農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その5

前回に書いたことを、福岡さんのテキストから読み取ってみる。『無Ⅲ』には、自然農法の原則として、1、無耕耘(不耕起)、2、無肥料、3、無除草、4、無農薬の4つの原則があげられている。ふつうに本を読んだ人なら、この4つの原則に従う農法が自然農法と考えるであろう。しかし、『無Ⅲ』序章のいちばん最後の文章をみると、「『何もしない』が出発点であり、結論であり、手段ともなる。すなわち、楽で、たのしい百姓道に通ずる。『何もしない』無手勝流のダルマ農法であるから、不耕起、無肥料、無農薬、無除草が四大原則である」と書かれている。

これを読めば、「無知・無為の道」の自然農法には、「楽で、たのしい百姓道に通ずる」という、結果(目的)が存在していると読める。「何もしない」は、「出発点であり、結論であり、手段」にすぎない。

また、『無Ⅲ』の第2章「自然科学の幻想」において、福岡さんは、科学農法を多方面から批判しているが、よく読めば、「科学的分析知は部分的であり不完全知であり、それら不完全知をいくら集積しても完全知になることはない」と、科学の不完全性を指摘している(不可知論)。

さらに、「あとがき」では、「土壌学の横井教授が、私の田の土壌の変化は、常に気をつけて調査する価値があるが、解釈したり、今までの常識で批評してはならない、科学者は謙虚にただ黙って、土の変化を見ておればよい、と同伴の技術者にいつも注意しておられたことなどは異例のことである。科学の領域を知る人であった」、「緑肥が茂る中で、見事に出来た麦に素直に感激してくれた牧草の権威・川瀬先生や、麦の足もとにいく種かの雑草を見つけて嬉々として観察する古代植物史の広江先生の姿などは、私には嬉しいものであった」と、事実と観察を重視する科学者の姿勢を高く評価している。

そして、目の前の事実や現象には目を向けず、「科学の世界に、哲学や宗教をもちこむのは迷惑だ」と発言する「ある大学の教授」の態度を批判している。福岡さんが嫌悪したのは、近代科学のパラダイム、イデオロギーに疑問を持たず、そこに安住する、学者を名のる俗物だ。

福岡さんは、科学や理性に疑念をいだき、「知」とは何なのかを、徹底的に科学的に突き詰めようとしていた。その意味では、徹頭徹尾、「科学者」であったと思う。(福岡さんの項終わり。ここで書いたことはすべて個人的な見解であり、他の人が福岡さんのテキストをどのように読もうが私には関心がない。つづく)

beobaku
麦刈りあとを耕起せず、種もみを直播きして、麦わらで覆っておく(『イネの有機栽培』農文協より)

文献
福岡正信、(1985)、『無Ⅲ自然農法』、春秋社
トーマス・クーン、(1962)、『科学革命の構造』、みすず書房(1971)
マイケル・S・ガザニガ、(2010)、『人間らしさとはなにか? 』、インターシフト
リチャード・ドーキンス、(1976)、『利己的な遺伝子』、紀伊國屋書店、増補新装版(2006)

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投稿者: jcmswordp

著述、企画、編集。農家が教えるシリーズなど

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