「窒素(硝酸イオン)が多いとなぜ作物はおいしくないのだろうか?」の解説、その1

先日、「窒素(硝酸イオン)が多いとなぜ作物はおいしくないのだろうか?」を書いた。短い文章なので、なかなかうまく伝わらないのであろうが、ほんとうは、この文章には、いくつもの、世間や農業界に流布している「常識」に対する、私の長年の「疑問」が含まれている。もとは、その前に書いた「腐植の成り立ちと機能」から続く文章だ。文章が短いのは、くわしく、一冊の本になるほど書いても、文章で生活している私には、一銭の得にもならないから。本を作ったとしても、そんな本を買う人はほとんどおらず、出版しても赤字になるので、出版社は出版しない。雑誌などに投稿しても、しぼりだすように書いた文章の原稿料はすずめの涙で腹が立つだけで書かないほうがましだ。お金にできないので、ただのブログに適当に書いている。(下品で無駄口が多すぎた)

かなり専門的な農業書であっても、市販されている肥料や土壌の本には、「腐植は、粘土鉱物と同様に陽イオン交換を行ない、各種の金属イオンと錯体を形成して陽イオン交換容量(CEC)を高める」のようなことが書いてある。作物の養分となる陽イオンはアンモニウムイオン、カリウムイオン、カルシウムイオン、マグネシウムイオンなど、と教科書に書いてあるので、これを続けて読めば、腐植が多い土壌は、アンモニウムイオンやカルシウムイオンをしっかり保持して、保肥力が高くなると誰でも思うであろう。

これは本当にそうなのか?とずっと疑問に思っていた。マイナスイオンの硝酸イオンは保持しにくいから、流亡しやすいのはわかるが、もし、腐植が電気的にしっかりとアンモニウムイオンを保持しているのであれば、硝化菌はあれほど簡単に窒素を硝化することができないのではないだろうか?

じっさいの現象としては、日本では腐植率の高い黒ボク土壌であっても、腐植率がきわめて高いアメリカのプレーリー土であっても、窒素の流亡が大問題になっている。地下水や河川を汚染するということで、環境を気にする消費者から、化学肥料と慣行農家が目の敵にされる。難解な農芸化学など理解不能(私でも難しい)な一部の消費者は、化学肥料を使わず堆肥を使えばいいのにといい、有機農家を聖人かなにかのようにあつかう。農業のことに詳しい人なら、「なんかおかしい」と思うはずだが、ふつうの役人は世間体と保身が一番大事なので、何も言わずうけながす。

この「腐植信仰」、「堆肥信仰」のもとになっている、腐植のことをもう一回、調べなおすことにした。日本に限らず、世界でも腐植の研究をしている研究者はごくわずかしかいない(金にならないから)。熊田恭一先生の本が出版されたのは1981年だし、筒木潔先生の本は1994年でしかも単著ではない。もうずいぶん昔の本であるが、こんなマニアックな本は世間の人のみならず、農業の研究者でもごく一部の土壌の専門家以外はほとんど読んでいないのではないだろうか。入手することさえ難しい。

九州大学の和田信一郎先生が、最近、学生のために書かれた教科書をサイトにあげておられ、その解説には、「腐植酸やフルボ酸は多量のカルボキシ基を持っている.土壌中ではこれらの大部分はアルミニウムイオン,鉄イオンなどの多価金属イオンと結合して安定な錯体を形成している.しかし一部のカルボキシ基は遊離であり,土壌のpHによっては,カルシウムイオン,マグネシウムイオン,カリウムイオンなどを保持する.また,カルボキシ基は銅イオン,亜鉛イオンなどの微量必須元素とも安定な錯体を形成する.腐植物質のカルボキシ基は弱酸的であり,通常の土壌pHでの解離度は大きくない.そのため,アルカリ土類金属やアルカリ金属,アンモニウムイオンなどの保持への寄与はあまり大きいとは言えない.しかし,安定な錯体を作る銅や亜鉛などの遷移金属イオンの保持に対する寄与は大きい」とある。

なんだ、やっぱりそうだったんだと思った。(仕事に追われているので、つづく)

 

引用文献

和田信一郎、(2015)、土壌学

http://sky.geocities.jp/alloimo/

農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その5

前回に書いたことを、福岡さんのテキストから読み取ってみる。『無Ⅲ』には、自然農法の原則として、1、無耕耘(不耕起)、2、無肥料、3、無除草、4、無農薬の4つの原則があげられている。ふつうに本を読んだ人なら、この4つの原則に従う農法が自然農法と考えるであろう。しかし、『無Ⅲ』序章のいちばん最後の文章をみると、「『何もしない』が出発点であり、結論であり、手段ともなる。すなわち、楽で、たのしい百姓道に通ずる。『何もしない』無手勝流のダルマ農法であるから、不耕起、無肥料、無農薬、無除草が四大原則である」と書かれている。

これを読めば、「無知・無為の道」の自然農法には、「楽で、たのしい百姓道に通ずる」という、結果(目的)が存在していると読める。「何もしない」は、「出発点であり、結論であり、手段」にすぎない。

また、『無Ⅲ』の第2章「自然科学の幻想」において、福岡さんは、科学農法を多方面から批判しているが、よく読めば、「科学的分析知は部分的であり不完全知であり、それら不完全知をいくら集積しても完全知になることはない」と、科学の不完全性を指摘している(不可知論)。

さらに、「あとがき」では、「土壌学の横井教授が、私の田の土壌の変化は、常に気をつけて調査する価値があるが、解釈したり、今までの常識で批評してはならない、科学者は謙虚にただ黙って、土の変化を見ておればよい、と同伴の技術者にいつも注意しておられたことなどは異例のことである。科学の領域を知る人であった」、「緑肥が茂る中で、見事に出来た麦に素直に感激してくれた牧草の権威・川瀬先生や、麦の足もとにいく種かの雑草を見つけて嬉々として観察する古代植物史の広江先生の姿などは、私には嬉しいものであった」と、事実と観察を重視する科学者の姿勢を高く評価している。

そして、目の前の事実や現象には目を向けず、「科学の世界に、哲学や宗教をもちこむのは迷惑だ」と発言する「ある大学の教授」の態度を批判している。福岡さんが嫌悪したのは、近代科学のパラダイム、イデオロギーに疑問を持たず、そこに安住する、学者を名のる俗物だ。

福岡さんは、科学や理性に疑念をいだき、「知」とは何なのかを、徹底的に科学的に突き詰めようとしていた。その意味では、徹頭徹尾、「科学者」であったと思う。(福岡さんの項終わり。ここで書いたことはすべて個人的な見解であり、他の人が福岡さんのテキストをどのように読もうが私には関心がない。つづく)

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麦刈りあとを耕起せず、種もみを直播きして、麦わらで覆っておく(『イネの有機栽培』農文協より)

文献
福岡正信、(1985)、『無Ⅲ自然農法』、春秋社
トーマス・クーン、(1962)、『科学革命の構造』、みすず書房(1971)
マイケル・S・ガザニガ、(2010)、『人間らしさとはなにか? 』、インターシフト
リチャード・ドーキンス、(1976)、『利己的な遺伝子』、紀伊國屋書店、増補新装版(2006)

農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その4

2003年に福岡さんは、茨城県の自然農法の勉強グループの依頼で、茨城県にやってきた。茨城県阿見町の浅野祐一さんの自宅で粘土団子の製作法を教え、浅野さんの畑を視察して、休耕田を米麦連続不耕起直播の田んぼにする方法の指導を行った。そのときに私も同行させてもらって、さまざまな話を聞かせてもらった。

じつは、私は20年くらい前(1997年か98年ごろ)に、自然農法を始めたばかりのころの浅野さんに会って、話を聞いたことがあった。もともと浅野さんは、竹林なども含めると、耕作面積がかなり広い露地野菜農家であった。奥さんと2人で、柿、タケノコ、野菜などを栽培して、茨城県ではめずらしいのだが、農産物をトラックに積んで近所の住宅地で引き売りをする経営だった。ところが、おじいさんが病気になり、1日おきに病院に連れていかなければならなくなった。広い畑をまわすことができなくなり、窮余の策として、かねてから関心があった、自然農法のやり方で作物を栽培するようになった(97年)。ちょうどそのころに、茨城県には、自然農法の勉強会ができていて、30人くらいのメンバーがいた。会社員、学生、定年して家庭菜園を楽しむ人などさまざまな人がいたが、専業農家は浅野さんだけだった。

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粘土団子を作る装置(2003年)

浅野さんの自然農法の方法は、福岡さんの本を読んで、できるだけテキストに忠実に行うというものだ。粘土団子も本をたよりに、自分で工夫して作っていた。ただし、畑が広くて分散しているために、本にあるように粘土団子を適当にあちらこちらにバラ撒くと、どこに何の種を播いたのか忘れてしまう。収穫のときにとても困るので、適当にバラ撒くのではなく、ある程度場所を決めて、作物によってはスジ播きに粘土団子を撒いていた。また、露地ナスは、友達のナス農家が作った接木苗の余りをもらってきて定植していた。

浅野さんの話では、自然農法に変えてから、トラクターや管理機などの機械はまったく不要になり、農薬も肥料も使わないので、農業の経費はほとんどかからなくなったとのことだった。使用する機械は引き売りに使う軽トラだけで、かかる経費は、車のガソリン代だけだと言っていた。経営的には、奥さんと2人の作業で、年間所得200万円ほどだった(97~98年ごろ)。私は、北海道から沖縄まで全国の農村をまわったが、福岡さんのテキストどおりの栽培方法だけで、専業農家として経営が成り立っている農家に初めて出会った(趣味家の人は大勢いる)。それで、とても驚いたことをはっきりと覚えている。

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浅野さんの畑(2003年)

2003年に福岡さんに話を聞いたときに、「自然農法は、テレビで放送されたりしてさんざん注目されたのに、自然農法はどこにもない。自分の子供でもやらない」と嘆いていた。しかし、浅野さんの畑を見てまわっているときの福岡さんは、終始満足そうで、浅野さんがここはどうすればいいのかとたずねると、「このままでいい」と何度もうなずいていた。畑を遠くからながめながら、「ここに自然農園があるじゃないか」とも言っていた。

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浅野さんの畑(2003年)

福岡さんの主著のひとつである、『無Ⅲ』の第1章には、農業技術の近代化によって農民が窮乏し、農村が衰退していくことが繰り返し書かれている。「機械化田植えは、百姓を楽にするものでなく、百姓を別の労働に駆り出しただけのことである」、「二、三〇〇ヘクタールを耕作する米国農民の収益性が日本の一、二ヘクタール百姓より劣り、その生活ぶりも質素である」、「現在とられている多収穫栽培技術の大半は、純利益の増加に結びつかない」、「科学農法による省力化は、農業からの離職化にすぎない」など。(もちろん、こうした農業の近代化は、経済学者が指摘するように、「食糧に支払う金額が少なくすむ消費者にとっては確実に有利」であり、社会全体で見た場合には「豊か」になったこともまた事実である)

若き日の福岡さんの懊悩の背景には、精力を注いでいる学問の研究は、結局は自分の功名心にすぎず、困窮する農民、衰退する農村とは何の関係もないという思いがあったのではないだろうか(もともと、福岡さんはダンスホールで歌手の淡谷のり子にダンスを申し込むほど、自己顕示欲の強い若者でもあった)。

自然農法の思想の背景には、機械、肥料、農薬を買うことができない貧しい農家の助けになるという気持ちがあったはずだ。浅野さんの農家らしい顔つきや、体つきや、家や納屋や暮らしぶりや畑を見て、そのことを福岡さんが即座に感じ取ったからこそ、「ただ暮らすためだけ」に、忠実に自然農法を実践する浅野さんの畑をあれほどほめたのではないだろうか。

じつは20年前に、浅野さんの畑に行ったとき、草に埋もれて大根やらニンジンやらがあちらこちらに生えているのだが、土を見ようと草をかきわけると、以前に使ったマルチが畑全体に敷きっ放しだった。そのときの浅野さんには、マルチをはぐ余力も残っていなかった。

福岡さんが、浅野さんや私の質問に答えるときの態度は、テレビの中でインタビュアーに答える宗教家や思想家のような福岡さんではなく、まさに農業技術者の態度そのものであった。福岡さんの答えは、きわめて合理的かつ明晰で、質問に対して間髪をいれずに答えていた。

たとえば、福岡さんに、草ぼうぼうの休耕田の雑草対策についてたずねると、「田んぼの中に草の穂が見えたら、ただちに穂を刈り取る。雑草の種がこぼれてしまうと草を減らすことはできない。セイタカアワダチソウのような宿根草の場合は、上を刈っても地下に根が残るので、2~3年かかる」と言ったすぐあとに、「そんな手間がないときは、最初の1~2年は除草剤を使ってもいい」と言う。

福岡さんにとって、自分が見つけ出した自然農法の原則は、目の前の農家の労苦より優先というわけではない。じっさい、『無Ⅲ』には、「最小限度の農薬使用」として、わざわざ農薬の使い方まで書いてある。私が会って話を聞いた福岡さんは、事実と実践を重んじる農業技術者であり、農家の暮らしをおもんばかる農業指導者そのものだった。(つづく)

引用文献
福岡正信、1985、『無Ⅲ自然農法』、春秋社

農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その3

福岡さんの弟子は、2人しかいない。ギリシャで自然農法を実践しているパノス・マニキス氏と本間裕子さんだ。70~80年代の自然農園には大勢の研修生がいたが、福岡さんは、あるときから「男は、自然農法を理解できない」と言って、男性の弟子をいっさいとらなくなっていた。

本間さんは、大学院を卒業後に、埼玉県で和紙職人になるための修行をしていたが、コウゾ栽培のために畑仕事を体験するなかで、次第に農業に関心を持つようになった。1996年に福岡さんの講演を聞き、緑化活動を手伝ってくれる女性指導員を募集していること知った。福岡さんは、自分の活動を継ぐ者が一人もいないと訴えていた。本間さんは、自然農園に行くことを決心し、福岡さんに手紙を書いた。自然農園の山小屋での生活が始まったが、福岡さんはこのときすでに83歳で、脚も弱っており、歩いて自然農園まで行くことが出来なくなっていた。その後、本間さんと同じように女性指導員に応募した女性2人が加わったが、最後まで山小屋に残ったのは本間さんだけだった。

山小屋での生活は、荒れた小屋を修理することから始まったが、本間さんが与えられたもっとも重要な仕事は、割れない粘土団子を作ることだった。福岡さんは、「米麦連続不耕起直播」の種播きに、はじめは円盤型直播機を使用していたが、機械を使用しなくてもできる、粘土団子による播種法の研究を続けていた。粘土団子は、製造がうまくいかないときは、1回雨が降るだけで団子が簡単に壊れてしまい、種もみを鳥やネズミに食べられてしまう。本間さんは何もノウハウが無いし、福岡さんは何もアドバイスしてくれないので、まったくの手探り状態で、雨にあたっても割れない粘土団子の製作法に取り組んだ。

本間さんは、「米麦連続不耕起直播」の栽培法を福岡さんから教わった。福岡さんの息子さんは有機農家で、稲作も大規模に経営している。その田んぼの一角に、福岡さんが育成した米の品種であるハッピーヒルの採種のための田んぼをもうけていた。イネ以外にも、自分が食べるための野菜を栽培し、余ったものを地元の農産物直売所で販売した。本間さんは96年から2年間、山小屋で生活したが、その後、福岡さんを手伝って緑化運動にたずさわるようになった。

私が会ったころは、福岡さんの活動を直接に支えていたのは、本間さんと山小屋で一緒に生活していたもう一人の女性だけだった。福岡さんは、その少し前に、アメリカのアグリビジネスや日本の団体との間で、知的財産権をめぐるトラブルにまきこまれそうになったため、著作などの知財についてかなり神経質になっていたようだ。福岡さんが粘土団子の特許をとったり、ハッピーヒルを品種登録したりしたのも、知財が企業や団体に占有されることを恐れためだ。当時、自分の本を出版していた版元に対しても、自然農法を普及するためではなく、儲けるためだけに売っていると言って、著作の増刷さえもストップしていた。(お名前など当時のまま、つづく)

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粘土団子を作るための簡易な装置。自転車を利用している(2003年10月)

農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その2

福岡さんの『わら一本の革命』は、若いころに読んだが、当時は、福岡さんはマスコミに宗教家とか思想家のような扱いをうけていたので(現在も)、宗教にまったく関心がなかった自分にはあまりなじめなかったのだと思う。内容もほとんど覚えていなかった。

福岡さんに関心をもつようになったのは、農業にかかわるようになって、ずいぶんあとのことだ。農業のことをいろいろと知るようになってくると、日本の農業において、いかに福岡さんの影響が大きいかに気がつく。有機農業についてはいうまでもないが、有機農業以外の農業技術についてもじつに多くの影響を与えている。しかもそれらはみな、きわめて現代的な技術だ。

福岡さんは、1913年に愛媛県伊予市の富農に生まれ、岐阜高等農林(岐阜大学農学部の前身)で植物病理学を学んだ。師は著名な植物病理学者の樋浦誠教授である。樋浦誠(1898-1991)は、北海道帝国大学で学び、名著といわれた『植物病原菌類解説』の著者である。1960には、酪農学園大学の初代学長に就任している。キリスト者であった樋浦は、三愛塾を開催して、大学にかようことができない貧しい農村青年たちにも勉強の場をもうけるなど、農民の指導者でもあった。福岡さんは、岡山県農事試験場を経て、横浜植物検査課に勤務し、病原性の細菌や菌類の研究を続けていた。この研究室では黒沢英一氏に師事している。黒沢英一氏(1893-1953)は、1926年に台湾総督府農事試験場において、イネの馬鹿苗病菌の培養液から、苗の徒長を促進するジベレリンを、世界ではじめて発見した。福岡さんは、こうした当時の日本の最高水準の知性の薫陶をうけた。

横浜植物検査課時代の25歳のときに、急性肺炎で死の淵をさまよったことをきっかけに懊悩するようになり、あるとき街を徘徊して、横浜の丘の上(港の見える丘公園)の樹の根元で夜を明かしていた。夜明けごろに、崖の下から飛んできたゴイサギの「ギャー」という鳴き声を聞いた瞬間に、「この世には何もないじゃないか」という雷に打たれたような「発見」がわき起こった。すぐさま、職場に辞表を提出すると、全国を放浪して歩く。しかし、誰にも相手にされず、やがて故郷に帰ってミカン山にこもった。このときから、「何もない」という自分の啓示のような発見を証明するための自然農法が始まった。しかし、戦争への動員が始まると、村の実力者であった父親が行く末を心配して、高知県農事試験場への就職を取り計らった。翌年には高知県農事試験場病虫部の主任になった。当時は食糧増産が最大の課題であり、そのためにサンカメイチュウ根絶対策を立てて実施した。3年間の県をあげての大がかりな根絶事業の結果、わかったことは、どんなに大量の農薬や化学肥料を使って「科学的」な農業を行なっても、ごくわずかな増収しかもたらさないということであった。終戦後に故郷に帰り、農民として自然農法を実践しはじめた。

福岡さんは1960年ごろに、「米麦連続不耕起直播」の稲作技術を確立しているが、当時は粘土団子による播種ではなく、回転する円盤で播種溝を切り、そこに種もみを播いていく円盤型直播機を考案して使用していた。この乾田直播機の研究は、福岡さんがかつて在籍していた岡山県農業試験場に引き継がれ、現在の耕起乾田直播方式や不耕起乾田直播方式へとつながっている。

1986年ごろには、福岡さんの不耕起栽培に刺激された山形、新潟の農家たちが不耕起移植栽培に取り組みはじめた。かねてより福岡さんの不耕起栽培に関心を持っていた秋田県大潟村の芹田省一氏、山崎政弘氏らは、この不耕起移植栽培をヒントに、不耕起田植え機を開発した(88年)。これにより大潟村の長年の課題であった重粘排水不良田でのイネ、麦、豆、野菜の輪作が可能になり、大きな注目を集めた。水田の不耕起栽培では、湿田での効果が高く、前作の根穴構造により排水がよくなり根圏が酸化的に保たれるので白く太い根が伸びて活力が保たれる。また、耕起しないので、乾土効果による地力窒素の減少が少ない。不耕起移植栽培によって、従来は暖地の技術と思われていた不耕起栽培が東北や関東地方に広がった。

また、岡山県農業試験場では、永井一哉氏らによって、日本ではかなり早くから土着の天敵の研究が行われていた。この研究は、現在では全国の露地ナス栽培などに取り入れられている。研究者に確認したわけではないが、私は福岡さんの影響があったのではないかと想像している。愛媛大学の日鷹一雅氏は、福岡さんの米麦連続不耕起田を調査し、不耕起田の生物多様性に注目したり、緑肥稲作を提案したりしている。さらに、現在、日本の施設園芸における天敵利用がもっとも進んでいるのは、かつて福岡さんが病虫部の主任を務めていた高知県である。(一部敬称略、つづく)

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福岡さんが考案した円盤型直播機(『イネの有機栽培』農文協より)

農業技術者、農業指導者としての福岡正信、その1

十数年前に、自然農法の稲作技術について調べたことがある。そのときのことは、『イネの有機栽培』という本に一部書いた。それは、純粋に稲作技術についての話であり、それ以上、自然農法や福岡さんについて、何かを書くつもりはまったくなかったのだが、前回からの話の流れで、福岡さんについて思ったことを少しだけ書く。

私は、有機農業とか自然農法とか慣行農業とか企業的農業とか、そういう角度で農家を区別して見たことは一度もない。それは自分が田舎の農家の出身であることが大きいと思う。雪がたくさん積もる地方なので、冬場は仕事がなく、周囲の農家たちは、みな出稼ぎに行ったり、土建業や漁師と兼業で暮らしていた。両親は、田んぼ、林業、牛、豚、たばこ、シイタケ、山菜、薬草、長芋など、さまざまな作目をはじめたりやめたり、四苦八苦して子供を育て上げた。シイタケなどの最盛期は、早朝から家族総出で収穫し、小学生でも深夜12時ごろまでパック詰めを手伝っていた。それでも、男一人で出稼ぎにいくほうが倍の所得があったと思う。農業だけで生計を立てている家は、村に2~3軒しかいなかった。経済学の理論を借りるまでもなく、まさに私の目の前で「農家の生活は悪化」し、村から人がいなくなっていった。年寄りの話だと、米と木材の値段が高騰した終戦直後が、もっとも暮らしがよかったそうだ。私にしてみると、農法など何の関係もなしに、作物を育て、それを売って、経営体として成り立っていることだけで、農家に対して尊敬の念のような気持がわく。

よく、〇〇農法はインチキだとか、間違っているとか、いやそちらこそ正しくないとか、そういう議論を目にするが、農法などは、なんとでも解釈できるのであって、そのことを問題にすること自体、何の意味もない(本物のインチキもあると思うが)。たとえば、農学を少しでも勉強した人なら、「無肥料で作物が育つわけない」とか「無肥料栽培は、土から養分を奪うだけなので収奪農業だ」と思うであろう(私でもそう思う)。しかし、弘前の岩木山山麓のような火山性土壌地帯では、リン酸が鉄やアルミと結びついて難溶化してしまうため、60年代末から熔成リン肥(く溶性リン酸、石灰、苦土)などの土壌改良材を大量に施用してきた。すなわち、産地の火山性土壌には、大量のリンやカルシウムが蓄積しているはずである。弘前の木村さんの場合は、土壌に蓄積した養分をうまく利用し、その農産物をブランンド化して高額で販売していると解釈すれば、きわめて科学的で経済的にも合理的な経営ともいえる。農業は、自然と市場というきわめて複雑な存在を相手にする営みであり、アプリオリに何が正しいのかなどわかるはずがない。農家経営が成り立っていることそれ自体でしか、合理性を判断できない。

慣行農業についてもまったく同じことだ。アメリカの畑作地帯では窒素肥料しか施用していないと前回書いた。窒素肥料の硫安は、窒素、水素、硫黄、酸素(すべて人体に必要な物質)からなる純粋な物質であり、そのほかのよけいなものを入れていないアメリカの土地でできた小麦や大豆こそがもっともピュアな農産物であるともいえる。おまけに、トウモロコシや大豆はGMOなので(小麦は違う)、「農薬もあまりかけておらず、スーパーで売っている一番安いパンや納豆がもっともピュアな食品だ」。なんとでも解釈可能であり、しかも科学的な矛盾があるようにも見えない(はっきりとはわからない。また、アメリカと日本の農家の経営は悪化する)。

あるいは、きわめて合理的な栽培法と考えられている養液土耕でさえ、農家経営としてみると課題があることは、前回書いた。農家の経営にとって、完璧な〇〇農法などひとつもないことは、誰でも理解できるであろう。間違っているのは、そのことを知らず、人のものまねをしようとしたり、ものまねをさせようとしたり、ものまねをひろめようとしたりすることである(本質的には、人のものまねには何の意味もない)。土や植物には、正しいとか正しくないとか合理的とか非合理とか、人間の矮小な価値観が入り込む余地はまったくない。(本題に入る前に、つづく)

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脚が悪くなっていたので、はいつくばって休耕田の草を調べる福岡さん、2003年10月

農家は個性的でないと生き残れない(新しい技術は農家の収入を減らす)

どうして、養液土耕には課題があると述べたのかを書く。

養液土耕は、栽培技術としては、きわめて科学的、合理的であり、指導機関も力を入れているようなので、今後も普及していくであろう。そして、普及したときにそのことがわかるようになる。

わかりやすく、車で考えてみる。プリウスは、登場したばかりのころは、唯一のハイブリッド車なので順調に販売が伸びる。そこで、メーカーは新しい車種を投入しない。プリウスが、ディーラーの買いそうな顧客にいきわたると、売れ行きが鈍化する。道路もプリウスだらけになるので、個性を重視する人はプリウスを買わない。そこで、メーカーは満を持してアクアを投入する。アクアは、ハイブリッドは欲しいが、プリウスが嫌な客にどんどん売れる。やがて、アクアだらけになる。アクアだらけになると、アクアが売れなくなるので、今度はカローラとか、ハリアーとか、なんとかGSとか、よくわからんがいろいろな車種のハイブリッド車を出す。つまり、どんなに革新的な技術であっても、普及がすすめば、どんどん個性化していかないと利益はでない。

養液土耕は、この場合のハイブリッド技術にあたる。普及しはじめのときは、肥料の削減とか、素人でもプロ並みの収量が得られるなどの有利性によって利益がでるが、技術が産地にいきわたってしまうと、その有利性は逆に不利に働く。

農家は小規模な家族経営がほとんどなので、市場は競争市場になる。経済学の理論では、「競争市場では、価格は限界費用に等しくなる」。限界費用とは、生産者が、「1単位だけ生産量を増やしたときの総費用の増加分」のことである。農産物はスーパーで、大根1本とか、トマト1個とか、ホウレンソウ1束とか、極端にはゴボウ半分、長イモやレンコンを短く切ったヤツとかで売られる。1単位がきわめて小さい。たとえば、1haの畑で大根を栽培しているときに、もう1本だけ大根を多く収穫するときの、総費用の増加分が、限界費用である。農家なら、大根の限界費用=価格は、限りなくゼロに近づくことがわかるであろう。くり返すが、1haでとれる大根は4~5万本なので、大根の価格は、50001本-50000本=1本の大根をよけいに作るときの総費用の増加分である。

私は別に有機農業の信奉者というわけではない。私が三重県の福広さんのことをすばらしいと思うのは、彼が有機農業だからというわけではなく、誰もまねができないユニークな生産技術を有しており、個性的だからだ。

じつは、有機農業もハイブリッド技術に置き換えることができる。有機農業を早く始めた人は、そうではない人に比べて、農産物を高く販売できるので、有利になる。しかし、まわりが有機農業の農家だらけになると、有機農産物はめずらしくもなんともないので、高く売れない。逆に、魚カス、油カス、鶏糞、厩肥の需要が増えるので、価格がどんどん上がる。認証費用もバカにならない。もはや有機農産物の有利性は失われる。

そもそも日本の牛やニワトリは、アメリカで化学肥料で栽培されたトウモロコシや大豆カスを食べているのだから、厩肥の養分は化学肥料に由来している。有機JASを満たしていれば、あとは皆同じというのなら、有機農業も養液土耕もなんら変わらない。養分はすべて化学肥料に由来したものだ。有機農業とか環境保全型農業とか農業法人とか企業的経営とかなんとかビジネスとかでなく、先進的(まわりを出し抜ける)か、あるいは個性的でなければ生き残れない。

新しい農業技術や、新しい品種が登場した場合の、経済学の理論も書いておく。生産量の多い小麦の新品種を導入した場合、供給量は増えるが、小麦の需要はさほど増えないので、「需要曲線が非弾力的であるときは、価格の下落は総収入の減少をもたらす。‥小麦の価格はかなり下落するが、小麦の販売量はわずかしか増加しない。総収入は300ドルから220ドルへと下落する。このように、新しい品種の発見は、農家が収穫物の販売によって受け取る総収入を減少させる。‥農家の生活が悪化するにもかかわらず、なぜ彼らはそれを採用するのだろうか。‥それぞれの農家は小麦の市場のわずかな部分にすぎないので、小麦の価格は所与のものとして与えられる。任意に与えられた小麦の価格に対して、より多くの小麦を生産・販売するためには、新しい品種を用いたほうがよい。しかし、すべての農家がこのような行動をとると、小麦の供給は増大し、価格は下落する。そして農家の生活は悪化するのである」

マンキュー

「農業技術の改善は、ますます必要性が失われていく農家にとっては不利かもしれないが、食糧に支払う金額が少なくすむ消費者にとっては確実に有利である。同様に、農産物の供給を減らすことを目的とする政策は、農家の所得を引き上げるかもしれないが、それは消費者の犠牲の上に成り立っているのである」

品種改良や農業技術の改善は、社会にとってきわめて有用で、大切なことである。そのことで利益を得るのは、一見すると生産者であるかのように思えるが、本当は農家の収入はむしろ減少し、利益を享受するのは、消費者なのである。

以上のことは、私が適当でいいかげんだから言っているわけではない。世界の大学の経済学部で、もっとも多く採用されている教科書に書かれている、常識である。(つづく)

引用文献

N・グレゴリー・マンキュー、2000、マンキュー経済学1ミクロ編、東洋経済新聞社

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