ストックが大きくなると小さな不確実性を選択する

ストックがある値を超えて大きくなると、投資を控えて小さな不確実性を選択するようになる。これは、生物および人間の本来的な生存戦略と考えられる。

生物は、利用資源が豊富なときは、小さな差異、小さな不確実性を選択したほうが有利であり、生存条件が悪化したときは、大きな差異、大きな不確実性を選択したほうが有利である。

差異性向、不確実性性向:Preference of difference, preference of uncertainty

d:遺伝的な差異
pd:自分に存在しない形質が、異性に存在する確率
dt:接合可能な遺伝的差異の大きさ
ef:有利さの期待値
ei:不利さの期待値
Rc:複製によって得られる有利さ
Rf:異性との接合によって得られる有利さ
Ri:異性との接合によって生じる不利さ
u:有利さの期待値と不利さの期待値の幅(不確実性)
ef=Rc+Rf・pd
ei=Rc+Ri・pd (Ri<0)
u=ef-ei=(Rf-Ri)pd

人間の超協力タカ派戦略からみても、資源量が十分にあるときは、不確実性が小さいほうが有利であり、資源が不足したときは、不確実性が大きいほうが有利である。

武器と資源獲得の不確実性:Weapons and Uncertainty of resource acquisition

w:武器の殺傷力の大きさ
pa:ライバル集団の大多数を殺傷できる確率
Ra:Aが占有するなわばりから得られる時間当たりの資源量
Rb:Bが占有するなわばりから得られる時間当たりの資源量
eaw:勝利したAが獲得できる資源量の期待値
eal:負けたAの資源量の期待値
ebw:勝利したBが獲得できる資源量の期待値
ebl:負けたBの資源量の期待値
u:戦闘によって獲得できる資源量の期待値の幅(不確実性)
eaw=Ra+Rb・pa
ebl=Rb-Rb・pa
eaw=Ra+Rb・pa
ebl=Rb-Rb・pa
ebw=Rb+Ra・pb
eal=Ra-Ra・pb
ua=eaw-eal=Rb・pa+Ra・pb
ub=ebw-ebl=Ra・pb+Rb・pa
ua=ub

ストックが増大して、フローとフロートが停滞している現在の状況は、国家や社会が安定した状態が長くつづき、資源の獲得と所有が固定しつつあることを示している。

ただし、生物や人間の歴史において、そのような状態が長くつづいたことはない。

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インフレなき財政ファイナンスの条件

最近、MMT(Modern Monetary Theory)という主張がはやっているらしい。超低金利では政府債務は問題でないという理由のようだが、それではなぜ超低金利になっているのかの説明になっておらず、超低金利が根本的な理由でもない。

超低金利の理由は、世界的に貨幣のストックが増大し、フローとフロートが停滞しているためだ。

不況と恐慌の本質
ストックされた貨幣の増大
恒常所得と貨幣量
貨幣の供給


Mt:貨幣の総量
Ms:とうぶん使う予定がなくストックされた貨幣量(stock)
Mft:自由に使えるが流通していない貨幣量(float)
Mfw:財と交換され流通している貨幣量(flow)
Mt=Mfw+Mft+Ms

ストックが増大してフローとフロートが停滞するということは、使ったり活用したりせずに貯めておくお金が増えることなので、低金利になるのは当然だ。ストックが増大する理由は、世界戦争や革命がなく、ストックを保有する先進国の人口増加が停止し、かつ富裕層からの徴税が困難なためだ。投資先は国内法が及ばない他国なので、投資がそれほどすすまず、フローとフロートが大きくならない。賃金が安い国は社会が不安定なばあいが多く、投資のリスクが大きいためだが、最近は移民政策も支持されなくなっている。

次に、日銀が財政ファイナンスによって貨幣を増やしても、インフレにならない理由は、日本の人口が増えず、賃金が上がらず、日本人が生産する商品の競争力が大きいためである。

発行した貨幣は、社会保障や財政支出に使われるので、その分の円のフローは増える。しかし、日本人がつくる商品は競争力が大きいので、輸出量が多い。海外で日本の商品を買って日本の企業にドルで支払うと、日本の企業は賃金を払うためにドルを売って円を買う。貨幣を発行しても市場では円が買われて円安にならず、国内人口は増えず、賃金は上昇せず、増やした貨幣は貯蓄されるので、インフレにならない。

インフレになるのは、中国や東南アジアなど、投資が増えて賃金が上昇し、フローとフロートが増大する国だ。

なお、日本がインフレになるのは、おもな輸入品であるエネルギー(石油、天然ガス、穀物)の価格が上昇したときだ。

しかし、国家の財政規律が緩んで、政府が労働者と企業を過剰に保護するようになると、社会の競争力が小さくなる。競争力が無くなると、輸出が減って市場で円が買われないので円安になってインフレになり、貨幣を発行すればインフレが加速する。80年代の原油安で、ルーブルを乱発して崩壊したソ連の状態になる。

インフレなき財政ファイナンスが可能なのは、競争力が大きい国だけある。

また、財政ファイナンスによって政府債務が増大しても、将来世代の負担が大きくなるわけではない。なぜなら、政府と中央銀行は本質的には同一であって、債務者と債権者が同一だ。債権者と債務者が同じなので、全体としては債務と債券の合計はゼロである。つまり、将来も大きな競争力が維持されることとエネルギーの確保が重要なのであって、財政ファイナンスによる政府債務そのものは重要ではない。財政ファイナンスによる政府債務の増加は、それだけ貨幣を印刷して増やしたということにすぎない。

cf
古代メソポタミアの徳政令
為替と賃金
財、貨幣、価格の根源-エネルギーと差異

リンと人間の運動 Phosphorus and human movement

発見されているもっとも古い農業書は、ウル第三王朝時代に書かれた『農夫の教え』という粘土板だ。ウル第三王朝は、紀元前22~21世紀にメソポタミアを支配した王朝である。『農夫の教え』は学校の教科書として書かれたもので、ウルとニップルから出土している。この農業書には、灌水、耕耘、作条、播種などの方法について詳しく書かれているが、肥料については何もふれられていない。

古代のチグリス・ユーフラテス下流域では、作物の生産性がきわめて高かった。しかし、繁栄を誇ったメソポタミア文明が、数千年で衰退してしまったことから考えても、メソポタミアでは肥料を積極的に施用していなかったのかもしれない。


ウル・ナンム(BC.2100)が建造したとされるウルのジッグラト

ヨーロッパの農業書では、古代ローマの大カトー(Marcus Porcius Cato Censorius, BC.234-149)が書いた“De Agri Cultura”がある。この農業指導書には、牛や豚などの糞尿を肥料として作物に与えることが記されている。(*1)


古代ローマのハーベスター

いっぽう、古代中国では、春秋戦国時代の『荀子』(BC.313?-238?)富国編に、「多糞肥田、是農夫衆庶之事也」(肥料を多くして田を肥やすのは、農夫衆庶の仕事である)とあり、『韓非子』(BC.280?-233)解老編には、「積力於田疇、必且糞灌」(田に力を注ぐならば、必ず肥料と灌漑をおこなう)と伝えられている。前漢晩期に書かれた『氾勝之書』には、「春草生、布糞田、復耕、平摩之」(春草が生えたら、田に糞(こやし)を散布し、耕して平摩(鎮圧)する)と書かれている。北魏の賈思勰が書いた『斉民要術』(6世紀)には、「其踏糞法、凡人家秋收治田後、場上所有穰、穀禾戠等、並須收貯一處。每日布牛腳下、三寸厚」(踏糞法とは、およそ農家は秋収、治田が終わったら、作業場にある一切のわら、刈株の類をすべて一か所に取り集め、毎日これを牛舎に三寸厚に敷く)とあり、敷きわらと牛の糞尿から堆肥を製造していたことがわかる。(*2)

南宋の陳旉(1076-?)による『陳旉農書』には、農家が使うべき肥料として、大糞(人糞)、鶏糞、苗糞(栽培した緑肥)、草糞(野草、樹木の葉、雑草、糠、秕を利用して作った肥料)、火糞(燻土、燻肥等の肥料)、泥糞(溝や他の泥を人の糞尿と混ぜたもの)があげられている。その他にも、禽獣の羽毛、皮革、石灰、蚕沙(蚕の排泄物および食べ残した桑の葉)、旧屋の壁土、草木灰、馬蹄や羊角の灰、魚を洗った水、米のとぎ汁、米麦の糠、豆殻等も肥料にされた。


神農氏

日本では、奈良時代初期に編纂された『播磨風土記』(713年~)に、苗代に敷草をしくことが書かれており、平安時代中期の『延喜式』(905年~)には、内膳の菜園で馬糞、牛糞が施されていたことが記されている。江戸初期に会津藩の村役人である佐瀬与次右衛門が書いた『会津農書』(1684年)には、刈敷き、落葉、馬糞、人糞を田畑に施用することがくり返し書かれている。1697年には、農学者の宮崎安貞が『農業全書』を著し、田畑を肥やす肥料として、苗糞(緑肥)、草糞、灰糞、泥糞、油糟、干鰯、人糞などがあげられている。(*3、4)

ヨーロッパや中国には見られず、日本で使われた肥料として魚肥がある。近世の日本では、干鰯、干鰊、〆粕、白子などの魚肥がさかんに利用されていた。干鰯、干鰊は、イワシ、ニシンを乾燥させたもので、〆粕はイワシ、ニシン、サンマなどを煮沸または蒸熱して搾油し、搾りかすを乾燥させたものだ。魚肥には、窒素とリン酸が豊富に含まれており、現代でも魚粉や魚かすとして用いられている。


魚かすの肥料成分(%)(山根, 1986)

干鰯が肥料として使われるようになったのは、戦国時代といわれているが、さかんに利用されるようになったのは江戸時代である。兵庫や堺に魚肥市場が早くから成立していたが、1624年に大坂の永代浜に干鰯揚場ができて、干鰯問屋が栄えて流通を担った。綿や茶などの換金作物にさかんに使用され、畿内では魚肥の需要に供給が追いつかなくなり、干鰯の供給地を関東に求めるようになった。房総半島の太平洋沿岸地域では、紀伊国から進出した漁民や問屋によって干鰯の生産と流通が始まり、代表的な魚肥の生産地域になった。(*5、6)

房総で生産された魚肥は、干鰯問屋によって浦賀に集荷され、関西方面に出荷されていた。元禄期以降には新田開発によって関東でも魚肥の需要が増大し、上総国の太平洋岸以北で生産された魚肥は、北関東地方に出荷されるようになった。

関西では、関東からの干鰯など鰯肥料の供給が減少したために、蝦夷地の干鰊や白子などの鰊肥料を求めるようになった。魚肥の需要の増大による干鰯価格の高騰で、農民と干鰯問屋が対立して国訴に発展するほどであった。


大坂における魚肥価格の推移(古田, 1990)



(古田, 1990)

江戸時代の江戸は、18世紀初頭には人口が100万人を超える世界最大の都市であったと推定されている。文明の中心地であった中国やヨーロッパではなく、極東の辺境地である日本に世界最大の都市が成立したのは、水田作や屎尿などの利用に加えて、豊富な魚肥のリンによって、大都市の人口を支える食料の供給が可能であったためであろう。

日本の近海が世界でも生産性が高い漁場であるのは、大陸の河川と海流によって、リンの供給が多いためである。日本列島の太平洋側を流れる黒潮は、長江から流れ出る豊富なリンを運んでくる。長江の河川水には、きわめて豊富なリンが含まれていることが知られており、年間1,300万トンの懸濁態リンが流れ出ているという。(*7)


(渡辺ら, 2001)

また、オホーツク海や北海道近海には、アムール川(黒竜江)から、豊富な河川水が流れ込んでいる。針葉樹林帯、湿地帯、火成岩地帯を流れるアムール川は、リンや鉄の溶存量が豊富で、オホーツク海や北海道の周辺は、きわめて生産力が高い漁場である。(*8)


アムール川(右側)とウスリー川(左側)の合流点(Author:Ondřej Žváček)

アムール川(Author:Kmusser)

なお、日本では江戸時代の中期以降に、ウシ、ウマ、クジラ、マグロ、カツオなどの骨を肥料として商う問屋が存在し、「山建座」や「海建座」と呼ばれた。骨の主成分はリン酸カルシウムである。薩摩藩では、シラス(火山灰土壌)の改良が課題であった。薩摩の門ノ浦(知覧町)の出身で、海運業を営む仲覚兵衛(1715-1800)は、大坂の渡辺村で廃棄物として大量に捨てられていた獣骨に注目し、骨粉肥料を開発した。大量の獣骨を大坂から薩摩に運び、水車で骨粉にして、菜種の肥料にした。南薩地方の菜種の生産高は倍増し、一大産地になった。薩摩では1830年に山建座(獣骨取扱所)が設けられて、各地から獣骨が集められ、骨粉肥料が普及した。(*9)


仲覚兵衛屋敷跡(南九州市知覧町南別府門之浦)

ヨーロッパでリン酸肥料が利用されるようになったのは、18世紀のイギリスである。イギリスでは、リン酸肥料の原料として、動物や人間の骨が利用された。骨が肥料として利用されるようになったのには、いくつかの伝承がある。

シェフィールドは11世紀のころから鉄器の製造がさかんであったが、のちに、刃物産業が栄えた。刃物の製造では、柄に動物の骨、角、象牙などが利用されたので、骨や角の削りクズが廃棄物として大量に発生した。18世紀に、骨クズを廃棄した場所では植物の生育が良いことが知られるようになり、骨クズが肥料とて利用されるようになった。骨クズは肥料効果が高く、やがて、商品として取引されるようになった。

ヨークシャー地方でも18世紀の末に獣骨が肥料として利用されるようになり、骨を粉砕するための専用の機械が発明された。骨粉は、肥効をあげるために、堆肥と混ぜて施用されたという。

骨粉中に含まれるリン酸は、リン酸三カルシウム(3Ca3(PO4)2・Ca(OH)2)である。骨粉肥料の平均保証成分は、窒素3.4%、リン酸18.7%で、肥効は緩効性である。

骨粉中のリン酸は、水に溶けにくいが、その60~70%は、2%クエン酸に溶け(ク溶性)、粒が細かいほど肥効が早い。活性アルミニウムが多い日本の火山灰土壌では、リンが固定されやすい。しかし、酸性の火山灰土壌では、骨粉が溶解しやすいので、有効なリン酸肥料になる。いっぽう、カルシウムが多いアルカリ性土壌では、骨粉が溶解しにくく肥効が悪くなる。

1808年にアイルランドのジェームズ・マレイ(James Murray)が、骨を硫酸で処理すると、植物にリン酸が吸収されやすくなることを発見した。

1836年に、ジョン・ベネット・ローズ(John Bennet Lawes, 1814~1900)は、3年にわたってカブに骨粉を施用したが、肥料効果が無かった。ローズの農場があるロザムステッドは、石灰岩質の土壌であった。1839年に、骨粉を硫酸で処理して施用したところ、大きな効果があった。ローズは、1842年に過リン酸石灰の特許を取得し、すぐに工場を建設して製造を開始した。

なお、1840年にドイツのリービヒも、骨粉に希硫酸を加えると、施肥効果が高まることを報告している。


ローズが1843年に設立したロザムステッド試験場(Rothamsted Research)

話が脱線するが、ローズとリービヒのあいだで、窒素の施用をめぐって論争がおきた。リービヒは、1840年に刊行した『有機化学の農業および生理学への応用』(Die organische Chemie in ihrer Anwendung auf der Agrikultur und Physiologie)(1843年改定)において、作物は窒素を大気中から得ているので、農業上も十分であると主張した。ローズは、ギーセン大学のリービヒの下で学んだジョセフ・ヘンリー・ギルバート(Joseph Henry Gilbert)をロザムステッドに迎えていたが、リービヒの説に疑問を抱き、1843年に栽培実験を始めた。

その結果、ミネラルのみを施用したコムギの収量は、無肥料の圃場の収量とほとんど同じであった。いっぽう、少量の硫安を施用した圃場は収量が多くなり、それは大量の厩肥を施用した圃場と同等であった。ローズとギルバートは、1845年に論文を発表し、窒素の施用は必要ないとするリービヒの説に反論した。ローズが1843年に設立したロザムステッド試験場では、1856年に開始された長期の栽培実験(Park Grass Experiment)が現在までつづけられており、現代科学のもっとも長い実験の一つである。(*11)



(犬伏, 1988)

過リン酸石灰の発明によって、ヨーロッパ中から動物骨や人骨が集められて、リン酸肥料が大量に製造されるようになった。イギリスでは骨が不足して、代わりのリン酸肥料として、ペルー産グアノが使われるようになった。


グアノ

1~7世紀のペルー海岸のモチェ文化では、灌漑農業が発達していた。長大な灌漑用水が建設され、トウモロコシ、ジャガイモ、ピーナツ、トウガラシなどが生産された。ペルーの沖合の島には、海鳥の糞が堆積した「ファヌ」と呼ばれる肥料が豊富に存在し、これを農地に施用していた。ファヌとはグアノのことだ。

13世紀のインカ帝国でも、グアノは重用され、大きな農業生産力を実現していた。16世紀のインカ帝国には、80の民族と1,600万の人口が存在したとされている。

ペルー沿岸では沿岸湧昇が発生し、海水が深層から表層へ湧き上がるように流れる。このため、海底のリンが海面近くに押し上げられて、プランクトンが大発生する。プランクトンを食べるイワシやニシンが大量に増殖して、それを食べるカツオドリ、カモメ、ペリカンなどが大繁殖する。海鳥が営巣する海岸部の島では、大量の糞が排泄されるが、ペルーの沿岸部は乾燥して雨が降らないので、30mもの厚さで糞が堆積していた。インカでは、海鳥の営巣を妨げたものは死刑に処せられたという。

ドイツの地理学者のフンボルト(1769-1859)は、1799~1804年に中南米を探検して、グアノの肥料効果をヨーロッパに報告した。なお、ダーウインがビーグル号でガラパゴス諸島を訪れたのは、1835年である。

グアノには、窒素質グアノ(N:11~16%、P:8~12%)と、リン酸質グアノ(N:4~6%、P:20~25%)の2種類がある。窒素質グアノは、可溶性のリン酸が多く、そのまま圃場に施用できる。リン酸質グアノは、長期間の風化で窒素が溶脱し、リン酸は卵の殻や下層のサンゴのカルシウムと結合して難溶化、鉱物化している。

スペイン人が新大陸の金や銀の採掘に熱中したのに対し、グアノの価値にいち早く注目したのはイギリスであった。1840年にペルーのグアノがリバプールのマイヤーズ商会を通じてヨーロッパに輸出され、グアノの高い生産力がヨーロッパに広く知られるようになった。

1843年からは、グアノはアメリカに輸出されて、南部のタバコや綿花の生産者に大きな利益をもたらした。そのころ、アメリカ南部や東部の農場では、肥料を施さずに作物を栽培してきたために、大幅な減収に悩まされていた。アメリカでは、1840~50年代に「グアノラッシュ」がおこり、ペルー沿岸やカリブ海の島のグアノをめぐって、国家規模の紛争が発生した。(*11)


チンチャ諸島(Chincha Islands)、1910

チンチャ諸島のグアノ鉱山、1860

チンチャ諸島、1863

チンチャ諸島、1863

アメリカは、1850年代に、グアノを求めて海外へ領土拡張するようになった(グアノ島法)。ハワイでは、1850年に外国人の土地私有が認められるようになり、1858年にジョンストン島でグアノの採掘がはじまった。日本にペリーが来航したのは1853年である。

1867年に、アメリカのサウスカロライナでリン鉱石が発見され、ロシアのコラ半島(1885年)やフロリダ(1888年)でもリンの鉱床が発見された。リン酸肥料は、リン鉱石から製造されるようになった。

リンを獲得する運動は、エネルギーの獲得とならんで、人間の歴史の変遷の原動力である。

追記
リンの獲得とヒトの運動をホワイト流に書くと、次のようになる。

樹上生活  果実のリン
狩猟採集  動物、子実、根茎のリン
農耕牧畜  イネ科植物のリン
近世    骨のリン
近代    グアノ、鉱石のリン


中国雲南省のリン鉱石、カンブリア紀の生物が濃縮して堆積した鉱物(Author:James St. Joh)

文献
*1)Cato the Elder (BC.234-149) De Agri Cultura.
*2)郭文韜ら (1989) 中国農業の伝統と現代. 農山漁村文化協会.
*3)滝川勉 (2004) 東アジア農業における地力再生産を考える―糞尿利用の歴史的考察. アジア経済45巻3号p59-76.
*4)佐瀬与次右衛門. (1684) 会津農書.
*5)古田悦造 (1990) 近世近江国における魚肥の魚種転換と流通構造. 人文地理第42巻第5号.
*6)古田悦造 (1996) 近世魚肥流通の地域的展開. 古今書院.
*7)渡辺正孝ら (2001) 東シナ海における長江経由の汚染・汚濁物質の動態と生態系影響評価に関する研究.
*8)白岩孝行 (2011) 魚附林の地球環境学. 昭和堂.
*9)高橋英一 (2004) 肥料になった鉱物の物語. 研成社.
*10)犬伏和之 (1988) イギリスの四季ーロザムステッドを中心として. 肥料科学 第11号 79-98.
*11)Jimmy M. Skaggs (1995) The Great Guano Rush: Entrepreneurs and American Overseas Expansio. Palgrave Macmillan.

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