レヴァントの先土器新石器時代 Pre-Pottery Neolithic in the Levant

新石器革命という理論を提唱したのは、ゴードン・チャイルドであるが、当時は農耕文化の発祥地は、メソポタミアやエジプトと考えられていた。しかし、チグリス・ユーフラテス川の下流域や、ナイル川流域は、雨がほとんど降らない砂漠地帯であり、農耕の方法は、大規模灌漑農業である。「灌漑」というのは、水をよそから運んできて農地に供給するということだ。河川から砂漠の農地に水を引くには、大がかりな土木工事が必要であり、狩猟採集民であった初期の農耕民が、植物や動物がいない砂漠で農耕をはじめたとは考えられない。西アジアのどこかで「農業革命」がおきたとすれば、それは野生ムギ、野生ヤギ、野生ヒツジなどが、生息している場所でなければならない。

農耕の起源地を探して、チグリス・ユーフラテス川の上流域の調査をおこなったのは、アメリカの考古学者のブレイドウッド(Robert J. Braidwood, 1907-2003)らである。ブレイドウッドは、1948年から、野生のムギが自生し、天水農業が可能なイラク北部のジャルモ、カリム・シャヒル、マラッタなどの遺跡を調査した。

ジャルモ(Jarmo)は、チグリス川上流域に位置する、BC. 7000~5000年の新石器時代の集落跡である。ジャルモでは、オオムギやコムギが栽培されており、石鎌、石臼、かまど、石の碗などが出土している。ヤギ、ヒツジ、ブタ、イヌを飼育し、大量のカタツムリを食料にしていた。

建物は土壁によって長方形に仕切られており、20戸ほどの住居があった。集落の人口は150人ほどと考えられている。初期には土器が製作されておらず、土器があらわれるのは、最後の3分の1の期間である。ジャルモの細石器の多くは黒曜石であるが、黒曜石の産地は、いちばん近いところでも480km北である。すなわち、当時の社会では、バンドあるいは部族同士が、広い範囲で「交易」をおこなっていたと思われる。(*1)


ジャルモの住居跡(Author:Emrad284)


ジャルモの出土品(Braidwood,1967)

レヴァントの新石器時代初期の指標は、イギリスの考古学者のケニヨン(Kathleen Kenyon, 1906-1978)らによる、イェリコの調査報告書に準じている。ケニヨンらは、1952~58年に、イェリコ郊外のテル・エッ・スルタン(Tell es-Sultan)で、新石器時代初期の集落跡を発掘した。

イェリコ(Jericho)は、死海にそそぐヨルダン川河口の近くにある町で、1万年以上も前から人が住みつづけてきたことで知られる。旧約聖書にもたびたび登場し、“the city of palm trees”(ナツメヤシの町)と呼ばれ、ヨシュア記では、イェリコでの戦いの様子が描かれている。新約聖書の福音書では、キリストがイェリコを訪れたときに、盲人バルティマイの目を見えるようしたと伝えられる。イェリコの南方のクムラン洞窟では、最古の聖書の写本である死海文書が発見されている。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとっては、イェリコは、歴史的にきわめて重要な町である。

海抜マイナス240mの乾燥地帯にあるイェリコに、古代から人が住みつづけてこられたのは、スルタンの泉と呼ばれる湧水によって、オアシス農業が可能であったからだ。


Tell es-sultan

西アジアでは、新石器時代になっても、すぐに土器があらわれなかったので、ケニヨンは、土器があらわれる前の期間を先土器新石器時代(Pre-Pottery Neolithic)=PPN期と名付けた。PPN期は、PPNA(Pre-Pottery Neolithic A)とPPNB(Pre-Pottery Neolithic B)の2期にわけられ、栽培型のイネ科植物やマメ科植物があらわれるのは、PPNB期になってからである。PPN期の文化の特徴として、次のことがあげられている。

・集落の大規模化。PPNA期で3ha、PPNB期では16haの集落もある
・日干しレンガ、石灰プラスターを使用する。方形家屋が登場する
・石柱やシンボルの建造
・人の頭蓋骨を祭る
・磨製石斧、尖頭器、錐などの石器
・フリント製の鎌

イェリコのPPNA期は、BC. 9500~8500年ごろであり、PPNB期は、BC. 8500~7000年ころと推定されている。テル・エッ・スルタンでは、その後に集落が放棄され、無人になった。なお、中央レヴァントでは、PPNB期のあとに集落が衰退する期間があり、その期間はPPNC期と呼ばれている。


Volume of SGG and wild cereal species occurring in southwest Asian archaeological sites from the UP to the Late PPNB. Average cal B.P. dates were calculated by using the available dates for each site and do not reflect the total time span of occupation. Volume was calculated by using figures by Kislev and colleagues (48-50). PPNA, Prepottery Neolithic A. (Ehud Weiss, et al. 2004)


Map of PPNA sites in the Near East (Goring-Morris, A., et al. 2014)


Map of PPNB sites in the Near East (Goring-Morris, A., et al. 2014)

ブレイドウッドは、1964年に、トルコ南東部のチャヨヌ(Cayönü)遺跡を調査して、ジャルモよりも古い新石器時代の集落であることを確認した。チャヨヌ遺跡はトルコ南東部のカラジャ山(Karaca Dağ)の50kmほど北に位置する。チグリス川の上流地帯で、川のほとりに集落があった。BC. 9500~6500年の約3,000年間、継続して集落が存在していた。

チャヨヌには土器はなく、PPN期の集落跡である。コムギ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシ、イヌなどが出土し、500体以上の人骨が埋葬されていた。チャヨヌでは、規格化された住居が、間隔、方向などを同じくして、何度も建て替えられており、集落全体で、定期的に一斉に住居を立て替えたと考えられている。また、自然銅を加工した、銅製の装飾品やピンが多数出土した。


チャヨヌ(Cayönü)(川の北側)


Cayönü(Author:Krähenstein)


(本郷, 2002)

チャヨヌについては、2009年に本郷一美氏らが、動物骨の分析によって、トルコ南東部で、PPNB後期にヤギ、ヒツジ、ウシ、イノシシの家畜化が始まったと報告している。PPNB後期に、ヤギとヒツジの骨が、出土動物骨の大多数を占めるようになり、ヤギ、ヒツジ、ウシ、イノシシのサイズが小型化した。(2018.5.6ブログ)


チャヨヌ遺跡の各層から出土する動物の種構成とその相対的な割合(本郷, 2008)

レヴァントの新石器時代が、いつ、どこで、どのようにはじまったのかということは、難しい問題であり、結論がでているわけではない。2002年にイスラエルの考古学者のバル=ヨセフ(Ofer Bar-Yosef)らが、ヤンガードリアス期の寒冷化と乾燥化によって、ナトゥーフ時代の狩猟採集民が食料生産の必要性が生じ、農耕が開始されたという説を唱えた。ヤンガードリアスは、12,900~11,700年前(BP)に、北半球全体でおきた、急激な気温低下のことだ。この説は当初は大きな影響を与えたが、現在ではあまり支持されなくなっている。


Younger Dryas and Air Temperature Changes

文献
*1)ロバート・J. ブレイドウッド (1948) 先史時代の人類. 新潮社. 1969.
*2)Ehud Weiss, et al. (2004) The broad spectrum revisited: Evidence from plant remains. PNAS. 2004 Jun 29; 101(26): 9551–9555.
*3)Goring-Morris, A., et al. (2014). The Neolithic in Southern Levant: Yet another ‘unique’ phenomenon…. In La Transition Néolithique en Méditerranée, edited by C. Manen, T. Perrin & J. Guilaine, pp. 59-73.
*4)本郷一美 (2002) 狩猟採集から食料生産への緩やかな移行 : 南東アナトリアにおける家畜化. 国立民族学博物館調査報告33巻p109-158.
*5)本郷一美 (2008) ドメスティケーションの考古学. 総研大ジャーナル 13 30-35.
*6)Hongo, H., et al. (2009) The Process of Ungulate Domestication at Çayönü, Southeastern Turkey: A Multidisciplinary Approach focusing on Bos sp. and Cervus elaphus. Anthropozoologica 44(1): 63-78.

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縄文土器と漁撈部族 Jomon pottery and fishing tribe

人類が、粘土を焼成した造形物を製作するようになったのは、かなり古い時代であるようだ。これまでに発見されたもっとも古い焼きものは、チェコ南部のドルニ・ヴェストニッツェ遺跡から出土したヴィーナス像である。遺跡は上部旧石器時代の集落跡で、マンモスなどの動物の骨、埋葬された人、塑像、装飾品なども残されていた。高さ43cmの像は、500~800℃で焼成されたもので、製作された年代は、3.1~2.7万年前とされる。ほかにも、マンモス、ライオン、ウマ、クマ、キツネ、フクロウなどの形の焼きものが多数見つかっている。(*1)


Venus of Dolní Věstonice(Author:Petr Novák, Wikipedia)

世界で古い土器が多く見つかるのは、東アジアである。長江中流域の仙人洞遺跡(Xianrendong Cave)からは、最古級の土器片が出土している。土器が出土した地層の動物骨のC14年代測定では、2.0~1.9万前と報告されている(*2)。中国では、広西壮族自治区廟岩遺跡、湖南省玉蟾岩遺跡、江西省吊桶環遺跡などからも、古い土器が見つかっている。

日本列島も、世界でもっとも古い土器が多く見つかる場所だ。日本列島の最古の土器は、青森県蟹田町の大平山元I遺跡から出土している。遺跡からは、掻器、彫器、石刃、石斧、石鏃など多数の石器と、78点の土器片が見つかった。土器片には、煮炊きに使用されたことを示すコゲやススの炭化物が付着しており、炭化物のC14年代は、1.6万年前とされている。


縄文草創期の土器、大平山元I遺跡

ほかにも、帯広市大正3遺跡、富良野市東麓郷2遺跡、茨城県後野遺跡、神奈川県寺尾遺跡、新潟県壬遺跡、長崎県福井洞穴、長崎県泉福寺洞穴、鹿児島県帖地遺跡などから、1万年よりも古い土器が発見されている。


縄文草創期、神奈川県花見山遺跡出土

また、アムール川流域ではガーシャ遺跡、ゴンチャールカ1遺跡、フーミー遺跡、ノヴォペトロフカ遺跡、グロマトゥーハ遺跡、沿海州ではチェルニゴフカ1遺跡、ウスチノフカ3遺跡、シベリア東部では、ウスチ・カレンガ遺跡、ウスチ・キャフタ遺跡などで、1.2万~1万年前の古い土器群が発見されている。(*4)


(谷口, 2005)

一方、もっとも早くから農耕社会に移行した西アジアでは、コムギの栽培や家畜の飼育が始まっても、すぐには土器は出現していない。土器がつくられるようになるのは、9,000年前からであり、コムギやオオムギの栽培(predomestication cultivation)が始まってから、2,000年ほどあとである。

新石器革命論をとなえたチャイルドは、新石器革命の特徴のひとつとして、土器の存在をあげている(2017.12.16ブログ)。しかし、西アジアでは、農耕や家畜飼育よりもかなり遅れて土器が出現しており、狩猟採集段階の日本列島やアムール川流域では古くから土器が使われた。これらのことは、農耕文化の形成に必須の要素として土器がつくられたわけではないことを示している。

サン族やアボリジニは、時代が下っても土器をもたなかった。遊動する狩猟採集民は、手で持ち運べる分の財しかもたないので、土器のような重くて壊れやすい道具は邪魔になる。つまり、土器の製作と密接に関係があるのは、「農耕」ではなくて、「貯蔵」という生業スタイルだ。古代の遺跡から出土する土器片は、その集団が貯蔵という生業スタイルを採用していたことを示してしる。

日本列島の縄文時代早期以降には、定住集落や土器が出現するので、貯蔵社会であったと考えられる。縄文時代の貯蔵食料としてよく知られているのはドングリであり、縄文遺跡からは、ドングリや貯蔵穴がたくさん見つかっている。

ドングリには、タンニンやサポニンなどの渋が多く含まれており、渋抜きしないと食べられない。縄文土器は、ドングリの渋抜きのためにつくられるようになったという説があるが、確証はない。古代にはどのような方法で、ドングリを加工していたのかと思って、『雑穀・そば』(2010年)という本をつくったときに、日本列島に残っている伝統的な渋抜きの方法を調べたことがある。

「しだみは「下味」から由来するとされるが、どんぐりのことで、一般にはなら(楢)類の実で、かしわ(柏)の実も含んでいる。しだみは、大量に採取でき、凶作年でも実ること、量感があって腹もちがよいこと、栄養があること、食味がさほど悪くないこと、貯蔵性にきわめて富み、備蓄できること、加工の技術と手数がさほどでないことなどから、岩手を代表する救荒食であった。備蓄の場合は、殻のまま三十分以上煮て、天日で四、五日乾かし、いろりの上の火棚や天井裏に干して、十年以上も蓄えておく。すぐ食べる場合は、煮るか、または四、五日以上水に漬けて虫を殺し、殻が割れるまで天日乾燥をし、水車、踏みから臼、つちなどで実と殻とを分け、箕で殻をとり去る。つぎに、あく抜きをするが、昔は木灰か青笹の葉を使い、三回以上水をとり替えながら中火で煮た。これをさらに、三、四回水を替えて一昼夜水に浸し、水気を切って天日に干す。その後、生乾きのままで臼で搗き、完全に粉とする。これをふきんで包み、固くしぼる。本来が土をかむような味であるが、きな粉を別に皿に盛り、これをまぶして食べるのが古来のものであろう。また大正年代には、しだみ粉を味噌汁で練って食べたり、麦がゆに混ぜたり、ひえ飯にふりかけたりして食べたとのことである。古老のなかには、そのような体験をもっている人もいる。外観は土色で、食べすぎると便秘をするとか、下痢止めの薬だったともいわれている。とち(栃)の実は、しだみよりも苦みや渋みが強く、いっそうまずいものとされる。やはり水漬にして干すと、十年以上も虫がつかず、変質しないといわれている。しだみと同じように、水漬にしてから干して皮をとり、臼などで打ち砕いて袋でこし、木灰の上澄み液で煮てあく抜きをし、水を替えながら漂白する。粗い粒を袋に入れ、流水中に木枠を組んでこの中に沈めておくあく抜き法が有効だったらしく、この木枠を「とちたな」といっている。」(『聞き書 岩手の食事』)(*6)

「とちの木はふつう、日陰に生えている。一本の木から一石以上の実がひろえるので、食糧源として大切にされている。大正時代ごろまでは「寄り合い栃」といって、とちの実だけは村の共有とされ、三、四本の木からみなでいっせいにひろったものを平等に分配していたほどである。実が落ちはじめて、一五日間くらいのうちにこまめにひろっておかないと、ねずみに食べられて皮だけにされてしまう。(中略)山からひろってきたとちの実は、すぐ水桶に四、五日間つけて虫を殺してから、よく乾燥させ、袋などに入れてあま(天井の網代)の上にのせて保存しておく。食べるのは冬になってからで、まず五升なべに湯をわかして桶に移し、この中に乾燥させておいたとちの実を入れ、八時間ほどそのままにしておく。夜、ゆるり端の夜なべ仕事に、おじいもおばあも若い衆もそろって、この固い皮を口でむく。大変苦いので、干し柿をつくるさいに出た皮を干して保存しておいたものを食べ、その甘さにまぎらかしては皮むきを続ける。むいた実はゆすぎかごに入れ、翌日から一週間ほど沢の淵につけて流水でさらし、持ち帰ってから今度は桶に入れる。とちの実一升に対し木灰を二升の割合で入れ、煮たったお湯をたっぷりかけて実が完全に浸るようにする。この作業のことを「とちの実を灰がえた」という。つける日数は五~七日で、この間に水の色は鮮やかな黄色に変わっている。灰がえるときに灰の量が足りない場合には、ここでいったんきれいに洗ってから、再び桶に入れ、今度はあく汁に七日間ほどつける。なお、この地方では、一般にいうあく抜きのあくのことを「苦味」といい、その苦味を抜くための灰汁のことを「あく」という。このようにして苦味を抜いたとちの実は、あくの効いている状態なら赤みを帯びている。これでようやく食べられるようになるのである。」(『聞き書 静岡の食事』)(*7)


トチノキ(Author:M.S. del., J.N.Fitch lith.1917)

昔のやり方を読むと、ドングリやトチの渋抜きには、土器が必要ではないことがわかる。舟に水を入れて、焼き石を入れれば、大量の湯をわかすことができるからだ。

わたしが縄文人なら、ドングリの渋を抜くために、少しの量しか処理できず、壊れやすい土器は使わない。舟に水を入れて焼き石を入れてわかすほうが、はるかに効率がよい。

縄文人が土器をつくったのは、重要な貯蔵食料であった魚の油脂を採取するためと思われる。北アメリカ北西部海岸の先住民が、ooligan greaseをつくるときのように、一度に大量の油脂を製造するのなら、舟と焼き石を利用したほうが効率がよい。しかし、少量の魚や、サケのハラスから油脂を抽出するのであれば、舟と焼き石では効率が悪い。土器に湯をわかして、サケのハラスを入れて、棒でかき混ぜながら煮れば、短時間で油脂を分離できる。油脂の採取がおもな用途であれば、湯がわく程度の温度でよいので、低温で焼成した素焼きの土器でも割れにくいはずだ。


カムチャツカの漁撈部族(Описание земли Камчатки. 1755)

最近の研究では、1.5~1.1万年の縄文土器は、サケなどの魚の煮炊きに使用していたと報告されている。北海道帯広市の大正3遺跡と福井県鳥浜貝塚の土器片の多くから、魚の脂質に由来する脂肪酸が検出されている。残っていた脂肪酸には、海水系と淡水系の成分があるため、川を遡上してきたサケを捕獲して煮ていた可能性があるという。(*8)

文献
*1)春成秀爾 (2012) 旧石器時代の女性像と線刻棒. 国立歴史民俗博物館研究報告第172集
*2)Xiaohong Wu, et al. (2012) Early Pottery at 20,000 Years Ago in Xianrendong Cave, China. Science Vol. 336, Issue 6089, pp. 1696-1700
*3)王小慶 (2010) 東アジアにおける土器の起源について. Tohoku Univ. Museum, No. 9, pp. 41–47
*4)谷口康浩 (2005) 極東における土器出現の年代と初期の用途.名古屋大学加速器質量分析計業績報告書16, 34-53
*5)農文協編 (2010) 農家が教える 雑穀・ソバ 育て方・食べ方. 農山漁村文化協会
*6)古沢典夫ほか (1984) 聞き書 岩手の食事. 農山漁村文化協会
*7)日本の食生活全集静岡編集委員会 (1986) 聞き書 静岡の食事. 農山漁村文化協会
*8)O. E. Craig, et al. (2013) Earliest evidence for the use of pottery. Nature volume 496, pages 351–354

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漁撈部族の貯蔵食料 Stored food of fishing tribe

海岸部の縄文人、アイヌ、北アメリカ北西部海岸の先住民などの漁撈採集民は、平衡テリトリー・貯蔵段階であると述べた。漁撈部族の貯蔵食料は、どのようなものであろうか。

アイヌ、カムチャツカ、アラスカ、北アメリカ北西部海岸など、北太平洋の狩猟漁撈採集民の魚の保存法は多種多様だ。ここでは、長期にかつ大量に貯蔵できる、発酵、乾燥、燻煙乾燥、焼き干し、油脂について見てみる。

発酵

カムチャツカ半島やアラスカの漁撈採集民は、秋に捕獲したサケを地面の穴に入れて、発酵させて保存していた。食料が乏しい冬期に、発酵貯蔵したサケをイヌに与え、人間の食料にもした。アイヌについては、魚を発酵させる保存食があったかどうか、わからない。温度が高いところでは、魚の発酵保存はむずかしいのかもしれない。

乾燥

アイヌやカムチャツカの漁撈部族のもっとも重要な貯蔵食料は、乾燥サケだ。かつて、アイヌは、産卵を終えたシロザケ(ホッチャレ)を開いて干し棚に吊るし、よく乾燥させて貯蔵食料にしていた。シロザケのホチャレは、脂肪分がきわめて少なく、そのまま食べてもおいしくないが、脂肪が少ないために、貯蔵性がきわめてよい。干したサケのことをアイヌ語で「アタッ」という。アタッを食べるときは、叩いて身をほぐし、水でもどして軟らかくして、シカやマスの油をつけて食べた。(*1)


北海道アイヌの家族と倉(鳥居龍蔵)


イタオマチプ(板綴船)(蝦夷嶋図説)

干し棚によるサケの乾燥は、北太平洋沿岸の多くの地域でおこなわれていた。カムチャツカ半島のコリヤークなどの漁撈部族も、乾燥サケをつくって貯蔵する。カムチャツカでは、サケの捕獲期に雨が多いため、高床式の住居や貯蔵庫の下も乾燥場として利用した。


カムチャツカの漁撈部族(Описание земли Камчатки. 1755)

上の絵は、クラシェニンニコフ(1711-1755)が、1755年に著した『カムチャツカ誌』(Описание земли Камчатки)に掲載されている。クラシェニンニコフ(Крашенинников, Степан Петрович)は、ロシアの民族学者、地理学者で、1733~1743年に、ベーリング(1681-1741)のカムチャツカ探検に加わった。(*5)

北アメリカ北西部海岸のクワキウトル族も、脂肪が少ない産卵後のシロザケを乾燥して、貯蔵食料としていた。干したサケを食べるときは、焼いてオイルをつけたり、煮て軟らかくしてオイルをつけたりして食べる。乾燥サケの貯蔵によって、サケが獲れない時期でも、通年でサケを食べることができたという。(*7)


The Kwakiutl of Vancouver Island by Franz Boas, 1905


Kwakiutl performers in ceremonial dance attire, 1914


Showing of masks at Kwakwaka’wakw potlatch


Kwakiutl in canoes, 1914


Kwakiutl man wearing traditional regalia, 1914


サケの乾燥法、クワキウトル族(Boas, 1921)

魚を保存するには、細菌やカビによる腐敗もあるが、それ以上にむずかしいのは、脂質の酸化だ。脂質に含まれるリノール酸などの多価不飽和脂肪酸は、構造的に酸化されやすい。空気中の酸素に触れて酸化がすすむと、種々の脂質酸化生成物が生じる。脂質酸化生成物には、いやな味や刺激臭だけでなく、毒性の強い化合物が含まれる。

魚の生臭いにおいは、おもにアミン化合物によるといわれている。魚の死後に細菌などの微生物が増殖し、体内に存在するトリメチルアミンオキシドが分解されて、トリメチルアミンが生じる。このトリメチルアミンが、生臭いにおいのもととされてきた。しかし、近年の研究では、魚臭は、トリメチルアミンよりも、脂質酸化生成物のカルボニル化合物などが大きく影響していると報告されている。(*8)

燻煙乾燥

一方、ベニザケやカラフトマスは、産卵を終えた老魚であっても脂肪が多く含まれる。このような脂質が多い魚をそのまま乾燥させても、脂質の酸化を防ぐことができない。サハリンアイヌ、アムール流域、アラスカ、北アメリカ北西部海岸の漁撈部族は、脂質を多く含む魚を燻煙乾燥して保存してきた。燻煙は、専用の小屋などを利用しておこなわれる。ただし、燻煙乾燥による保存法がいつごろ始まったのかはよくわからない。

燻煙の作用としては、熱による乾燥促進とともに、燃焼によって生じる煙の化合物の効果がある。煙には、ホルムアルデヒド、フェノール性化合物、酸類など多くの化合物が含まれる。一般には、これらの化合物の抗菌作用によって、食材の保存性が高まるといわれている。また、燻煙によってスモークカラーと呼ばれる、光沢のある褐色の被膜が表面を覆う。これは、煙のアルデヒド類、フェノール類と食品の成分が反応して、樹脂膜を形成するためらしい。樹脂膜は不透水性で、微生物が食品内部への侵入することを防ぐとされる。

しかし、魚の食品としての劣化は、微生物のみならず、脂質の酸化に大きく左右されるのだから、燻煙の樹脂膜で空気中の酸素を遮断し、脂質の酸化を抑制することが、燻煙の保存効果と考えられる。

縄文人や擦文人が、サケをどのように保存していたのかは、よくわからない。ただ、関東や九州の縄文時代の遺構からは、連結土坑あるいは煙道付炉穴と呼ばれる施設が数多く見つかっている。煙道付炉穴は、二つの穴が地下のトンネルでつながった形をしている。土坑内の土からは、シカやイノシシに似た脂肪酸が検出されており、燻煙乾燥がおこなわれていたと考えられている。


煙道付炉穴、掃除山遺跡、縄文時代草創期(鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書)

縄文時代草創期の掃除山遺跡からは、竪穴住居跡2棟、煙道付炉穴、調理用の炉、多数の隆帯文土器、石皿、磨石、石鏃、石斧、石核、楔形石器、剥片石器など2,000点あまりが出土している。この縄文遺跡は、鹿児島市の約11,500年前の厚い薩摩火山灰層の下から発見された。遺構の規模は小さく、本格的な定住集落は形成されていなかったとされる。(*9)

発見されている日本列島最古の定住集落は、1986年に国分市(現・霧島市)で見つかった上野原遺跡だ。上野原遺跡は、9層からなり、最下層の9,500年前の遺跡から、竪穴式住居52棟、石蒸し料理施設の集石39基、煙道付炉穴19基、道の跡2条が確認された。(*10)


連穴土坑(上野原遺跡)


縄文時代早期中葉の土器、貝殻文系(上野原遺跡)


縄文時代早期中葉の土器、押型文系(上野原遺跡)

焼き干し

北海道やサハリンのアイヌは、夏期に捕獲されるカラフトマスなどを乾燥させるときに、火で焼いてから天日干ししていた。温度が高い夏は微生物の活動が活発なので、急速に腐敗がすすみ、ハエがたかる。火であぶれば、微生物やハエを避けながら、急速に乾燥することができる。さらに、焼いたり煮たりすることで、食品から脂質が除かれるので、保存性が高まる。

焼き干しや煮干しの保存法は、北太平洋の漁撈部族に限らず、世界中に存在する。日本では、イワナやイワシの焼き干し、かつお節、鮎の焼き干しなどがある。(*11)

アマゾンの狩猟民は、大型の動物を捕獲したときは、焚火の上で焼きながら乾燥させて保存食にする。アフリカでも焼いた魚を天日で乾燥させ、食べるときはオイルに浸けてもどす。

油脂

干したサケを食べるには、油脂が必要だ。ただ、油脂の製造法や保存法についての資料をほとんど見つけられない。

マルセル・モースの『贈与論』(Essai sur le don)には次のような記述がある。(*12)

In a certain number of cases, it is not even a question of giving and returning gifts, but of destroying, so as not to give the slightest hint of desiring your gift to be reciprocated. Whole boxes of olachen (candlefish) oil or whale oil are burnt, as are houses and thousands of blankets. The most valuable copper objects are broken and thrown into the water, in order to put down and to ‘flatten’ one’s rival.

「いくつかの事例では、贈り物の返礼を期待していると相手に思われないように、贈与や返礼はまったく問題でなく、ただ破壊する。ユーラカン(candlefish)の油や鯨油が入ったすべての樽が、家屋や何千枚もの毛布と一緒に燃やされる。ライバルを下に置いて『打ちのめす』ために、もっとも貴重な銅製の宝物は破壊されて、水中に投げ込まれる。」

olachenというのは、北米西海岸からアラスカに分布するキュウリウオ科の魚のことで、シシャモに似ている。eulachon, oolichan, ooligan, hooligan , candlefishなどと呼ばれる。candlefishというのは、この魚は脂質を多く含んでおり、乾燥させると、ろうそくのようによく燃えるからだ。


Eulachon (Thaleichthys pacificus)

olachen oilは、北米の先住部族にとっては、重要な交易品であった。また。ポトラッチによって贈与したり、消尽したりする重要な財のひとつであった。「財」というのは、価値(価格)が長期に保存されるほど、財として重要になる。金のように、何千年たっても錆びたり変質したりしない物質が、もっとも重要な財として扱われる。魚のオイルが重要な財であったということは、長期に保存できたことを意味している。

olachen oilは、ooligan greaseとも呼ばれ、北アメリカ北西部海岸の先住民が、現在でも利用している。

伝統的なooligan greaseのつくり方は、おおよそ次のようにおこなう。ooliganは、3月下旬に産卵のために川を遡上してくる。網などで捕獲したooliganを、地面に掘った穴やカヌーに入れて、10~14日ほど熟成(自然発酵)させる。発酵によって、魚の組織が破壊される。カヌーあるいは杉の箱に水を入れ、さらに焼き石を入れて、水を沸騰させる。湯の中に発酵した魚を入れて、数時間、かき混ぜながら沸騰させる。静置したあとに油脂をすくいとり、アザラシの内臓の袋などに入れて保存する。(*13)


Eulachon smelt rendering camp at mouth of Nass River(1884)

上記の『カムチャツカ誌』の、サケを解体加工している絵を見ると、舟のなかに焼き石を入れて湯をわかす姿が描かれている。これは、北アメリカ北西部海岸の漁撈部族のooligan greaseの採取の仕方とよく似ている。

採取した油脂を長く貯蔵するには、密閉容器に入れて、空気中の酸素に触れないようにする必要がある。北太平洋の漁撈部族は、油脂を貯蔵する際に、海獣類の内臓を容器として利用していた。

アイヌは、クマやシカの膀胱を水洗いして、風船のように膨らませて乾燥させたものを、水筒として使用していた。かつては、これと同じような容器に、魚の油脂を保存していたのかもしれない。


クヨイ(kuy-oy)、動物の膀胱でつくった水入れ袋(平取町立二風谷アイヌ文化博物館)

追記
『聞き書 アイヌの食事』のなかに、次の記述があった。(*16)

「春の終わりから夏にかけては、野いちごや、はまなすの実もとれる。はまなすの実は、トマと同じように糸を通して干しておいたりもするが、生のままつぶして、ジャムのようなものをつくり、ピセに入れて土中深く埋めておく。野いちごも同じようにする。それらを寒くなってから掘り出してプー(倉)のなかにつるしておき、料理に使う。
 ピセというのは、魚の胃袋や膀胱、浮袋などでつくった袋で、脂入れにもよく使う。樺太ではピセといえば、とっかりの胃袋を使う。とっかりとは海獣のとどのことである。」

文献
*1)更科源蔵 (1942) コタン生物記. 北方出版社
*2)鳥居龍蔵写真目録. 鳥居龍蔵写真資料研究会・東京大学総合研究博物館
*3)渡部裕 (1997) 北東アジアにおけるサケ漁(Ⅱ). 北海道立北方民族博物館研究紀要6
*4)齋藤玲子, 渡部裕. (1998) アイヌ社会とサケ. 国立民族学博物館学術情報リポリトジ
*5)Крашенинников, Степан Петрович (1755) Описание земли Камчатки
*6)岩崎グッドマンまさみ (2007) 「サケの民」カナダ北西海岸先住民族―サケの保存・調理・分配. 先住民による海洋資源の流通と管理. 明石書店
*7)Boas Franz, Hunt George. (1921) Ethnology of the Kwakiutl, Based on Data Collected by George Hunt. Washington, Government Printing Office
*8)高村仁知 (2007) 食品中の脂質の酸化生成物による風味変化. オレオサイエンス7巻6号
*9)鹿児島市教育委員会 (1979) 掃除山遺跡:鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書
*10)森田郁郎ほか (2002) 上野原遺跡. 鹿児島県立埋蔵文化財センター
*11)農文協編 (2010) 農家が教えるわが家の農産加工. 農山漁村文化協会
*12)Marcel Mauss (1925) Essai sur le don
*13)Kuhnlein, H., Chan, A., Thompson, J.N., Nakai, S. (1982) Ooligan grease: A nutritious fat used by native people of coastal British Columbia. Journal of Ethnobiolgy, 2(2), 154-161.
*14)Traditional Animal Foods of Indigenous Peoples of Northern North America
http://traditionalanimalfoods.org/fish/searun-fish/page.aspx?id=6448
*15)動物の膀胱で作った水入れ袋. 平取町立二風谷アイヌ文化博物館
*16)萩中美枝, 藤村久和, 村木美幸, 畑井朝子, 古原敏弘. (1992) 聞き書 アイヌの食事. 農山漁村文化協会

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