「窒素(硝酸イオン)が多いとなぜ作物はおいしくないのだろうか?」の解説、その1

先日、「窒素(硝酸イオン)が多いとなぜ作物はおいしくないのだろうか?」を書いた。短い文章なので、なかなかうまく伝わらないのであろうが、ほんとうは、この文章には、いくつもの、世間や農業界に流布している「常識」に対する、私の長年の「疑問」が含まれている。もとは、その前に書いた「腐植の成り立ちと機能」から続く文章だ。文章が短いのは、くわしく、一冊の本になるほど書いても、文章で生活している私には、一銭の得にもならないから。本を作ったとしても、そんな本を買う人はほとんどおらず、出版しても赤字になるので、出版社は出版しない。雑誌などに投稿しても、しぼりだすように書いた文章の原稿料はすずめの涙で腹が立つだけで書かないほうがましだ。お金にできないので、ただのブログに適当に書いている。(下品で無駄口が多すぎた)

かなり専門的な農業書であっても、市販されている肥料や土壌の本には、「腐植は、粘土鉱物と同様に陽イオン交換を行ない、各種の金属イオンと錯体を形成して陽イオン交換容量(CEC)を高める」のようなことが書いてある。作物の養分となる陽イオンはアンモニウムイオン、カリウムイオン、カルシウムイオン、マグネシウムイオンなど、と教科書に書いてあるので、これを続けて読めば、腐植が多い土壌は、アンモニウムイオンやカルシウムイオンをしっかり保持して、保肥力が高くなると誰でも思うであろう。

これは本当にそうなのか?とずっと疑問に思っていた。

じっさいの現象としては、日本では腐植率の高い黒ボク土壌であっても、腐植率がきわめて高いアメリカのプレーリー土であっても、窒素の流亡が大問題になっている。地下水や河川を汚染するということで、環境を気にする消費者から、化学肥料と慣行農家が目の敵にされる。難解な農芸化学など理解不能(私でも難しい)な一部の消費者は、化学肥料を使わず堆肥を使えばいいのにといい、有機農家を聖人かなにかのようにあつかう。農業のことに詳しい人なら、「なんかおかしい」と思うはずだが、ふつうの役人は世間体と保身が一番大事なので、何も言わずうけながす。

この「腐植信仰」、「堆肥信仰」のもとになっている、腐植のことをもう一回、調べなおすことにした。日本に限らず、世界でも腐植の研究をしている研究者はごくわずかしかいない(金にならないから)。熊田恭一先生の本が出版されたのは1981年だし、筒木潔先生の本は1994年でしかも単著ではない。もうずいぶん昔の本であるが、こんなマニアックな本は世間の人のみならず、農業の研究者でもごく一部の土壌の専門家以外はほとんど読んでいないのではないだろうか。入手することさえ難しい。

九州大学の和田信一郎先生が、最近、学生のために書かれた教科書をサイトにあげておられ、その解説には、「腐植酸やフルボ酸は多量のカルボキシ基を持っている.土壌中ではこれらの大部分はアルミニウムイオン,鉄イオンなどの多価金属イオンと結合して安定な錯体を形成している.しかし一部のカルボキシ基は遊離であり,土壌のpHによっては,カルシウムイオン,マグネシウムイオン,カリウムイオンなどを保持する.また,カルボキシ基は銅イオン,亜鉛イオンなどの微量必須元素とも安定な錯体を形成する.腐植物質のカルボキシ基は弱酸的であり,通常の土壌pHでの解離度は大きくない.そのため,アルカリ土類金属やアルカリ金属,アンモニウムイオンなどの保持への寄与はあまり大きいとは言えない.しかし,安定な錯体を作る銅や亜鉛などの遷移金属イオンの保持に対する寄与は大きい」とある。

なんだ、やっぱりそうだったんだと思った。(仕事に追われているので、つづく)

引用文献
和田信一郎、(2015)、土壌学
http://sky.geocities.jp/alloimo/

農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その5

前回に書いたことを、福岡さんのテキストから読み取ってみる。『無Ⅲ』には、自然農法の原則として、1、無耕耘(不耕起)、2、無肥料、3、無除草、4、無農薬の4つの原則があげられている。ふつうに本を読んだ人なら、この4つの原則に従う農法が自然農法と考えるであろう。しかし、『無Ⅲ』序章のいちばん最後の文章をみると、「『何もしない』が出発点であり、結論であり、手段ともなる。すなわち、楽で、たのしい百姓道に通ずる。『何もしない』無手勝流のダルマ農法であるから、不耕起、無肥料、無農薬、無除草が四大原則である」と書かれている。

これを読めば、「無知・無為の道」の自然農法には、「楽で、たのしい百姓道に通ずる」という、結果(目的)が存在していると読める。「何もしない」は、「出発点であり、結論であり、手段」にすぎない。

また、『無Ⅲ』の第2章「自然科学の幻想」において、福岡さんは、科学農法を多方面から批判しているが、よく読めば、「科学的分析知は部分的であり不完全知であり、それら不完全知をいくら集積しても完全知になることはない」と、科学の不完全性を指摘している(不可知論)。

さらに、「あとがき」では、「土壌学の横井教授が、私の田の土壌の変化は、常に気をつけて調査する価値があるが、解釈したり、今までの常識で批評してはならない、科学者は謙虚にただ黙って、土の変化を見ておればよい、と同伴の技術者にいつも注意しておられたことなどは異例のことである。科学の領域を知る人であった」、「緑肥が茂る中で、見事に出来た麦に素直に感激してくれた牧草の権威・川瀬先生や、麦の足もとにいく種かの雑草を見つけて嬉々として観察する古代植物史の広江先生の姿などは、私には嬉しいものであった」と、事実と観察を重視する科学者の姿勢を高く評価している。

そして、目の前の事実や現象には目を向けず、「科学の世界に、哲学や宗教をもちこむのは迷惑だ」と発言する「ある大学の教授」の態度を批判している。福岡さんが嫌悪したのは、近代科学のパラダイム、イデオロギーに疑問を持たず、そこに安住する、学者を名のる俗物だ。

福岡さんは、科学や理性に疑念をいだき、「知」とは何なのかを、徹底的に科学的に突き詰めようとしていた。その意味では、徹頭徹尾、「科学者」であったと思う。(福岡さんの項終わり。ここで書いたことはすべて個人的な見解であり、他の人が福岡さんのテキストをどのように読もうが私には関心がない。つづく)

beobaku
麦刈りあとを耕起せず、種もみを直播きして、麦わらで覆っておく(『イネの有機栽培』農文協より)

文献
福岡正信、(1985)、『無Ⅲ自然農法』、春秋社
トーマス・クーン、(1962)、『科学革命の構造』、みすず書房(1971)
マイケル・S・ガザニガ、(2010)、『人間らしさとはなにか? 』、インターシフト
リチャード・ドーキンス、(1976)、『利己的な遺伝子』、紀伊國屋書店、増補新装版(2006)

農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その4

2003年に福岡さんは、茨城県の自然農法の勉強グループの依頼で、茨城県にやってきた。茨城県阿見町の浅野祐一さんの自宅で粘土団子の製作法を教え、浅野さんの畑を視察して、休耕田を米麦連続不耕起直播の田んぼにする方法の指導を行った。そのときに私も同行させてもらって、さまざまな話を聞かせてもらった。

じつは、私は20年くらい前(1997年か98年ごろ)に、自然農法を始めたばかりのころの浅野さんに会って、話を聞いたことがあった。もともと浅野さんは、竹林なども含めると、耕作面積がかなり広い露地野菜農家であった。奥さんと2人で、柿、タケノコ、野菜などを栽培して、茨城県ではめずらしいのだが、農産物をトラックに積んで近所の住宅地で引き売りをする経営だった。ところが、おじいさんが病気になり、1日おきに病院に連れていかなければならなくなった。広い畑をまわすことができなくなり、窮余の策として、かねてから関心があった、自然農法のやり方で作物を栽培するようになった(97年)。ちょうどそのころに、茨城県には、自然農法の勉強会ができていて、30人くらいのメンバーがいた。会社員、学生、定年して家庭菜園を楽しむ人などさまざまな人がいたが、専業農家は浅野さんだけだった。

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粘土団子を作る装置(2003年)

浅野さんの自然農法の方法は、福岡さんの本を読んで、できるだけテキストに忠実に行うというものだ。粘土団子も本をたよりに、自分で工夫して作っていた。ただし、畑が広くて分散しているために、本にあるように粘土団子を適当にあちらこちらにバラ撒くと、どこに何の種を播いたのか忘れてしまう。収穫のときにとても困るので、適当にバラ撒くのではなく、ある程度場所を決めて、作物によってはスジ播きに粘土団子を撒いていた。また、露地ナスは、友達のナス農家が作った接木苗の余りをもらってきて定植していた。

浅野さんの話では、自然農法に変えてから、トラクターや管理機などの機械はまったく不要になり、農薬も肥料も使わないので、農業の経費はほとんどかからなくなったとのことだった。使用する機械は引き売りに使う軽トラだけで、かかる経費は、車のガソリン代だけだと言っていた。経営的には、奥さんと2人の作業で、年間所得200万円ほどだった(97~98年ごろ)。私は、北海道から沖縄まで全国の農村をまわったが、福岡さんのテキストどおりの栽培方法だけで、専業農家として経営が成り立っている農家に初めて出会った(趣味家の人は大勢いる)。それで、とても驚いたことをはっきりと覚えている。

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浅野さんの畑(2003年)

2003年に福岡さんに話を聞いたときに、「自然農法は、テレビで放送されたりしてさんざん注目されたのに、自然農法はどこにもない。自分の子供でもやらない」と嘆いていた。しかし、浅野さんの畑を見てまわっているときの福岡さんは、終始満足そうで、浅野さんがここはどうすればいいのかとたずねると、「このままでいい」と何度もうなずいていた。畑を遠くからながめながら、「ここに自然農園があるじゃないか」とも言っていた。

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浅野さんの畑(2003年)

福岡さんの主著のひとつである、『無Ⅲ』の第1章には、農業技術の近代化によって農民が窮乏し、農村が衰退していくことが繰り返し書かれている。「機械化田植えは、百姓を楽にするものでなく、百姓を別の労働に駆り出しただけのことである」、「二、三〇〇ヘクタールを耕作する米国農民の収益性が日本の一、二ヘクタール百姓より劣り、その生活ぶりも質素である」、「現在とられている多収穫栽培技術の大半は、純利益の増加に結びつかない」、「科学農法による省力化は、農業からの離職化にすぎない」など。(もちろん、こうした農業の近代化は、経済学者が指摘するように、「食糧に支払う金額が少なくすむ消費者にとっては確実に有利」であり、社会全体で見た場合には「豊か」になったこともまた事実である)

若き日の福岡さんの懊悩の背景には、精力を注いでいる学問の研究は、結局は自分の功名心にすぎず、困窮する農民、衰退する農村とは何の関係もないという思いがあったのではないだろうか(もともと、福岡さんはダンスホールで歌手の淡谷のり子にダンスを申し込むほど、自己顕示欲の強い若者でもあった)。

自然農法の思想の背景には、機械、肥料、農薬を買うことができない貧しい農家の助けになるという気持ちがあったはずだ。浅野さんの農家らしい顔つきや、体つきや、家や納屋や暮らしぶりや畑を見て、そのことを福岡さんが即座に感じ取ったからこそ、「ただ暮らすためだけ」に、忠実に自然農法を実践する浅野さんの畑をあれほどほめたのではないだろうか。

じつは20年前に、浅野さんの畑に行ったとき、草に埋もれて大根やらニンジンやらがあちらこちらに生えているのだが、土を見ようと草をかきわけると、以前に使ったマルチが畑全体に敷きっ放しだった。そのときの浅野さんには、マルチをはぐ余力も残っていなかった。

福岡さんが、浅野さんや私の質問に答えるときの態度は、テレビの中でインタビュアーに答える宗教家や思想家のような福岡さんではなく、まさに農業技術者の態度そのものであった。福岡さんの答えは、きわめて合理的かつ明晰で、質問に対して間髪をいれずに答えていた。

たとえば、福岡さんに、草ぼうぼうの休耕田の雑草対策についてたずねると、「田んぼの中に草の穂が見えたら、ただちに穂を刈り取る。雑草の種がこぼれてしまうと草を減らすことはできない。セイタカアワダチソウのような宿根草の場合は、上を刈っても地下に根が残るので、2~3年かかる」と言ったすぐあとに、「そんな手間がないときは、最初の1~2年は除草剤を使ってもいい」と言う。

福岡さんにとって、自分が見つけ出した自然農法の原則は、目の前の農家の労苦より優先というわけではない。じっさい、『無Ⅲ』には、「最小限度の農薬使用」として、わざわざ農薬の使い方まで書いてある。私が会って話を聞いた福岡さんは、事実と実践を重んじる農業技術者であり、農家の暮らしをおもんばかる農業指導者そのものだった。(つづく)

引用文献
福岡正信、1985、『無Ⅲ自然農法』、春秋社

農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その3

福岡さんの弟子は、2人しかいない。ギリシャで自然農法を実践しているパノス・マニキス氏と本間裕子さんだ。70~80年代の自然農園には大勢の研修生がいたが、福岡さんは、あるときから「男は、自然農法を理解できない」と言って、男性の弟子をいっさいとらなくなっていた。

本間さんは、大学院を卒業後に、埼玉県で和紙職人になるための修行をしていたが、コウゾ栽培のために畑仕事を体験するなかで、次第に農業に関心を持つようになった。1996年に福岡さんの講演を聞き、緑化活動を手伝ってくれる女性指導員を募集していること知った。福岡さんは、自分の活動を継ぐ者が一人もいないと訴えていた。本間さんは、自然農園に行くことを決心し、福岡さんに手紙を書いた。自然農園の山小屋での生活が始まったが、福岡さんはこのときすでに83歳で、脚も弱っており、歩いて自然農園まで行くことが出来なくなっていた。その後、本間さんと同じように女性指導員に応募した女性2人が加わったが、最後まで山小屋に残ったのは本間さんだけだった。

山小屋での生活は、荒れた小屋を修理することから始まったが、本間さんが与えられたもっとも重要な仕事は、割れない粘土団子を作ることだった。福岡さんは、「米麦連続不耕起直播」の種播きに、はじめは円盤型直播機を使用していたが、機械を使用しなくてもできる、粘土団子による播種法の研究を続けていた。粘土団子は、製造がうまくいかないときは、1回雨が降るだけで団子が簡単に壊れてしまい、種もみを鳥やネズミに食べられてしまう。本間さんは何もノウハウが無いし、福岡さんは何もアドバイスしてくれないので、まったくの手探り状態で、雨にあたっても割れない粘土団子の製作法に取り組んだ。

本間さんは、「米麦連続不耕起直播」の栽培法を福岡さんから教わった。福岡さんの息子さんは有機農家で、稲作も大規模に経営している。その田んぼの一角に、福岡さんが育成した米の品種であるハッピーヒルの採種のための田んぼをもうけていた。イネ以外にも、自分が食べるための野菜を栽培し、余ったものを地元の農産物直売所で販売した。本間さんは96年から2年間、山小屋で生活したが、その後、福岡さんを手伝って緑化運動にたずさわるようになった。

私が会ったころは、福岡さんの活動を直接に支えていたのは、本間さんと山小屋で一緒に生活していたもう一人の女性だけだった。福岡さんは、その少し前に、アメリカのアグリビジネスや日本の団体との間で、知的財産権をめぐるトラブルにまきこまれそうになったため、著作などの知財についてかなり神経質になっていたようだ。福岡さんが粘土団子の特許をとったり、ハッピーヒルを品種登録したりしたのも、知財が企業や団体に占有されることを恐れためだ。当時、自分の本を出版していた版元に対しても、自然農法を普及するためではなく、儲けるためだけに売っていると言って、著作の増刷さえもストップしていた。(お名前など当時のまま、つづく)

粘土
粘土団子を作るための簡易な装置。自転車を利用している(2003年10月)