新石器文化-巨大集落の出現と拡散 Neolithic culture – Huge villages emerged and spread

レヴァントでは、BC7000年ごろから土器の製造がはじまり、土器新石器時代(PN期:Pottery Neolithic)と呼ばれる。

PPNB期からPN期初期にかけて、アシュクル・ホユック(Aşıklı Höyük)、チャタル・ヒュユク(Çatalhöyük)、テル・ハルーラ(Tell Halula)、テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra)、アイン・ガザル(Ain Ghazal)など、10ヘクタールを超えるような大きな定住集落が出現した。

アシュクル・ホユック(BC8200〜7400)とチャタル・ヒュユク(BC7500~5700)は、中央アナトリアに位置し、テル・ハルーラ(BC7750~6780)とテル・アブ・フレイラ(BC9500~5000)はユーフラテス川中流、アイン・ガザル(BC8300~4500)は南レヴァントに位置する。

アシュクル・ホユックは、中央アナトリアのハサン山の北方30キロに位置する。BC8200〜7400年の大規模集落遺跡で、400戸以上の家屋が出土し、敷地面積は4ヘクタールという。火山灰や火山岩が堆積した土で、川のほとりに集落がある。ハサン山は、標高3,268メートルの活火山で、最後の噴火はBC6200年とされている。

家屋は、隣同士が密着するように建設されており、建物の壁には入口がない。天井に開けられた開口部から、出入りしていた。屋内には囲炉裏があり、建物の床下には70体以上の遺体が埋葬されていた。


アシュクル・ホユックは、ハサン山の北方30キロに位置する


Reconstructed buildings(Author:Sarah Murray)


Reconstructed ladder entrance, Reconstructed hearth(Author:Kvaestad)


Hocker positioned burial found at Aşıklı Höyük(Author:Sarah Murray)

チャタル・ヒュユクは、中央アナトリアのコンヤ平野にあり、ハサン山の西方140キロのところに位置する。集落の敷地面積は13ヘクタールもあり、村の中央を川が流れていた。土質は、粘土質の沖積土で、西方50キロには、火山岩地帯が広がっている。肥沃な火山の土が沖積平野に堆積していたと思われる。


チャタル・ヒュユク、西方には火山岩地帯が広がる

アナトリア
コンヤ(中央アナトリア)の気候

遺跡は、18層の建物跡が重なっており、最下層はBC7100年、最上層はBC5600年で、青銅器時代の前に放棄された。建物はすべて住居で、壁画が描かれた広い部屋もあるが、あきらかな公共の施設はなかった。王族など支配階級の建物もなく、平等な集団だったと考えられている。最大時の集落の人口は、3,500~8,000人と推計されている。

家屋は、蜂の巣状に密集して建設されており。家屋のあいだには、道路がない。入り口は天井にあけられた穴から、はしごを使って出入りしていた。つまり、屋上が通路として使われていた。天井の入り口は、煙を逃がす穴でもあった。

床や壁は、漆喰(プラスター)で何十層にも塗り固められていた。家屋には、2つの部屋があり、小さい部屋は貯蔵庫として使われていた。床下、炉床、ベッドの下などに、人間の遺体が埋葬されていた。また、一部の頭蓋骨には漆喰が塗られ、オーカーで塗装して顔を再現していた。


チャタル・ヒュユク、住居が蜂の巣状に密集している(Author:Omar hoftun)


Overview of building with wild bull horn installation in Area 4040 (General Directorate of Cultural Assets and Museums)


On-site restoration of a typical interior(Author:Stipich Béla)

生業については、上層の遺跡から、容器に貯蔵したコムギとオオムギが出土している。エンドウも栽培されており、アーモンド、ピスタチオ、果物なども収穫していた。家畜のヒツジが出土しており、ウシも飼育されていたようだ。また、黒曜石、土器、シリア産の貝、フリントなどが見つかっている。

なお、興味深いのは、コンヤの年間の降水量が、330ミリしかないことである。コムギが生育するには、年間400ミリの降水量が必要で、オオムギでは年間300ミリとされている。オオムギは育つがコムギは育たない気候であり、旱魃の年はオオムギも育たないであろう。

チャタル・ヒュユクで灌漑農業がおこなわれていたとは考えにくいので、沖積平野では地下水位が高いために、ムギの栽培が可能だったと思われる。

チャタル・ヒュユクの存在によって、BC7100年には、沖積平野に進出して農耕をおこなっていたことがわかる。一般に、狩猟採集民は、洪水のおそれがある沖積平野には住まない。洪水の危険をおかしてまで沖積平野に進出したのは、肥沃な土(リン)のために穀物の生産力が高かったからであろう。

アシュクル・ホユックやチャタル・ヒュユクの特殊な家屋の構造は、ライオンなどの猛獣や他部族の侵入を防ぐためという説がある。しかし、壁に入り口がなく、壁や床を漆喰で固めた構造は、洪水時に浸水を防ぐためであろう。

また、沖積平野には湿地が多いので、大量の蚊が発生したはずだ。入り口を天井の穴だけにして、中で火を燃やすことで、蚊の侵入を防いでいたと思われる。遺骨の分析から、マラリアによる貧血症をわずらっていた人が多かったことがわかっている。


On-site restoration of a typical interior(Author:Elelicht)


牡牛の壁画(Author:Stipich Béla)

レヴァントでは、PPNB期からPN期初頭に、巨大集落が出現したが、PN期に入ると、集落の規模は急激に縮小していった。それに対応するように、農耕と牧畜の文化が、メソポタミアの乾燥地帯に拡散していった。

これを見ると、レヴァントの新石器時代の天水農業は、火山岩地帯など地力(リン)が高い地帯に巨大集落が出現したが、1,000~2,000年ほどで、地力が失われたと思われる。人口の増加と生産力の低下のために、周辺地域やチグリス・ユーフラテスの下流域に進出していったと考えられる。


アナトリアの地質

文献
*1)Kavita Gangal, Graeme R. Sarson, Anvar Shukurov. (2014) The Near-Eastern Roots of the Neolithic in South Asia. PLOS ONE 9 (5).
*2)General Directorate of Cultural Assets and Museums. (2012) The Neolithic Site of Çatalhöyük.
*3)西アジア考古学講義ノート編集委員会. (2013) 西アジア考古学講義ノート. 日本西アジア考古学会.

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投稿者: jcmswordp

著述、企画、編集。農家が教えるシリーズなど

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