栽培オオムギの起源:Origin of domestic barley

イネ科(Poaceae)オオムギ属(Hordeum)植物は、30種ほどが知られており、2倍体、4倍体、6倍体がある。コムギとは異なり、オオムギ属のなかで栽培化されたのは、栽培オオムギの1種のみである。

野生オオムギ
英名:wild barley
学名:Hordeum vulgare L. subsp. spontaneum (K. Koch) Thell.

栽培オオムギ
英名:barley
学名:Hordeum vulgare L. subsp. vulgare

ただ、栽培オオムギは、品種の数が膨大にあり、世界各地の研究施設には、30~50万種類のオオムギが保存されているという(*1)。栽培オオムギは、穂の形態の違いから、二条型と六条型に分かれる。二条型は、小穂に1個の種子が稔実し、六条型は3個稔る。このため、穂を上から見ると、二条型では種子が2列に並び、六条型では6列に並ぶ。


二条型と六条型(Author:Xianmin Chang)

野生オオムギは二条型であり、野生オオムギから、二条型の栽培オオムギが選択され、その後に、二条型から六条型が生じたとされている。欧米では二条型、アジアでは六条型の栽培が多い。種子の数が少ない二条型は、粒が大きくなるため、ビール、ウイスキーなどの醸造用や飼料用で用いられる。六条型は食用と飼料に利用される。

他の形態的な違いとして、皮麦と裸麦の区別がある。皮麦は、種子を包む穀皮が種子と固着しており、裸麦は固着していない。チベットなどアジアではオオムギを食用で利用するため、裸麦の栽培が多い。日本では六条皮麦はおもに東日本で栽培され、裸麦は西日本で多く栽培される。

二条型 皮麦 「二条大麦」「ビール麦」と呼ばれる。醸造、飼料に利用
裸麦 栽培はまれ
六条型 皮麦 「六条大麦」と呼ばれる。麦飯、押し麦、麦茶に利用
裸麦 「裸麦」と呼ばれる。押し麦、麦飯、麦味噌に利用

大原農業研究所(現在の岡山大学資源植物科学研究所)の高橋隆平氏(1910-1999)が、栽培オオムギは、西域型(W型)と東亜型(E型)に大別できることを見出したことは書いた(2018.2.13ブログ)。高橋氏らは、オオムギの脱粒性には、2つの遺伝子が関与しており、2つが同時に働くと脱粒性(野生型)となり、どちらか一方が欠けると非脱粒性(栽培型)になることをあきらかにした。

脱粒に関与する2つの遺伝子は、Btr1Btr2と名づけられている。下図のように、野生オオムギは、Btr1、Btr2の両方が機能することで、小穂がバラバラになって落ちる。一方、栽培オオムギの対立遺伝子は、野生型と遺伝的に異なるbtr1、btr2であると考えられている。W型では、遺伝子の組み合わせがbtr1-Btr2となり、E型では、Btr1-btr2の組み合わせになっている。(*1)


(参考:麦の自然史)

前回のブログで、「野生コムギの遺伝子プールでは、脱粒遺伝子と非脱粒遺伝子が混在している状態が合理的だ」と書いた。オオムギの脱粒性は、Btr1、Btr2の2つの遺伝子がそろわないと機能しないのであるから、コムギよりも、遺伝子プールの中に、非脱粒性の形質の割合が高くなることが予想される。

さらに、野生オオムギでは、小穂が穂の先端から順番に脱落するが、最下段の小穂は脱落せずにとどまることが知られている。自然の状態の野生オオムギの集団では、非脱粒の小穂の割合は、全体の10%ほどとされている。

オオムギの古い考古学的な記録としては、ヨルダン渓谷の新石器時代初期(PPNA期)のGilgal遺跡がある。ここでは、26万粒のオオムギ種子、12万粒のエンバク種子、イチジクの種子、ドングリが出土しており、その年代は11,400年前とされている。出土したオオムギは、野生のオオムギであり、Gilgal遺跡は“predomestication cultivation”(前栽培化栽培)の段階と考えられている。

丹野研一氏とGeorge Willcox氏は、もっとも早い栽培オオムギの証拠が確認できるのは、南レヴァントのTell Aswadであると報告している(*2)。Tell Aswadは、PPNB期初期の遺跡で、その年代は10,500年前である。Tell Aswadで確認された非脱粒の小穂の割合は30%以上であり、すでに栽培オオムギが出現していたことが予想される。

Tell Aswadに近いTell Ramad(9,000年前)では、非脱粒の小穂のほうが脱粒の小穂より多くなっており、栽培化がさらに進んだことがうかがえる。

さらに、北方のSekher al-Aheimar(9,300年前)やSalat Cami (8,300年前)では、非脱粒の小穂(栽培型)しか存在しておらず、この地域は、野生オオムギの自然分布の外であった。


Percentages of barley spikelets from sites in the study. Domestic types at Aswad are low, but a later increase can be seen at the nearby site of Ramad. Further north at Sekher al-Aheimar and Salat Cami Yanu, domestic types are dominant suggesting that domestication proceeded more quickly in this area, possibly because the sites were situated outside the natural distribution area of wild barley(source:Veget Hist Archaeobot (2012) 21:107–115)


Locations of major sites with dates. Sites with predomestic cultivation are marked with. Dates given in bold italic indicate early finds of domestic spikelets.(source:Veget Hist Archaeobot (2012) 21:107–115)

2015年に、小松田隆夫氏、佐藤和広氏らは、ドイツなど6か国の研究機関と共同で、栽培オオムギと野生オオムギの遺伝的な解析を行った(*3)。また、このときに、オオムギでは、小穂に離層が形成されず、軸の節で細胞壁が極端に薄くもろくなり、細胞壁が砕けて脱落することをあきらかにした。オオムギのBtr1、Btr2遺伝子は、この細胞壁を薄くもろくする機作に関与していると予想されている。

分析では、W型の栽培オオムギにもっとも近縁なのは、南レヴァントと中央アジアの野生オオムギであった。最古の栽培オオムギがTell Aswad(10,500年前)で確認されていることから、W型の栽培オオムギの起源は南レヴァントとしている。

一方、E型にもっとも近縁なのは、北西シリアとトルコ南東部の野生オオムギであった。北西シリアに近い考古学的な記録としては、9,750年前のTell Abu Hureyraが知られている(Hillman et al., 1989)。また、トルコ南東部の最古の栽培オオムギは、Sekher al-Aheimar(9,300年前)やSalat Cami (8,300年前)のものである。

遺伝子の解析と考古学的な証拠から、約1万年前に南レヴァントでW型の栽培オオムギが出現し、その後、北レヴァント(北西シリア~南東トルコ)でE型が出現したと結論づけている。


Cultivated Barley Originated from South and North Levant Sites of domestication. The GIS-based map of the Fertile Crescent indicates the collection sites of the wild barley accessions harboring the proposed ancestral btr1 (in purple, located in the southern portion of the Levant and Central Asia) and btr2 (in blue, located in the northern portion of the Levant) alleles. The other wild barley analyzed are indicated with gray dots. Black lines indicate the Levant (left) and Central Asia (right).(source:Evolution of the Grain Dispersal System in Barley. Cell, 162(3), 527-539)

多くの考古学が、PPNA期の初期に、レヴァントの北から南までの広い範囲で、“predomestication cultivation”(前栽培化栽培)が行われていたと考えている。そして、つづくPPNB期の初期に、レヴァントの各地で、栽培植物が出現している。

これらのことから、レヴァントのどこかで、「栽培」という新しい生産様式(創造の中心)が生じ、この生産様式が周辺に広がると、エリア内のあちこちから栽培植物が生じたことがうかがえる。

文献
*1)佐藤洋一郎・加藤鎌司編著(2010). 麦の自然史. 北海道大学出版会
*2)Ken-ichi Tanno & George Willcox,(2012). Distinguishing wild and domestic wheat and barley spikelets from early Holocene sites in the Near East, Veget Hist Archaeobot 21:107–115
*3)Evolution of the Grain Dispersal System in Barley. Cell, 162(3), 527-539, 2015
http://www.cell.com/cell/fulltext/S0092-8674(15)00839-9

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栽培コムギの起源:Origin of domestic wheat

栽培コムギの起源については、坂村徹(1888-1980)、木原均(1893-1986)をはじめ、日本の植物学、遺伝学の研究者が大きな成果をあげてきたことは、すでに書いた。

栽培植物の起源の探索には、考古学、遺伝学、民族学、歴史学などの研究方法が組み合わされるが、コムギのように、1万年も昔に栽培化された作物を調べるには、遺伝学と考古学が大きな位置を占める。

日本語の「小麦」や英語の“wheat”という言葉は、分類学的には、イネ科(Poaceae)コムギ属(Triticum)に属する1年草の植物全般を指す。ただ、その内容はきわめて複雑である。スーパーで売られている「小麦粉」は、パンコムギ(別名:普通コムギ、英名:bread wheat、学名: Triticum aestivum)の粉のことである。また、パスタの原料は、デュラムコムギ(別名:マカロニコムギ、英名:durum or macaroni wheat、学名: Triticum durum)である。世界に広く普及しているのは、パンコムギとデュラムコムギであるが、ほかにも多くの種が存在し、品種の総数は数万におよぶであろう。

人間にとって重要とされているおもなコムギの分類は、以下のとおりである。

コムギの種と栽培化については、下図の関係と経過が支持されている。(*1)


コムギの倍数性変異と栽培化、SS≒BB、SS≒GG(参考:麦の自然誌)

図のクサビコムギとタルホコムギは、コムギに近縁なイネ科エギロプス(Aegilops)属植物である。エギロプス属植物の染色体の基本数はコムギとおなじn=7で、2倍体、4倍体、6倍体が存在する。

クサビコムギ:2n=14、SS、英名 tandat bockvete、学名 Aegilops speltoides
クサビコムギは、西アジアから南東ヨーロッパに分布し、飼料として利用されている。4倍体のパレスチナコムギ(2n=28、AABB)は、ウラルツコムギ(2n=14、AA)とクサビコムギ(2n=14、SS)の交雑によって成立したと考えられている。SSゲノムと、BBゲノムおよびGGゲノムはよく似ており、SSからBBとGGが分化したとされる。

タルホコムギ:2n=14、DD、樽穂小麦、英名 tausch’s goatgrass、学名 Aegilops tauschii
タルホコムギは、東ヨーロッパから、コーカサス、インドにかけて分布する。6倍体のパンコムギ(2n=42、AABBDD)は、エンマーコムギ(2n=28、AABB)とタルホコムギ(2n=14、DD)との交雑によって生じた。

分類学的に同種であっても、野生コムギと栽培コムギでは、遺伝子と形態に大きな違いがある。野生コムギは、種子(頴果)が離れやすく(脱粒性)、脱穀しにくく(難脱穀性)、種子の休眠が深く、種子が小さいなどの特徴がある。栽培コムギはその逆で、種子が離れにくく(非脱粒性)、脱穀しやすく(易脱穀性)、種子の休眠が浅く、種子が大きい。これらの形質のなかで、野生―栽培の区別の指標として重要なのは、脱粒―非脱粒の違いである。

野生のコムギは、ウシやシカなどの反芻動物と共生の関係にある(2017.2.12ブログ)。イネ科植物は、難溶リンを吸収できる種が多く、さらに、窒素固定細菌と共生している。肥沃な土壌では、分げつしたり、種を親株の周囲に撒き散らしながら繁殖し、広い群落(草原)を作る。群落(草原)には草食動物の群れが季節的にやってきて、葉茎は動物に食べられる。ムギは、草食動物に株を踏まれると、稔実がよくなる性質がある。ムギの種子には野毛があり、野毛で動物の毛に付着して遠くまで運ばれる。

野生のムギにとっては、群落を形成したり、野毛で動物の体に付着するには、種子がすぐに離れるのが都合がよい。地面に落ちた種子の一部は、ウシやシカの体に付着するが、多くはネズミ、鳥、昆虫などに食べられる。ネズミは種子を噛み砕いてしまうが、種子を貯蔵する習性があるので、食べ残された種子が翌年に発芽することができる。穀物の種子には、毒のマイコトキシンを生成するカビ(子嚢菌)が生えやすいのは、ネズミがカビの生えた種子を食べ残すように、植物とカビが共生関係にあるためであろう。

鳥には哺乳類のような歯がなく、砂嚢で食べた物を砕く。このとき、消化をまぬがれた種子は、糞といっしょに地面に撒かれる。哺乳類は、タンパク質の代謝によって発生するアンモニアを、尿素に変えて排出するが、爬虫類や鳥類は、アンモニアを水に不溶な尿酸に変え、糞といっしょに排泄する。排泄された尿酸は、ウリカーゼ産生細菌の働きで、急速にアンモニアに分解される。無機化した窒素は、すみやかに植物に吸収される。鳥の糞は、窒素、リン酸、カリウムの含有率が高く、発芽した植物の養分になる。

しかし、すべての種子が落ちてしまうのも好ましくない。群落の中ではもうそれ以上、個体数を増やす場所がないので、株の近くに多くの種子を落とすことは無駄になる。できるだけ遠くの多様な環境に運ばれたほうが、遺伝子が存続できる確率が高くなる。

種子がすべて落ちずに、一部が残れば、葉茎といっしょにウシやシカに食べられる。噛み砕かれなかった種子は、遠くに運ばれて糞といっしょに地面に落ちる。糞の中は、水分が適度に保たれるし、ネズミや鳥に食べられない。発芽する確率が高く、糞には養分が多いので生育にも有利である。

ムギの個体の遺伝子は、他の個体の遺伝子のコピーである。環境収容力(利用できる資源と空間)には限界があるので、すべての個体の遺伝子が生き残ることは不可能であり、生き残る必要もない。集団の一部分が生き残りさえすれば、自己複製してまた繁殖できる。多数が生き残る可能性よりも、一部分でもいいからどんなことがあっても生き残る可能性が高いほうが、長期的には有利である。

つまり、野生コムギの遺伝子プールでは、脱粒遺伝子と非脱粒遺伝子が混在している状態が合理的だ。

人間は収穫したムギを石臼で挽いて粉にしてしまうので、人間の糞から拡散することはできない。人間がウシと違うのは、種子を大量に貯蔵することだ。貯蔵されたムギは、少しずつ食べられるが、カビが生えたり、食べ残されたりしたムギは、そのまま放置されたり、捨てられるであろう。また、収穫物を運んだり、脱穀したり、製粉したりする途中で、こぼれた種子があちこちにばら撒かれる。ムギからみると、人間はネズミと同じである。人間がどこかに種子を運んで、食べ残せば、遺伝子を拡散して、存続する確率が高くなる。さらに、人間が、食べ残した種子を「意識的」に播種するようになれば、そのときが「栽培」(predomestication cultivation)の始まりである。

非脱粒性の遺伝子の種子は、地面に落ちないので、人間に収穫(選択)され続ける確率が高い。人間が「無意識」に収穫(選択)と播種(繁殖)をくり返すことで、しだいに非脱粒性遺伝子が、遺伝子プール内に広がる。これが、栽培コムギが成立する過程と考えられる。

ダーウィンが指摘した「無意識」と「意識的」には、2つの段階がある。1つは、「無意識の繁殖」(捨てる)から「意識的な繁殖」(種播き)への転換であり、2つめが「無意識の選択」(収穫する)から「意識的な選択」(選ぶ、伝える)への転換である。そして、その時間的な順番は、次のとおりである。

・ 無意識の選択(収穫する)
・ 無意識の繁殖(捨てる)
・ 意識的な繁殖(種播き)
・ 意識的な選択(選ぶ、伝える)

遺伝子の分析から、コムギの起源地についての有力な説が報告されたのは、1997年である。ドイツのManfred Heun氏らは、世界各地の栽培アインコルンコムギと、肥沃な三日月地帯およびバルカン半島の自生地から採集した野生アインコルンコムギのDNAを解析した。そして、栽培アイルコルンにもっとも近縁なのは、トルコ南東部のKaraca Dağの近くの野生アインコルンという結果がでた。(*2)


Sampling sites of 338 einkorn wheat lines.(surce:Science Vol. 278, Issue 5341, pp. 1312-1314)

一方、西アジアの新石器時代の遺跡からは、エンマーコムギが多数出土している。2005年にドイツのH. Ozkan氏らは、エンマーコムギと、エンマーコムギの野生型であるパレスチナコムギのDNA解析を行った。そして、エンマーコムギともっとも近縁なのは、トルコ南東部のKaraca Dağの近くのパレスチナコムギとの結果になった。つまり、2倍体の栽培アインコルンコムギも、4倍体のエンマーコムギも、同じトルコ南東部を起源とすることがあきらかになった。(*3)


Sampling locations of Triticum dicoccoides wild lines in the Fertile Crescent.(sorce:Theor Appl Genet (2005) 110: 1052–1060)

考古学では、2006年に報告された、丹野研一氏とGeorge Willcox氏の研究がある。野生コムギは、種子が成熟すると、小穂に離層が形成されて脱落する(写真のA、B、C)。栽培コムギでは離層は形成されないので、自然には脱落しない。人為的に小穂をバラバラにするために、折れた穂軸の一部が固着する(D、E)。ふつう、種子や小穂は微生物に分解されてしまうが、焼けて炭化した小穂は分解をまぬがれて残るので、これを観察すれば、野生型と栽培型を区別できる。


(Source:Science 31 Mar 2006:Vol. 311, Issue 5769, pp. 1886)

丹野氏らは、10,200~6500年前の炭化種子9,844個を調査し、栽培コムギの出現率を評価した。新石器時代初期(PPNA期)のカラメル遺跡(Qaramel)では栽培型は存在せず、その次のPPNB期のネヴァル・チュリ遺跡(Nevali Cori)で栽培型が現れた。時代が下るにつれて栽培型の割合が増え、栽培型が野生型に置き換わるには、3000年以上の時間を要したことがあきらかにされた。(*4)

ネヴァル・チュリ遺跡は、Karaca Dağの西方100kmほどのところに位置し、遺伝学的な推論と丹野氏らの考古学的な検証が一致している。


Karaca Dağ(右), Nevali Cori(左中), Göbekli Tepe(左下)

トルコ南東部のKaraca Dağは、高さ1952mの楯状火山で、玄武岩質溶岩の噴出によって形成された。玄武岩質溶岩は、粘性が低く、流れやすいため、緩やかに傾斜する楯状になる。Karaca Dağの最後の大規模噴出は中期更新世(78~12万年前)とされており、新しい火山である。Karaca Dağ周辺の気候は、ステップ気候であるが、地中海性気候の影響を受けて、夏季は乾燥し、冬季に雨が降る。近年までは多くの森林が存在したが、現在は、森林は一部しか残っていないようだ。

トルコ語の“Dağ”は山という意味なので、日本語では「カラジャ山」と呼ばれる。また、“Karaca”は「ノロジカ」または「卵」のことなので、「ノロジカ山」という意味になるのであろう。


Karaca Dağ(Author:Christian1311)

Karaca Dağとネヴァル・チュリ遺跡の近くには、ギョベクリ・テペ遺跡(Göbekli Tepe)がある。ギョベクリ・テペは、新石器時代の遺跡で、構造物が建造されたのは、12,000~10,000年前とされている。また、立てられていた多数の石柱は、高さ6m、重さ20tにもなる。発掘者であるドイツのクラウス・シュミット(1953-2014)は、ギョベクリ・テペは石器時代の神殿と考えていた(*5)。これが神殿(宗教施設)であるならば、農耕文明が始まるはるか昔の狩猟採集民の手で、このような巨大な神殿が建造されていたことになる。これは、これまでの人類学の常識を根底からくつがえすものであり、世界中の教科書が、書き換えられること意味する。ここは、人類史にとって、きわめて重要で、かつ大きな謎につつまれた場所である。


Göbekli Tepe(Author:Teomancimit)


Gobekli Tepe, Urfa(Author:Teomancimit)

(敬称略)

文献
*1)佐藤洋一郎・加藤鎌司編著 (2010). 麦の自然史. 北海道大学出版会
*2)Manfred Heun, Ralf Schäfer-Pregl, Dieter Klawan, Renato Castagna, Monica Accerbi, Basilio Borghi, Francesco Salamini, (1997). Site of Einkorn Wheat Domestication Identified by DNA Fingerprinting, Science Vol. 278, Issue 5341, pp. 1312-1314
*3)H. OzkanA. BrandoliniC. PozziS. EffgenJ. WunderF. Salamini. (2005). A reconsideration of the domestication geography of tetraploid wheats, Theor Appl Genet 110: 1052–1060
*4)Tanno, K. and Willcox, G. (2006a). How fast was wild wheat domesticated? Science Vol. 311, Issue 5769, pp. 1886
*5)Peters J. & Schmidt K. 2004. – Animals in the symbolic world of Pre-Pottery Neolithic Göbekli Tepe, south-eastern Turkey: a preliminary assessment. Anthropozoologica 39 (1) : 179-218.

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栽培化(domestication)についての最近の研究(総論)

2011年に、アメリカ国立進化総合センター(The United States National Evolutionary Synthesis Center)において、遺伝学、古生物学、地理学、考古学の分野で、栽培化・家畜化(domestication)について研究する25人の研究者たちが議論している。(*1)

食料生産のための植物の栽培化と動物の家畜化は、最終氷期から現在の間氷期へ移行中の12,000~11,000年前に、全世界で始まった。少なくとも11の独立した発祥中心地が確認されたが、さらに数か所の発祥地が提案された。栽培化の年代は、完新世初期(12,000〜9,000B.P.)と完新世中期(7,000〜4,000B.P.)に大きく分けられる。ただし、イヌだけは3万年以前に家畜化された。


少なくとも1つの栽培植物、あるいは家畜が生じた発祥中心地。黒線で囲まれたエリアは独立した栽培化の中心地で、矢印は拡散を示す。緑は更新世後期~完新世初期(12,000-8,200B.P.)、紫は完新世中期(8,200-4,200B.P.)に栽培化が行われたエリア。茶色は、栽培化が生物地学的に推測されるエリア(source:PNAS, 2014 Apr 29; 111(17): 6139–6146)


栽培植物と家畜が生じた時期(単位:1000年)。灰色は栽培化と家畜化の過程の時期、青色はプレドメスティケーション(前栽培化・家畜化)、赤色は、栽培化または家畜化による形態的変化が確認された以降(source:PNAS, 2014 Apr 29; 111(17): 6139–6146)


(source:PNAS, 2014 Apr 29; 111(17): 6139–6146)を元に改変

20万年前にホモ・サピエンスが登場して以来、95%の期間は、狩猟と採集の生活を続けてきた。なぜ人類が、狩猟採集の戦略を捨てて、農耕社会への移行したのかについては、激しい議論が続けられている。気候変動、人口圧力、競争の激化など、多くの説が唱えられているが、大多数の考古学者を満足させられる回答は得られていない。

栽培化された植物の特徴は、種子拡散能力の低下、毒性やトゲなど防御機能の低下、分岐の減少、種子の減少、浅い種子休眠、種子の大型化、花序の大型化、斉一な発芽などである。また、家畜化された動物では、小型化、従順、毛色の変化、耳が垂れる、幼い顔、などの変化がみられる。

コムギ、オオムギでは、脱粒性の野生種から非脱粒性の栽培種に置き換わるまでに、2,000〜4,000年を要したことがわかっている。

栽培化に長期の時間がかかったということは、“predomestication cultivation”(PDC:前栽培化栽培)と呼ばれる期間が存在したことを意味する。PDCは、西アジアや中国に栽培植物が登場する以前に、何世紀にもわたって続いていたと考えられる。

植物や動物の栽培化は、個体の「選択」によって行われる。選択には「無意識の選択」と「意識的な選択」があり、これは、ダーウィンが予想したとおりの状況だったと考えられる。ダーウィンは、『種の起源』で、次のように書いている。(*2)

At the present time, eminent breeders try by methodical selection, with a distinct object in view, to make a new strain or sub-breed, superior to anything of the kind in the country. But, for our purpose, a form of selection, which may be called unconscious, and which results from every one trying to possess and breed from the best individual animals, is more important. Thus, a man who intends keeping pointers naturally tries to get as good dogs as he can, and afterwards breeds from his own best dogs, but he has no wish or expectation of permanently altering the breed. Nevertheless we may infer that this process, continued during centuries, would improve and modify any breed, in the same way as Bakewell, Collins, &c., by this very same process, only carried on more methodically, did greatly modify, even during their lifetimes, the forms and qualities of their cattle.Slow and insensible changes of this kind could never be recognised unless actual measurements or careful drawings of the breeds in question have been made long ago, which may serve for comparison.(Chapter I)

「現在、著名な育種家たちは、国内にあるどの種類よりも優れた新たな系統または亜品種を作るために、はっきりした目的を視野に入れて、系統的な選択を試みている。しかし、我々の目的を果たす上では、『無意識』と呼べる選択の形態、すなわち、すべての人が、最高の個体の動物を所有して、それを繁殖させようとした結果のほうが、より重要である。ポインターを飼い続けることを望む人は、自然と、できるだけ良い犬を得ようとし、その後、彼が所有する最善の犬から繁殖する。しかし、彼は、その種をどんどん変異させることを、望みも期待もしていない。それにもかかわらず、何世紀ものあいだ続けられたプロセスは、あらゆる品種を改善し変異させるであろう。それは、ベルクウィルやコリンズなどの育種家が、彼らの生存期間中に、おなじプロセスをより体系的に実施することで、ウシの形態と品質を大きく変えたのと同じである。このような、ゆっくりで、感知できない変異は、変化を比較できるような品種のじっさいの測定や、注意深い描画がずっと前になされていない限り、決して認識することができない。」

例えば、栽培ムギや栽培イネの非脱粒性は、穂首や茎をナイフで刈り取るとう収穫方法を続けた結果、非脱粒性の個体が無意識に選択され、広まった。

なお、日本で栽培化された作物として報告されているのは、アズキ(Vigna angularis)、ダイズ(Glycine max)、エゴマ(Perilla frutescens)、ゴボウ(Arctium lappa)である。ダイズは、中国とは別々に栽培化されたという説をあげている。

個人的に興味深いのは、報告では栽培化(野生種から栽培種への変化)について、遺伝学の立場から詳細に論じているのに対して、農耕文化そのものや農耕文化の「伝播」については、まったく触れていないことである。そのため、発祥中心地どうしの関係性がよくわからない。ベルウッドがためらう理由(2017.12.3ブログ)を、目のあたりにするようである。

文献
*1)Current perspectives and the future of domestication studies. PNAS 2014 April, 111 (17) 6139-6146.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/24757054
*2)Charles Darwin, The Origin of Species, The sixth edition, 1872

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古代メソポタミアの徳政令:Debt cancellation in Mesopotamia

貨幣の供給(2017.10.20ブログ)の補足

オリエント学の前川和也氏は、以下のような興味深い指摘をしている。(*1)

古代メソポタミアの著名な法典としては、ウル・ナンム法典(B.C.2050)、リピト・イシュタル法典(B.C.1934-1924)、ハムラビ法典(B.C.1754)、エシュヌンナ法典(B.C.1930)などがある。

これらの法典に共通するのは、「正義」と「自由」についての記述であるという。

ウル・ナンム(B.C.2047-2030)は、メソポタミア南部のウル第3王朝の初代の王で、彼が制定した法典は、発見されている世界最古の法典である。

…after An and Enlil had turned over the Kingship of Ur to Nanna, at that time did Ur-Nammu, son born of Ninsun, for his beloved mother who bore him, in accordance with his principles of equity and truth… Then did Ur-Nammu the mighty warrior, king of Ur, king of Sumer and Akkad, by the might of Nanna, lord of the city, and in accordance with the true word of Utu, establish equity in the land; he banished malediction, violence and strife,…(*2)

「・・・アンとエンリルがウルの王をナンナに向かわせた後、そのとき、ニンサンの息子であるウル・ナンムが、彼の愛した母親のために、彼の平等と真実の原則に従って・・・それから、ウルの王、シュメルとアッカドの王のウル・ナンムは、都市の主であるナンナによって、そして、ウトゥの真実の言葉に従って、国土に平等を確立した。彼は、虐待、暴力、紛争を追放した···」


Ur Nammu code Istanbul(Author:oncenawhile)

リピト・イシュタル(在位:B.C.1934-1924)は、古代メソポタミア、イシン第1王朝の第5代王であり、リピト・イシュタル法典の前文には次のような文章が書かれていた。

Eridu, the suitable lord of Erech, [king] of I[sin], [kin]g of Sum[er and Akkad], who am f[it] for the heart of Inanna, [estab]lished [jus]tice in [Su]mer and Akkad in accordance with the word of Enlil. ・・・・Verily, in those [days] I procured the [fre]edom of the [so]ns and daughters of [Nippur], the [so]ns and daughters of Ur, the sons and daughters of [I]sin, the [so]ns and daughters of [Sum]er and Akkad upon whom….slaveship…..had been imposed.(*3)

「イナンナの心に合った、シュメルとアッカドの王、イシンの王、ウルクの適切な領主であるエリドゥは、エンリルの言葉に従ってシュメルとアッカドに正義を確立した。···本当に、そのとき、私は、奴隷を課せられていた、ニップルの息子と娘たち、ウルの息子と娘たち、イシンの息子と娘たち、シュメルとアッカドの息子と娘たちを、自由の身にした。」


The Code of Lipit-Ishtar(Author:Francis Rue Steele, 1915-2004)

ハムラビ(B.C.1810-1750)は、バビロン第1王朝の第6代の王であり、エラム、ラルサ、エシュヌンナ、マリなどの都市国家を征服してメソポタミア全域を支配した。ハムラビ法典は、ハムラビが王に即位する際の所信表明という説がある。

—at that time, Anu and Bel called me, Hammurabi, the exalted prince, the worshiper of the gods, to cause justice to prevail in the land, to destroy the wicked and the evil, to prevent the strong from oppressing the weak, to go forth like the Sun over the Black Head Race, to enlighten the land and to further the welfare of the people….(*4)

「・・そのとき、アヌとエンリルは、私を、ハムラビ、高貴な王子、神の崇拝者と呼んだ。正義が国土に生じるために、悪を滅ぼすために、強者が弱者を圧迫するのを防ぐために、黒い頭の種族の上の太陽が前進するために、国土を教化するために、人々の福祉をさらに向上させるために。・・」


Code de Hammurabi

ハムラビから4代あとのアミツァドゥカ(Ammi-Saduqa:B.C.1646-1626)の勅令が発見されており、「王が国土に正義を確立したときに聞くことを命じられた法の粘土板」とある。そして、2条、3条、4条、20条には、これまでの債権を無効にする命令があるという。アミツァドゥカなど、古バビロニアの王たちは、治世のはじめに、まず「自由」と「正義」を確立し、同時に徳政令を公布していたらしい。

Whoever has given silver or barley to an Akkadian or Amorite as an interest-bearing loan, or to gain a return (ana melqetim), and had a written document (lit. a tablet) executed, because the king has established justice in the land (mesaram sakanum), his document is voided (lit. his tablet is broken). He may not collect the barley or silver on the basis of this document. (*5)

「利子付貸付として、あるいは、返済を得るために、銀貨や大麦を、アッカド人やアモリ人に与え、そして、書かれた文書を作成した者は、王が国土に正義を確立したので、彼の文書は無効になる。彼は、その文書に基づいて大麦または銀を集めることはできない。」

このような徳政令は、すでに紀元前24世紀のラガシュ都市国家に見られ、支配者であったエンメテナやウルイニムギナは、債務奴隷を「母のもとにもどし」、債務から解放していたという。前川氏は、ほかにも、王たちが物品の標準価格や労働賃金を定めた例をあげて、次のような文章で結んでいる。

「当時、私的な経済が大発展をとげていたことはうたがいない。それにともなって生じた社会的な混乱を解決するために、王たちは標準価格を設定し、また徳政令を公布したのであろう。」(*1)

文献
*1)大貫良夫、前川和也ほか、人類の起源と古代オリエント、中央公論社、1998
*2)Code of Ur-Nammu
http://www.polk.k12.ga.us/userfiles/644/Classes/177912/Code%20of%20Ur-Nammu.pdf
*3)Francis R. Steele, The Code of Lipit Ishtar – University of Pennsylvania Museum Monographs, 1948 – includes complete text and analysis of all fragments [reprinted from American Journal of Archaeology 52 (1948)]
*4)The Code of Hammurabi
http://oll.libertyfund.org/titles/hammurabi-the-code-of-hammurabi
*5)The Edict of Ammi-saduqa
http://www.worldhistory.biz/ancient-history/71292-text-14-1-the-edict-of-ammi-saduqa.html

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分子生物学の衝撃:Impact of molecular biology

1920~1930年代に、量子力学が勃興し確立すると、生命現象を微視的な物理現象として探究する気運が高まった。生命物質の分子構造を解析するには、X線回折など物理学の知識が必要なこともあり、1940年代に、デルブリュックをはじめとする多くのドイツの物理学者たちが、生物学や遺伝学に転向した。1944年には、理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガー(1887-1961)が、“What Is Life?”(生命とは何か)を発表して、大きな影響を与えた。

マックス・デルブリュック(1906-1981)はベルリン生まれで、父は高名な歴史学者、母はユストゥス・フォン・リービッヒの孫であった。ゲッティンゲン大学で天体物理学や理論物理学を学んだが、生物学に転向して、カリフォルニア工科大学で遺伝学の研究を始めた。ショウジョウバエやバクテリオファージ(バクテリアのウイルス)を使って研究を行い、デルブリュックが主宰した「ファージ・グループ」は、分子生物学の創設と発展に大きく貢献した。

1942年、デルブリュックは微生物学者のサルバドール・エドワード・ルリア(1912-1991)と共に、細菌は、ウイルスの存在がなくても、ウイルス耐性の突然変異が起きることを示した(ルリア-デルブリュックの実験)。これは、細菌が、偶然に起きる突然変異によって何らかの形質を獲得していることを意味している。


Anatomy and infection cycle of phage T4. 1: Attachment of phage’s fibres to a bacterium, 2: Injection of DNA, 3: Synthesis of phage components, 4: Assembly of new phages, 5: Burst of bacterium and release of infectious phages.(Author:Guido4)

1944年、アメリカの医学研究者のオズワルド・アベリー(米、1877-1955)らが、1928年にグリフィスが発見した肺炎レンサ球菌の遺伝情報の本体がDNAであることをつきとめた。当時、遺伝子の正体がDNAかタンパク質かで論争になっていた。

1946年には、遺伝学者のハーマン・J・マラー(米、1890-1967)が、ショウジョウバエにX線を照射して、人為的に突然変異が誘導できることを発見している。

1950年、生化学者のエルヴィン・シャルガフ(1905-2002)は、様々な生物種のDNAを分析し、生物の種に関係なく、アデニン(A)とチミン(T)の量が等しく、さらに、シトシン(C)とグアニン(G)の量が等しいことを発見した。これは、AとT、CとGがそれぞれペアになっていることを示唆していた。シャルガフは、1952年にジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックに会って、このことを教えた。


Nucleoside Base distribution in DNA(source:William Reusch, Nucleic Acids)

1951年、アメリカの量子化学者、分子生物学者のライナス・ポーリング(米、1901-1994)らが、タンパク質構造の中核である、αヘリックスとβシートの構造を解明した。ポーリングは、20世紀におけるもっとも偉大な化学者の一人で、化学的な現象を量子力学によって記述し、化学結合の性質を理論化した。
オレゴン州で生まれたポーリングは、子供のころに薬剤師の父を亡くし、経済的にめぐまれなかった。オレゴン農業大学(現在のオレゴン州立大学)に入学して、研究室と教室で働きながら勉学を続け、化学工学を学んだ。カリフォルニア工科大学の大学院に進学し、物理化学と数理物理学で博士号を得た。1932年に、原子軌道の混成の理論、さらに電気陰性度の理論を発表した。1939年に、それまでの化学結合に関する研究をまとめた“The Nature of the Chemical Bond”(化学結合の本性)を著して、大きな影響を与えた。
1930年代後半に、生体分子の研究を開始し、タンパク質の構造解析を行った。その後、DNAの構造解析に着手し、DNAは3重らせん構造であると予想した。


Hydrogen bonds in protein secondary structure. Cartoon above, atoms below with nitrogen in blue, oxygen in red(Author: Thomas Shafee)

1952年に、遺伝学者のアルフレッド・ハーシー(1908 -1997)とマーサ・チェイス(1927-2003)が、リンPの放射性同位体であるリン32Pをバクテリオファージに用いて、DNAが遺伝物質であることを確認した(ハーシーとチェイスの実験)。

そして、1953年に、ジェームズ・ワトソン(1928-)とフランシス・クリック(1916-2004)が、DNAの2重らせん構造を発表した。このとき、ワトソンとクリックは、ロザリンド・フランクリン(1920-1958)が撮影した未発表のX線回折写真を参考にしていた。フランクリンの写真は、DNAが2重らせん構造であることを示していた。じつはこの写真は、モーリス・ウィルキンス(1916-2004)が、フランクリンに無断で持ち出したものであり、後年、大きなスキャンダルになった。


X-ray diffraction image of the double helix structure of the DNA molecule, taken 1952 by Raymond Gosling, commonly referred to as “Photo 51”, during work by Rosalind Franklin on the structure of DNA


DNA model built by Crick and Watson in 1953, on display in the National Science Museum of London.(Author:Alkivar)


The structure of DNA showing with detail showing the structure of the four bases, adenine, cytosine, guanine and thymine, and the location of the major and minor groove.(Author:Zephyris)

このDNAの2重らせん構造の発見を境に、分子生物学は猛烈なスピードで進展し始めた。なぜなら、この2重らせん構造こそが、遺伝の法則とタンパク質生成の仕組みを表現していたからである。

1958年に、クリックは、“On Protein Synthesis”を公表した(*2)。これは、「セントラルドグマ」と呼ばれており、クリックは、タンパク質の生成には、遺伝情報が、DNA→転写→mRNA→翻訳→タンパク質の順に伝わると予想した。セントラルドグマは、以後の研究の大きな指針となった。(*3)


(souce:”Central dogma of molecular biology” . Nature. 227)


(source:William Reusch, Nucleic Acids)

1960年代に、マーシャル・ウォーレン・ニーレンバーグ(1927-2010)、ハー・ゴビンド・コラナ(1922-2011)らは、タンパク質合成の遺伝暗号の翻訳に成功した。DNAの配列では、ヌクレオチド3個の組み合わせで、1個のアミノ酸に対応している。アミノ酸を鎖状に連結することで、設計図どおりのタンパク質の生成を実現している。


Phe:フェニルアラニン、Leu:ロイシン、Ile:イソロイシン、Met:メチオニン、Val:バリン、Ser:セリン、Pro:プロリン、Thr:トレオニン、Ala:アラニン、Tyr:チロシン、His:ヒスチジン、Gln:グルタミン、Asn:アスパラギン、Lys:リシン、Asp:アスパラギン酸、Glu:グルタミン酸、Cys:システイン、Trp:トリプトファン、Arg:アルギニン、Ser:セリン、Gly:グリシン

1962年に、生物学者のエミール・ズッカーカンドル(1922-2013)とポーリングが、異なる生物種間のヘモグロビンのアミノ酸α鎖の配列の差の数は、両種が分岐した時間に比例することに気がついた。生物間の分子構造の変化量を調べれば、おおよその分岐時期が推定されることになり、これを分子時計と名付けた。1963年には、エマニュエル・マーゴリアッシュ(1920-2008)が、シトクロムcの配列の差の数が、遺伝的距離に対応することを報告した。(*5)


(souce:Proc Natl Acad Sci U S A.)

なお、分子時計の発見は、日本の集団遺伝学者の木村資生(1924-1994)にも大きな影響を与えた。木村は、1968年に、遺伝子の突然変異の大部分は表現型に影響しない「中立的」な変異であると指摘した。表現型でない中立的な変異は、自然選択には関与しないので、遺伝的浮動の遺伝子プール内への広がりを決定するのは、偶然にすぎない。

1970年代後半に、ミトコンドリアDNAの研究がアメリカで始まった。1987年、アラン・ウィルソン、レベッカ・キャン、マーク・ストーンキングのグループは、多数の民族からなる147人のミトコンドリアDNAを解析した。そして、現生人類のミトコンドリアDNAは、20万年前にアフリカにいた一人の女性に由来すると発表した(ミトコンドリア・イブ説)。(*6)


This is a map that has been translated from Spanish to English. The description of the original map was “Hypothesized map of human migration based on mitochondrial DNA.”(Author:Maulucioni)

この研究の衝撃は大きく、生物学や人類学の研究者のみならず、人々の人間観、歴史観に大きな影響を与えた。さらに、2000年には、数十の集団から抽出したY染色体の解析をもとに、父系のルーツもアフリカの一人の男性にたどりつくことが明らかになった。(*7)


World Map of Y-DNA Haplogroups – Dominant Haplogroups in Pre-Colonial Populations with Possible Migrations Routes(Author:Y-dna data file)

文献
*1)H・F・ジャドソン、分子生物学の夜明け、東京化学同人、1982
*2)On Protein Synthesis (1958) – Profiles in Science
https://profiles.nlm.nih.gov/ps/retrieve/ResourceMetadata/SCBBZY
*3)Crick, F (August 1970). “Central dogma of molecular biology” (PDF). Nature. 227 (5258): 561–3.
https://www.nature.com/nature/focus/crick/pdf/crick227.pdf
*4)William Reusch, Nucleic Acids
https://www2.chemistry.msu.edu/faculty/Reusch/VirtTxtJml/nucacids.htm
*5)E.Margoliash,PRIMARY STRUCTURE AND EVOLUTION OF CYTOCHROME C,Proc Natl Acad Sci U S A. 1963 Oct; 50(4): 672–679.
*6)Rebecca L. Cann, Mark Stoneking, Allan C. Wilson (1987). “Mitochondrial DNA and human evolution”. Nature 325
*7)Peter A. Underhill et al. (2000). “Y chromosome sequence variation and the history of human populations”. Nature Genetics 26

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進化論と遺伝学:Evolution theory and Genetics

ダーウィンは、『種の起源』(1859)の第1章で、変異の法則について次のように述べる。

Perhaps the correct way of viewing the whole subject would be, to look at the inheritance of every character whatever as the rule, and non-inheritance as the anomaly.
The laws governing inheritance are for the most part unknown; no one can say why the same peculiarity in different individuals of the same species, or in different species, is sometimes inherited and sometimes not so; why the child often reverts in certain characteristics to its grandfather or grandmother or more remote ancestor; why a peculiarity is often transmitted from one sex to both sexes, or to one sex alone, more commonly but not exclusively to the like sex.(CHAPTER I)

「おそらく、主題全体を見る正しい方法は、あらゆる形質は法則として遺伝する、そして遺伝しないことは異常として見ることである。
遺伝を支配する法則は、まったくわかっていない。なぜ、同じ種の異なる個体において、あるいは異なる種の個体において、同じ特徴が、ときには遺伝し、ときには遺伝しないのか? なぜ、子供はしばしばその特徴において、祖父または祖母、あるいはより遠い祖先に回帰するのか? なぜ、ある特徴が、片方の性から、両方の性に伝わったり、あるいは片方だけに伝わったり、より普通には、同じ性に伝えられるのか?」

『種の起源』の刊行から6年後の1865年に、グレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)が、「植物雑種に関する実験」(メンデルの法則)を発表した。メンデルは、チェコ(当時はオーストリア帝国)の農家に生まれ、オルミュッツ大学で哲学、物理学を学んだ。経済的な理由から修道院に入会して勉強を続け、ウィーン大学に留学して物理学、数学、植物学、生物学を学んだ。このときの物理学の師は、ドップラー効果を発見したクリスチャン・ドップラーであった。

修道院の司祭として生活しながら、1856~1863年にエンドウマメを使って遺伝の研究を行った。まず、数年かけてエンドウマメ品種の純系の選抜を行い、その後に交配実験を行った。そして、分離の法則(染色体の対立遺伝子が2つに分かれ、各配偶子は1つの対立遺伝子を有する)、および優性の法則(対立遺伝子の発現には差がある)を発見した。

しかし、当時は、生物学や遺伝学におけるメンデルの法則の重要性を理解できる生物学者や科学者はおらず、まったく注目されなかった。メンデルの法則は、35年後の1900年に、カール・エーリヒ・コレンス(独)、エーリヒ・フォン・チェルマク(オーストリア)、ユーゴー・ド・フリース(オランダ)の3人の研究者によって独立に再発見された。なお、メンデルは、ダーウィンの進化論を知っていたが、それを批判するメモを残していたという。

1901年に、メンデルの再発見者の一人であるユーゴー・ド・フリース(1848-1935)は、オオマツヨイグサの変異の観察から、進化は突然変異によって起こるという突然変異説を唱えた。翌1902年には、ウォルター・サットン(米、1877-1916)が、染色体の減数分裂の観察から、遺伝子が染色体上にあるという染色体説を提唱した。1913年に、トーマス・ハント・モーガン(米、1866-1945)がショウジョウバエを用いて、サットンの染色体説を証明した。

1930年代にロナルド・フィッシャー(英、1890-1962)ら集団遺伝学者によって、メンデル遺伝学(おもに突然変異説)とダーウィンの自然選択説の融合が行われた。1940年代には、分類学、古生物学、植物学、生態学などの成果を総合して、進化の総合学説(ネオダーウィニズム)が成立した。遺伝学と進化論は進展したが、遺伝子の実体やその仕組みは謎のままであった。

一方、医学者や生理学者によって、核酸の研究が進んでいた。1869年、スイスの生理学者、ヨハネス・フリードリッヒ・ミーシェル(1844-1895)は、細胞核中に核酸を発見して“nuclein”(ヌクレイン)と命名した。核酸にはリンが多く含まれていたので、ミーシェルは、核酸はリンの貯蔵器官と考えていた。

1885~1901年に、ドイツのアルブレヒト・コッセル(1853-1927)らが、核酸の中から、5種類の核酸塩基、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)、ウラシル(U)を分離・命名した。


Nucleic Acids(source:William Reusch, Nucleic Acids)

1928年には、イギリスの細菌学者のフレデリック・グリフィス(1879-1941)が、肺炎レンサ球菌とマウスを用いて、バクテリアの形質を転換できること、さらに、個体から他の個体に遺伝情報を転移できることを発見した。

1929年、ドイツのフィーバス・レヴィーン(1869-1940)が、核酸には、リン酸と核酸塩基以外に2種類の糖が含まれていることを見つけた。すなわち、核酸にはRNA(リボ核酸)とDNA(デオキシリボ核酸)の2種類あることを発見した。


Components of Nucleic Acids(source:William Reusch, Nucleic Acids)

文献
William Reusch, Nucleic Acids
https://www2.chemistry.msu.edu/faculty/Reusch/VirtTxtJml/nucacids.htm

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日本の農学者たちの研究

栽培植物の起源をめぐっては、日本の農学、遺伝学の研究者たちも、大きな成果をあげてきた。

コムギの起源

木原均(1893-1986)は、日本を代表する遺伝学者の一人で、世界に先駆けて普通コムギ(パンコムギ)の起源を明らかにした。木原は、1893年に東京で生まれ、北海道大学(当時は東北帝国大学農科大学)で植物生理学を学んだ。木原が遺伝学に進むきっかけとなったのは、坂村徹の「遺伝物質の運搬者」と題する講演を聞いたことであった。当時、坂村は大学院生で、木原の先輩であった。(*1)

坂村徹(1888-1980)は広島県で生まれ、北海道大学で植物細胞学・植物生理学を学んだ。坂村は、1918年にコムギの染色体の倍数関係と正確な染色体数を世界で始めて発見した。

コムギ属の倍数性、染色体数、ゲノム、種類は表のように分類されている。この中で、栽培種としてもっとも普及しているのは、普通コムギ(パンコムギ)とマカロニコムギ(デュラム)である。コムギの染色体数は、7を基本とする倍数関係にあり、一粒系2n=14、二粒系2n=28、普通系2n=42であり、それぞれ2倍体、4倍体、6倍体となる。

倍数性 染色体数 ゲノム 種類
2倍性 2n=14 AA 一粒系 野生ヒトツブコムギ、アインコルンコムギなど
4倍性 2n=28 AABB 二粒系 パレスチナコムギ(野生)、エンマーコムギ、マカロニコムギなど
AAGG チモフェービ系 アルメニアコムギ(野生)、チモフェービコムギ
6倍性 2n=42 AABBDD 普通系 スペルタコムギ、パンコムギなど
AAAAGG ジュコフスキー系 ジュコフスキーコムギ

その後、坂村は、ヨーロッパへ留学し、帰国して北海道帝大教授に就任した。1941年に、名著といわれた『植物生理学』を著し、後継の研究者に大きな影響を与えた。

坂村が留学したために、木原が、コムギ研究を坂村から引き継ぐことになった。京都大学に移った木原は、染色体数の異なるコムギをかけあわせて雑種をつくり、その染色体数の変化を調べた。1930年に、コムギは7本の染色体セットが完全な形でそろっているときに、最小限の遺伝的機能を果たしていることを発見し、「生物をその生物たらしめるのに必須な最小限の染色体セット」を「ゲノム」(genome)と名づけた。

1944年に、二粒系コムギ(2n=18、AABB)と、タルホコムギ(2n=14、DD)が交雑して、普通系コムギ(2n=42、AABBDD)になったことを解明し、終戦後の1948年には、じっさいにタルホコムギとマカロニコムギを掛け合わせて、パンコムギを作出することに成功した。


普通系コムギ(パンコムギ)の起源

1955年、木原は、京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊を組織した。メンバーには、岩村忍(東洋史学)、梅棹忠夫(民族学)、岡崎敬(考古学)、北村四郎(植物学)、今西錦司(生態学)、中尾佐助(植物学)らがいた。ヒンズークシ隊は、パキスタンからカスピ海に至る1万キロを踏破し、マカロギコムギの畑で、雑草のタルホコムギが一緒に生えている場所を発見した。そして、パンコムギの起源地は、カスピ海西岸であると結論づけた。

木原は、コムギの研究のほかにも、スイバ(タデ科の多年草で雌雄異株)を使って、高等植物にも性染色体があることをはじめて発見(1923)したり、種なしスイカを作出するなど、大きな業績を残した。「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」という言葉を残している。なお、木原は、ニコライ・ヴァヴィロフの友人であり、ヴァヴィロフが調査のために来日した1929年に交流している。

イネの起源

1898年、滋賀県農業試験場長であった高橋久四郎は、人工交配によるイネの新種の作出に初めて成功した。1904年に、農商務省の農事試験場畿内支場で、加藤茂苞(1868-1949)がイネの品種改良を開始した。のちに、加藤は、形態や交配親和性の違いから、イネをインディカとジャポニカの2つの型に分類することを提案した(1928)。

加藤の共同研究者であった安藤広太郎(1871-1958)は、1951年に『日本古代稲作史雑考』を著し、戦後の稲作史研究の指針となった。

九州帝大の盛永俊太郎(1895-1980)は、アブラナ属の種間の遺伝的類縁関係の解析を初めて手がけ(1925)、その後、イネの遺伝学的解析を行った。戦後は、農林省農事試験場長、農業技術研究所長を歴任し、1969年に、安藤広太郎、柳田國男と共著で『稲の日本史』発表した。

また、京都大学の渡部忠世(1924-)は、アジア各地のイネや、遺跡から出土したイネの籾殻の粒形を比較検討し、栽培イネの発祥地を、インド東北部のアッサムと雲南高地とする説を唱えた。

オオムギの起源

高橋隆平(1910-1999)は北海道大学農学部で育種学を学び、農林省農事試験場を経て、大原農業研究所(現在の岡山大学資源植物科学研究所)で、オオムギ研究に従事した。中国を始め、世界中から栽培品種4000種、野生種200種のオオムギ品種を集めた。

高橋は、多数のオオムギ品種の交雑試験を行う過程で、オオムギの脱粒性は、2つの優性遺伝子(Btr1、Btr2)によって支配されており、2つを同時に持つと脱粒性(野生型)となり、どちらか一方でも欠けると非脱粒性(栽培型)になることを発見した。また、Btr2はヨーロッパの品種に多く、Btr1は東アジアの品種に多いことを見出し、西域型(W型)と東亜型(E型)と名づけた。(*2)

これは、栽培オオムギには2つの祖先があり、それぞれが西と東に伝播していったことを意味している。ヨーロッパ、トルコ、エチオピアではW型が80%以上を占め、中国、朝鮮半島、日本ではE型が80%以上となっている。さらに、北アフリカ(エジプト、アルジェリア、チュニジア、モロッコら)では、中東より西にもかかわらず、E型が90%以上を占めており、これは、7世紀以降のイスラム教の隆盛の影響と考えらえる。

また、高橋は、日本の在来オオムギの品種を調べ、日本海側には皮麦が多く、太平洋側と瀬戸内には裸麦が多いことを指摘している。

アブラナ属の起源

農事試験場の禹長春(1898-1959)は、水島宇三郎(1903-2000)、永松土己とともに、アブラナ属栽培6種の相互関係を「禹の三角形」として明らかにした(1935)。


禹の三角形

なお、禹の父は乙未事変(閔妃暗殺事件)に加わった、朝鮮王朝武官の禹範善である。禹範善は事変後に日本に亡命し、日本人女性と結婚して、禹長春が生まれた。禹範善は、1903年に、閔妃に仕えていた高永根に広島県呉市の自宅で暗殺された。禹長春は、戦後の1950年に韓国に招かれ、韓国農業科学研究所所長、中央園芸技術院院長を歴任した。渡韓からわずか9年後の1959年に、61歳で亡くなったが、韓国農業発展への貢献は大きく、「韓国農業の父」と呼ばれている。

戦後、東北大学に移った水島宇三郎は、1965年に、角田重三郎(1919-2001)とともに海外学術調査を行った。アブラナ属の野生の基本種3種を収集し、その分布を調べた。そして、アブラナ属作物の起源について、以下のように明らかにした。(*3)

a:アブラナ属は地中海性気候に適応し、地中海周辺でアブラナ科植物の変異がもっとも多い。また、最少染色体数のB. adpressa(n=7)やクロガラシ(n=8)、B. fruticulosa(n=8)は地中海周辺で優勢である。アブラナ属は地中海周辺を故郷とすると考えられる。

b:クロガラシは、インド、エチオピア、地中海島嶼などで古くから薬用、香辛料、油料、疏菜として栽培化されている。

c:キャベツ類の野生型は海岸の急峻な岩崖に生息し、栄養分に富んだ厚肉葉の永年生植物である。古代より疏菜として利用され、栽培化された。さらに、キャベツ類野生型は地中海から、アイルランド南岸、英仏海峡の両岸、ユトランド半島まで自生地を拡げ、様々な栽培型に分化した。

d:アブラナ類(カブ、アブラナなど)の野生型は、地中海域から亜寒帯冬雨気候まで、生育地を北上させた。低温下でよく生育し、小アジアの高原地帯に優勢な生育地がみられる。そこからコーカサス、スカンジナビア、シベリアにまで分布している。油料用やカブとしてヨーロッパ全域で栽培されている。さらに、インドに伝播してインドナタネを生じ、中国東部および日本に伝播して、多様なツケナ類とナタネに分化した。

e:カラシナ類の野生型は、トルコ、イラク、アラビアなどの中東に多く、この地域でクロガラシとアブラナ類の交雑により生じたと考えられる。インドや中国で、油料、葉菜、根菜および香辛料として多数の栽培型が分化した。

f:アビシニアガラシは古来よりエチオピア人の重要疏菜であるが、地中海域にはその野生型が皆無である。エチオピア高原に伝わったキャベツ類と、クロガラシとの交雑に由来すると考えられる。

g:セイヨウアブラナ類の野生型は北欧に見いだされる。セイヨウアブラナ類は、キャベツ類とアブラナ類の間に生じた可能性が高い。セイヨウアブラナ類は、西洋ナタネと飼料カブの2つの系統に分化した。


アブラナ属作物の3基本ゲノム種の自生地の分布と伝播ならびに、3複2倍体種の推定成立地帯(水島・角田, 1969)(source:農業環境技術研究所報告第36号)

青葉高(1916-1999)は、山形大学農学部教授、千葉大学園芸学部教授を歴任し、日本の蔬菜園芸の研究で大きな業績を残した。青葉は、日本のカブの在来品種を調べ、洋種系と和種系の2つが存在し、和カブの系統をたどりと、中国大陸にたどりつくのに対し、洋種カブの系統は、中国東北部からシベリアを経由してヨーロッパにまで到ることを明らかにした。(*5)

カブは、栽培化の早い段階でヨーロッパ系とアジア系に分かれ、ロシア、トルコ、中央アジア、インド、中国、日本などで独自の品種が発達した。また、日本への伝来は、古代に別ルートで2回あったと考えられる。

なお、カブと同様に、同じアブラナ科のダイコン属にも、2つの伝来ルートが予想される。ダイコンの近縁種は、地中海沿岸や黒海周辺にみられることから、この地方が原産地であろうと考えられている。ダイコンは、栽培の歴史が長く、ヨーロッパ、インド、中国、日本などで、その地方の気候に適応して多くの品種が分化している。大きくは欧州系とアジア系に分けられ、アジア系はさらに、低温乾燥に適応した華北群と、温暖多湿を好む華南群に分けられる。日本の大根の多くは華南群に属するといわれるが、華北群との交雑種など、独自の在来種が各地に発展している。

中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』

中尾佐助(1916-1993)は、京都学派の代表的な植物学者で、モンゴル、ネパール、ブータン、インドなどを探検して、植物の学術調査を行った。1966年に『栽培植物と農耕の起源』を発表し、豊富な植物学の知見に、栽培法、収穫法、利用法などの人類学的視点を加え、世界の栽培植物と農耕の起源を論じた。日本人研究者としては、初めての取り組みであり画期的な論考であった。

中尾は、アルフォンス・ドゥ・カンドールやヴァヴィロフの業績を評価する一方で、当時のイギリス研究者の単系文化進化主義を強く批判している。そして、サウアーとマードックの説に触れながら、自分の説は、マードック説に近いと述べ、以下の4つの農耕文化起源地を挙げている。(*6)

a:根菜農耕文化
マレー半島やニューギニア島を中心とする東南アジアの熱帯雨林地域が発祥地。バナナ、ヤムイモ、タロイモ、サトウキビ、サゴヤシ、パンノキなどを栽培化し、ブタ、ニワトリを家畜化。

b:サバンナ農耕文化
ニジェール川流域、エチオピア、インドのサバンナ地帯が発祥地。雑穀(アワ、キビ、モロコシなど)、マメ類、ウリ類、ゴマ、アブラヤシ、イネなどを栽培化。

c:地中海農耕文化
地中海性気候の中東地域が発祥地。コムギ、オオムギ、ライムギ、エンバク、エンドウ、ソラマメ、ナタネ類を栽培化し、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ウマ、ロバを家畜化。

d:新大陸の農耕文化
メキシコ、アンデス高地、南米北部が発祥地。トウモロコシ、マメ類、トマト、ジャガイモ、カボチャ、トウガラシ、サツマイモ、キャッサバなどを栽培化。

中尾は、サウアー説にならって、旧大陸の3箇所の農耕起源地の中では、根菜農耕文化がもっとも古いと考えていた。また、根菜農耕文化が温帯の照葉樹林帯に伝播し、照葉樹林文化が発達したと唱えた。アッサム、雲南、長江流域、日本列島にいたる照葉樹林帯では、ワラビ、コンニャク、ヤマノイモ、シソ、カイコ、ムクロジ、ウルシ、チャ、ミカン、ヤマモモ、ビワなどの作物が共通してみられ、文化要素としては、アク抜き、発酵茶、絹の利用、漆器、バラ麹などの利用も共通しているとした。70年代以降に、中尾は佐々木高明とともに、照葉樹林文化論を積極的に提唱するようになり、日本の民族学などに大きな影響を与えたが、考古学者や農学者からの批判も多かった。

(敬称略)

文献
*1)木原ゆり子、木原均先生小伝、北海道大学総合博物館、2015
*2)武田和義、オオムギの進化と多様性、麦の自然史、北海道出版会、2010
*3)水島宇三郎、アブラナ連植物の進化と育種、化学と生物 Vol. 10、1972
*4)遺伝子組換えセイヨウアブラナの生物多様性影響評価に必要なカラシナ(Brassica juncea)、アブラナ(B. rapa)、セイヨウアブラナ(B. napus)の生物情報集、農業環境技術研究所報告第36号、2016
*5)青葉高、カブ、農業技術大系野菜編第9巻、農山漁村文化協会
*6)中尾佐助、栽培植物と農耕の起源、岩波新書、1966

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