ナトゥーフィアン=貯蔵社会への転換:Natufian culture=Revolution to storage society

ナトゥーフィアン期は、旧石器時代のなかでは特異な時代とされている。もっとも大きな変化は、人類が何十万年もつづけてきた遊動生活から、長期に定住する生活への転換が始まったことである。定住化が始まった理由は、食料を一定期間貯蔵して、端境期には貯蔵食料を利用して生存する生業スタイルへ転換したからである。

ナトゥーフィアンのおもな遺跡としては、シュベイカ1、ワディ・ハマ27、アイン・マラッハ、エル・ワド洞窟B層、アイン・サラタン、デデリエ洞窟B層、テル・アブ・フレイラなどがよく知られている。

シュベイカ1(Shubayqa 1)は、ヨルダン北東部の14,600~11,600前の遺跡である。ここからは、玄武岩でできた直径1mほどの窯、カヤツリグサ科、アブラナ科、マメ科、ヒトツブコムギ、オオムギ、カラスムギなどが出土している。光沢のあるフリントや石臼も見つかっている。窯のなかに残っていた植物遺体の年代は、14,400~14,200BPで、窯が使用されていたのは、ナトゥーフィアン初期であることがわかっている。24個の焦げた塊状の食物があり、パンと同じ構造をしていた。パンの材料は、コムギ、ライムギ、ミレット(雑穀)、カラスムギ、オオムギである。また、フスマ(皮)と粉の割合から、挽いた粉とフスマをフルイ分けしていた可能性があるという。(*1)


The site of Shubayqa 1 showing Structure 1 and one of the fireplaces (the oldest one) where the bread-like remains were discovered.(source:PNAS, 115, 31, 7925–7930)

ガラリア湖の南にあるワディ・ハマ27遺跡(Wadi Hammeh 27)では、13,500年前のドングリ(Quercus sp.)、タルホコムギ、野生オオムギ、ピスタチオ、レンズマメが出土し、フリントの刃を装着した骨製の鎌が見つかっている。


ワディ・ハマ27出土の骨製の鎌(Phillip Edwards, 2008)

ガラリア湖北方のアイン・マラッハ(Ain Mallaha)では、12,000~10,200年前の遺跡から、複数の円形の小屋、墓、光沢のあるフリント、ガゼル、ダマジカ、イノシシ、アカシカ、ウサギ、カメなど爬虫類、魚類が出土している。多数の人が埋葬されており、高齢の女性と子犬が一緒に埋葬されていた。また、遺体の上には、骨、貝殻、石で作られた精巧な装飾品が置かれていた。

ナトゥーフィアン期に定住化が始まったことは、ネズミの分析からも報告されている。レヴァントのハツカネズミの種類の変化と臼歯の形状の変化から、ネズミが最初に人間の居住地の周辺に住みつきはじめたのは、15,000年前のナトゥーフィアン初期であるという。(*2)


Chronology (Left) and location (Right) of the archaeological contexts providing Mus zooarchaeological samples used in this study. Sizes of Mus M1 samples are given in the last column of the table. The base map was generated from Environmental Systems Research Institute (ESRI) map data using ArcGIS v.9.1; Esri, GEBCO, DeLorme, NaturalVue, United States Geological Survey, NASA, Esri Inc.(PNAS 2017. 114 (16) 4099-4104)

レヴァントのナトゥーフィアン期の遺跡には、光沢のあるフリント、大量の石臼と石杵、複数の住居跡、貯蔵穴、埋葬遺跡など、定住化を示唆する多くの証拠が存在する。また、ナトゥーフィアン期には、人口が増加したと考えられており、その証拠としては、大規模な共同墓地の存在がある。エル・ワド洞窟(El-Wad cave)で60~100人、ナハール・オーレン(Nahal Oren)では50人の遺体が見つかっている。

また、当時の、社会関係を示すものとして、貝製、骨製のビーズ、ネックレス、頭用の飾りなど、多くの装飾品の存在がある。穴のある貝は、海岸部から遠い内陸部でも出土しており、部族間で装飾品などの財が交換されていたことがうかがえる。


Reconstruction of el-Wad H 23(Garrod and Bate 1937)


Natufian boulder mortars in el-Wad Cave (after Anati 1963)

なお、栽培化について論争になっている遺跡として、テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra)がある。テル・アブ・フレイラは、ユーフラテス川中流の南岸に位置し、ナトゥーフィアン期と新石器時代(PPNB中期)の2つの層からなる。

テル・アブ・フレイラのナトゥーフィアン期の人口は、最大で100~200人と見積もられている。ライムギ、コムギ、ヒユ、マメ科、ピスタチオなど100種類の植物遺体、ガゼル、ムフロン、オナガー、オーロックス、ウサギ、キツネなどが出土している。

ナトゥーフィアン期のテル・アブ・フレイラでは、コムギなどの出土量が減ったこと、雑草が増えたこと、9個の粒の大きなライムギが出土したことなどから、ライムギの栽培が行われていたと論じている。この大粒ライムギのC14年代が13,000BPであったことから、ヤンガードリアス期の寒冷化によって、作物の栽培が始まったと主張した。(*3)

テルアブフレイラ
Figure 4 Examples of charred remains of rye grains from Epipalaeolithic(Mesolithic) levels at Abu Hureyra drawn to the same scale: (a) a typicalgrain of wild rye, Secale cf. cereale L. subsp. vavilovii (Grossh.) Zhuk.,from phase 1 which pre-dates the earliest evidence of cultivation; (b) atypical example of one of the nine grains of domestic-type rye, S. cerealeL. cf. subsp. cereale Zhuk., found in phases 2 and 3 of theEpipalaeolithic. This specimen comes from slightly higher levels than thewild specimen (a), and is AMS14C dated to phase 2 of the Epipalaeolithicoccupation, with a date of 10930 ⫾ 12014C yr BP (OxA-6685). Thedomestic-type grains differ from the wild types primarily in being signifi-cantly larger not only in breadth and thickness but also in length. As such,the domestic-type grains were instantly recognizable among the mixtureof smaller grains with which the earliest specimens were found, and wereclearly distinguishable from the mass of wild-type grains which were theonly forms present in all the preceding levels. (For drawings of more ofthe charred specimens of wild and domestic-type grains recovered fromAbu Hureyra, see Moore et al., 2000: Figures 12.6 and 12.23.)(The Holocene 11(4)(4):383–393 · July 2001)

その後、テル・アブ・フレイラは放棄され、再び人の居住が始まるのは、9,400年前の新石器時代(PPNB中期)である。このときは、集落の大きさはナトゥーフィアン期に比べてはるかに大きく、8,000年前には、人口が4,000〜6,000人に達したと考えられている。

しかし、13,000前に穀物栽培が始まったという説を立証するには、証拠が少なすぎる。もし、ナトゥーフィアン初期にライムギの栽培が始まったのであれば、その生産システムを発明した人々は、食料獲得に有利なので、人口が増えるはずだ。人口が増えれば、周辺の地域にライムギの栽培文化が広がるのが自然である。ところが、周辺の地域では栽培化の証拠は見つかっておらず、テル・アブ・フレイラでは人口が増えるどころか、逆に居住地が放棄された。この場所が栽培に適する条件にあったことは、新石器時代に人口が急増していることからあきらかなので、ナトゥーフィアン期に居住地を放棄した理由を説明できない。

じつのところ、居住地が放棄されたのは、テル・アブ・フレイラだけではない。ナトゥーフィアンの前期から後期への移行期には多くの居住地が放棄され、後期ナトゥーフィアンの集落は小規模であったことがわかっている。ナトゥーフィアンから新石器時代への移行は連続的ではなかった。

文献
*1)Amaia Arranz-Otaegui, et al. (2018) Archaeobotanical evidence reveals the origins of bread 14,400 years ago in northeastern Jordan. PNAS, 115, 31, 7925–7930.
*2)Lior Weissbrod, et al. (2017) Origins of house mice in ecological niches created by settled hunter-gatherers in the Levant 15,000 y ago. PNAS 114 (16) 4099-4104.
*3)Gordon Hillman, et al. (2001) New evidence of Lateglacial cereal cultivation at Abu Hureyra on the Euphrates. The Holocene 2001 11: 383.
*4)藤井純夫ほか(2013)西アジア考古学講義ノート. 日本西アジア考古学会

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投稿者: jcmswordp

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