リンと生物 Phosphorus and life

SHINICHIRO HONDA

「近代農学の祖」と呼ばれているのは、ドイツのアルブレヒト・テーア (Albrecht Daniel Thaer, 1752-1828)だ。テーアはザクセン州の医師の家に生まれ、ゲッティンゲン大学で医学を学んだ。医師として仕事をしながら、園芸や農業に強い興味を持ち、農地を購入して花や果樹などさまざまな植物を栽培した。農業に専念しようとしていたところ、イギリスの王(ジュージ3世)の個人医を委嘱された。

当時のドイツは、イギリスにくらべて農業技術や制度が遅れていた。テーアは、イギリスの最新の農業をドイツに紹介するために、1798年に、“Einleitung zur Kenntniß der englischen Landwirthschaft und ihrer neueren practischen und theoretischen Fortschritte in Rücksicht auf Vervollkommnung deutscher Landwirthschaft”(イギリス農業の知識とドイツ農業の改善に関する最近の実際的および理論的進歩)を書いた。


アルブレヒト・テーア(Albrecht Daniel Thaer, 1752-1828)

1802年に、ツェレにドイツで最初の農業学校を設立したが、1804年にヴリーツェンに移転した。1809~1812年に“Grundsätze der rationellen Landwirthschaft”(合理的農業の原理)を著して、近代農学を創設した。

テーアは、土壌を分析して、埴土、壌土、砂土などに分け、泥炭、泥灰質土壌、石灰土壌、腐植土などの階級に分類した。そして、土の肥沃さは腐植に由来し、腐植が多いほど、生産力が高いとした。また腐植のもとになるのは堆厩肥などの動植物に由来する肥料と考えていた。テーアが「腐植栄養説」を唱えたのは、腐植は植物性物質であり、植物は、植物に類似した物質を栄養にしていると仮定したからだ。

「作物にその養分の最も本質的なもの、かつ必須の部分を与えるものは、本来的にはただ動植物によってつくり出される堆厩肥だけ、すなわちまさに分解可能な状態にある腐食質(いわゆるフムス「腐植」)だけである」(*3)

カール・シュプレンゲル(Carl Sprengel, 1787-1859)は、ドイツ北部のハノーバーに生まれ、早くから農夫になることを望んでいた。15歳のときにテーアの農業学校に入学し、農業学校で働きながら学んだ。その後、農業のコンサルタントとして働き、ヨーロッパ各地を旅行して農業を研究した。1821年に34歳でゲッティンゲン大学に入学して、化学、物理学、植物学、鉱物学、地質学、数学を学んだ。卒業後に大学に残って農業化学の講義をおこなった。


カール・シュプレンゲル(Carl Sprengel, 1787-1859)

シュプレンゲルは、1826年に、植物の灰から、硝酸、硫酸塩、塩化物、リン酸塩を抽出して論文として報告した。テーアは腐植そのものが植物の栄養素と考えていたが、シュプレンゲルは、植物が栄養にしているのは肥料や腐植に含まれるミネラル(鉱物、無機物)であり、植物中に存在するミネラルが、植物に必須の栄養素であるとした。

1828年には、植物の無機栄養素として、窒素、リン、カリウム、イオウ、マグネシウム、カルシウムなど20種の元素を提示した。また、植物の成長に12の物質が必要ならば、そのうち1つでも不足すれば、植物は成長できないとする「最小律」をあきらかにした。1837年から、土壌や植物栄養についての3冊の教科書を著し、1842年には念願であった農業学校をレーゲンヴァルデに設立した。

なお、シュプレンゲル以前にも、スイスの化学者のドゥ・ソシュールは、1804年に、種々の塩類(とくにリン酸、カリ、カルシウム)が植物の生育に必要なことを示した。また、イギリスのデイヴィは、1813年に、無機物が植物栄養分の一部になると指摘していた。

それまでの農業の歴史では、作物の肥料は、動物の糞尿や動植物の遺体に由来するものであったが、1840年代のヨーロッパでは、ペルー産グアノとチリ硝石が輸入されて、肥料として使われるようになっていた。シュプレンゲルらの無機栄養説によって、鉱物を肥料として利用できることがあきらかになり、グアノ、リン鉱石、硝石が肥料として大量に使用されるようになった。この「肥料革命」は、食料と人口を増大させ、ヨーロッパの産業革命の大きな要素の一つであった。

なお、一般には無機栄養説と最小律は、ユストゥス・フォン・リービヒ(Justus Freiherr von Liebig, 1803-1873)による発見といわれている。これは、リービヒがシュプレンゲルの論文引用を示さず、無機栄養説を自分の説としたためで、リービヒの成功と名声によって、シュプレンゲルの業績は忘れられてしまった。

1950年ごろに、ドイツの研究者によって、忘れられていたシュプレンゲルの業績が報告され、1951年には、三沢嶽郎氏もドイツの歴史的な文献を調べ、無機栄養説と最小律はシュプレンゲルの業績であることを指摘している。最小律の説明として、ドベネックが考案した桶のモデルがよく知られている。


ドベネックの桶(source:Soils and soil fertility)

以前(2016.5.29ブログ)にも書いたが、地球の地殻に存在する元素を多い順から並べると、O、Si、Al、Fe、Ca、Na、K、Mg、Ti、H、P、Mn、F・・である。O、Si、Al、Fe、Caの5つで、91%を占める。つまり「土」の91%は酸素、ケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウムでできている。リンPは、重量あたりで0.12%なので、土1tのなかに1.2kg含まれる。

最初の生命は海で誕生したと考えられているが、海水に含まれる元素は、Cl、Na、Mg、S、Ca、K、Br、C、N、Sr、B、Si、O、F、Ar、Li、Rb、P・・の順になる。リンPは、水1tのなかにわずかに0.062gしか含まれていない。地殻に多いケイ素、鉄、アルミニウム、リンが海水中に少ないのは、水に溶けにくく、重いためだ。

リンは植物の成長に必須な元素で、葉や果実などの組織中の養分の濃度は、N、K、Ca、Mg、Pの順だ(次表)。いっぽう、土壌液中のリンの濃度は他の元素に比べてきわめて低い。植物の根は、培地中のリンを、1,000~10,000倍の濃度勾配を超えて吸収することができるとされている。

土壌中の無機養分は、水と一緒に根から吸収されて道管に入るが、道管汁液中の養分濃度は、組織濃度よりも薄い(2016.6.19ブログ参照)。そこで、組織濃度と土壌液中の濃度から、濃縮係数(T/S)を別に計算してみる。濃縮係数の大きさは、P、N、K、Ca、Mgの順で、リンは他の元素にくらべて100倍以上も濃縮されている。

植物が、エネルギーを使って能動的に無機養分を吸収していると仮定して、組織濃度に濃縮係数をかけてコストを概算すると表の右側のようになる。キウイフルーツは、無機養分の獲得に要するコストの80%以上を、リンの獲得のために費やしている。

イクラ(サケの卵)の金属元素濃度を見ると、リンの濃度がもっとも高く、P、K、Mg、Ca、Na、Zn、Fe、Cu、Sr、Se、Mn・・の順になる。濃縮係数は、Fe、Hg、Mn、P、Cu、Zn、Co、Ag・・の順だ。これらの金属元素の濃縮係数が大きいのは、元素が重く海底に沈んでしまうので、海水中の存在量が少ないためだ。いっぽう、Na、Mg、Sr、Uについては、コストをかけて外部に排出している。

サケが金属元素を獲得するためのコストを見るために、濃度と濃縮係数をかけると、表の右側になる。獲得コストは、P、Fe、Zn、Cu、Mn、Se、K・・の順であり、リンが全体の96%を占める。また、リンと鉄を合わせると、99.4%にも達する。なお、地殻にきわめて存在量が多いアルミニウムが、イクラにまったく含まれていないのは興味深い。

金属元素だけで見れば、海の生物はほとんどリンを獲得するために、海の中を動き回っているようなものだ。生物が海から陸上に進出した理由のひとつは、リンを獲得するためであろう。また、これほど、海水中にリンが不足していることからすると、海に棲む生物のリンの循環は、海底に沈殿したリンが大きな位置を占めていることが予想される。海底の泥のなかに棲む微生物、センチュウ、貝類、甲殻類などが、海のリン循環に大きな役割を果たしていると考えられる。

生物の生存に必要なのは、エネルギーと物質だ。地球上の生物が利用できるおもなエネルギーは、太陽に由来するエネルギーと、地球内部の熱に由来するエネルギーである。生物は、エネルギーを利用して構造を構築しながらエントロピーを排出するシステムであり、そのシステムを構築するのは情報(自己複製する遺伝子)と物質だ。そして、システムの構築に有用な物質を、地球の環境中から獲得している。


e:エネルギー
s:エントロピー

エネルギーと水が存在するところでは、生物がもっともコストをかけて獲得している物質はリンであり、シュプレンゲルの最小律から考えれば、リンの獲得量に生物量が大きく左右される。生物の個体同士や種同士は、リンをめぐって激しい生存闘争をくりひろげていると見ることもできる。

文献
*1)Albrecht Daniel Thaer (1809-1812) Grundsätze der rationellen Landwirthschaft.
*2)三沢嶽郎 (1951) リービッヒの思想とその農業経営史上における意義. 農業技術研究所報告. H, 經營土地利用.
*3)熊澤喜久雄 (2008) テーアの「合理的農業の原理」における土壌・肥料. 肥料科学,第30号,89~138.
*4)西尾道徳 (2015) 植物の無機栄養説と最小律の発見者はリービッヒではなかった.
*5)西尾道徳 (2015) 植物の無機栄養説と最小律の発見者はリービッヒではなかった:その2.
(三沢嶽郎論文の存在を指摘した読者というのはわたしです)
*6)佐々木泰子 (1976) リンの吸収と生理作用,農業技術大系土壌施肥編.農山漁村文化協会.
*7)原口紘炁, 松浦博孝 (2004) 生体金属支援機能科学と生物細胞全元素分析.
*8)農文協編 (2011) 肥料を知る土を知る. 農山漁村文化協会.

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