農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その3

福岡さんの弟子は、2人しかいない。ギリシャで自然農法を実践しているパノス・マニキス氏と本間裕子さんだ。70~80年代の自然農園には大勢の研修生がいたが、福岡さんは、あるときから「男は、自然農法を理解できない」と言って、男性の弟子をいっさいとらなくなっていた。

本間さんは、大学院を卒業後に、埼玉県で和紙職人になるための修行をしていたが、コウゾ栽培のために畑仕事を体験するなかで、次第に農業に関心を持つようになった。1996年に福岡さんの講演を聞き、緑化活動を手伝ってくれる女性指導員を募集していること知った。福岡さんは、自分の活動を継ぐ者が一人もいないと訴えていた。本間さんは、自然農園に行くことを決心し、福岡さんに手紙を書いた。自然農園の山小屋での生活が始まったが、福岡さんはこのときすでに83歳で、脚も弱っており、歩いて自然農園まで行くことが出来なくなっていた。その後、本間さんと同じように女性指導員に応募した女性2人が加わったが、最後まで山小屋に残ったのは本間さんだけだった。

山小屋での生活は、荒れた小屋を修理することから始まったが、本間さんが与えられたもっとも重要な仕事は、割れない粘土団子を作ることだった。福岡さんは、「米麦連続不耕起直播」の種播きに、はじめは円盤型直播機を使用していたが、機械を使用しなくてもできる、粘土団子による播種法の研究を続けていた。粘土団子は、製造がうまくいかないときは、1回雨が降るだけで団子が簡単に壊れてしまい、種もみを鳥やネズミに食べられてしまう。本間さんは何もノウハウが無いし、福岡さんは何もアドバイスしてくれないので、まったくの手探り状態で、雨にあたっても割れない粘土団子の製作法に取り組んだ。

本間さんは、「米麦連続不耕起直播」の栽培法を福岡さんから教わった。福岡さんの息子さんは有機農家で、稲作も大規模に経営している。その田んぼの一角に、福岡さんが育成した米の品種であるハッピーヒルの採種のための田んぼをもうけていた。イネ以外にも、自分が食べるための野菜を栽培し、余ったものを地元の農産物直売所で販売した。本間さんは96年から2年間、山小屋で生活したが、その後、福岡さんを手伝って緑化運動にたずさわるようになった。

私が会ったころは、福岡さんの活動を直接に支えていたのは、本間さんと山小屋で一緒に生活していたもう一人の女性だけだった。福岡さんは、その少し前に、アメリカのアグリビジネスや日本の団体との間で、知的財産権をめぐるトラブルにまきこまれそうになったため、著作などの知財についてかなり神経質になっていたようだ。福岡さんが粘土団子の特許をとったり、ハッピーヒルを品種登録したりしたのも、知財が企業や団体に占有されることを恐れためだ。当時、自分の本を出版していた版元に対しても、自然農法を普及するためではなく、儲けるためだけに売っていると言って、著作の増刷さえもストップしていた。(お名前など当時のまま、つづく)

粘土
粘土団子を作るための簡易な装置。自転車を利用している(2003年10月)

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投稿者: jcmswordp

著述、企画、編集。農家が教えるシリーズ(農文協)など

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