の一人でありました。彼とその弟のエピメテウスが、人間製造の役目と、その人間や他の動物に、生存に必要な能力をあたえてやることを神から委任されました。直接の担任者はエピメテウスで、兄のプロメテウスはそのでき上りを監督する役目でありました。エピメテウスはすべての動物に、勇気や、力や、早さや、智慧などの賜物をさずけました。ある者は翼を、ある者は蹄を、ある者は身を隠すための殼をもらい出しました。ところが万物の霊長たるべき人間の番になると、他の動物に何もかもあたえつくしてしまった後で、これというほどの物が一つもなくなっていました。エピメテウスは困って兄のプロメテウスに相談しました。プロメテウスは女神アテナの助けを借りて、天へ昇って太陽の二輪車の火を自分の炬火に移し取り、その火を人間のところへ持って下りました。この賜物によって、人間は初めて他の動物以上のものとなりました。すなわち、その火のおかげで、人間はすべての動物を征服すべき武器をも作り、土地を開拓する道具をも作り、また住み家を暖めて寒さをしのぐ方法をも知ったのであります。最後に技術や、貨幣鋳造や、商売や、取引きの方法までも彼らが習得したのも、すべてこの火の賜物でありました。(文献4)

イェゼンは、「プロメテウス型」神話の代表的なものとして、西アフリカのドゴン族の創世神話をあげている。ドゴン族はマリのニジェール川流域に暮らす農耕民で、トウジンビエ、モロコシ、イネ、タマネギ、タバコ、野菜などを栽培している。また、ヒツジ、ヤギ、ニワトリを飼育する。ドゴン族は、その独特の宗教、神話、儀式、舞踏などで民族学者たちに注目されてきた。ドゴン族の神話は、口述で伝えられており、多種多様な神話が存在する。

太初に神(アンマ)は天空に土くれを拗って星辰を創造した。それから神は二つの白い壺を造り、そのうち一つには赤い螺旋状の銅を捲いて太陽とし、他の一つには白い銅を螺旋状に捲きつけて月とした。黒人は太陽の許に生まれ、白人は月夜に生まれた。
粘土の他の塊を使ってアンマは女性である大地をつくった。大地は北から南へと身体を延ばしており、蟻塚はそのセクスであり、白蟻の巣はそのクリトリスである。神(アンマ)はクリトリスを切り落した(成女式の陰核切除のはじまり)のち大地と結婚して金狼(ジャッカル)を生ませた。
次に、眼は赤く、身体は緑、柔軟な肢体を持った精霊ノンモたちが生まれた。ノンモたちは、その母なる大地が裸身なのを見て、金銀の総―水を意味する―のついた繊維を持ってきた。ところが金狼は、蟻塚に分け入って近親相姦を犯し、このとき流れ出た月経の血が繊維を赤く染めた。この原罪によって大地は不浄なものとなった。
その後、ただちに神は粘土から人間を創造した。これらの人間はそれぞれ男女両性の要素を兼ねそなえていたが、割礼と切除が教えられてから性の識別が可能になった。
始源期には八人の始祖がいたが、これがドゴン族を分ける八家族の起源である。ノンモの一人は「言葉」を与えられ、それを織機とともに蟻に教え、蟻がさらに人間に教えたのである。また八種の異なった穀物が八家族に分けられたが、それが食べ尽されてしまうと、二人の始祖は分与されていなかったフォニオまでも食べてしまった。そんなことの果てに彼らは天から逃げ出したが、これが最初の祖先たちが世界を構築するきっかけとなった。
世界はドゴンが用いる笊の形をしている。この笊は正方形で、ロは丸く大きいが、世界の笊は粘土でできており、逆さに伏せてあって、底が露台になっている。底は太陽を表象し、台は天を表わす。おのおのの側には十段の階段がある。北側の階段は人間と魚を、南の階段は家畜、東側の階段は鳥、西は野獣、野菜、昆虫をそれぞれこの世界にもたらす。祖先は火を盗み、露台の上に最初の鍛冶炉を据えつけた。ノンモたちは祖先を砲撃し、その肢体を毀損したため、それまでは柔軟であった肢体は関節から成るに至った。その後、彼らは露台から降りて最初の原野を造った。
彼につづいて他の始祖たちも降りてきたが、八番目の始祖の方が七番目の始祖より早く降りたので、後者は怒って蛇に変身してしまった。人間たちはこの蛇を殺して食べた。彼は人間たちを救うために自らすすんで犠牲になったのであるともいわれる。八番目の始祖、「言葉」の主レベが死ぬと、七番目の祖先である蛇は、これを石に変えて嚥み込んでしまった。このようにしてレベは九番目の始祖として再生した。(文献5)

このような、栽培種などの農耕文明が天からもたらされたという神話は、世界中に数多く存在している。

『日本書紀』では、天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギ)が、鏡と稲の穂を持って、高天原から高千穂の峰に降臨したと記されている。

是の時に、天照大神(あまてらすおほみかみ)、手に宝鏡(たからのかがみ)を持ちたまひて、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)に授けて、()きて(のたま)はく、「()()、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るが如くすべし。(とも)(ゆか)を同じくし殿(おほとの)(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし」とのたまふ。(また)天児屋命(あまのこやねのみこと)太玉命(ふとたまのみこと)(みことのり)すらく、「惟爾二柱(これいましふたはしら)の神、亦(とも)殿(おほとの)の内に(さぶら)いて、善く防護(ほそきまもること)()せ」とのたまう。又勅して(のたま)はく、「吾が高天原(たまのはら)所御(きこしめ)斎庭(ゆにわ)(いなほ)を以て、亦吾が(みこ)(まか)せまつるべし」とのたまふ。(文献6)

アイヌ神話では、「オキクルミが天上界で、下界には魚や動物はたくさんいるが、穀物はないだろうと考えた。そこで一掴みの稗(ヒエ)の種を盗み、自分の脛を裂きそのなかに隠して、天上界から抜け出した」と伝えている。(文献3)

ギリシャ神話でも、農業の女神デメテルについて次のような伝承がある。デメテルは、ゼウスと仲直りして天界に戻るときに、アッティカのエレウシスの王子のトリプトレモスに、ムギの種と、翼の生えた竜が引く車を与えた。その車にトリプトレモスを乗せて、空から地上にムギの栽培を広めて回らせた。(文献3)

古代中国の西魏、北周の歴史を記録した『周書』(636年)では、「神農の時代に天から穀物が雨のように降ってきた。神農は大地を耕して、穀物の種子を播いた」と伝えている。(文献7)

1)倉野憲司校注、古事記、岩波文庫、1963
2)Jensen, Adolf E. and Herman Niggemeyer, Hainuwele ; Völkserzählungen von der Molukken-Insel Ceram, 1939
3)大林太良、吉田敦彦、伊藤清司、松村一男編、世界神話辞典、角川選書、2005
4)ブルフィンチ、ギリシャ・ローマ神話、岩波文庫、1978
5)阿部年晴、アフリカの創世神話、紀伊国屋書店、1965
6)日本書紀(1)、岩波文庫、1994
7)伊藤清司、中国の神話伝説、東方書店、1996

自然農法とは何か: ゆらぎとエントロピー
電子園芸BOOK社 (2016-12-11)
売り上げランキング: 44,679

オーカー、ヒトの成立、アトピー:Ocher, Human establishment, Atopic dermatitis

オーカー

オーカーのおもな原料は赤鉄鉱や褐鉄鉱である。赤鉄鉱の主成分は酸化鉄(III)で、その組成式はFe2O3である。ヘマタイト、酸化第二鉄、三酸化二鉄、赤鉄鉱、弁柄、赤錆など多くの呼び名がある。Fe2O3の結晶は光沢のある黒色だが、通常は赤褐色の岩石で、製鉄や赤色顔料に利用されてきた。

褐鉄鉱の別名はリモナイトで、化学組成はFeO(OH)・nH2Oである。鉄を多く含む鉱物の風化によって生成され、温泉(鉄泉)や湖沼の沈殿物としても産出する。形状によって鳴石、壷石、豆鉄鉱、鬼板、武石などと呼ばれる。高師小僧は褐鉄鉱が植物の根に集積したものである。褐鉄鉱も、製鉄や黄土色の顔料として利用されてきた。

鉄Feは地球でもっとも存在量が多い元素であり、2番目が酸素Oなので、赤鉄鉱や褐鉄鉱はごくありふれた物質である。ただし、海洋生物にとって、鉄はもっとも「高価」な元素であることは、以前のブログで書いた。

ヒトがオーカー(顔料)を使うようになった歴史はきわめて古く、アフリカでは28万年前の出土例がある(文献1)。

なかでも、よく例としてあげられるのは、ブロンボス洞窟である。ブロンボス洞窟は、南アフリカ南部のケープ海岸に位置する洞窟遺跡で、10万~7万年前の遺物が保存されている。模様が刻まれたオーカー(赤鉄鉱)、彫刻された骨、オーカー(顔料)の製造道具、貝殻のビーズなどが出土しており、当時、すでに「象徴的思考能力」が存在した証拠と考えられている。

2008年の調査では、10万年前の地層から、2枚のアワビの貝殻に、オーカー(顔料)の残存物が見つかった。同じ層からは、多数のオーカー(赤鉄鉱)、動物骨、木炭、珪岩の磨石、ハンマー石などが出土しており、ここで顔料が製造されていたことを示している。磨石上で、ハンマー石を使ってオーカー(赤鉄鉱)や木炭を粉末にし、アザラシの油脂と混ぜて顔料を製造していたらしい。(文献2、3)

オーカー(顔料)は、古代エジプトでも広く利用されていた。壁画には、女性は黄色のオーカー、男性は茶色のオーカー、口紅には赤色のオーカーを使用する様子が描かれており、パピルスにもオーカーについての記述がある。

現代でも、アフリカの狩猟採集民や牧畜民、オーストラリアのアボリジニ、南米大陸の熱帯雨林に住む狩猟採集民などが、オーカーを使用している。なかでも、ナミビアのヒンバ族は、動物の油脂やバターを混ぜたオーカーで、全身を赤色にすることで有名である。

オーカーとヒトの成立

ヒト(Homo sapiens)という種が登場したのは、30~25万年前と考えられているので(文献4)、ヒトは、種の成立とほぼ同じ時期にオーカー(顔料)を使い始め、以来、20万年以上もオーカーを身体に塗っていたことになる。

種の成立からこれほど長期にわたって身体に装着していたのであれば、ヒトにとって、オーカーはもはや身体の一部であり、「延長された表現型」であったにちがいない。すなわち、オーカー(顔料)はヒトの種の成立と何らかの関係があったことが予想される。

皮膚を紫外線や寄生生物から守るだけなら、他の哺乳動物と同じように、泥を皮膚に塗ればよいはずで、わざわざ硬い赤鉄鉱を磨石とハンマー石で粉末状にする必要がない。すなわち、オーカーの赤い色には、何らかの機能があったはずである。

ヒトにもっとも近いチンパンジーでは、メスには月経周期があり、その長さは32日ほどである。排卵が近づくと、メスの性皮はピンク色になって大きく膨張する(写真)。チンパンジーの発情期間は12日ほどで、その期間中に交尾する。また、妊娠・出産したあと、子供が乳離れするまでの5~6年間はまったく発情せず交尾しない。


http://thesymbiont.blogspot.jp/2010_12_01_archive.html


http://thesymbiont.blogspot.jp/2010_12_01_archive.html

一方、ヒトの場合、女性と男性はいつでも性交可能であり、しかも生殖目的ではない性行動を頻繁に行う。ヒトの女性は、チンパンジーのメスと異なり、排卵の時期を外見では判断できず、他者からわからないように隠している。排卵を隠すのは、性交を避けるためではなく、その逆である。

ヒトの女性は、その大きな臀部が特徴である。身体や臀部に赤いオーカーを塗ることで、膨張した性皮のような姿になり、常に男性の関心を惹きつけたと考えられる。

サン族とコイコイ族はアフリカ南部の乾燥地帯に住む狩猟採集民で、かつてはホッテントットと呼ばれていた。遺伝子解析では人類の祖先の形質をもっとも保存している部族とされている。サン族とコイコイ族の女性は臀部が際立って突出しており、小陰唇(性皮)の伸長がみられる。

超協力タカ派戦略では、バンド内での資源分配は平等が原則だが、サン族の射手が優先的に動物の腱を獲得するように、私的所有が完全に禁止されているわけではない。発情した姿の女性は、常に男性を惹きつけることで、より多くの資源を獲得できたのであろう。

体毛が少ないほうが、膨張した性皮の形に近いため、体毛が少ない女性ほど男性を惹きつけることができるので有利である。このため、次第に体毛を無くす方向に変異したと考えられる。

ヒトは、ヒト科(ヒト属、チンパンジー属、ゴリラ属、オランウータン亜科)の生物種の中ではもっとも多産であり、自己複製の速度が大きい。これは、ヒトの女性が常に男性を惹きつけることで、資源の獲得量を増やすことができたからであろう。

10万~7万年前に、ヒトの一部は、アフリカを出て世界中に拡散した(文献5)。冷涼な温帯への進出に伴って、衣類を着用するようになったため、次第にオーカーの全身塗装を止めたと考えられる。

オーカーとアトピー

ヒトは20万年以上も前からオーカーを身体に塗装してきた。オーカーがヒトにとって「延長された表現型」ならば、オーカーが常に皮膚に付着していることを前提とした形質が、遺伝子プール内に広がっているはずである。

ここで、思い浮かぶのは、アトピー性皮膚炎のことである。アトピー性皮膚炎の根本には皮膚の生理学的異常(皮膚の乾燥とバリアー機能異常)があり、そこへ様々な刺激やアレルギー反応が加わって生じると考えられている。(文献6、7)

最近、アトピー性皮膚炎の原因となる遺伝子の存在が報告されている。アトピー性皮膚炎のマウスでは、JAK1というたんぱく質遺伝子の一部が変化し、異常に活性化しているという。その結果、皮膚の角質に働く酵素が活性化し、角質がはがれて刺激を受けやすくなっているらしい。(文献8)

遺伝的な形質によって皮膚の角質が剥がれやすくなることがアトピー性皮膚炎の原因ならば、このような形質が、オーカーが常に皮膚に塗着していることを前提とした形質ではないだろうか。

オーカーとアトピーの因果関係については、ただの科学的な推論、あるいは仮説であるが、この仮説が正しいかどうかは、赤鉄鉱の粉末とオイルを混ぜて全身に塗り、アトピーの症状が改善するかどうかを診れば、証明できるはずだ。

文献
1)Henshilwood CS. et al.(2011): A 100,000-Year-Old Ochre-Processing Workshop at Blombos Cave, South Africa. Science, 334, 6053, 219-222.
http://dx.doi.org/10.1126/science.1211535
2)Henshilwood CS. et al.(2011): A 100,000-Year-Old Ochre-Processing Workshop at Blombos Cave, South Africa. Science, 334, 6053, 219-222.
http://dx.doi.org/10.1126/science.1211535
3)TRACSYMBOLS
https://web.archive.org/web/20130622200613/http://tracsymbols.eu/
4)On the origin of our species
https://www.nature.com/nature/journal/v546/n7657/full/546212a.html
5)Evidence mounts for interbreeding bonanza in ancient human species
http://www.nature.com/news/evidence-mounts-for-interbreeding-bonanza-in-ancient-human-species-1.19394
6)日本皮膚科学会、アトピー性皮膚炎
https://www.dermatol.or.jp/qa/qa1/q02.html
7)日本アレルギー協会、よくわかるアトピー性皮膚炎
http://www.jaanet.org/pdf/atopi_tein.pdf
8)アトピー性皮膚炎モデルの原因遺伝子を解明
http://www.riken.jp/pr/press/2016/20160426_3/

あらゆる有機物から肥料を作る方法
電子園芸BOOK社 (2016-07-29)
売り上げランキング: 42,287

貨幣の供給:Money supply

ストックされた貨幣は徐々に増大し、フロートは徐々に減少する。

貨幣の蓄積と欠乏に対し、歴史的には次のようなことが行われてきた。

・王が蓄積したお金でピラミッドや城を建造する
・兵隊を増やして一揆や戦争に備える
・税を徴収して軍備を増強し戦争する
・鉱山を開発したり、信用貨幣や名目貨幣を発行して貨幣量を増やす
・アメリカ独立戦争、フランス革命、ロシア革命、中国革命など、王に対して革命を起こす
・投資する
・税を徴収して財政政策を行う

現代では、ピラミッドを建設できるような強大な私権を保有する王は存在しない。また、武器の殺傷力の向上によって、戦争や暴力革命を起こすことは、不確実性が大きすぎる。

投資には、ストックを減らして、フロートとフローを増やす効果がある。しかし、投資家は、貨幣を増やすために投資するのであって、他人に無償で貨幣を与えるわけではない。投資家は、貨幣を獲得できる確率が高い場合に投資し、確率が低い場合は投資しない。投資は短期的には、フロートとフローを増やすが、長期的にはストックは減少しない。なお、資源(エネルギーと物質)が十分に存在する場合は小さな不確実性を選択したほうが有利であり、資源が不足する場合は大きな不確実性を選択したほうが有利である。

工業製品の価格を左右するのは生産コストであり、生産コストは、原材料費、エネルギー費、人件費、技術水準(情報)などに左右される。原材料、エネルギー、技術は国境を越えて移転できるが、人間(労働者)は自由に国境を越えられないので、短期的な商品の価格(競争力)を左右するのは賃金である。すなわち、投資は賃金の低い国に対して行われ、貨幣は労働者に支払われるのでインフレになる。

現代の国家では、税を徴収して、財政政策を行うのが一般的である。2013年に、フランスの左派経済学者のトマ・ピケティが『21世紀の資本』を発表して、話題になった。ピケティは、資本主義制度では、資本収益率が経済成長率よりも大きいために、富は資本家へ蓄積されると主張する。そして、タックスヘイブンなど税回避によって、富が再配分されていないことを指摘した。

上の図を見ると、アメリカの富裕層の所得の占有率は、世界恐慌、第2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争までは低下している。米ソの全面戦争の可能性が遠のいた1970年代末からは、占有率が増加に転じている。

現代では、税の徴収によってストックを減らすことは困難である。ピケティは、各国が協力して富裕層の税逃れを取り締まることを主張しているが、実現性は薄い。たとえば、産油国の王族たちが保有するストックから徴税することは不可能である。

残された方法は、貨幣の供給である。じっさいに、世界中の国で、通貨量(マネーサプライ)を増大させている。

現代の貨幣は電気的な信号なので、貨幣量が大きくなっても、発行や流通のコストが小さい。貨幣を供給し、インフレにすることが、貨幣の蓄積と欠乏に対するもっとも効率的な方法である。

貨幣の供給によって、何らかの不安定な状態に社会が陥ると感じるかもしれないが、おそらく何も起こらない。なぜなら、人間の歴史をたどると、貨幣の蓄積と欠乏のために社会が不安定になるのであって、その逆ではない。

生物の世界では、何億年ものあいだ、貨幣を介しない生物間の資源(エネルギーと物質)の移行が行われており、それが長期的に安定な状態である。

文献
Thomas Piketty, Capital in the Twenty-First Century, 2013(邦訳:21世紀の資本)

自然農法とは何か: ゆらぎとエントロピー
電子園芸BOOK社 (2016-12-11)
売り上げランキング: 41,686

恒常所得と貨幣量:Permanent income and quantity of money

ミルトン・フリードマンは、1957年に刊行した著書の中で、恒常所得仮説を提示した(文献)。これは、アーヴィング・フィッシャーの消費者理論とフランコ・モディリアーニのライフサイクル仮説をもとにして、消費と所得の関係を理論化したものである。

恒常所得仮説では、現在所得yは、恒常所得ypと変動所得ytに分けられる。

y=yp+yt
y:現在所得
yp:恒常所得。将来にわたって継続すると予測する所得
yt:変動所得。継続的でないと予測する所得

フリードマンは、消費者は、恒常所得ypを消費し、変動所得ytのほとんどを貯蓄するので、消費は恒常所得ypに比例すると指摘した。

c=αyp
c:消費
α:定数

前回のブログで、貨幣を次のように分けた。

mt=mfw+mft+ms
mt:n年の期首に保有しているお金
mfw:1年間に使うお金(flow)
mft:使い道が決まっておらず自由にできるお金(float)
ms:貯蓄するお金(stock)
Mt=Σmt
Mfw=Σmfw
Mft=Σmft
Ms=Σms
Mt=Mfw+Mft+Ms
Mt:領内の貨幣の総量
Mfw:財と交換され流通している貨幣量(flow)
Mft:自由に使えるが流通していない貨幣量(float)
Ms:ストックされた貨幣量(stock)

フローmfwは年間の生活費mcと営業経費meの合計である。

mfw=mc+me
mc:生活費
me:営業経費

保有金額は毎年ほぼ一定とすると、mtは年間の収入金額のことなので、

y=mt-me
=mc+mft+ms

y=yp+ytで、恒常所得仮説では、ytは貯蓄になるので、yt=msである。すなわち、

yp=mc+mft

生活費mcは急には変化せずほぼ一定なので、消費cはおもにフロートmftに比例する。

c∝mft

C=Σc、Mft=Σmftなので、

C∝Mft

需要Dは民間消費や投資などすべての消費の合計なので、D∝Cであり、需要DとフロートMftは以下の関係になる。

D∝Mft

自由に使えるお金Mftが増えると、需要Dが増えて、好ましいインフレになる。

需要Dが増えてインフレになると、供給Sが増えて、価格pは元に戻る。しかし、pは同じでも財の消費量自体は増大するので、フローMfwは大きくなる。

Mfw∝D

すなわち、フロートMftが増えるとフローMfwが増える。

Mfw∝Mft

あたりまえだが、自由に使えるお金の増大は、実際に使われるお金の増大をもたらす。

恒常所得仮説では、恒常所得Ypが増大しないと、消費Cは増大しない。消費が増えることは、MftとMfwとが大きくなることである。

Mt=Mc+Me+Mft+Msであり、営業経費Meを急激に引き下げるのは難しいので、恒常所得Yp=Mc+Mftを大きくするには、Msを小さくする、または、Mtを大きくするしかないことは、論理的に必然である。(つづく)

文献
Milton Friedman, The permanent income hypothesis, 1957
http://www.nber.org/chapters/c4405.pdf

堆肥と土壌の作り方: 身近な有機物を利用する
電子園芸BOOK社 (2016-09-19)
売り上げランキング: 43,789