植物学、遺伝学からのアプローチ:Approach by botany and genetics

ダーウィンとカンドール

『種の起源』(1859)の第1章には、「飼育栽培下における変異」があてられている。ダーウィンは、人間が、家畜や栽培植物の育成や品種改良をできるのであれば、何億年もの時間を使うことができる自然が、自然選択によって種を作れないはずはないと考えた。
ダーウィンは、家畜と栽培植物の起源についても大きな関心を持っていたが、当時の知見では、家畜や作物の起源を明らかにすることはきわめて困難であった。

In the case of most of our anciently domesticated animals and plants, it is not possible to come to any definite conclusion, whether they are descended from one or several wild species. The argument mainly relied on by those who believe in the multiple origin of our domestic animals is, that we find in the most ancient times, on the monuments of Egypt, and in the lake- habitations of Switzerland, much diversity in the breeds; and that some of these ancient breeds closely resemble, or are even identical with, those still existing. But this only throws far backward the history of civilisation, and shows that animals were domesticated at a much earlier period than has hitherto been supposed. The lake-inhabitants of Switzerland cultivated several kinds of wheat and barley, the pea, the poppy for oil and flax; and they possessed several domesticated animals. They also carried on commerce with other nations. All this clearly shows, as Heer has remarked, that they had at this early age progressed considerably in civilisation; and this again implies a long continued previous period of less advanced civilisation, during which the domesticated animals, kept by different tribes in different districts, might have varied and given rise to distinct races. Since the discovery of flint tools in the superficial formations of many parts of the world, all geologists believe that barbarian man existed at an enormously remote period; and we know that at the present day there is hardly a tribe so barbarous as not to have domesticated at least the dog.
The origin of most of our domestic animals will probably forever remain vague.・・・

「古い家畜や栽培植物のほとんどについて、それらの祖先の野生種が、ひとつなのか複数なのか、明確な結論に至ることはできない。家畜の複数起源を信じる人たちがよりどころにしているのは、古代エジプトの記念碑やスイスの湖上住居遺跡では、品種の多様性が非常に高いことである。これらの古代品種のいくつかは、現存する品種ときわめて類似しているか、あるいは同一であることもある。しかし、これは、農耕文明の歴史がより古いことを意味するだけであり、これまで想定されていたよりはるかに早い時期に、野生動物が家畜化されたことを示しているにすぎない。スイスの湖上に住んでいた人々は、いくつかの種類のコムギ、オオムギ、エンドウ、ケシ(油)、亜麻を栽培していた。また、何種類かの家畜を飼育していた。彼らはまた、他の国々と物品を交換していた。ヘーア 氏が指摘したように、これらはすべて、農耕文明がかなり早い段階に進んでいたことを明確に示している。そして、これは再び次のことを意味する。初歩的な農耕文明には、その前の長い期間が存在し、その長い期間に、異なる地域の異なる部族によって飼われた家畜は変化し、異なる品種を生み出した可能性がある。世界中の多くの地域からフリントツール(石器)が発見されて以来、すべての地質学者は、原始の人々は非常に広範囲に離れて存在していたと信じている。また、現在、犬を家畜化していない野蛮な部族はほとんどいないことを知っている。
ほとんどの家畜の起源は、おそらく永遠にあやふやなままであろう。・・・」(文献1)

ダーウィンが、栽培植物の変異と進化を検討する際、とくに参考にしたのは、アルフォンス・ドゥ・カンドールの『合理的植物地理学』(1855)である。

アルフォンス・ドゥ・カンドール(1806-1893)は、フランス系スイス人の植物学者で、彼の父親は高名な植物学者のオーギュスタン・ドゥ・カンドール(1778-1841)である。オーギュストが提唱した「自然の戦争」という概念は、ダーウィンの自然淘汰の原理に大きな影響を与えた。

We will now discuss in a little more detail the struggle for existence. In my future work this subject will be treated, as it well deserves, at greater length. The elder De Candolle and Lyell have largely and philosophically shown that all organic beings are exposed to severe competition.

「生存闘争についてもう少し詳細に論じよう。この主題については、それにふさわしいように、より詳細に扱う予定である。ドゥ・カンドールとライエルは、すべての有機的存在がきびしい競争にさらされていることを、包括的、論理的に示した」(文献1)

アルフォンス・ドゥ・カンドールは、のちに『栽培植物の起源』(1882)を著し、初めて体系的、実証的に作物の起源について論じた。カンドールは、栽培植物の野生原種が存在する地域が、栽培植物の起源地と考え、植物学のみならず、言語学、歴史書、旅行記など多くの文献を吟味して、250種の作物について検討した。そして、中国、西南アジア、熱帯アメリカの3つの地域で、独立に農耕が始まったと論じた。

ニコライ・ヴァヴィロフ:栽培種の発祥中心地説

20世紀にはいると、多くの植物学者、考古学者、歴史学者、言語学者、農学者が、栽培植物と家畜の起源について注目するようになった。とりわけ大きな足跡を残したのは、ソ連の植物学者、遺伝学者のニコライ・ヴァヴィロフ(1887-1943)である。


Nikolai Vavilov, 1933,(Author:World Telegram staff photographer)

ヴァヴィロフは、モスクワ農業大学で学び、同大学の育種試験場で、作物の耐病性の研究に従事した。フランス、ドイツ、イギリスに留学し、高名な遺伝学者のウィリアム・ベイトソン(1861-1926)から多くのことを学んだ。

ロシアでは、1917年に革命が起きて、ソヴィエトが権力を掌握した。4年後の1921年には、ロシア南東部のステップ地帯はひどい旱魃に襲われ、収穫皆無となった。このとき、ヴァヴィロフは、低温や乾燥、病害虫に抵抗性のある作物品種の育成が必要なことを痛感した。同年、応用植物学・育種学研究所の所長に就任すると、アメリカ農務省植物導入局を訪問した。ここで、全世界から種子が収集され、整然と管理、保存されているのを見て、食料の安定供給と国の発展のためには、遺伝資源の収集と保存が重要であることを気付かされた。

1923年ごろから、2~3名の探検隊を組織して、世界各地に派遣し、野生植物と栽培植物の収集事業に乗り出した。1940年までにヴァヴィロフたちが行った探検は180回、65か国におよび、収集したコレクションはコムギ36,000点、トウモロコシ10,000点、マメ類23,000点など、全体では25万点にも達した。これらのコレクションの収集、保全のために、2,000人以上の職員が働いていた。

ヴァヴィロフは、膨大な遺伝資源の探索するなかで、多数の品種群が著しく集中している地域が存在することに気が付き、そのような種の変異形成中心地こそが、栽培種の発祥中心地であると考えた。そして、発祥中心地として、以下の7大中心地を提案した(1940)。


栽培植物の発祥中心地 Ⅰ:熱帯南アジア地域、Ⅱ:東アジア地域、Ⅲ:南西アジア地域、Ⅳ:地中海沿岸地域、Ⅴ:アビシニア地域、Ⅵ:中央アメリカ地域、Ⅶ南アメリカ・アンデス山系地域(source:栽培植物発祥地の研究)

Ⅰ:熱帯南アジア
a:インド熱帯地方、b:インドシナ半島~中国南部、c:スンダ諸島の3地域に分けられ、栽培植物全体の約30%が発祥している。イネ、サトウキビ、バナナなど熱帯果樹、サトイモ、ヤムイモなど。

Ⅱ:東アジア
中国中央部~東部、台湾、朝鮮、日本を含む地域。各種のキビ、大豆、多くの野菜、膨大な数の果樹類の発祥地。ここを発祥地とする栽培植物の数は花卉類を除いて全世界の20%を占める。1次中心の中国と2次中心の日本とに分けられる。

Ⅲ:南西アジア
a:コーカサス地方、b:中近東、c:北西インド地域を含む地域。コムギ、オオムギ、ライムギなど麦類、エンドウ、ヒラマメ、ソラマメ、ガラスマメ、ヒヨコマメなど豆類。また、多くの野菜類、ブドウなど多くの果樹類、アジア綿など、全世界の栽培種の14%を占める。

Ⅳ:地中海沿岸
オリーブ、イナゴマメ、各種の野菜と飼料作物の発祥地。ギリシャ・ローマ文明が栄えた地域にもかかわらず、全栽培植物の11%にとどまる。

Ⅴ:アフリカ大陸
アビシニア(エチオピア)地方が発祥中心地として存在する。テフ(イネ科)、ヌグ(油料作物)、コーヒー、モロコシなど。

Ⅵ:北アメリカ
a:南メキシコ、b:中央アメリカ、c:西インド諸島の3つに分けられる。トウモロコシ、ワタ、インゲンマメ、カボチャ類、カカオ、サツマイモ、トウガラシ、グアバなど果樹類、バンレシ、アボガドなど90種ほどが発祥。

Ⅶ:南アメリカ
a:アンデス地域(ペルー、ボリビア、エクアドル)、b:チロエ地域(チリ南部、チロエ島)、c:ボゴタ地域の3つに分けられる。多くのジャガイモ、オカ、ウルコ、アヌウなどの塊茎類、キナ、コカなど薬用植物、ラマ、アルパカの家畜が発祥した。

なお、これらのほかにも、南アフリカのスイカ、南アメリカの熱帯内陸部ではキャッサバ、パイナップル、ラッカセイ、北アメリカのキクイモ、ヒマワリなどがある。

ヴァヴィロフは7つの発祥中心地は、古代の農耕文化の発祥地と一致していると考えた。ヴァヴィロフが唱えた栽培植物の発祥中心地は、現在の最新の学説とおおむね一致している。

1936年に行われた講演のなかで、ヴァヴィロフは次のように述べている。

「わが国の栽培植物の品種を改良し、それに耐乾燥性や耐病性を付与するためのさまざまな種や品種を探索する仕事において、筆者らが出発点としたのはダーウィンの進化論なのである。その学説によれば、動植物の発達と変化は、その当初の属や種が集中している特定の自然的・歴史的地域から、そこでの植物地理的な諸条件に立脚しながら、空間的・時間的に発展していったのである。ダーウィン自身、『種の発祥中心地』という言い方をしており、かれは種の発祥中心地に関する命題を一つの法則と考えていた」(文献2)

1934年、ウクライナ出身の農学者トロフィム・ルイセンコ(1898-1976)は、メンデル遺伝学を否定し、後天的に獲得した形質が遺伝するという学説を発表した。スターリンは共産主義の史的唯物論に合致するという理由で、ルイセンコの学説(獲得形質の遺伝)を支持した。当時のソ連では、権力を掌握したスターリンによる大粛清が始まり、ルイセンコ説に反対するソ連の生物学者や植物学者の多くが、投獄され処刑された。ルイセンコ説に反対したヴァヴィロフは、1940年に投獄され、1943年1月に栄養失調で獄死した。この偉大な農学者は、55才で世を去ってしまった。

ジャック・ハーラン

ジャック・ハーラン(1917-1998)は、アメリカの植物学者で、父親のハリー・ハーランも、アメリカ農務省の育種研究者であった。ジャックは子供のころに、オオムギの育種農場にたびたび連れて行かれ、父親から大きな影響を受けた。15歳のときに、父親と親交があったニコライ・ヴァヴィロフが家に滞在したことがあり、ヴァヴィロフに大きな影響を受けた。ハーランは、ソ連に留学してヴァヴィロフに師事しようとしたが、ヴァヴィロフの投獄と死によってかなわなかった。

ジョージワシントン大学およびカリフォルニア大学で学び、1942年からアメリカ農務省で働いたあと、1951年にオクラホマ大学に赴任した。1966年にイリノイ大学に移り、作物進化研究所を共同で設立した。1948年以降、アメリカ農務省の支援のもと、アフリカ、アジア、中央アメリカ、南アメリカ、オーストラリアを探索し、数多くの遺伝資源を収集した。訪れた国は45か国に及び、12,000点のコレクションを持ち帰った。1960年代には、中東での考古学調査にも参加して、野生ムギの収穫実験を行った。(文献3、4)

ハーランは、基本的にはヴァヴィロフの発祥中心地説を支持したが、ヴァヴィロフたちの調査が不十分であったアフリカやパレスチナも探査し、ヴァヴィロフ説に修正を加えてより精緻な作物の発祥地を提唱した。

文献
1)Charles Darwin, The Origin of Species, The sixth edition, 1872
2)ニコライ・ヴァヴィロフ、栽培植物発祥地の研究、八坂書房、1980
3)THEODORE HYMOWITZ, JACK RODNEY HARLAN, National Academy of Sciences, 2003
4)Calvin O. Qualset, Jack R. Harlan, Plant Explorer, Archaeobotanist, Geneticist, and Plant Breeder

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日本の人類学:Anthropology in Japan

日本の人類学についても一瞥しておく。

江戸中期に、幕府の蝦夷地探検に加わった最上徳内(1754-1836)が、アイヌの記録を残している。出羽国の農家に生まれた徳内は、学問を志して江戸の本多利明の音羽塾に入門し、天文、測量、航海術を学んだ。1785年、師の代理人として幕府の蝦夷地調査に随行した。その後も、樺太、択捉、国後、ウルップなど、生涯で9回の探検と調査を行った。『蝦夷草紙』、『渡島筆記』を著し、アイヌ語辞典の『蝦夷方言藻汐草』の編纂にも参加した。

江戸後期には間宮林蔵(1780-1844)が樺太を探検して、『東韃地方紀行』や『北夷分界余話』を残している。間宮林蔵は、常陸国の農家の出身だが、祖は戦国武将の間宮康俊とされる。長じて幕府の下役人となり、派遣された蝦夷地で伊能忠敬から測量技術を学んだ。1808年、幕府の命により樺太を探索し、その後、海峡を渡ってアムール川下流域まで調査した。


北夷分界余話(source:国立公文書館デジタルアーカイブ)

明治維新後の日本に、はじめて欧米の考古学、人類学、生物学をもたらしたのは、アメリカの生物学者のエドワード・S・モース(1838-1925)である。モースは、1877年に腕足動物を研究するために来日したが、列車で横浜から新橋へ向かう途中、崖に貝殻が積み重なっているのを発見した。訪れた文部省で外山正一に請われて、東京大学法理文学部の教授に就任し、同年、大森貝塚を調査した。土器や骨器を発掘して、縄文土器を見いだした。また、モースは、はじめて、ダーウィン進化論を日本に紹介した。


大森貝塚出土品(source:文化遺産オンライン)

モースの発見から7年後の1884年、東京大学の学生だった坪井正五郎(1863-1913)、白井光太郎、有坂鉊蔵らは、大学近くの弥生町内の貝塚を調査し、学芸雑誌に発表した。発見された無紋の土器は、後に縄文式土器と異なるものと認められ、「弥生式土器」と名付けられた。ただし、このとき報告された「弥生式土器」が出土した場所は、はっきりしておらず、1974年の調査では、東京大学構内の旧浅野地区から弥生式土器が検出されている(文献3)。坪井は、その後イギリスに留学して欧米の人類学を学び、日本の人類学を創始した。なお、坪井は、古代の日本にはアイヌとは別の食人種が住んでいたというモースの説を引き継いで、原日本人はコロポックルであるとの説を唱えた。


壷形土器 東京市向ヶ岡(現東京都文京区弥生)、向ヶ岡貝塚(source:東京大学総合研究資料館)

坪井の研究室で学んだ鳥居龍蔵(1870-1953)は、日本で最初に人類学の現地調査を行った。踏破した地域は、中国東北部、台湾、千島、中国西南部、蒙古、朝鮮半島、シベリア、中南米におよび、膨大な資料を残した。(文献4)


台湾ヤミ族 粟を搗く男


台湾アミ族 脱穀中の女性


台湾水尾のアミ族の牛飼い少年。背景の建物と人は漢族風


台湾プュマ族(?) ひき臼


台湾卑南にある巨石文化遺跡


台湾パイワン族 臼と杵を使って脱穀をする女


台湾パイワン族 高床式穀倉


台湾東勢角 タイヤル族の倉庫


台湾ツォウ族 粟の庭仕事をする阿里山蕃の女たち。臼と杵で脱穀、箕で殻をあおぎ分けている。右端の女の手にある農具は石器と思われる


千島アイヌの木幣


北海道アイヌの家族と倉。撮影時期・場所ともに不明


千島アイヌの竪穴式住居。おそらく色丹島と思われる


拓殖博覧会展示の樺太アイヌの幣柵


北海道アイヌの倉。撮影時期・場所とも不明


朝鮮 メンヒル(立石)。鳥居(1922)は、立石里の立石について、「常に注連を張り、藁を以て覆い、その上から藁宝殿を作って一種の神体のようなものとして、祈願などをして居ります」と述べている
(source:鳥居龍蔵の世界、鳥居龍蔵写真目録)

農商務省の高等官僚であった柳田國男(1875-1962)は、全国の山村、漁村を調査し、日本の民俗学を創始した。民俗学は、渋沢敬三(1896-1963)を経て宮本常一(1907-1981)へと引き継がれた。

民族学および文化人類学については、ウィーン大学のヴィルヘルム・シュミットのもとで学んだ岡正雄(1898-1982)や、同じウィーン大学に留学した石田英一郎(1903-1968)らが主導した。

日本の考古学は、歴史地理学の喜田貞吉(1871-1939)、ヨーロッパに留学して欧米の研究方法を日本に導入した濱田耕作(1881-1938)、縄文土器の編年を作った山内清男(1902-1970)、八幡一郎(1902-1987)、遠賀川式土器を見いだした小林行雄(1911-1989)らによって進展していった。

終戦後の1948年、考古学者の江上波夫(1906-2002)は、岡正雄、石田英一郎、八幡一郎らと行った座談会の中で、騎馬民族征服王朝説を発表して大きな話題になった。しかし、他の考古学者、民族学者からは支持されていない。

京都大学では戦前、戦中を通じ西田幾多郎(1870-1945)、波多野精一(1877-1950)、田邊元(1885-1962)、和辻哲郎(1889-1960)、三木清(1897-1945)、戸坂潤(1900-1945)らの哲学者が、京都学派として大きな影響力をもっていた。

戦後の1949年に改組された人文科学研究所では、貝塚茂樹(1904-1987)、桑原武夫(1904-1988)、藤枝晃(1911-1998)、今西錦司(1902-1992)、梅棹忠夫(1920-2010)、中尾佐助(1916-1993)らが、人類学、生態学、民族学の分野で成果を上げ、戦後の日本社会に大きな影響を与えた。

日本の人類学のなかでも、やや特異な位置に立っているのは、大林太良(1929-2001)、伊藤清司(1924-2007)、吉田敦彦(1934-)らの比較神話学である。大林や吉田らは、ユーラシア全域にまたがる、広範な神話の伝播を提示した。

欧米の人類学者が、欧米人や西洋文化の起源に強い関心をもつように、日本の人類学者も日本人と日本文化の起源を追い求めてきた。日本人のばあい、ベネディクトが『菊と刀』で日本文化を論じたように、欧米人から「観察される側」であるため、日本の人類学はボアズ主義の影響をそれほど強くうけていない。社会進化論においても、ヨーロッパ中心主義が強い単系社会進化は当然、支持されず、多系社会進化や文化圏論が中心となっている。

農耕の起源論と関係が深い論考としては、和辻哲郎の風土論、中尾佐助と佐々木高明による照葉樹林文化論などがある。

文献
1)最上徳内記念館
2)北夷分界余話、文化遺産オンライン
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0403030000/00
3)壷形土器、東京大学総合研究資料館
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1994collection1/tenji_sekki_05.html
4)鳥居龍蔵写真目録、鳥居龍蔵写真資料研究会・東京大学総合研究博物館
http://torii.akazawa-project.jp/cms/photo_archive/photo_index.html

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