構造主義、戦後の人類学、言語学:Structuralism, Anthropology after war, Linguistics

構造主義

構造主義といえばレヴィ=ストロースであるが、その前に、マルセル・モース(1872-1950)について触れておく。モースは、フランスの社会学者のエミール・デュルケム(1858-1917)の姉の子で、ユダヤ系フランス人である。幼少の頃から叔父のデュルケムに教えを受けていた。高等教育資格を取ったのち、コレージュ・ド・フランスに続いてパリ大学民族学研究所で教えた。師のデュルケムは、機能主義、社会進化主義の立場をとったが、モースは、進化主義については、かなり慎重で、抑制した表現にとどめている。

モースは、ユダヤ系アルザス人で東洋学者のシルヴァン・レヴィ(1863-1935)から大きな思想的影響を受け、レヴィを「私の二番目の叔父であり、私のグル(師匠)である」と述べている(文献1)。1925年に発表した『贈与論』は反響を呼び、レヴィ=ストロースの構造主義にも大きな影響を与えた。

クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)の両親はユダヤ人で、父は印象派の画家であった。ブリュッセル(ベルギー)で生まれ、1914年に大戦が始まるとパリ近郊に移り、高校時代にマルクス主義の運動に参加するようになった。パリ大学で学び、教授資格取得後、高校で哲学を教えたが、この頃にロバート・ローウィ(1883-1957)の“Primitive Society”(原始社会、1919)を読み、人類学に強い興味を持った。

1935年にサンパウロ大学に社会学教授として赴任し、ブラジル内陸のボロロ族などの調査を行った。1939年にフランスに帰国し招集されて軍務についたが、1941年にフランスを脱しアメリカに渡った。ここで、ローウィ、ボアズ、ベネディクト、言語学者のロマーン・ヤコブソン(1896-1982)らと交流し、思想的影響を受けた。

構造主義の源流は、フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)の記号論とされている。レヴィ=ストロースは、ヤコブソンを通じてソシュールの構造主義言語学を学び、これから着想を得て、親族構造論へと発展させた。

1948年に『親族の基本構造』を博士論文として書き上げ、49年にフランスに帰国して発表すると、大きな話題を呼んだ。レヴィ=ストロースは、構造主義人類学の創始者というだけでなく、彼の書いた“Tristes tropiques”(悲しき熱帯、1955)や“La Pensée sauvage”(野生の思考、1962)は、文学作品としても高い評価を受けている。

アメリカの戦後の人類学

戦後のアメリカの人類学は、長く、ボアズとその弟子たちの影響下にあった。ローウィは、アメリカインディアンの民族誌調査を通じて、モーガンの進化主義を批判し、ルース・ベネディクト(1887-1948)は、『菊と刀』(1946)を書いて、文化相対主義的な手法で、日本文化を分析しようとした。マーガレット・ミード(1901-1978)は、オセアニアの部族の女性の地位について報告し、フェミニズム運動に大きな影響を与えた。

ボアズらは社会進化主義を強く批判したため、戦後のアメリカの人類学者たちは一般的な社会理論を構想することさえはばかられていた。

こうしたアメリカ人類学の雰囲気に対して、ミシガン大学のレスリー・ホワイト(1900-1975)は、スペンサー、モーガンら19世紀の進化主義を再評価するとともに、ボアズらの文化相対主義を批判した。ホワイトは、技術革新とエネルギー消費量の観点から社会発展を理論化(『文化の進化』1959)し、社会の発展段階を、次の5段階に区分した。

1、人間の筋肉のエネルギーを利用する
2、家畜のエネルギーを利用する
3、栽培植物のエネルギーを利用する(農業革命)
4、化石燃料(石炭、石油、天然ガス)のエネルギーを利用する
5、原子力エネルギーを利用する

ホワイトらの立場は、「ネオ進化論」と呼ばれた。

また、イリノイ大学のジュリアン・スチュワード(1902-1972)は、世界各地の固有の技術革新や社会的な変革が多様であることを示し(多系進化)、これらの多系進化を、環境に対する適応という観点で理論化することを試みた。これは、のちに文化生態学の成立へとつながっていった。

ホワイトやスチュワードの影響を受けたマーシャル・サーリンズ(1930-)やエルマン・サーヴィス(1915-1996)は、多系進化による新進化主義人類学を提唱した。

農耕の起源をめぐる議論については、カルフォルニア大学のカール・O・サウアー(1889-1975)が発表した、“Agricultural Origins and Dispersals”(農耕の起源と拡散、1952)がある。地理学者のサウアーは、農業、作物、家畜が環境に対して大きな影響を与えると考えた。そして、農耕の起源は中東ではなく、東南アジアであるとし、栄養繁殖による根菜の栽培と、ニワトリ、ブタの家畜化が始まったと主張した。

また、人類学者のジョージ・ピーター・マードック(1897-1985)は、多系進化と生態学的な観点で、世界中の民族文化を比較検討し、通文化研究の礎を築いた。「核家族」という用語を最初に使ったことでも知られる。のちに、マードックはアフリカの部族の文化と歴史に関する『アフリカ』(1959)を著し、その中で、ニジェール川流域で、マンデ族が独立に雑穀農耕を開始したと主張した。そして、中東のムギ農耕、東南アジアのイモ農耕、新大陸の農耕、アフリカの雑穀農耕の四か所を、農耕の独立発祥地として提唱した。

言語学

イギリス人の判事でインドを研究していたウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)は、1786年に、ラテン語やギリシャ語が、サンスクリット語と共通の起源をもつと発表した。その後、インド・ヨーロッパ語族の研究が発展し、比較言語学が科学として確立した。同じ語族では、同語源の音韻が規則的に対応し、音韻変化をたどることで、祖語が同定でき、同語族に属する諸言語は、系統樹で示すことができる。そして、インド・ヨーロッパ語族の故地の探求が大きな関心となった。(文献2)

ドイツに生まれでイギリスに帰化した言語学者のマックス・ミュラー(1823-1900)は、インド人とヨーロッパ人を「アーリア人」と呼び、インド・ヨーロッパ語族の人種的優位性を暗示させた。これは、20世紀には、ナチスドイツのアーリア至上主義と人種差別へとつながっていった。

戦後は、インド・ヨーロッパ語族の故地として、カリフォルニア大学のマリヤ・ギンブタス(1921-1994)の黒海沿岸ステップ説と、ケンブリッジ大学のコリン・レンフルー(1937-)のアナトリア説の二つの説が提唱されてきた。

最近の遺伝子の解析による調査では、約4500年前のヨーロッパの文化的変容は、人間集団の移動を伴っており、青銅器時代にインド・ヨーロッパ語族がヨーロッパに拡散した可能性が提示されている。インド・ヨーロッパ語族の祖は、カスピ海~黒海の北方の草原地帯にいたヤムナ文化集団と考えられている。(文献3)


Indo-European expansion(Author:Dbachmann)

近年の比較言語学の成果としては、オーストロネシア語族の研究がある。オーストロネシア語族は、台湾、東南アジア島嶼部、ポリネシア、マダガスカルにいたる広大な地域に分布することが明らかになり、さらに、言語学、考古学、人類学者らの共同研究でそれらの島々に到達した年代も実証的に研究されている。(文献4)

ただし、全般的に比較言語学は、かつての勢いが無くなっており、発展が停止してしまったかのようにみえる。もともと音韻変化をたどる方法に依拠する学問であり、言語学者のモリス・スワデシュによれば、1000年ごとに20%の語彙が失われるとされ、数千年よりも古い時代に分岐した言語については、比較言語学では限界がある。

そこで、より古い言語にアプローチする方法も提出されている。ロシアのイリッチ・スヴィティチは、印欧語族、アフロ・アジア語族、ウラル語族、カルトヴェリ語族、ドラヴィダ語族、アルタイ語族は、もっとも古い時代までさかのぼれば、「ノストラティック語族」を起源とするという大語族説を提唱した。また、アメリカのジョーゼフ・グリーンバーグは音韻対応を無視して多角比較を導入し、印欧語族、ウラル語族、アルタイ語族、朝鮮語、日本語、アイヌ語、ギリヤーク語、チュクチ語、エスキモー・アリュート語を含む、「ユーラシア大語族」を提唱した。ただし、これらの大語族説は、言語学者からの評判はよくない。

なお、日本の松本克己は、類型論的立場から、ユーラシア内陸言語圏と環太平洋言語圏という新しい方法を提出している。(文献5)

文献
1)マルセル・モース、1925、贈与論、筑摩書房、2009
2)風間喜代三、言語学の誕生、岩波書店、1978
3)Ewen Callaway, 2015, DNA data explosion lights up the Bronze Age, Nature, 522
https://www.nature.com/news/dna-data-explosion-lights-up-the-bronze-age-1.17723
4)Austronesian Basic Vocabulary Database
https://abvd.shh.mpg.de/austronesian/research.php
5)松本克己、世界言語のなかの日本語、三省堂、2007

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新石器革命論、伝播主義、生態学的アプローチ:Neolithic Revolution, Diffusionism, Ecological Approach

ゴードン・チャイルドの新石器革命論

ゴードン・チャイルド(1892-1957)は、オーストラリアのシドニーに生まれ、シドニー大学とオックスフォード大学で考古学を学んだ。在学中に熱心な社会主義者になり、卒業後に労働党出身の州長官の秘書として活動していた。1921年にロンドンに移り、王室考古学研究所の図書館員になった。1925年に、“The Dawn of European Civilisation”(ヨーロッパ文明の夜明け)を出版し、1927年にはエジンバラ大学に移って、オークニー諸島のスカラ・ブレイ遺跡を発掘して大きな業績を残した。


House 1 of Skara Brae(Author:Wknight94)

1936年に、“Man makes himself”(文明の起源)を発表し、1940年にロンドン大学先史ヨーロッパ考古学教授に就任、1942年には“What Happened in History”(歴史のあけぼの)を出版した。チャイルドが提唱した新石器革命論は、世界の考古学、歴史学に大きな影響を与えた。1956年にロンドン大学を辞し、シドニーで引退生活を送っていたが、1957年にブルー山脈中の崖から身を投げて自死した。

チャイルドは、文化史(先史考古学)に、マルクスの唯物史観を導入したことで知られている。

「考古学は、人間の経済や社会的生産制度における急激な変革を追及できるし、また追及するものである」、「考古学は、経済制度の変化や生産手段の改良を観察し、これを年代順に示すことができる。考古学者は先史時代を石器時代、青銅器時代および鉄器時代に三分しているが、・・かれらは、物のきる道具、とくに斧(そしてこの道具はもっとも重要な生産道具の一つである)につかった材料にもとづいている。唯物史観は、社会制度や経済組織の形式を組たて、これを決定するにあたって、生産道具の重要性を主張する」(文献1)

チャイルドが立脚したもうひとつの原理は、進化論である。

「歴史家のいう『進歩』とは、動物学者のいう進化と同種のものである、といっていい。ここで、のぞましいことは、動物学の規則に適用できる標準は、動物学者とか、そのほかの自然科学者の特徴とする公平さや客観的判断を歴史家にもたせるかもしれないことである。さて、生物学者にとって、進歩は(もしこの言葉をつかうとすれば)生存競争における成功を意味することになっている」(文献1)

また、イギリスの産業革命を例にして、旧石器時代から新石器時代への変遷を『革命』と位置づけた。

「歴史上の変革は、それが、われわれ人類の存続と繁殖に役だった度合いによって、判定できる。これは人口表に、あらわすことのできる数字上の標準である。歴史上、われわれは、この数字の標準を直接に応用できる事件にであっている。そのもっとも、いちじるしい例はイギリスの『産業革命』である」


イギリス本国の人口概算表(1500-1800年)(参考:『文明の起源』)

「この数字と曲線の教訓に注意すれば、人類最古の時代にも別種の『革命』があったことを、看破することができるであろう。この『革命』は『産業革命』と同じ工合いに、すなわち人口曲線の上昇のような形であらわれているが、これも、おなじ標準から判定されなくてはならない。本書のおもな目的は、この角度から先史学と古代史を考察することである」(文献1)

そして、「新石器革命」を次のように定義する。

「人類の経済を変えた第一の革命(新石器革命)によって、人類は自分の食料供給を支配するようになった。人類は栽培と耕作をおこない、また食用の雑草、根茎および木をえらびだして、改良をはじめた。また、できるかぎり、ある種の動物に飼料をやり、保護をくわえ、めんどうをみてやった結果、その動物をならして、密接に、自分にむすびつけることに成功した」

新石器革命の特徴として以下の点を列挙している。

磨製石斧:食料生産者の最古の居住地に発見されるが、農耕の無かった時期のバルチック沿岸でも見つかるし、逆に穀物を生産していたナトゥーフ期人は斧を持っていないため、確実な指標ではない。

土器:新石器時代の共同体の一般的な特徴は壷の製作。ただし、ナトゥーフ期人はこれをつかわなかった。

織物:エジプトや西南アジアの新石器時代の遺跡では、亜麻などを材料にした織物の痕跡が見つかる。

村落:新石器時代の村の住居はバラバラでなく、キチンとした秩序で配置されている。共同体の活動を調整するための社会機関があったことを意味する。

なお、チャイルドはマルクス主義者らしく、「われわれは『新石器時代の体制』や『新石器時代の宗教』についての記述はこころみない。こうしたものが存在したことは本当にありそうもない」、「根強くしみこんだ習慣や、熱狂的に信じられた迷信は、社会の変革や、これを必要とする科学的進歩にたいして、あきらかに有害である」と論じている。

今日から見れば、チャイルドのマルクス主義の唯物史観、すなわち労働価値説および余剰価値説によって、古代の社会の構造や変化を説明することは、かなり無理がある。

チャイルドは、当時の「文化移動論者」(太陽巨石文化説)や「ドイツ歴史学派」(ウィーン学派、文化圏説)などの伝播主義を、非科学的であると批判した。さらに、「ヒットラー氏と御用学者たちが公然と説明するファシスト哲学は―しかし、これはときどき、イギリスやアメリカでは優生学というマスクをかぶっているが―進歩というものを、神秘的に表現された生物学上の進化と、まったくおなじもの、とみている」と、優生思想を厳しく批判している。

伝播主義

伝播主義は、19世紀末~20世紀前半に、ドイツ、オーストリア、イギリス、アメリカなどで盛んになった人類学の立場である。伝播主義では、異なる文化の間の共通性や類似を、人の移動、あるいは文化の伝播の結果と考える。

代表的な理論の一つに、ウィーン学派の「文化圏説」がある。文化圏説は、ドイツのフロベニウスによって民族学の理論として導入された。つづいて、歴史家のフリッツ・グレープナーは、『民族学方法論』(1911)を著して、様々な民族が、共通の起源から発生したとする進化論(単一起源説)に反論した。その後、文化圏説はドイツ、オーストリアで発展し、ウィーン学派のヴィルヘルム・シュミット(1868-1954)が、『神の思想の起源』(1912-1955)を著した。

シュミットはローマ・カトリック教会の司祭で、ベルリンとウィーンで言語学を学んだ。東南アジア、オーストラリア、オセアニアの言語を研究するなかで、すべての部族には、創造神である原始一神教が存在し、それぞれの文化圏が発展する過程で、多神教が発生した主張した。

一方、イギリスでは、マンチェスター大学の解剖学者のエリオット・スミスとペリーが、世界の文明の起源は古代エジプトであり、世界中の巨石文化などの遺物は、太陽崇拝のエジプトの巨石文化民族が移動して成立したと主張した。これは、「太陽巨石文化説」と呼ばれて大衆には人気があったが、人類学者からは実証に基づかない空論と批判された。

アメリカでは、ボアズと弟子のクローバー、ウィスラーらが、限られた地域内での緻密な分布研究を基に、人の移動や文化の伝播が、文化の成立に果たした役割を実証的に示した。しかし、その後、人類学における伝播主義の影響力は小さくなっていった。

グレイアム・クラークの生態学的アプローチ

チャイルドの新石器革命論に対し、同じ考古学者として批判したのは、グレイアム・クラーク(1907-1995)である。クラークはケンブリッジ大学ピーターハウス・コレッジで学び、同大学のディズニー教授、ピーターハウスのフェロー、学長の要職を長く務めた。クラークは、ヨークシャーのスター・カーの発掘調査(1949-1951)で大きな業績をあげた。

スター・カーは、ヨークシャーの中石器時代の遺跡である。数家族の狩猟民のキャンプ地跡で、最終氷期の氷床が解けて浸水したため、湖底に大量の遺物が残されていた。骨角製遺物をはじめ、多くの有機物が保存されており、気候、植生、動物相などの多岐にわたる情報が得られ、当時の生態環境の復元が可能となった。クラークらは、環境学的、生態学的な手法で総合的な調査を実施し、その後の考古学研究に大きな影響を与えた。


Star Carr collection at Yorkshire museum – mesolithic spear tips from the earliest known post glacial settlement in England(Author:Jonathan Cardy)

クラークは、チャイルドの新石器革命論=「経済や社会的生産制度における急激な変革」に対し、次のように述べる。

「先史時代の人間がコムギ、オオムギあるいはコメ、トウモロコシ、マニオク、カボチャ、マメなどを管理可能な栽培植物として育て始めたまさにその時、突如として新しい次元が開け文明化が可能となったと考えるのは誤りであろう」(文献3)

「インド、中国あるいは西南アジアの最古の農耕社会を理解するためには、先行する先史社会を充分に解き明かす必要がある。世界のあらゆる場所で高文明を支える基礎を敷いた先史時代―中石器時代ないし中間期―を、今や徹底的に調査する必要が生じている」(文献3)

チャイルドの新石器革命論以後、多くの考古学者や人類学者の調査により、新石器革命の理論と一致しない例が数多く存在することが明らかになってきた。たとえば、農耕を行わず、狩猟と採集を生業としていたにもかかわらず、きわめて精巧な土器を製作したり、大きな定住集落が存在した日本の縄文文化は、新石器革命論では説明がつかない。

さらに、農学者のジャック・ハーラン(1917-1998)の実験がある。ハーランは、トルコ南東部の野生コムギが自生する地域で、石器で作った鎌を使用して収穫実験を行った。結果は、野生ヒトツブコムギの1時間当たりの収穫量は、2ポンド(0.9kg)以上であった。これは、狩猟採集民の一家族が、3週間ほど野生コムギの採集をすれば、1年間食べていくのに十分な量である。(文献4)

労働価値説および余剰価値説に基づく唯物史観では、生産力の発展に応じて生産関係が発展するはずである。つまり、狩猟採集民が、狩猟採集社会の状態にあるのは、生産力が小さいためと説明される。ところが、中東の狩猟採集民は、十分な余剰価値を生み出すほど生産力が大きかったにもかかわらず、新たな生産関係に発展しなかったことを意味している(これについては後述)。

文献
1)ゴードン・チャイルド、1936、文明の起源、岩波書店、1951
2)アラン・バーナード、人類学の歴史と理論、明石書店、2005
3)グレイアム・クラーク、中石器時代、雄山閣出版、1989
4)Harlan, J.R., A wild wheat harvest in Turkey, 1967

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文化相対主義、機能主義:Cultural relativism, Structural functionalism

フランツ・ボアズ

19世紀の進化主義の隆盛に対して、文化相対主義を提唱したのは、フランツ・ボアズ(1858-1942)である。ボアズは、ドイツの自由主義的なユダヤ人夫婦のもとに生まれ、両親は、ボアズの自由主義、平等主義的な思想形成に影響を与えた。長じてボン大学やキール大学で物理学、数学、地理学を学んだ。大学生のときに、反ユダヤ主義者と決闘して傷を負い、人類の単一起源説を強く支持していた。

大学院の1883年に、イヌイットの調査を行うために、カナダ北東部のバフィン島を訪れたが、調査の過程で、食料、住居、病気などの困難をすべてイヌイットに頼らざるを得なかった。バフィン島での経験から、非西洋文化の研究に強い関心を持つようになった。

1885年にアメリカに移住し、博物館勤務、サイエンスジャーナルの副編集長、大学勤務などを経て、1896年にコロンビア大学で人類学の講師のポストを得た。1899年には、人類学の教授に昇進した。当時のアメリカの人類学は、モルガン以来の文化進化論が主流であり、ボアズはこれらの進化主義、人種主義を厳しく批判した。

1911年に” The Mind of Primitive Man “(未開人の心)の発表し、未開人も文明人もその心や知性は同等であり、その文化は平等であると唱え、台頭しつつあった人種差別主義と優生思想に対抗した。なお、ボアズはダーウィン進化論の支持者であったとされている。

ボアズはコロンビア大学で、ロバート・ローウィ、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミードなど、多くの弟子たちを指導した。ベネディクトの” The Chrysanthemum and the Sword”(菊と刀、1946)は、日本でもよく知られている。


The Chrysanthemum and the Sword

ボアズとその弟子たちは、20世紀のアメリカの人類学研究の中心的存在となり、長きにわたって大きな影響をおよぼした。

機能主義

機能主義では、社会は体系的に構造化されており、その機能体系は生物学的有機体に類似していると論じる。ユダヤ系フランス人で社会学者のデュルケム(1858-1917)は、機能主義的かつ進化論的立場をとっており、社会はさまざまな機能を有する部品からなり、それぞれの部品が進化して多様性を増すと考えていた。その後、ラドクリフ=ブラウンとマリノフスキは、進化論的立場をはなれ、同時代的な機能主義に純化していった。

ラドクリフ=ブラウン(1881-1955)はケンブリッジ大学で学び、アマンダン諸島とオーストラリアでフィールドワークを行ったのち、『アマンダン島人』(1922)として発表した。彼は、親族関係、宗教、政治などの社会制度は、個々の身体の器官のようであり、全体として健康な身体のように、社会体系の中で機能すると主張した(構造機能主義)。ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は、レヴィ=ストロースの構造主義人類学にも大きな影響を与えている。

なお、ラドクリフ=ブラウン自身は、自分が機能主義者であることを否定し、マリノフスキの機能概念と自分の機能概念を区別していたという。


Andamanese,1875

ブロニスワフ・マリノフスキ(1884-1942)は、ポーランド生まれで、父は貴族でスラブ語の教授であった(幼いうちに死んでいる)。大学で物理学と数学を学んだが、フレーザーの『金枝篇』を読んで影響を受け、民族学を志した。1910年からロンドンで学び、1914年にオーストラリアへ野外調査に出かけた。第一次世界大戦が始まったため、結果として6年間にわたってオーストラリアに滞在し、長期のフィールドワークを行った。1922年にトロブリアンド諸島の調査をまとめた『西太平洋の遠洋航海者』を発表すると、大きな反響を呼んだ。マリノフスキは、現地の言葉を用いて「参与観察」による長期のフィールドワークを始めて実施し、その後の人類学に大きな影響を与えた。


Picture of Bronislaw Malinowski with natives on Trobriand Islands(Author:likely Billy Hancock)

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農耕の起源と進歩主義・進化主義:Origin of agriculture and progressivism・evolutionism

農耕の起源をめぐる論争

農耕の起源をめぐっては、昔から激しい論争が交わされてきたし、現在も続いている。洋の東西を問わず、人間の社会は「野蛮」「未開」から「文明」に向かって「進歩」「発展」するという価値観と、それと反対の意見が存在する。人類学の分野でも、実証的な議論だけでは話が済まず、「人種」、「民族」、「宗教」、「文化」、「倫理」など、人によって立場や見解が異なる価値観が入り込む。

農耕の起源をめぐって、もっとも重要な学説の一つに、ゴードン・チャイルド(1892-1957)の「新石器革命」がある(文献1)。チャイルドの新石器革命論は、考古学、歴史学、言語学などの人類学に大きな影響を与えた一方で、強い反対意見がある。たとえば、ベストセラーになった、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(1997)では、農耕の起源について長々と書いているにもかかわらず、チャイルドの名前も新石器革命という言葉もまったく出てこない。(文献2)

オーストラリアの考古学者のピーター・ベルウッドは、『農耕起源の人類史』(2005)の序文で、そのあたりの事情を率直に吐露している。

「人類先史における農耕民の拡散の重要性を真剣に考え始めたのは1980年代のことである。その頃、ゴードン・チャイルドの『新石器革命』に反発する考古学者たちは、初期農耕は非常に時間がかかり、遅々として進まないものとみなしていた。世界中のすべての人々はそのはじまりからほとんど定住生活にちかい状態にあり、その文化的特徴は本質的に、それぞれが独立した起源地に生じ、その後ももっぱらその起源地周辺での発達によって変化をとげるという考えが、考古学徒たちのあいだでは支配的であった。西洋の学問において、とりわけ帝国主義時代に犯した罪への告発が強まった時代には、文化は本来進化し競いあうものであったが、差別への反省からか、さまざまな文化を鏡の表面のように均質なものにしてしまった・・」(文献3、翻訳の語順がややおかしいが・・)

ベルウッドの本の原題は、『First Farmers: The Origins of Agricultural Societies(最初の農民―農耕社会の起源)』である。しかし、「・・そうした農耕の中心地を列挙しようがしまいが、食料生産への依存度が増すに連れ人口集中を生み出す傾向にあり、最終的に人口拡散にいたると私は推測している。本書は農業起源それ自体よりも、農業がおこった結果についてあつかっている」と、タイトルにしている「農耕の起源」というよりも、「農耕の拡散」についての本であると述べている。さらに、「それでも私は確固たる意志をもてずにいた」と書き添えている。

これほどベルウッドが慎重に言葉を選んで、自説の発表をためらうのは、「同僚」の人類学者たちの、「進化主義」、「伝播主義」に対する根強い反発のためである。なお、ベルウッドがケンブリッジ大学で考古学を学んでいたときの学科長は、旧石器・中石器時代の考古学者として高名なグレイアム・クラーク(1907-1995)である。(後述)

日本人は、欧米の人類学者たちの厳しい論争の外にいるために、ベルウッドの逡巡を理解しにくい。『農耕起源の人類史』の監訳者の1人の佐藤洋一郎氏は、解題で次のように書いている。「農業を発明した人びとが、先住民と交流を繰り返しながら結果としてさまざまな言語を世界にひろめていった―これが本書の大きな仮説の一つである。・・しかしこの仮説には、『仮説』と大上段に構えるほどのインパクトがあるのだろうか。・・日本人であるわれわれにはこのことはさほど不思議なこととは思われない。というのも、日本人の多くは、弥生時代のはじめに大きな人の集団が水田稲作の技術と水稲をたずさえて渡来した、と考えてきたからである」(文献3)

進歩主義、進化主義

ヨーロッパで人間社会の進歩や発展についての思想が鮮明になるのは、ホッブズ、ロック、モンテスキュー、ルソーらをはじめとする17~18世紀の啓蒙思想である。なお、ホッブズ(1588-1679)の同時代には、デカルト(1596-1650)がおり、やや遅れてスピノザ(1632-1677)がいる。彼らは真理の源泉を神ではなく自然、理性、思考に求めた。そして、それ以前には、ガリレオ(1564-1642)やコペルニクス(1473-1543)がいる。

ホッブズは、人間の自然状態は闘争状態であり、自己保存のための暴力的な行動は自然権であるとした(『リヴァイアサン』1651)。

To this war of every man against every man, this also is consequent; that nothing can be unjust. The notions of right and wrong, justice and injustice, have there no place. Where there is no common power, there is no law; where no law, no injustice.
「すべての人に対する、すべての人の闘争は、これもまた必然である。それは不条理ではない。正しいと正しくない、正義と不正義の概念は、そこには存在しない。権力が存在しないところでは、法は存在しない。法が存在しないところでは、不正も存在しない」(文献4)

個々人が自然権を行使することの帰結は果てしない戦闘しかないので、理性によって個々の自然権を制限する自然法が導かれる。自然法に従って、人々は、各々が保持する自然権を一人の主権者に委ねることを契約すると説いた。


The frontispiece of the book Leviathan by Thomas Hobbes

一方、ルソー(1712-1778)は、自然状態の人間(野生人)は、子供のように無知で進歩しなかったが、理性を獲得すると農業や法律が発達し、不平等が生じたと論じた。(『人間不平等起源論』1755)

Let us conclude then that man in a state of nature, wandering up and down the forests, without industry, without speech, and without home, an equal stranger to war and to all ties, neither standing in need of his fellow−creatures nor having any desire to hurt them, and perhaps even not distinguishing them one from another・・・
「自然の状態の人間は、森の中をさまよい、勤勉さはなく、話さず、そして家庭もない。見知らぬ人と戦闘することも、結束することもない。仲間を必要とせず、誰かを傷つける欲求もなく、そして、おそらく互いを区別しないことさえある」(文献5)


Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité parmi les hommes

19世紀にはいると、フランスでは、サン・シモン(1760-1825)が社会主義を構想し(『産業階級の教理問答』1823)、その弟子のオーギュスト・コント(1798-1857)は社会構造の発展を理論化した(『実証哲学講義』1830)。コントの理論は、スペンサーやマルクスに強い影響を与えた。

同じころ、デンマークのクリスチャン・トムセン(1788-1865)は、石器時代→青銅器時代→鉄器時代の3時代区分を初めて提唱している(『北方古代文化入門』1836)。

イギリスでは、ハーバート・スペンサー(1820-1903)が『発達仮説』(1852)をはじめとする多くの論考を発表し、社会進化論を創始した。スペンサーは生物進化の理論を社会学に応用しようとした。

一方、牧師になるためにケンブリッジ大学で学んだダーウィン(1809-1882)は、1831年から1836年にかけてビーグル号の航海に参加した。ダーウィンは、それまでは、神による天地創造を信じていたが、航海中にチャールズ・ライエルの『地質学原理』を読み、地層や地形は長い時間をかけて変化することを知った。そして、神による生き物の創造説に疑念を持つようになり、動物や植物も時間をかけてわずかな変化が蓄積するのでないかと考えるようになった。1838年にはマルサスの『人口論』(1798-1826)を読み、また、スイスの植物学者のカンドールが提唱した「自然の戦争」の概念などから、自然選択の理論を得た。

Hence, as more individuals are produced than can possibly survive, there must in every case be a struggle for existence, either one individual with another of the same species, or with the individuals of distinct species, or with the physical conditions of life. It is the doctrine of Malthus applied with manifold force to the whole animal and vegetable kingdoms;
「したがって、生存可能な個体数より多くの個体が生産されるにつれて、同じ種の別の個体、または異なる種の個体、または生命の物理的状態と、生存のための闘争が存在しなければならない。これは、マルサスの理論であり、すべての動物界と植物界の多方面に、その理論を適用している」(文献6)

ダーウィンは、1859年に『種の起源』を発表したが、はじめは「進化」(evolution)という用語を用いておらず、「変異した系統」(descent with modification)という言い方をしていた。「evolution」は巻物を転がして広げるという意味だが、これを「進化」という意味で最初に使ったのはスペンサーである。「進化」(evolution)が、『種の起源』に登場するのは第6版からである。さらに、「適者生存」(survival of the fittest)もスペンサーが使用した用語であり、『種の起源』に登場するのは第5版からである。


Charles Darwin’s 1837 sketch, his first diagram of an evolutionary tree from his First Notebook on Transmutation of Species (1837). “I think case must be that one generation should have as many living as now. To do this and to have as many species in same genus (as is) requires extinction . Thus between A + B the immense gap of relation. C + B the finest gradation. B+D rather greater distinction. Thus genera would be formed. Bearing relation” (next page begins) “to ancient types with several extinct forms”

また、ドイツでは、ヘーゲル(1770-1831)が観念論哲学、弁証法的論理学、政治哲学を体系化した。ヘーゲル弁証法とフォイエルバッハの唯物論を継承したマルクス(1818-1883)は、『経済学批判』(1859)、『資本論』(1867)を発表して弁証法的唯物論を唱えた。

マルクスはダーウィンの『種の起源』を高く評価していたが、ダーウィンの進化論は、マルクスが毛嫌いした保守派のマルサスの『人口論』から生まれたことは皮肉である。

マルサス(1766-1834)は、プロテスタントの牧師であり、保守派の経済学者だったが、マルサスの父親は弁護士で植物学者のダニエル・マルサスで、ルソーとも親交があった啓蒙主義者であった。マルサスが『人口論』を書いたのは、自分の父親やニコラ・ド・コンドルセやウィリアム・ゴドウィンなど、啓蒙主義者や社会革命推進派への反論のためであった。コンドルセ(1743-1794)は、1789年のフランス革命ではパリ・コミューンに参加し、啓蒙主義者、共和主義者として当時を代表する思想家である。1795年に『人間精神進歩の歴史』を書いて、コントをはじめ19世紀の社会主義者に大きな影響を与えた。

このため、マルサスの『人口論』をもっとも激しく攻撃したのは、マルクスやプルードンをはじめとする社会主義者であった。とくにマルクスは『資本論』のなかで、マルサスを口汚く罵倒している。(文献7)

ダーウィンの『種の起源』は、生物学のみならず、社会学、考古学、民族学、人類学などに多大な影響を及ぼした。「新石器」という言葉を最初に使ったのは、ダーウィンと親交が深かった考古学者のジョン・ラボック(1834-1913)である。ラボックの生家の隣には、ダーウィンの住まいがあり、頻繁に行き来していた。ラボックは、ダーウィン進化論を人類の進化にも導入して、人間集団は、自然淘汰の結果、その文化のみならず、生物的な能力も変化すると主張した。そして、ヨーロッパの先史時代の石器の年代や製作技術の面から、「旧石器」、「新石器」という二つの段階を規定した(『先史時代』1865)。

なお、同じころにフランスのG・ド・モルティエ(1821-1898)も、ヨーロッパの先史時代には一つの文化的断絶があることを主張し、その相違を15項目にわたって列挙した。この主張は当時の学会に強烈な影響を与え、その後の多くの考古学者が、ヨーロッパの先史時代には、明確な断絶が存在すると考えるようになった。

人類学の草分けであるエドワード・バーネット・タイラー(1832-1917)は、ダーウィン進化論から敷衍して文化や宗教の進化(進歩)を想定した。タイラーは、宗教は最も原始的な自然崇拝から始まり、死者や呪物崇拝を経て多神教が成立し、最後に一神教へ進化したと論じた(『原始文化』1871)。

タイラーに影響を受けて人類学、民族学の道に進んだジェームズ・フレイザー(1854-1941)は、おびただしい数の未開社会の呪術、神話、信仰、風習、宗教を収集し、『金枝篇』(1890-1936)を著した。

アメリカではルイス・ヘンリー・モーガン(1818-1881)が、インディアンの民族学的な調査をもとに、『古代社会』(1877)を著した。モルガンは、人類の社会発展は、野蛮―未開―文明の三段階に分けられると主張し、アメリカの人種差別政策を正当化した。

エンゲルスは、『空想より科学へ』(1880)のなかで、「ダーウィンは、今日の一切の有機的自然、植物も動物もしたがってまた人間も、幾百万年にわたる絶え間ない進化の過程の産物であることを証明し、それによって自然についての形而上学的な見方に強烈な打撃を与えた」と書いている(文献8)。また、マルクスとエンゲルスは、モーガンの『古代社会』に大きな影響を受け、エンゲルスは、これをもとにして、『家族・私有財産・国家の起源』(1884)を書いた。

こうした、社会の進歩主義、進化主義の思想は、列強諸国の帝国主義政策、植民地支配、教化政策、イデオロギーの正当性を学問的に支えるものとなった。

さらに、ダーウィン進化論を、人間の改良にまで拡大解釈したのが優生学である。優生学という用語を初めて使ったのは、ダーウィンの従兄で、遺伝学、統計学者であったフランシス・ゴルトン(1822-1911)である。ゴルトンは、進化論をもとに、「遺伝的に優良」な人間の子孫を増やし、「劣悪」な人間は子孫を残さないようにすれば、より良い社会が実現できると主張した(『遺伝的天才』1869)。

その後、優生運動はアメリカ、イギリスで盛んになり、アメリカでは1907年に断種法が制定され、梅毒患者、性犯罪者、知的障害者らに対する断種が行われた。1930年代には、ナチスドイツの優生政策、人種政策に利用され、人類の尊厳と生存に甚大な被害を与えた。

文献
1)ゴードン・チャイルド、1936、文明の起源、岩波新書、1951
2)ジャレド・ダイアモンド、1997、銃・病原菌・鉄、草思社、2000
3)ピーター・ベルウッド、2004、農耕起源の人類史、京都大学学術出版会、2008
4)Thomas Hobbes, Leviathan, 1651(リヴァイアサン)
5)Jean-Jacques Rousseau, Discourse on Inequality, 1755(人間不平等起源論)
6)Charles Darwin, The Origin of Species, The sixth edition, 1872
7)Karl Marx, Capital, 1867
8)フリードリヒ・エンゲルス、1880、空想より科学へ、岩波文庫、1966

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